『千年旅人』:1999、日本

ツルギは最愛の女性・洋子に会うため、故郷である海辺の田舎町に戻ってきた。かつて結婚寸前まで行った2人だが、洋子は幼馴染みの良太を選んでいた。ツルギは、寂れた民宿「風花」を経営する洋子の母・君江と顔を合わせた。ツルギは君江に、しばらく泊めてほしいと告げる。民宿には、洋子の娘・ユマの姿もあった。
ツルギは君江から、洋子が既に亡くなっていることを聞かされる。ユマが5歳の時、洋子は自動車事故に遭っていた。良太はユマが幼い時に家を出て行き、行方知れずになっていた。ユマは自動車事故で片足を失い、合わない義足を着けている。彼女は学校には行かず、沖を通る船に手旗信号を送り続ける日々を過ごしている。
ある日、ツルギとユマは入水自殺を図ろうとしているトガシに出会った。ツルギは自殺を食い止めるが、トガシは「死ぬ権利も無いのか」と感情を高ぶらせる。ツルギとユマはトガシを民宿に連れ帰るが、彼は何度も自殺を図ろうとする。そんなトガシを見て、ツルギは「本気で死ぬ気が無い」と突き放す。しかしユマは、トガシに惹かれるようになっていく。
ツルギは海辺に行き、捨てられている難破船の修理を始めた。ツルギは余命わずかと医者に宣告され、モルヒネに頼りながら過ごしていた。「死者を船に乗せて海に流すと魂は戻ってくる」という町の言い伝えを思い出したツルギは、それを自分の遺体を乗せる船にしようと考えたのだ。しかし、事情を知らないトガシには、ツルギの行動が理解できない。
ユマと親しく過ごす中で、トガシは彼女に好意を抱くようになっていく。トガシはキスを迫るが、ユマは素直に心を開くことが出来ない。一方、ツルギは船の修理が完成しない内に、倒れてしまう。ツルギは君江から、ユマが自分の娘だということを知らされる。ツルギは父親としてユマのことをトガシに頼み、そして息を引き取った…。

監督&原作&脚本&音楽監督は辻仁成、プロデューサーは河井真也、共同プロデューサーは陶山明美&和田倉和利、エクゼクティブ・プロデューサーは横浜(横山は間違い)豊行、撮影監督は渡部眞、編集は阿部浩英、録音は柿澤潔、プロダクション・デザイナーは種田陽平、音楽はArico&守時龍巳。
出演は豊川悦司、ユマ、大沢たかお、渡辺美佐子ら。


作家の辻仁成が自身の小説を基に、監督&脚色&音楽監督を務めた作品。これでタイトルは「せんねんたびと」と読むらしい
ツルギを豊川悦司、トガシを大沢たかお、君江を渡辺美佐子が演じている。出演者は、この4人のみ。
ユマを演じるのは、オーディションで選ばれた新人yuma。劇中歌の『アリア』は、吹き替え無しで彼女が歌っているようだ。ちなみに作詞&作曲は辻仁成。

辻仁成は作家の時は「つじ・ひとなり」、ミュージシャンの時は「つじ・じんせい」と名前を読ませているのだが、この映画は「つじ・じんせい」としての監督作品らしい。ビートたけしと北野武の使い分けみたいなモンかな。
個人的には、両名とも、どっち名義でもいいと思うんだけどさ。
っていうか、ややこしいから統一してくれんかと思うけど。

冒頭、キャストのクレジットが日本語とアルファベットによる併記で表示された時点で、私の中にはネガティヴな気持ちが生じた。
最初から海外マーケットを意識しているためか、最近はキャストやスタッフのクレジットに英語を使う映画が増えてきたように思うが、どうも鼻に付くのね、個人的には。
だから、冒頭の段階で「肌に合わないだろうなあ」と予想して、実際、その通りだった。

どうやら辻仁成は、ディテールには全く関心が無かったようだ。
ロケ地は石川県門前町だが、劇中で場所が明確に示されることは無い。
ツルギやトガシのステータスについても、なかなか言及が無い。
ツルギと洋子がいつ頃、どのように付き合い始めたのか、どんな交際だったのか、良太との関係はどうだったのかなど、そういうことも説明が無い。

どうやら辻仁成は、観念的なモノだけで観客を引っ張っていこうとしているようだ。
曖昧な設定&漠然とした物語は、上手くやれば「ミステリアスな雰囲気で惹き付けるファンタジックな映画」になったかもしれない。
しかし下手をすると、何故そんな行動を取るのか、そこで登場人物は何を思ったのか、そういうことがサッパリ分からないモノになってしまう。
で、まあ下手をしたんだろうな。
というか、前述の条件で上手くやる方法が、私には全く思い付かないのだけれど。

ツルギは到着してすぐに良太のことを聞いても良さそうなものだが、なかなか質問しない。そしてユマから「出て行ったきり戻らない」と言われると、それ以上の追及はしない。ユマの片足が不自由なことに関しても、なかなか質問しない。
洋子に会いに来たはずだが、事故で死んだことを説明されると、それまでの暮らしぶりについて尋ねることは無い。アルバムや遺品を見たいとも言い出さない。
愛していた洋子の周辺について全く興味を示さない一方で、なぜか手旗信号については興味を抱いたりする。
変な奴だ。

ユマが手旗信号を船に送る理由も、今一つ理解できない。
そりゃあ、友達もいなくて寂しいからやっているんだろうということは、推測できる。
しかし、それは推測させるんじゃなくて、本来はドラマの中で表現すべきことだろう。
そういう作業を省いてしまっているので、ユマが少しオツムの弱い子のようにも見えてしまう。

例えばツルギの洋子に対する未練の強さ、例えばユマの抱える孤独感や寂しさ、例えばトガシの抱く苛立ちや無力感の理由、なぜ死のうとしたのかという理由、そういった登場人物の心に含まれているモノが、全く伝わってこない。
そして静かに、ただ静かに時は流れていく。
おそろしいぐらいに、ゆっくりと。

しかし、私は辻仁成監督に「二度と映画を撮るな」とか、そういう辛辣な言葉を浴びせる気は毛頭無い。
むしろ、これからも映画への興味を持ち続けて、もっともっと多くの映画を撮ってもらいたいと思っている。
そして頑張って、第2の村上龍を目指してほしいと思っているのだ。
いやマジで。
だって、これからもネタを提供してもらいたいものね。

 

*ポンコツ映画愛護協会