『さや侍』:2011、日本

伊香藩水位微調役だった野見勘十郎は、脱藩して賞金首となっていた。彼は腰に携えた刀の鞘を握りながら、山道を必死に走る。その鞘に 、刀は収まっていない。疲れて足を止め、息を整えると、幼い娘・たえが追い掛けて来た。橋に辿り着いたところで、勘十郎は賞金稼ぎ・ 三味線のお竜に背中から斬り付けられる。大量に出血した勘十郎は、悲鳴を上げて逃げ出した。さらに彼は、野原で二丁短銃のパキュンに 背後から撃たれ、茶店では骨殺師ゴリゴリに襲われた。
夜、勘十郎が御堂で休息していると、たえは「いいかげん、逃げるのはおやめください。お侍ならお侍らしく戦って下さい。刀を持って 戦わないお侍など死んでいるのも同然です。それなら終わって下さい」と厳しい言葉を告げる。直後、勘十郎は御堂を包囲した多幸藩の 役人たちに捕まった。多幸藩の殿様は変わり者で、捕まった罪人は「三十日の業」に処せられる。母君を病で失った若君を、一日一芸で 三十日の間に一度でも笑わせたら無罪放免、出来なければ切腹というものだ。これまでに挑んだ全ての罪人が失敗している。
見張り番の倉之助と平吉は、勘十郎を牢屋敷に移送した。たえが付いて来たので、倉之助は一緒に牢へ入れた。たえは勘十郎に、「何故 このようなことになる前に御自害なさらなかったのですか。それでも本当のお侍ですか」と批判の言葉を浴びせた。翌日、殿様と若君、 家老たちの待っている御白州に、勘十郎は両目と口に果物を挟んだ姿で現れた。だが、若君は全く笑わず、牢屋敷に戻される。たえは「何 がしたかったのですか」と呆れた。
次の日、勘十郎は鼻からうどんをすするが、若君は笑わない。たえから非難された勘十郎は、腹に絵を描くよう頼み、「それで踊って みたらどうかと思って」と言う。翌日、勘十郎は腹踊りを見せるが、若君は無表情のままだ。牢屋敷に戻った勘十郎を、たえが激しく批判 する。その声を聞いた倉之助は、平吉を連れて牢に入る。たえは2人に、「ドジョウ掬いをどう思われますか。父が明日、やると言って 聞かないのです」と説明した。倉之助が「ちょっとやってみろ」と言うと、勘十郎はドジョウ掬いを見せた。全く面白くないので、倉之助 は「これを鼻に入れてみたらどうだ」と割り箸を渡す。
次の日、勘十郎は御白州でドジョウ掬いを披露するが、若君の表情は変わらない。たえは「腹芸より弱くなっていた気がします」と冷静に 指摘した。勘十郎が駕籠抜けを提案すると、倉之助は「派手さに欠けるな」と口にした。そこで平吉の案を取り入れ、駕籠に火を付けて やってみることにした。しかし翌日は雨だったため、火は消えてしまった。たえは「もう付き合いきれません」と声を荒げる。
翌日の出し物が決まっていないと知り、倉之助と平吉がアイデアを練った。それ以降、ホウキを抱えての口三味線、一人相撲、鼻フック、 蛇結び、鼻笛、大ダコとの戦い、木刀での真剣白刃取りなど、勘十郎は様々な芸を披露するが、若君は全く笑わない。そんな中、倉之助は 、たえが牢屋敷に戻った勘十郎の様子を密かに見ていることに気付いた。倉之助は勘十郎に、縄跳びで二重跳びを連続百回をやるよう要求 した。出来ないので罵っていると、たえが飛び出して「父への無礼は許しません」と倉之助を睨んだ。そこで倉之助は、「なんで一緒に 考えてやらんのだ。さや侍のまま終わらせる気か」と告げた。
その夜、たえは倉之助に、「三十日の業を、お城の外で出来ないかと」と相談した。「父の切腹を望んでいたんじゃなかったのか」と 倉之助が言う、たえは「父上を、さやだけでは終わらせません」と返した。翌日、大勢の見物客が集まる浜辺で、勘十郎は人間大筒に挑戦 した。しかし若君は相変わらず無表情だった。ただ、町民から業を見たいという声が上がり、翌日以降は公開で行われることになった。 勘十郎は人々の声援を受け、様々な芸を繰り出すが、若君を笑わせることは出来ないままだった。
ある日の業で、勘十郎は人間花火の芸を披露した。その際、仕掛けのせいで石が飛び散り、若君は手に軽傷を負った。殿様や家老たちは誰 も気付かず、たえだけが気付いた。その夜、たえは倉之助の助けを借りて、若君の部屋を密かに訪れた。たえは父の治療に使っていた薬草 を渡し、「貴方と私の父は似ている」と言う。たえは、自分も流行病で母上を亡くしたこと、それから勘十郎が刀を取らなくなったことを 語り、「私は刀を取って戦わない父を恥ずかしいと思っていた。だけど、今、父上は立派に戦っている。刀が無くても人は立派に戦える。 だから貴方も母を亡くした悲しみと戦って。これは私の父上ではなく、貴方のために」と述べて部屋を去った。
翌日の業でも、やはり若君は笑わない。ただ、勘十郎が差し出したカステラを、若君は受け取った。その後も業は続き、とうとう最終日の 前夜を迎えた。たえと倉之助が牢屋敷で話していると、平吉が「若君は風車が好き」という情報を入手して戻って来た。それを聞いて、 たえは最終日に披露する芸を決めた。翌日、勘十郎は巨大な風車を必死に吹いて回転させるが、若君の表情は変わらない…。

監督・脚本は松本人志、企画は松本人志、脚本協力は高須光聖&板尾創路&長谷川朝二&江間浩司&倉本美津留、プロデューサーは 岡本昭彦、製作総指揮は白岩久弥、製作代表は大崎洋&榎本善紀、アソシエイトプロデューサーは小西啓介&仲良平、ライン プロデューサーは原田雅弘&鎌田賢一、撮影は近藤龍人、照明は藤井勇、美術デザイナーは愛甲悦子&平井淳郎、録音は岡本立洋、編集は 本田吉孝、VFXスーパーバイザーは長谷川靖、時代考証は北原進、アクションコーディネーターは諸鍛冶裕太、音楽は清水靖晃、 音楽プロデューサーは日下好明。
出演は野見隆明、熊田聖亜、板尾創路、柄本時生、國村隼、伊武雅刀、りょう、ROLLY、腹筋善之介、清水柊馬、竹原和生、長谷川公彦、 鳥木元博、吉中六、重村佳伸、安藤彰則、中村直太郎、寺十吾、石井英明、松本匠、岡田謙、京町歌耶、野口寛ら。


ダウンタウンの松本人志が『大日本人』『しんぼる』に続いて監督した3本目の映画。
今回は初めて、本人が主演していない。
主人公の勘十郎役には、松本の企画によるバラエティー番組『働くおっさん人形』『働くおっさん劇場』に出演していた素人の野見隆明を 抜擢している。
他に、たえを熊田聖亜、倉之助を板尾創路、平吉を柄本時生、殿様を國村隼、家老を伊武雅刀、お竜をりょう、パキュンをROLLY、ゴリゴリ を腹筋善之介、若君を清水柊馬が演じている。

相変わらず松本監督は、映画の文法を無視している。
本人としてはイケてるつもりかもしれんけど、ただの失敗にしか見えない。
例えば勘十郎が御堂で捕まるシーン、役人が入って彼を連れ出すまでの様子を1カットの長回しで見せている。御堂に入ってすぐに出て 来たのに、勘十郎が体を縄でグルグル巻きにされているという様子を見せる。
それってギャグのつもりなのかもしれんけど、ギャグであろうとなかろうと、そこはカットを割るべきでしょ。
それに、もしギャグだとしても、無駄に分かりにくいぞ。

序盤に、勘十郎が賞金稼ぎに襲われるシーンが3つ続くが、どういうことを狙って用意したシーンなのか全く分からない。
まず、勘十郎が斬り付けられて出血したのに、カットが切り替わると血が全く出ておらず、着物も血に染まっていないというのが、ただの ミスにしか見えない。
「斬られたのに普通に逃げて行く」というネタをやりたいにしても、そこは血だらけで去るべきでしょ。
っていうか、そもそも「斬られるけどピンピンしている」というのを見せる意味は何なのか。そういうコントとして作っているのか。
だけどね、それが後の展開に全く繋がっていないのよ。
そこだけが独立したコントになってしまっている。

これがコント集なら、それでも構わないかもしれんけど、そういう構成じゃないんだから、そこだけ別物になっているのはダメでしょ。
ひょっとすると松本監督の中では、「殺されるののは嫌だから必死に逃げていた主人公が、自ら死を選ぶ」ということで終盤に繋げている つもりなのかもしれんが、全く繋がってないからね。
そうそう、完全ネタバレだけど、勘十郎は切腹するよ。殿様が彼と娘の様子に心を打たれ、「若君が笑ったことにして許してやろう」と 考えるんだけど、それを嫌って切腹する。
そこに関しては、後で触れる。

たえのキャラ造形がブレブレになっている。
まず最初の段階で、「あの年齢で父親に侍らしく自害せよ」と言う設定に違和感を覚えるが、そこは置いておくとしても、彼女は「武士 なのに生き恥を晒すのはやめて自害すべき」と言っていたはずなのに、業の2日目には「若君を喜ばせなくてはならないのですよ」と腹を 立てている。
つまり、早い段階で、彼女は笑われることを平気でやる父に腹を立てるのではなく、その芸の質が低いことに腹を立てているのだ。 それはキャラ設定からすると間違ってるでしょ。
「最初は笑われることに腹を立てていたが、次第に芸の質を責めるようになっていく」という変化を生じさせて、そこで笑いを作ろうと するのなら分かるけどさ。

たえが勘十郎に腹踊りの絵を描いてやるのも、それだと芸をすることは認めているようになってしまう。
だけど父親が芸をすること自体、反対だったはずでしょ。
しかも、その芸の質の低さは「腹踊り」と聞いた時点で分かるはずで、たえがそれに協力しちゃダメでしょ。
あと、芸で言うと、駕籠抜けで「雨だから火が付かなかった」というのは、笑いの方程式として成立はしているけど、じゃあ火が付いて いたら若君が笑ったのかと言うと、そんなことは絶対に無いわけだから、そこの笑いの作り方は間違っている。

勘十郎が次々に披露する芸が、ただ単純につまらないだけになっている。
「くだらない芸であることを笑う」というわけでもない。
ベタなことを、ものすごく低い質でやるだけ。
例えば鼻フックとか大ダコとの戦いとか、バラエティー番組の罰ゲームでやれば面白いかもしれんけど、映画の1シーンとして「主人公が 真剣に取り組む。嫌がったり怖がったりするリアクションは無し」という形で見せても、そりゃ面白くなるわけがない。

っていうか、ホントに三十日の業を、残り5日までは延々と見せるのだ。
あのね、この映画にとって、その芸の中身を全て見せる必要性なんてゼロでしょ。最初の幾つかを「つまらない芸」であることを見せれば 、後は「こうして数日が過ぎて」ということで省略すればいい。
そこじゃなくて、描くべきは「主人公が芸を披露する中で何を思うのか、娘はどう感じるのか、娘との関係はどう変化していくのか」など 、心情や人間ドラマでしょ。
そういうモノがこの映画からはスッポリと抜け落ちている。
抜け落ちているというか、松本監督は、最初から描く気が無いんだな。

勘十郎が課せられた「三十日の業」ってのは、「武士にとっては生き恥にも等しい」というモノであることを、お竜が語っている。って いうか、語られなくても、武士にとって生き恥なのは分かる。
当然のことながら、そこは「武士なのに自分がバカをやらかして笑われることを強いられるので、とても辛い罰だ」という風に見えなきゃ ならないはずだ。
でも、そんな風には全く見えない。
松本人志監督の作品で、しかも主演が野見隆明だと、バラエティー番組の1シーンのように見えてしまう。
そこの仕掛けを活かすつもりなら、シリアスな役の多い俳優とか、時代劇で良く見る俳優とか、そういう本格派の人を起用すべきでは なかったか。

そもそも、こういう「ちゃんと物語を用意して、ちゃんとドラマとして撮ろうとしている映画」を作ろうとしているのに、なんで素人の 野見隆明を起用したのか、そのセンスに首をかしげざるを得ない。
これが「おっさんのリアルな日常を切り取る」といった仕掛けの映画であれば、その起用は納得できるよ。
でも、これって完全に「作り込んだ時代劇」でしょ。
だったら、そこに素人を起用しても、何の効果も期待できないでしょ。
ただ単に「芝居の下手な人」ということでしかない。

武士にとって生き恥を晒すような「三十日の業」を命じられても、それについて勘十郎がどのように感じたのか、サッパリ分からない。
何しろリアクションが皆無なのだ。
武士にとっては生き恥だけど、勘十郎は「三十日の業」を生き恥と考えていないのなら、それを表現すべきだし。
勘十郎が無反応だから、それについてどう思っているのか全く分からないのよ。

だから、こっちとしては、お竜が話していた「武士にとっては生き恥」という解釈を、とりあえず彼に対しても当てはめる以外に方法は 無いのだ。
でも、それにしては初日から、いきなりベタなネタをやっている。
そんなの、ずっと武士として生き続けてきた奴が思い付くのは不自然だし、思い付いたとしても、やろうとするのは武士のプライドから すると耐え難いことのはずだ。なのに彼は、何のためらいもなく簡単にやっている。
そこに大きな違和感を覚える。
繰り返しになるが、そういう行動を取らせるのであれば、「武士にとっては生き恥だが、俺は笑われることは何でもない」というのを、彼 の言葉や態度を使って明示しておくべきなのよ。

ただし、それを明示したとしても、まだ問題は残る。
それを恥と思わないのであれば、「なぜ武士なのに、笑われることは平気なのか」という説明が必要だろう。
また、それを恥と思わないのであれば、普通の武士とは違う感覚の持ち主ということになる。そうであるならば、そこに重点を置いた物語 を構築することが求められる。
ところが、この映画において、「勘十郎は武士なのに、笑われることに対して恥だと思っていない」という特殊な感覚であることが、全く 重視されていない。
これだと、彼が武士である意味が無い。ただの町民にしておけばいいんじゃないかと思うのだ。
もしくは、いっそ笑いを切り売りしている芸人という設定にしてしまえばいい。

勘十郎は妻の死をきっかけに刀を捨てたのに、なぜか鞘だけは持ち続けている。
その設定は、ものすごく不自然で無理がある。
その「鞘」に何か深い意味があるのか、物語の展開的に有効活用されることがあるのかというと、何も無い。
何かのメタファーなのかもしれないが、全く分からない。
「さやだけを持った侍」というキャラに松本監督は面白さを感じたんだろうし、それはコント番組のキャラで使うのなら悪くなかった だろう。
しかし映画の主人公として使う場合、ディティールが必要になる。

そういうキャラにしたのであれば、「なぜ鞘だけは持っているのか」という部分の意味が求められる。
ところが、この映画では、そこに意味を持たせていない。
そのため、「武士の誇りは捨てているはずなのに、だから切腹しないで笑いものにされても平気なはずなのに、鞘だけは持ち続けている」 という部分で引っ掛かってしまう。
刀は捨てても鞘は大事にしているところに、武士の誇りを持ち続けているようにも見える。
そうなると、整合性が取れていないように感じられるのだ。

たぶん松本監督は、「笑われるのは構わないけど、憐みの目で見られるぐらいなら死んだ方がマシ」という自身の芸人としての考えを、 この映画を通じて訴えようとしたのだろう。
そういう自分のメッセージを映画に持ち込むことは、別に構わない。
ただし、それを武士階級の主人公を使って表現しようとしたことが大きな間違いだった。
武士にとっては、笑われることが既に生き恥なのだ。
それを生き恥だと思わない設定にすると、その時点で「特殊」になってしまい、その特殊性についてドラマを描く必要性が生じて しまう。

っていうか、勘十郎が芸をやるのは、ただ「切腹させられるのが嫌だから」ということに見えるんだよな。
ようするに「死ぬのは怖い」という風に見える。
それなのに、最終的に彼は切腹する。
最終的に切腹する理由は「憐みが嫌だから」ということのようだけど、そもそも最初に包囲されたり捕まったりした段階で自害しようと しなかった理由が分からないのよ。
っていうか、中途半端に感動劇に持って行こうとしているんだったら、そこは「自分が助かるために芸をする」のではなく、「自分が 死んだら娘が一人になるからそれを避けるため」とか、「芸をしないと娘を殺すと言われたから」とか、「娘のため」という行動理由に しておけば良かったんじゃないの。

そして最後も、切腹はしなくていいよ。
何かのための自己犠牲として切腹を選ぶならともかく、「憐みが嫌」ということで、そこの誇りを守るために切腹するってのは、すげえ バカバカしい行為にしか見えない。
幼い娘を残して自害するのが、ただの身勝手な愚か者にしか感じられないのだ。
実際に死ぬんじゃなくて、「切腹を選ぼうとしたけど娘から必死に制止され、死なないように説得され、死んだ気になって一からやり直す 」とか、そういうことでいいじゃねえか。

最後、勘十郎が自害した後、たえが河辺を歩いていると坊主が現れ、勘十郎から託された遺書を読む。
読んでいる途中で坊主は文章をメロディーに乗せて歌い出し、それがエンディング・テーマ曲になる。
そんな「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」を表現したようなシーンで泣かなきゃいけないんだから、熊田聖亜も大変だよ。
結局、その手紙では、勘十郎が切腹を選んだ気持ち、その理由は全く語られていないし。

そもそも武士が笑われてもOKだけど憐みが嫌で切腹するという作りがおかしいのだが、松本監督の「芸人の主張」として捉えても、 やっぱり切腹は間違っている。
だってさ、じゃあ松本監督は、憐みの目を向けられたら死ぬのかと。死なないでしょ。
仮に松本監督が「憐みの目を向けられるぐらいなら死んだ方がマシ」と口で言ったとしても、実際には絶対に死を選ばないだろう。きっと 松本監督は、憐みの目を向けられていることを認めようとせず、「まだまだ俺は面白い。才能は枯れていない」と信じて、笑いの世界に しがみつくだろう。
お笑いにしがみつくことは、松本監督の美学からすると無様かもしれないけど、お笑いが本当に好きなら、そう悪いことでもない と思うよ。
ただし、周囲をイエスマンばかりで固めて裸の王様になるのは、どうかと思うけどさ。

(観賞日:2012年3月12日)


第8回(2011年度)蛇いちご賞

・作品賞
・監督賞:松本人志

 

*ポンコツ映画愛護協会