『せかいのおきく』:2023、日本

[序章 江戸のうんこはいずこへ]
安政五年・江戸・晩夏。汚穢屋の矢亮は糞尿を買い取るため、寺へ赴いた。しかし相方が臥せってしまい、いつもの半分しか持って行く ことが出来なかった。矢亮が糞尿を桶に集めていると、突然の大雨が降り出した。紙屑買いの中次が雨宿りのため、厠に走って来た。二人 が話していると、おきくも雨宿りにやって来た。彼女は寺の手習い所で子供たちに読み書きを教えており、紙問屋の桔梗屋で中次と顔を 合わせていた。
おきくは矢亮に大声で名前を呼ばれ、強い不快感を示した。彼女は尿意を催し、中次と矢亮に厠から退くよう要求した。武蔵国・葛西領・ 亀有村。矢亮は相方になった中次と共に農村へ行き、百姓の半兵衛に糞尿を引き渡した。半兵衛は本所のやっちゃ場で捌いて来るよう指示 し、野菜を渡した。木挽町・次郎衛門長屋。おきくは母を亡くし、元は武家である父の源兵衛と一緒に暮らしていた。

[第一章 むてきのおきく]
安政五年・秋。長雨のせいで次郎衛門長屋の厠から糞尿が溢れ出し、悪臭が周囲に立ち込めた。大家は住人から早急に対処するよう要求 され、家賃も払わないのに言われる筋合いは無いと告げる。おきくは「ウチは納めてます」と言うが、源兵衛は大家を責めなかった。住人 の孫七と口論になった源兵衛は娘から咎められ、ここでも言い合いが勃発した。そこへ矢亮が中次と共に現れ、葛西で川止めを食らったと 弁明した。源兵衛は武家時代の家来だった信二郎の訪問を受け、書状を受け取った。

[第二章 むねんのおきく]
安政五年・晩冬。中次が一人で次郎衛門長屋へ仕事に行くと、源兵衛が厠で排便中だった。源兵衛が「せかい」という言葉を知ってるかと 尋ねると、中次は読み書きも出来ないと告げる。源兵衛は「この空に果てなんか無い。それが世界だ」と説明し、「惚れた女が出来たら、 言ってやんな。俺は世界で一番、お前が好きだってな。これ以上の言い回しはねえんだよ」と述べた。源兵衛は迎えに来た三人の侍を見て 、「侍ってのは執念深いねえ」と呆れながら長屋を後にした。
おきくが家から出て来て、父のことを中次に訊いた。中次が迎えの男たちと去ったことを教えると、おきくは匕首を懐に入れて後を追った 。孫七は中次に、「なんで止めなかったんだよ。まあ、俺も止められねえけど」と話す。森で侍たちと戦った源兵衛は殺害され、おきくは 喉を切られた。夜、中次は孫七の家を訪れ、おきくは命を取り留めたことを聞かされた。孫七は「昔は腕のいい早桶屋だった」と明かし、 おきくが養生所から戻ったら優しくしてやれと述べた。

[第三章 恋せよおきく]
安政六年・晩春。孫七は口入屋に頼んで早桶屋の仕事を再開し、長屋から引っ越した。彼は中次に、おきくが養生所から戻ったが家に閉じ 籠もっていることを教え、しばらく待ってやれと告げた。おきくは外から長屋の住人たちに呼び掛けられても、布団に潜り込んだのの反応 しなかった。しかし手習い所の子供たちが孝順和尚に連れられて訪問すると、おきくは戸を開けた。戻ってきてほしいと子供たちが頼むと 、おきくは喋れなくなったことを身振り手振りで伝えた。しかし孝順が「おきくさんには役割がある。読むことは出来なくても書くことは 出来る」と説くと、手習い所に戻ることを承諾した。
矢亮は武家屋敷の門番から理不尽な金銭を要求され、断ると突き飛ばされた。彼が糞尿を浴びて倒れていると、通り掛かったおきくが心配 して歩み寄った。矢亮は邪険に扱い、「迷惑だ、同情なんか要らねえ」と声を荒らげた。しかし彼は、すぐに迷惑を掛けているのは自分だ と詫びた。そして「おきくさんこそ大変だったのに」と、涙声になった。中次と合流した矢亮は、酷いことを言ったのでおきくに謝って おいてくれと頼んだ。夜、中次は長屋を訪れ、桔梗屋で貰って来た紙を渡した。彼は矢亮が詫びておいてくれと言っていたことを伝え、 おきくが中に入るよう促すが遠慮して立ち去った。

[第四章 ばかとばか]
安政六年・葛西領・初夏。中次と矢亮は荷車が壊れたため、予定の半分しか糞尿を半兵衛の元へ届けられなかった。半兵衛は腹を立て、桶 の糞尿を二人の頭から浴びせた。矢亮は怒らずに笑い飛ばし、中次にも笑うよう促した。

[第五章 ばかなおきく]
おきくは家で文字を書こうと考え、机に紙を置いた。父の書物を開いた彼女は「忠義」という言葉に目を留め、ひらがなで書こうとする。 しかし間違って「ちゅうじ」と書いてしまい、それに気付いて頭を抱えた。

[第六章 そして舟はゆく]
安政六年・中川・晩夏。中次が今さら染み付いた匂いを気にすると、矢亮はおきくに惚れたんだろうと指摘した。矢亮は目方を誤魔化す ため、排便した自分の糞尿を肥やしに混ぜた。彼が「二人で盗みでもするか」と持ち掛けると、中次は「俺を巻き込まないでくれ。いつか 読み書きを覚えて、真っ当に生きるんだ」と拒んだ。矢亮が「長屋の家主も侍どもも、売値を吊り上げやがって。腹立ねえのか」と言うと 、中次は「そんな兄いが嫌いだ」と告げた。彼は「昔から威勢のいいことばっかり言ってるけど、汲み取りに行ってはペコペコ頭下げて、 野次られてもなんも言い返せないで。口ばっかじゃねえか」と鋭く言い放ち、矢亮の度胸の無さを指摘した…。

脚本・監督は阪本順治、製作は近藤純代、企画・プロデューサーは原田満生、撮影は笠松則通、照明は杉本崇、録音は志満順一、美術は原田満生、美術プロデューサーは堀明元紀、編集は早野亮、VFXは西尾健太郎、音楽は安川午朗、音楽プロデューサーは津島玄一。
出演は黒木華、寛一郎、池松壮亮、眞木蔵人、石橋蓮司、佐藤浩市、峰蘭太郎、山口幸晴、杉山幸晴、本山力、まつむら眞弓、當島未来、大石彩未、野村昌嗣、堀田貴裕、田村将之、岡内学、柴田善行、仲野毅、高島和男、東山龍平、美藤吉彦、大迫英喜、古部未悠、前田紗葉、杉本晴、福田心太郎、音野高徳、高橋彩ら。


『半世界』『一度も撃ってません』の阪本順治が脚本&監督を務めた作品。
きくを黒木華、中次を寛一郎、矢亮を池松壮亮、孝順を眞木蔵人、孫七を石橋蓮司、源兵衛を佐藤浩市が演じている。
これまで美術監督として多くの映画に参加して来た原田満生が立ち上げ、自然科学の研究者が協力するプロジェクト「YOIHI PROJECT」の第1弾作品。
「YOIHI PROJECT」とは自然環境に関する課題をテーマとして映画の中に散りばめ、観客に考えてもらおうという目的を掲げたプロジェクト。

阪本監督は最初にパイロット版の形で15分の短編を撮影し、これを見てもらって製作資金を集めようと考えた。
しかし出資者は集まらず、2本目の短編を製作する。それでも出資者は現れず、なんとかツテを頼って製作費を調達した。
新たに長編を作るのではなく、最初に撮影した部分をクライマックスとして使い、そこに物語が繋がるように脚本を執筆して残りの部分を撮影した。
物語は9章で構成されており、第七章が「せかいのおきく」、終章が「おきくのせかい」となっている。

この映画は白黒だが、その意味が全くと言っていいほど感じられない。昔なら「カラーよりも白黒の方がフィルムの金額が安い」という利点もあっただろうが、今はそういうわけでもないだろう。っていうか、予算の都合で白黒にしたわけじゃないだろうし。
糞尿の出て来るシーンが多いので、白黒の方がカラーよりも「観客が不快感を催して目を背けたくなる」というリスクは低い。なので、そこで少しは白黒にした意味があるかもしれない。
ただ、章の終わりだけカラーにする仕掛けが先にあって、そこからの逆算で白黒にしたらしいんだよね。
で、その「章の終わりだけカラーにする」という仕掛けに何の効果も感じられず、完全に不発なのよ。

もっと言っちゃうと、物語を9章で構成する形式も効果が出ているとは思えない。
序章は約16分あるけど、第一章は約8分で、第四章に至っては約3分、そして第五章は約2分。それって、わざわざ区切る必要があるのかね。
ただでさえ退屈な話を、余計に退屈にさせているだけじゃないのか。
まだ第四章は矢亮の性格を示すエピソードだし、その後の展開にも繋がる部分がある。だけど第五章なんて、ホントに必要性が全く見えないのよ。そこをカットして支障が出ることなんて、何も無いのよ。

前述したように、先に撮影した映像をクライマックスに配置し、そこに繋がるように残りの部分を撮るという変則的な方法で製作されている。
この方法が災いしたのか、ストーリーが上手く流れていないと感じる。唐突で不自然な台詞が入る箇所が、何度もある。
例えば、長屋の糞尿が溢れて住人が大家に文句を言うシーン。まるで無関係なことを源兵衛が喋り出し、おきくが「その話は後にして」と咎める。すると源兵衛は「後ならいいのか。今、言いてえことをみんな後回しにするから、いつまで経っても暮らしはちっとも良くならねえ。不義がはびこる」と声を荒らげる。
これって、「映画のテーマに沿った社会的メッセージを発信しよう」という意識が強すぎて、まるで話の流れを無視しているとしか思えないぞ。

そんな不自然な源兵衛の主張を受けて、おきくが「そういうお父様は嫌いです」とたしなめる。
そして彼女は、「上役の不義を訴え出た」「尽くしたはずが御役御免になった」と、源兵衛の過去に言及する。
源兵衛は「この国を思って訴え出ただけ。勘定方として、当たり前のことをしただけだ」と、正当性を主張する。
このやり取りは、「源兵衛が抱える事情」を説明するために用意されている。
だけど、そこも強引すぎるでしょ。

中次と排便中の源兵衛が会話を交わすシーンも、やはり無理を感じる。
源兵衛から身内はいるのかと問われた中次は、妹がいたが労咳で死んだことを話す。
すると源兵衛は「すぐに誰か出来る。傍にいてくれる人がいた方がいい」と言い、「おきくみてえな子は厄介だがな」と告げて娘とのエピソードを詳しく語る。
そして彼は「世界」について説明し、「惚れた女が出来たら、言ってやんな。俺は世界で一番、お前が好きだってな」と言う。
おきくと中次の恋愛劇に繋げたいのは分かるけど、強引すぎるでしょ。

切られたおきくを心配した中次が孫七の家を訪れるシーンにも、やはり強引さを覚える。
孫七は急に「昔は腕のいい早桶屋だった」と言い出し、「地べたの下で死人は虫に食われながら土に帰るんだよ。人ってのは、欲も何も無くしちまんだよ」などと喋る。
こんなの、「何を言ってんだか」と呆れてしまうわ。なんで急に、そんなことを言い出すのかと。
作品のテーマが「サーキュラーエコノミー」だから、人間が死んで土に帰るってのを言っておきたかったのかもしれないけど、脈絡とか完全に無視してるでしょ。

おきくは喉を切られて声を失い、家に閉じ籠もる。しかし手習い所の子供たちと孝順が来ると、すぐ仕事に復帰する。あっさりしてんのね。
っていうか、そこに中次が全く関与しないのは、どういう計算なのかサッパリだわ。
あと、この辺りになると、「この映画は一体、何を描こうとしているのか。どこへ向かおうとしているのか」と思っている。
前述したように映画のテーマは明確なのだが、目的と話の中身に大きなズレがあるとしか思えないのよ。

そもそも、「サーキュラーエコノミーについて自発的に考えてもらう」という目的を劇映画で表現しようってのは、ものすごく難しいことだとは思う。
ホントはドキュメンタリーがベストじゃないかと思う。とは言えドキュメンタリー映画だと、「多くの人に見てもらうのは簡単じゃない」という問題があるだろう。
この映画だと大勢の有名俳優が出演しているので、そこの訴求力に一定の期待は持てる。
ただ、そもそも「まるで面白くない」という致命的な問題を抱えているんだよねえ。

きくと中次の恋愛劇を序盤からスタートさせて、そこに意識を集中した方がいいと思うのよ。ホントに申し訳程度にしか描いていないから、恋が成就する展開が訪れても締まりが悪い。
ただし、恋愛劇に集中したとしても、テーマに繋がらないという問題は変わらないけどね。
この映画を見て作り手側の伝えたいメッセージを感じ取れる観客って、たぶん皆無に等しいんじゃないか。単に「ちょっと風変わりなだけの時代劇」でしかないぞ。
ウンコがたくさん出て来るけど、別の意味でクソな映画になっちゃってるぞ。

(観賞日:2025年1月10日)

 

*ポンコツ映画愛護協会