『世界から猫が消えたなら』:2016、日本
「僕」は路面電車が走る高台の街で、郵便配達員として働いていた。仕事が終わると彼は友人のツタヤが働くレンタルDVDショップに立ち寄り、彼が選んだDVDを借りる。その日、自転車で帰る途中で僕は突然の頭痛に襲われ、病院で診察を受ける。医者は悪性の脳腫瘍だと通告し、手術が難しいこと、いつ急変してもおかしくないことを説明する。すぐに入院するよう促された僕は、飛び出して泣く妄想を膨らませるが、実際は全く取り乱さなかった。
夜になって僕が下宿の2階へ戻ると、自分に瓜二つの男が待ち受けていた。驚く僕が「死神?悪魔?」と口にすると、男は「いいや、それで。悪魔です」と告げる。悪魔は翌日には死ぬことを宣告し、それを伝えに来たのだと言う。僕が何もせず黙っていると、悪魔は「このまま死にたいの?」と問い掛ける。彼は「死なないで済む方法が1つだけあります。取り引きをしてくれれば寿命を延はせる。この世界から1つだけ何かを消す。その代わり、1日の寿命を得る」と話す。
僕が承諾してパセリを消すことに決めると、悪魔は「こっちが決めるから」と告げる。僕は携帯電話が鳴っったので郵便局長と話し、今週は体調が悪いので休ませてほしいと告げる。すると悪魔は電話を消すことに決め、誰かに掛けるよう僕に指示した。悪魔が姿を消した後、眠りに就いた僕は猫を拾った幼少期の出来事を夢に見た。僕が捨て猫を拾って帰宅すると、猫アレルギーの母は飼うことを許してくれた。レタスと名付けたのも母で、いつの間にか彼女のアレルギーは無くなっていた。
翌朝、僕は久しぶりに別れた彼女と電話で連絡を取り、映画館の前で会った。例え話として「もしも世界中から電話が無くなるとして」と僕が語ると、彼女は「他にいるんじゃないの、最後に掛けるべき人」と言う。僕は母が病気で亡くなった時のことを思い返した。父が自分の時計店で直した時計を持参して「直ったぞ」と母に語り掛けると、僕は「こんな時に。見舞いにも来ないでさ。何やってんだよ」と怒りを吐露した。それ以来、父とは全く会っていない。
彼女は別れた後も母と会っていたことを明かし、母が父と仲良くほしいと話していたことを告げる。僕が彼女と出会ったのは、間違い電話を掛けて来たのが始まりだった。聞こえる音を耳にした彼女は、僕が見ていた映画がフリッツ・ラングの『メトロポリス』だと言い当てた。偶然にも2人は同じ大学に通っており、交際が始まった。会うと緊張してしまう僕は、電話で彼女と話すことの方が多かった。僕が「なんで別れちゃったんだろうな」と口にすると、「お互いを嫌いになったわけじゃないし。でも、あるんだよ、そういうのって」と彼女は答えた。
別れ際、彼女は先程の例え話に触れ、「世界から電話は消えてほしくないな。電話が無ければ私たちも出会わなかったわけだし」と告げる。僕は彼女に、脳腫瘍で死が近いことを明かした。帰りの路面電車に悪魔が出現し、世界中の電話を消した。僕が慌てて確かめに行くと、彼女とは出会っていないことになっていた。悪魔は「何かが消えたら、思い出も人との関係も消えて消える。当然だろ」と説明し、次に消すのは映画だと告げた。
部屋に戻った僕は、ツタヤのことを思い浮かべる。僕は大学時代に映画好きのツタヤと親しくなり、その熱すぎる思いを知った。ツタヤは僕に、自分が選んだ映画のDVDを渡すようになった。翌日、僕はツタヤの働く店へ行き、「例えば、死ぬ前に見る映画を1本貸してよ」と言うと、「選べるわけがないだろ。最後なんて存在しない」とツタヤは口にした。僕が死ぬことを明かして立ち去ると、ツタヤは慌ててDVDを探し回った。店員のミカが手伝おうとすると、ツタヤは動揺した様子で「あいつが見る映画を選ぶのは、俺の役目だったのに。どうしても見つからないんだ」と漏らした。悪魔が映画を消すと、彼女の働いている映画館も無くなった。ツタヤの店は書店に変化し、彼は僕を知らないことになった。
かつて僕は彼女とアルゼンチンへ旅行した時、トムさんという日本人に出会った。トムさんは高校を卒業してから世界中を巡っており、2人の町案内をしてくれた。旅を続ける理由を彼女が尋ねると、トムさんは「時間から逃げ回ってるんだよ。人生を分とか秒で区切って不自由にしているのは人間だけだ」と話す。トムさんは2人に、 「旅をしてると、この世界には残酷なことが沢山あるのに気付く。でも同じくらい、美しい物が存在することに気付くんだ」と語った。彼は僕たちと別れて出発しようとするが、車にひかれて死んだ。彼女は僕に、「私が死んだら、泣いてくれる人はいるのかな。それとも、この世界はいつもと変わらぬ朝を迎えるのかな」と告げた。
世界からは時計が消え、父が営むカモメ時計店のポスターも無くなった。僕が帰宅すると悪魔が待っており、「大切な人との関係が消えていくのは辛い。でも自分の命が一番大事。何かを得るためには、何かを失わなくてはならない」と話す。彼は僕の飼い猫であるキャベツを見て「次に消す物を決めたよ。この世界から猫を消しましょう」と言い、軽く笑った。悪魔が部屋を去った後、僕はレタスやキャベツとの思い出を振り返る…。監督は永井聡、原作は川村元気「世界から猫が消えたなら」、脚本は岡田惠和、製作は市川南、共同製作は岩田天植&久保雅一&畠中達郎&石川康晴&鉄尾周一&坂本健&水野道訓&高橋誠&宮本直人&吉川英作、エグゼクティブ・プロデューサーは山内章弘、プロデューサーは春名慶&澁澤匡哉、撮影は阿藤正一、照明は高倉進、美術は杉本亮、衣裳は荒木里江、編集は今井剛、録音は郡弘道、プロダクション統括は佐藤毅、ラインプロデューサーは鈴木嘉弘、音楽は小林武史、主題歌『ひずみ』はHARUHI、音楽プロデューサーは北原京子。
出演は佐藤健、宮崎あおい、原田美枝子、奥田瑛二、濱田岳、奥野瑛太、石井杏奈、愛甲朔也、黒沢光春、斎藤雅彰、高橋里央、高瀬アラタ、橋本明紋、森レイ子、須賀紀子、臼井志保、工藤トシキ、望月智努、吉田佳世、秋田文彩、井原祐子、中河実優、戸井田稔、DIVIDE、CLAUDIA FERNANDES、GUILLERMOFERRER、MATIAS FEIGEN、HUGO PAGANO、MAURO CAIAZZA、VICTORIA SCOLARIら。
映画プロデューサーである川村元気のデビュー小説を基にした作品。この映画ではキャスティングや監督の起用に関わっているものの、プロデューサーとしては参加していない。
監督は『ジャッジ!』で長編デビューしたCMディレクター出身の永井聡。
脚本は『阪急電車 片道15分の奇跡』『県庁おもてなし課』の岡田惠和。
僕&悪魔を佐藤健、彼女を宮崎あおい、母親を原田美枝子、父親を奥田瑛二、ツタヤを濱田岳、トムさんを奥野瑛太、ミカを石井杏奈、幼少期の僕を愛甲朔也が演じている。本作品にはファンタジーの要素が持ち込まれているが、それは一向に構わない。悪魔が登場するとか、世界中から色んな物を消すとか、その辺りの設定はファンタジーとして受け入れることが出来る。
ただし「余命1日」という部分は、ファンタジーとして受け入れ難いモノがある。
そこに関しては、「だってファンタジーだもの」としてOKにしちゃダメだと思うのよ。
病気に関する部分はリアリティーを大切にして、その上でファンタジーの要素を持ち込む形にした方がいいんじゃないかと。そもそも、脳腫瘍で「いつ死んでもおかしくない」と宣告されるシーンからして、まるでリアリティーに欠けているのよね。
そういう深刻なことは、そんなに簡単には通告しないんじゃないかと。
っていうか、そのための診察も、すんげえ簡単に片付けられているし。脳腫瘍でヤバい状況だとしたら、もうちょっと丁寧に時間を掛けて精密に検査するんじゃないか。
医者は「詳しくは検査してみないと分かりませんが」と言うけど、なんで詳しい検査も無い内から「悪性と思われます」とか「手術も厳しいかと」なんてことを軽々しく言うのよ。
そんな嘘臭い医者を出している時点で、どう受け止めればいいのか困惑させられるわ。ともかく余命1日の設定に関しては、ファンタジーではなく「バカバカしくて陳腐」という印象になっちゃうのよ。
余命1日の宣告が、絶対に無いとは言わんよ。でも、悪性の脳腫瘍で余命1日ってのは、なかなか厳しいモノがある。
それに余命1日の人間は、もはや普通に生活できないぐらい衰弱しているんじゃないかと。だけど主人公は猛烈な頭痛を感じて以降は、普通に生活できているわけで。
もちろん、衰弱して動けない状態だと話を進められないんだけど、だったら余命の長さを変更すればいいんじゃないかと。
「余命が長いと、主人公が本気に受け取らない」という可能性はあるかもしれないけど、そもそも余命1日ってのも俄かには信じ難い宣告だし。終了直前になって、「主人公が脳腫瘍を宣告されたのは事実だけど、余命1日ってのは妄想」ってことが明らかになる。
だけど、そこまで延々と「バカバカしくて陳腐」という印象を観客に与え続けるのは、どう考えても得策ではないだろう。
それに医者の宣告シーンは妄想じゃなくて、紛れも無い現実なわけで。
だから前述した「宣告シーンのリアリティーが乏しい」という問題は、終盤に至っても何ら解消されないのよね。悪魔は主人公に対し、世界から何か1つ消すことで寿命を1日延ばすことが出来ると告げる。
これが例えばパセリやタデ(蓼)であれば、もちろん大好きな人や作っている農家さんは大打撃だろうけど、それを消す代わりに1日の寿命という取引は分からなくもない。だけど、電話や映画など、かなり重要な物を悪魔は指定する。
それを消しても1日しか寿命が延びないって、どんだけ対費用効果が悪いのかと。
そんで消える物の大切さや重要性が少しずつ大きくなっていくのかと思ったら、最後が猫。
猫好きの人からすると「何よりも大切」という感覚かもしれないけど、客観的に考えると「電話の方が猫より後じゃね?」と思ってしまう。対費用効果が悪い取引を、主人公は何の迷いも無く簡単に承諾する。
幾ら余命1日とは言え、少しは悩めよ。映画の時は一応、ギリギリになってから「映画じゃなきゃダメですか。映画とか音楽じゃなきゃ出来なことだってあるわけだし」と遠慮がちに言っているけど、時計の時は全く悩んでいる様子もないし。
あと、物を消すのが例えば「愚かな主人公を導こうとする天使」であれば、電話や時計という選択も納得できなくはないのよ。でも実際は、「死を受け入れられない、もう1人の自分」なのよ。
それなら、そんな物は選ばず、もっと些細な存在を選ぶんじゃないかと。
死を受け入れられない奴が、なんで「死を受け入れるための物語」を構築できるんだよ。実際に電話や映画が世界中から消えたら、劇中で描かれているような軽い変化では絶対に済まない。
例えば世界中から電話が消えたら、モバイルショップが文具店に変わるとか、その程度じゃ済まないでしょ。もっと大きな変化が起きて、下手をするとインフラがマトモに機能しなくなる可能性だって考えられる。
だけど、「もしも**が消えたら」という架空シミュレーションとしての面白さは、この映画では無視されている。あくまでも、「主人公の周囲から大事な物が無くなったら」という部分に限定されている。
世界のどこかで大きな変化が起きたとしても、それで不幸になる人が大勢いたとしても、極端に言ってしまえば「どうでもいい」ことなのだ。悪魔は僕に、「消えていい物なんて幾らでもあるでしょ。この世界は要らない物だらけじゃない」と言う。
だったら、観客の多くが「確かに要らないかも」と考えるような物を消す対象として選ばないとダメでしょ。それなのに、最初に選ぶのが電話って、それは無いわ。「いやいや、それは要らない物じゃないだろ」と言いたくなる人は少なくないと思うぞ。
それでも電話を選ぶのなら、「それが要らない理由」を説明する必要があるわ。
しかも悪魔は最初に「トランプ要らねえなあ。ルービックキューブ要る?」とか言ってんのに、なんで実際に選ぶのは電話なんだよ。おかしいだろ。悪魔は「死なないで済む方法が1つだけあります」ってことで取引を持ち掛けるけど、「1つ消したら1日だけ寿命を得る」って、それは「死なないで済む方法」じゃねえだろ。「わずか1日だけ余命が延長される」ってだけだわ。
あと、そこも引っ掛かるけど、余命1日という部分では他にもツッコミを入れたくなる問題がある。それは主人公の行動だ。
1度の取り引きで寿命が1年ぐらい延びるなら、そんなに焦る必要も無いと思うのよ。でも、たった1日なんだから、それは普通に考えれば「死ぬ前の猶予期間」と捉えるべきだろう。
ところが主人公は、特に何もしようとしないのだ。せっかく手に入れた1日を、「死の宣告を受けても取り乱さず淡々としている」という部分に関しては、違和感は大いにあるけど、まあ物語を進めるための仕掛けとしては受け入れられないこともない。
でも「1日の寿命を貰った主人公が、死ぬ準備のために行動せずボーッとして時間を潰す」ってのは、「そこは淡々と過ごしている場合じゃねえだろ」と言いたくなる。
「こうやって何かを犠牲にしながら、1日1日を生き延びて行くのだろうか」と心で呟いているけど、淡々と時間を潰している場合じゃねえだろ。せっかく取引で貰った大切な時間なのに、なんで無作為に過ごしているのかと。与えられた時間を有効に活用する気が無いのなら、お前は何のために悪魔と取り引きしたのかと。
あと、電話や映画が大切だと気付く前に、真っ先に「時間は大切」と気付けよ。映画を消すことについて主人公が「映画とか音楽じゃなきゃ出来なことだってあるわけだし」と言った時、悪魔は「芸術や文化より命の方が大切でしょ」と告げる。
それは紛れも無い事実でしょ。
だから、そういう論じ方で「映画を消すことの正当性」を主張してしまったら、この映画の内容を否定することに繋がっちゃうのよ。
「世の中は大切な物ばかりで構築されている」という答えに行き着く話なのに、「でも命の方が大事だから」と言ってしまったら終わっちゃうでしょ。例えば、「人類を救うために電話や映画を無くすべきか」という両天秤なら、それは絶対に人類を選ぶべきでしょ。
そこで「電話や映画は大切だから、それを守るために人類を犠牲にする」という答えは、よっぽどヤバい奴か奇特な奴じゃないと、普通は選ばないはずでしょ。
つまり、「劇中で消される物と人間の命、どっちが大切なのか」という選択を提示するのは、実際に主人公が迫られている問題ではあるんだけど、観客にバレることは絶対に避けなきゃいけないのよ。この映画は「この世界がかけがえの無い物で出来ている」として構築されているので、消される対象が御都合主義に染まり切っているのは別に構わない。
ただし問題は、大事な物に気付いた結果として、主人公が死んでしまうってことだ。
これが犯罪を重ねた悪人で、「本当に大切なことに気付いて改心し、あの世へ旅立つ」ということであれば、それは分からなくもないのよ。
だけど主人公は、そういうキャラではないわけで。せっかく大切な物に気付いても、死んでしまうのなら彼の「気付き」は無意味になっちゃうでしょ。
そこは「大切な物に気付いて精神的に成長し、今後は新たな人生を歩もうとする」という前向きなドラマにしなきゃダメなんじゃないかと。
つまり、悪性の脳腫瘍という宣告も含めて、「主人公の妄想か誤解」ってことにしなきゃダメじゃないかと(そのせいで陳腐になっちゃう恐れはあるけど、そういう作品だから仕方が無い)。
人が死ぬ展開は「泣きたくて映画を見る観客」に歓迎される要素ではあるけど、この映画だと「人の死による感涙」よりも「前向きなメッセージ」の方が遥かに優先すべき事柄じゃないのかと。(観賞日:2017年9月20日)