『釈迦』:1961、日本

インド北方の国にあるカピラ城で、スッドーダナ王と王妃マーヤーの間にシッダ太子が誕生した。城中の人々は、喜びに満ち溢れた。皆が 感激していると、シッダ太子は光に包まれて花園の中に現れ、「天上天下唯我独尊」と口にした。霊鷲山の頂上では、アシュダ仙人が「今 こそ救い主はこの世に生まれ給うたぞ。いずれは全人類の救い主となられる仏陀様とならせ給う人であるぞ」と叫んだ。
二十年後、スパーフ城の王女ヤショダラー姫の婿が選ばれることになった。あまりにも希望者が多いため、武芸比べの優勝者が婿となる ことが決められた。圧倒的な優勝候補であるダイバ・ダッタの前に、最期に立ちはだかったのは従弟のシッダだった。彼は従兄と争うこと を嫌って棄権しようとしたが、ヤショダラーの所望で参加したのだ。シッダは剣と弓の勝負で、いずれもダイバを破った。
6年後、宴を楽しんでいる両親とヤショダラーの近くで、シッダは浮かない顔をしていた。彼は扇で風を送り続けて疲れている侍女たちに 、「休んでいい」と声を掛ける。だが、すぐにスッドーダナが、扇ぐよう命じた。シッダはスッドーダナたちに、「巷では飢えに苦しむ人 が後を絶たないと言います」と告げる。するとスッドーダナは「飢えているのは奴隷や賤民だけだ」と、淡々と述べた。
スッドーダナは「バラモン、武士、庶民、奴隷というカーストの階級制度がインドを支えている。そこにさえ入れぬのが賤民。奴隷や賤民 か死のうが物の数ではない」と語った。しかしシッダは、「同じ人間の幸不幸が生まれによって差別されて良いものでしょうか」と疑問を 口にする。彼は従僕のチャンナを引き連れ、賤民の暮らしぶりを見に行く。シッダが「どうして神は彼らを救われんのか」と言うと、 チャンナは「貢物を惜しんだがための神罰でしょう」と告げた。
シッダはシャンナに連れられ、バラモン教の神殿へ赴いた。すると、そこでは捕まった男女が火の中に放り込まれていた。それが貢物だと いうのだ。城に戻ったシッダは、ヤショダラーの前で「悟りを開くために出家したい」と漏らした。「貴方無しでは生きられない」と、 ヤショダラーは反対した。しかしシッダの強い決心は変わらなかった。彼は妻が寝ている間に、こっそり城を抜け出した。彼は長い道のり を歩き続けた末に、鹿野苑の菩提樹の蔭で座禅を組んで苦行を開始した。
ヤショダラーがシッダを思って涙に暮れる日々を過ごす中、カピラ城にはダイバが度々訪れるようになった。ダイバはヤショダラーの部屋 へ行き、彼女を力ずくで物にしようとする。ヤショダラーが大声を上げて人を呼ぶと、ダイバは「そなたも、この城も、必ずダイバの物に してみせる」と言い放って立ち去った。苦行六年、まだシッダは座禅を続けていた。一方、ダイバはカピラ城に侵入し、ヤショダラーを 強姦した。ヤショダラーはシッダへの愛を口にすると、自らの胸に短剣を突き刺して自害した。
シャンナはシッダの元を訪れ、ヤショダラーの仇討ちを求めた。しかしシッダは「恨みは恨みによっては止まんのだ。カピラだけでなく、 もっと広い世界の人々を救わねばならぬ。私が悟りに達した時、故郷の人々にも、以前にも増した光明と喜びが訪れるだろう」と語り、城 に戻ることを拒んだ。彼は魔女の誘惑や悪魔の攻撃にも、全く動じなかった。いつの間にか倒れ込んでいた彼の元に、帝釈天が村の女ヤサ へと姿を変えて歩み寄った。ヤサに与えられた乳がゆを飲んで体を起こしたシッダは、「悟りを得た」と口にした。仏陀として生まれ 変わった彼の元に、ワッパやアッサジなど数名の僧侶が説法を求めてやって来た。
ある町では、雨期になっても全く雨が降らず、人々は熱病に苦しんでいた。そこへ弟子たちを引き連れた仏陀が現れて祈ると、空から雨粒 が降り注いだ。別の町では、修行僧のウパリとカルダイが夜叉の話を聞かされた。カリテイという女が、町に現れては人の子を連れ去って 食っており、夜叉と呼ばれているのだという。だが、彼女は不思議な力を持っているため、誰も手が出せないらしい。
人々が警戒する中、また町の子がカリテイに拉致された。カリテイの住処を密かに覗き込んだウパリたちは、彼女は自分の8人の子と 楽しく遊んでいる様子を目にした。だが、その直後、カリテイは住処を出ると、拉致してきた赤ん坊を無残に投げ捨てた。その間に、彼女 の子供の1人が消えた。必死に捜し求めたカリテイは、仏陀が子を抱いているのを見つけるが、見えない力に弾き飛ばされた。
仏陀は「8人もある子の1人を失ってさえ、そのように悲しいもの。たった1人しかいない子を取られた母の思いはどうだろうか。人の子 を殺して、どうして、この子が幸せになるだろうか」と説いた。カリテイは平伏して「弟子にしてください」と懇願し、その様子を見て いたウパリたちも同様にした。一方、ダイバは仏陀に勝つため、シュダラ行者の元を訪れて神通力を得ようとする。仏法を滅ぼすという 目的が一緒だったため、シュダラは神通力の伝授を承諾し、ダイバは修行に入った。
仏陀が鹿野苑で出家たちに説法していると、華子城の王子クナラと妃ウシャナがやって来た。クナラは盲目だった。アッサジたちは、まず 大弟子のマハーカッサバに話をするよう促した。説法を求めるクナラたちは、事情を語り始めた。クナラは父であるアショカ王の第一夫人 タクシラーに誘惑されるが、それを拒んだ。タクシラーは逆恨みし、アショカに「クナラが邪な恋を抱いた」と吹き込んだ。
アショカは武将ブダイに、クナラを捕まえるよう命じた。クナラは奴隷や賤民ばかりのいるガンガーの谷間に送られ、そこでの強制労働に 就かされた。だが、それだけでタクシラーは満足しなかった。彼女は自分に好意を寄せるブダイの気持ちを利用し、「お前の欲しい物を やる。そして隊長にしてやる」と持ち掛け、命令を下した。ブダイは部下を引き連れてガンガーの谷間へ赴き、「王の命令」と称して クナラの両眼に焼鏝を押し当てた。婚約者だったウシャナが駆け付けると、既に彼の両眼は潰されていた。
仏陀はクナラとウシャナに、人を恨まず、人を慈しみ、人の幸を祈る心の大切さを説いた。そして「貴方は、はかない両眼の代わりに、 尊い心眼を得た」と告げた。城に戻ったクナラが歌っていると、それに気付いたアショカが呼び寄せ、息子だと気付いた。ウシャナの糾弾 によって、タクシラーの悪行が暴かれた。アショカがタクシラーの処刑を命じると、クナラは「人間は誰でも過ちを犯すものです」と許す よう求めた。すると、クナラの両目が開かれた。タクシラーは飛び降りて命を落とし、ブダイは剣で自害した。アショカは「これが報いか 。人間の業というものか」と漏らした。
修行を終えたダイバは、大勢の人々が仏陀を崇拝し、千人を超える弟子が祇園精舎で修行していることを知った。弟子の1人アナンは托鉢 の途中、奴隷の娘マータンガに水を求めた。マータンガは自分の身分を考えて「話すのも恐れ多い」と言うが、アナンは「仏陀の教えでは 、人間に尊いも卑しいも無い」と告げた。マータンガはアナンに心を惹かれ、彼を追い回すようになった。困り果てたアナンは、托鉢に 出るのを避け、祇園精舎から出なくなった。
ダイバはマータンガに近付き、「お前の願いを叶えてやろう」と告げた。彼は神通力を使ってアナンにマータンガのに幻影を見せ、彼を 誘い出した。アナンがマータンガに抱き付いている時、仏陀は祇園精舎で「アナンよ、帰れ」と呼び掛けた。その声はアナンの耳に届いた 。アナンが急いで戻るので、マータンガは追い掛けた。彼女がアナンを愛する気持ちを訴えると、仏陀は「上辺だけの美しさに惹かれて いる」と指摘し、仏法に帰依して心の目を開くよう促した。その様子を、ダイバは覗き見ていた。
ダイバは人々に「仏陀は恐れ多い思い上がりだ」と説き、バラモンの教えを広めようとした。その近くを、マダカ国のアジャセ王子が従者 キッショーを連れて通り過ぎた。城に戻ったアジャセは、父王ビンビサーラと母イダイケから「なぜ顔を合わせるのを嫌うのか」と言われ 、冷たくあしらった。妻オータミーが産まれたばかりの息子の指にある腫れ物を気にしていても、アジャセは邪険に扱った。
大臣のジーワカから「なぜ御両親に心配を掛けるようなことをなさるのです」と問われたアジャセは、「俺たちは本当の親子なのか。 どうして親の愛を感じないのか」と口にする。ジーワカは「それは、ひがみです」と言うが、アジャセは納得しない。彼はキッショーに 「評判の行者に占ってもらいましょう」と言われ、ダイバの元を訪れた。するとダイバは、「産まれる前から、貴方と親とは敵同士だ。 前世の因縁を解き明かそう」と言い、神通力を使って過去の様子を映像化した。
ダイバは映像を使い、25年前にビンビサーラがバラモンの行者を処刑した時の様子を見せた。行者は「生まれ変わって恨みを晴らす」と 言い残して死んだ。その年にアジャセが誕生すると、占者は「成人して親を殺す」とビンビサーラとイダイケに告げた。2人は行者の呪い を思い出し、アジャセを殺そうとした。だが、ラサッタの神のおかげでアジャセは生き残ったのだとダイバは語る。ダイバは「父を殺せ。 私が貴方を王位に就かせてみせる。だから、そなたも力を貸せ」と持ち掛けた。
アジャセの帰依を受けたダイバは、権力を振るうようになった。アジャセはビンビサーラを牢獄に閉じ込め、飢え死にさせようとした。 イダイケが体に塗った蜜をビンビサーラに与えていたのを知ったアジャセは、彼女を処刑しようとしてジーワカに止められた。弱気なこと を口にしたアジャセに、ダイバは「世界の王になるためには、行く手を塞ぐものは全て踏み潰していかねばならぬ」と告げた。
ダイバは大神殿の建設を進めており、大勢の奴隷が扱き使われていた。彼は仏徒を捕まえ、「改宗せねば象に踏み潰させる」と脅した。 だが、アナンやマハーカッサバたちは、「仏法の教えを捨てるぐらいなら命を捨てる」と強い態度で告げた。ダイバは彼らを処刑しようと するが、何度やっても象は踏み潰そうとしない。それを見ていたアジャセは、処刑を中止して解放するよう仏徒を命じた。
アジャセはジーワカから、昔を思い出すよう言われた。アジャセは、両親が可愛がってくれた幼少時代を回想した。赤ん坊の泣き声を耳に したアジャセは、オータミーの元へ行く。彼は息子を抱き、指の膿みを吸ってやった。そこに現れたイダイケは、ビンビサーラも幼い アジャセの膿みを吸ってやったことを話した。彼女の話を聞いたアジャセは、ダイバに嘘を吹き込まれたことに気付いた。
イダイケは、アジャセが不実の子だったことを打ち明けた。嫁いだ時には既に妊娠していた。アジャセの本当の父親は指の患いで死んだ。 ビンビサーラはイダイケを許し、アジャセの指の膿みを吸って治した。彼は本当の息子のように可愛がってきたのだと、イダイケは語る。 それを聞いたアジャセは、急いで牢獄へと向かい、父に詫びようとする。しかし、既にビンビサーラは息を引き取っていた。
アジャセは仏陀を王宮に招き、大勢の信者たちと共に説法を聞くことにした。供養のため、大勢の火皿が飾られた。老婆スミイは髪の毛を 売って油を購入し、火皿を捧げた。ダイバは神通力で強風を起こし、全ての火を消そうとする。だが、スミイの火だけは消えなかった。 ダイバは城を乗っ取ってアジャセたちを追放し、マダカ国の王を名乗った。彼は仏徒を捕まえ、次々に処刑していく…。

監督は三隅研次、脚本は八尋不二、製作は永田雅一、製作補は鈴木[火召]成、監修は中村岳陵&中村渓男、撮影は今井ひろし、 編集は菅沼完二、録音は大角正夫、照明は岡本健一、美術監督は伊藤憙朔、美術は内藤昭、衣裳は伊藤ナツ、振付は榊原帰逸、疑斗は 宮内昌平、特殊技術は横田達之&相坂操一、作曲は伊福部昭、指揮は上田仁、演奏は東京交響楽団。
出演は市川雷蔵、勝新太郎、本郷功次郎、中村鴈治郎[二代目]、市川壽海、京マチ子、中村玉緒、チエリト・ソリス (フィリピンLVNスタア)、叶順子、山本富士子、山田五十鈴、月丘夢路、北林谷栄、細川ちか子、杉村春子、川口浩、川崎敬三、 小林勝彦、三田村元、丹羽又三郎、島田竜三、鶴見丈二、大辻伺郎、北原義郎、根上淳、千田是也、東野英治郎、見明凡太朗、 滝沢修、近藤美恵子、藤原礼子、三田登喜子、市田ひろみ、阿井美千子、金剛麗子、橘公子、掘左知子、近江輝子、千葉敏郎、石井竜一、 舟木洋一、花布辰男、丸山修、嵐三右衛門、寺島貢、阿部脩、寺島雄作、荒木忍、清水元、南部彰三、葛木香一、東良之助、水原浩一、 浅尾奥山、市川謹也、南條新太郎、原聖四郎、伊達三郎、石原須磨男、藤川準、玉置一恵、堀北幸夫、横山文彦、菊野昌代士、越川一、 丸凡太、沖時男、浜田雄史ら。


仏教の開祖である釈迦の生涯を描いた映画。日本で初めて70ミリで撮影された作品(スーパーテクニラマ70方式と表記される)。 総配役が68名の歴史スペクタクル巨編。
かなりの金が掛かった超大作なので、当然のことながらオールスター映画だが、当時の大映のトップスターの中で若尾文子だけは出演して いない。
トップ・ビリングはクナラ役の市川雷蔵だが、彼の出番は20分程度しか無い。
雷蔵とダイバ役の勝新太郎、シッダ役の本郷功次郎が、トリプル主演という形での表記になっている。
先に男優陣が全て表記され、それから女優陣の表記という順番になっている。アジャセを川口浩、ウパリを川崎敬三、アナンを小林勝彦、 アショカを中村鴈治郎[二代目]、ビンビサーラを市川寿海、ブダイを島田竜三、カルダイを大辻伺郎、マハーカッサバを根上淳、 スッドーダナを千田是也、シュラダを東野英治郎、チャンナを見明凡太朗、アシュダを滝沢修、マヤを京マチ子、オータミーを中村玉緒、 ヤシヨダラをチエリト・ソリス、マータンガを叶順子、ウシャマを山本富士子、カリテイを山田五十鈴、タクシラーを月丘夢路、スミイを 北林谷栄、マーヤーを細川ちか子、イダイケを杉村春子が演じている。

とにかくセットは豪華。
当時の金額で、カピラ城の花園だけで250万、武芸比べの会場で500万円が掛かったらしい。
さらにクライマックスの舞台となる大神殿の工事場には、7000万円が費やされている。
山の一角を切り崩してオープン・セットが設置され、エキストラとして延べ1万5千人が動員されている。
で、まあ予算と人員はたっぷりと注ぎ込まれているが、それだけしか売りの無い映画だ。

たぶん永田社長としては、ハリウッドの歴史スペクタクル巨編に対抗して、それに負けないぐらいの映画を作ってやろうという野心が あったのだろう。
題材として仏陀を選んだのは、『十戒』への対抗心というよりも、熱心な仏教徒だからだと思われる。
ただ、永田社長は仏教に造詣が深いだろうけど、じゃあ日本人のどれぐらいが仏教徒なのかと考えた場合に、この映画を見て共感できる 観客って、そう多くないんじゃないか。
こんだけ金を掛けて、その年の配給収入で第10位に留まっているのだから、中身だけじゃなくて、商売としても失敗作だよな。
まあ永田社長としては、赤字が出ても、仏陀の映画を作れたことで満足だったかもしれんけど。

城中の花が次々に咲いていく時点でバカバカしさを感じてしまうが、産まれたばかりであるはずのシッダが光に包まれながら花園の中を 歩いて来て「天上天下唯我独尊」と口にするシーンには失笑してしまった。
いや、そりゃあ確かに伝説では、そうなっているんだけどね。
ただ、遠めだけど、もう明らかに赤ん坊じゃなくて3歳児ぐらいに見えちゃうぞ。
それに、どうやって花畑まで移動したのよ。

二十年後に場面が飛ぶと、いきなり武芸比べのシーンになるけど、それまでにシッダとヤショダラーの関係描写は必要でしょ。
そりゃあヤショダラーの視線や表情で、彼女がシッダに惚れていることは分かるけど、描写は明らかに不足している。
それに、まずは成長したシッダのキャラを描くべきでしょ。それより先に、いきなりダイバとの対決シーンってのは、構成として上手く ない。
それと、剣の勝負の後、ダイバが弓での勝負を要求するが、あっという間に終わるってのもどうなのよ。
わざわざ延長戦をやった意味が無いぞ。

武芸比べの次のシーンで宴をやっているので、婿が決まったことの祝宴なのかと思ったら、もう6年の歳月が過ぎている。
そこの時間省略は下手すぎるわ。
で、シッダは労働を強いられている女たちを見て浮かない顔をするが、そんなのは城中で暮らしていれば今に始まったことではない はずだ。
そうじゃなくて、「今まで知らなかったが、庶民の苦しい生活や、階級制度に虐げられている人々の様子を始めて目撃してショックを 受ける」というシーンを用意すべきじゃないのか。
その後で、チャンナを引き連れて賤民の暮らしぶりを見に行くシーンがあるが、だったら「奴隷や賤民の暮らしぶりに関する話を聞き、 それが本当かどうか確かめに行ってショックを受け、自らの恵まれた暮らしに疑問を抱く」という手順にすべきじゃないのかな。
この映画だと、実際に貧しい人々の暮らしぶりを目にする前から、既に気分が優れない様子で、疑問を口にしているんだよな。

シッダはヤショダラーが寝ている間に城を抜け出すが、それがヒドい奴にしか見えない。そこに「愛する妻を残して去る」ということへの 苦悩や、妻に対する申し訳なさが見えないんだよな。妻への愛の深さが全く描かれていない。
で、城を出てから、彼はしばらく歩いて、菩提樹の蔭で座禅を組み始めるが、それだけだ。
ちっとも悟るための修行や鍛錬が見えない。
いや、確かに「6年の座禅で悟りを開く」というのは言い伝え通りなんだけどさ、いきなり「苦行 六年」と表示されても、ちっとも苦行 に思えないのよ。

ダイバはヤショダラーを犯そうとして未遂に終わった後、次に城を訪れる時には成功させているが、それは6年後のことだ。 それまで何をやってたんだよ。
で、仇討ちを求められたシッダは「恨みは恨みによっては止まんのだ」と言うけど、そりゃあ確かにそうかもしれんが、妻が陵辱されて 自害に追い込まれても何もせずに修行を続けるような奴に、主人公としての魅力を全く感じないんだよね。
大体さ、自分の大事な人が犯されたり殺されたりしても、何もしないことが悟りだというのなら、そんなモノはクソ食らえだよ。
まあ元々、ワシは仏教だけじゃなくて、宗教ってのは「一理があっても百害」というモノだと思ってる人間なので、この映画の説法が 相容れないのは当然なんだけどさ。
しかし、ヤショダラーが犯されて自殺したのは、そもそもシッダが身勝手で城を出たことが遠因なのに、それに大して全く悪びれる様子 さえ無いってのは、どうなのよ。

シッダは「広い世界の人々を救わねばならぬ」と言ってるんだけど、「自分の妻さえ救えない奴が誰を救えるというのか」という糾弾は 置いておくとして、その時点で、彼は誰一人として救っていない。
彼は魔女の誘惑や悪魔の攻撃を受けても動じないが、じゃあ動かないことで人を救えているのかというと、誰も救えていない。
城に戻って何か行動を起こした方が、よっぽど庶民のためになるような気がするけどね。
で、「悟りを得た」とシッダが口にすると、まだ何も行動は起こしていないのに、向こうから勝手に教えを求めて僧侶が集まって くる。まだ誰も救っていないのに、「仏陀よ」と崇めてくれる。
都合のいいことで。

夜叉のシークエンスは、そもそも彼女がなぜ人の子を拉致して殺しているのかという理由が全く分からないので、説法で改心するという ドラマもピンと来ない。
仏陀の説法を聞いたクナラは「貴方の前にいるだけで、これまでの不幸は遠い昔に過ぎ去ったように思われます」と晴れ晴れしい表情で 言うが、その説法には何の説得力も無い。
そのように、1つ1つのエピソードが、ことごとく弱い。

アジャセが「俺たちは本当の親子なのか」と言い出すので、何か疑うような出来事を体験したり、怪しむような物品を発見したりという ことがあったのかと思ったら、ただ「冷たい反発を心に感じる」というだけ。
アンタの気持ちの問題だけなのかよ。
すげえアバウトだなあ。
そこは、何か親子関係に疑いを持つための具体的なモノを用意しておこうよ。
アジャセじゃなくて、こっちが納得できんわ。

本郷功次郎が姿を見せるのは、最初の弟子たちが集まってくるシーンまで。
次のシーン、熱病の町に一行が現れると、弟子たちの姿は登場するが、仏陀はシルエットだけで表現されている。
その後も、顔が見えないようなロングショットはあるものの、本郷功次郎は全く姿を見せなくなる。
永田社長としては、「仏陀を実際に俳優で表現するのは恐れ多い」という考えがあったのだろうか。

ただ、最初の1時間を過ぎると主役が登場しなくなるってのは、やっぱりマズいでしょ。
そもそもシッダが仏陀になってしまうと、出番そのものが少なくなるんだよな。
エピソードごとに主役がいて、その人物に何か影響を与える役割として少し絡むだけだ。
特にアジャセが登場すると、もう完全に彼が主人公になっている。仏陀は狂言回しですらない。
実は、最初から最後まで登場するのはダイバだけだ。
実質的には、ダイバが主役と言ってもいいかもしれない。

(観賞日:2010年12月30日)

 

*ポンコツ映画愛護協会