『千と千尋の神隠し』:2001、日本

ごく平凡な家庭で育った10歳の少女・千尋は、引っ越し先の新しい家へ向かっていた。だが、父親の運転する車は、不思議の町へと迷い込んでしまう。千尋は得体の知れない恐怖を感じるが、両親はどんどん町の中へと進んでいく。
やがて両親は誰もいない料理店に入り、並んでいた料理を食べ始める。両親を残して橋の方へと向かった千尋は、謎めいた少年・ハクと出会う。ハクから夜になる前に立ち去るよう言われた千尋が料理店に戻ると、両親は豚へと姿を変えていた。
慌てて逃げ出そうとした千尋は、自分の体が透け始めていることに気付く。目の前に現れたハクによって救われた千尋は、彼に連れられて湯屋へと入った。ハクによると、この町では働かない者は豚に姿を変えられてしまうという。
千尋はハクの指示通りにボイラー室の釜爺に会って働かせてほしいと頼むが、手は足りていると言われてしまう。千尋は湯屋で働くリンの案内で町を支配する湯婆婆に面会し、名前を奪われる。千尋は“千”という名に変えられ、湯屋で働き始める…。

監督&原作&脚本は宮崎駿、製作は松下武義&氏家齋一郎&成田豊&星野康二&植村伴次郎&相原宏徳、プロデューサーは鈴木敏夫、製作総指揮は徳間康快、作画監督は安藤雅司&高坂希太郎&賀川愛、映像演出は奥井敦、編集は瀬山武司、美術監督は武重洋二、色彩設計は保田道世、音楽は久石譲、音楽プロデューサーは大川正義、主題歌は木村弓。
声の出演は柊瑠美、入野自由、夏木マリ、菅原文太、内藤剛志、沢口靖子、上條恒彦、小野武彦、我修院達也、神木隆之介、玉井夕海、大泉洋、はやし・こば、脇田茂、斎藤志郎、山本道子、塚本景子、中村彰男、得丸伸二、山像かおり、香月弥生、浅野雅博、林田一高、山本郁子、目黒未奈、石橋徹郎、椎原克和、片渕忍、鬼頭典子、鍛冶直人、助川嘉隆ら。


興行収入304億円、観客動員数2500万人の日本新記録を樹立した、スタジオ・ジブリの大ヒット作品。千尋の声を柊瑠美、ハクを入野自由、湯婆婆を夏木マリ、釜爺を菅原文太、千尋の父を内藤剛志、千尋の母を沢口靖子が担当している。

これまでの作品の中で、宮崎駿監督はタバコをスパスパと吸いまくって環境を破壊しながら、“人間と自然の共存”についての問答を繰り返していた。
そして前作『もののけ姫』において、宮崎監督は「分かんないけど、とにかく生きろ」という答えにならない答えを提示し、とりあえずの一段落を付けた。

さて、エコロジカル・マインドっぽい匂いがするモノに一応の決着を付けた宮崎監督が、次に何を描こうとするのか、どこに目を向けるのか。
そんなことを思っていたら、彼は意外なトコロへ向かった。
なんと驚くことに、宮崎監督は遊郭の物語を作り上げたのだ。

この映画は、表面上は、宮崎監督版の『不思議の国のアリス』である。
独特の世界観の中で、様々な妖怪が登場するファンタジーだ。
しかし、それはファミリー向けの娯楽作品に見せ掛けるための偽装である。
この映画、本質的には五社英雄監督作品なのだ。

千尋の両親は、不自然に思えるほど、見知らぬ場所をどんどん進んで行く。
別に彼らは、好奇心が旺盛なわけではない。
楽しいことが待っているように見せ掛けて、千尋を騙しているのだ。
そうやって、娘を遊郭に連れて行こうとしているのだ。
母親の方は、「まず女将と話を付けてから」という気持ちも少しぐらいは持っているのか、千尋を置いて先に進もうという素振りも見せている。

不自然な両親の行動は、さらに続く。
初めて入った無人の料理店で、やたら食欲旺盛に料理を食べ始める。
それは、千尋を売り飛ばして金を得たということを意味している。
ということは、そこで両親は千尋を引き渡したということだ。

状況が把握できない千尋は、自分自身を失って透明になりかける。
だが、女衒のハクに赤い粒を貰い、それによって水商売の世界の一員となる。
ハクは、千尋が幼すぎることから、彼女を娼婦として働かせることをためらう。
そこで、彼女を使用人として働かせようと考える。
しかし、そんな甘い考えは遊郭では通用しない。
そもそもが、お上の許しを得ていない非合法の遊郭なのだ。
年齢の低さなど関係無い。

本名で水商売をする女など、まず見当たらない。
そこで千尋も、“油屋”という遊郭の女将・湯婆婆から「千」という源氏名を貰う。
最初は怯えていた千尋も、すぐに遊郭の暮らしに馴染んでいく。
礼儀作法やコミュニケーションの取り方を学び、先輩娼婦のリンとも仲良くなる。
最初は弱々しかった千尋は、遊郭で様々な出来事を体験する。
そして次第に、たくましく成長していく。

千尋は色々な客と接することになるが、その中には宮崎監督の姿もある。
宮崎監督は変装し、カオナシという偽名を使って現れる。
カオナシは少女の千尋に興味津々なのだが、素直に気持ちを表現できない。
だから最初は何も言わずに、ただ眺めているだけだ。
しかし、それだけでは我慢できない。

欲望を抑え切れなくなったカオナシは、不器用な態度で少女に近付く。
多くの物品を与えて気を惹こうとしたり、大金をプレゼントして支配しようとしたりする。
何しろ、彼の作った映画は必ず大ヒットするのだし、キャラクター商品だって売れまくっているし、とにかく金だけはたっぷりとあるのだ。

金もステータスも手に入れたカオナシだが、心の中に孤独を抱えている。
本当の自分を少女に愛してもらいたいと、彼は願っている。
「素敵な作品を作り続けるオジサン」としてではなく、1人の男として愛してもらいたいと、そのように強く願っているのだ。

しかし、少女は彼の方を振り向いてはくれない。
拒絶されたカオナシは、聞き分けの無いガキのように暴れ始める。
ビッグになって汚れてしまったカオナシは、少女に導かれ、浄化される。
カオナシを救えるのは、汚れ無き心を持った少女だけなのだ。

今や世界的に有名な存在となったカオナシは、「子供達に夢を与える映画を作る素晴らしい監督」というレッテルが貼られてしまった。
持ち上げられたことによって、彼は本当に言いたいことが言いにくくなった。
自由な行動も取りづらくなった。

そんなカオナシは遊郭に入り、欲望の趣くままに、ワガママ放題に振る舞う。
本当は常日頃から、そのようにしたいのだ。
もっとワガママに振る舞いたいのだ。
金にモノを言わせて女を支配したいし、偉そうな態度でブイブイ言わせたいのだ。

宮崎監督はカオナシを通して、自分の感情を吐露する。
“子供達の大好きな作品を作る、誰からも愛される存在”になってしまった宮崎監督は、「本当の俺は性癖が歪んでいるし、支配欲が強いし、幼児性も強い男なんだ」と叫ぶ。
この映画を通して、宮崎監督は「俺は、みんなから賞賛されるような偉い人間じゃないんだ。自分の心の中には、ドロドロしたモノがあるんだ」と吐露しているのだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会