『桜田門外ノ変』:2010、日本

1860年(安政七年)1月、水戸。水戸藩士の関鉄之介が蟄居していると、元・奥祐筆頭取の高橋多一郎から書状が届いた。その書状には、自分たちの不穏が動きが取り沙汰されて、近日中に新たな処罰が下ると記されていた。「決行の時期を迎えた」という内容を見た鉄之介は、妻・ふさ、息子・誠一郎を残して江戸へ向かった。彼は浅草で水戸藩士の増子新八と会い、北郡奉行である野村常之介たちの元へ赴いた。鉄之介は野村から、仲間が脱藩に失敗して捕まったことを知らされた。
1860年3月1日、鉄之介は愛人・いのの家を訪れた。彼は周囲を警戒しながら、過去を回想する。7年前、1853年7月。ペリーが来航し、鉄之介は水戸藩士の鮎沢伊太夫と浦賀へ赴いて黒船を観察した。ペリーはギルモア大統領からの国書を持参しており、幕府に受領を要求した。幕府は水戸藩主の徳川斉昭を海防参与に任命し、水戸藩士の茅根伊予之介たちは献上する大砲を運んだ。国書では日本に開国を要求しており、ペリーは「来春まで回答を待つ」として沖縄に去った。
いのの家に水戸藩士の佐藤鉄三郎が来たので、鉄之介は会合の場に赴いた。元・郡奉行の金子孫二郎は集まった面々に、大老の井伊直弼を殺す決行日は翌日の3月3日だと通告した。襲撃計画の中心は水戸藩士だったが、薩摩藩士の有村雄助も会合に参加していた。そして彼の弟の次左衛門も、直弼の襲撃に参加することになった。有村は同志が藩主の命令で国元に呼び戻されたことを謝罪し、西郷吉之助が盟約した通り、襲撃に合わせて京に3千の兵を送る手はずに間違いは無いと断言した。
金子たちの計画は直弼の殺害で終わりではなく、最終目的は薩摩を中心として諸藩の兵を集め、朝廷を幕府から守るために京都を制圧することにあった。高橋と息子の荘左衛門たちは薩摩の軍勢と合流するため、既に大阪へ向かっていた。鉄之介は襲撃の指揮を任され、参加者は脱藩届を書いた。金子と有村は品川の大峰屋で待機し、見届け役の佐藤を待つことにした。鉄之介は各人に役目を言い渡し、4丁の拳銃を斎藤監物&稲田重蔵&森五六郎&黒沢忠三郎に手渡した。翌朝、直弼は側近から襲撃計画を知らせる書状があったことを知らされるが、登城の予定を変更しなかった。稲田たちは大名駕籠に襲い掛かり、次左衛門が直弼の首を討ち取った。稲田は命を落とすが、金子は佐藤から襲撃の成功を知らされた。
鉄之介は襲撃に参加しなかった岡部三十郎と舟で飲んだ後、6年前の1854年(安政元年)を回想した。1月にペリーが再来日し、和親条約の締結を幕府に迫った。斉昭は他の2つの条件を飲んでも、通商交易の要求だけは絶対に容認してはならないと考えた。老中の松平忠固は、直弼や堀田正睦が戦いを避けるべきだと言っていることに触れた。老中の松平乗全も彼の意見に同調するが、老中首座の阿部正弘が斉昭の方針に従うことを決定した。
越前藩主の松平春嶽は、早く慶喜を世継ぎに据えるべきだと考えていることを斉昭に伝えた。しかし直弼や堀田、忠固たちは、斉昭が慶喜を据えることで徳川を乗っ取るつもりだと吹聴していた。彼らは9歳の慶福を世継ぎに据えて政治を操ろうと目論んでいるのだと、春嶽は語った。イギリスは下田に領事館を開設し、初代領事のタウンゼント・ハリスは通商条約の締結を幕府に強く要求した。老中たちは斉昭の反対意見を無視し、ハリスの登城を容認した。1857年(安政四年)9月、斉昭は海防&軍政&幕政の参与を辞任した。ハリスは将軍家定に国書を提出し、直弼は大老に就任した。それを知った鉄之介は、激しい苛立ちと焦りを覚えた。
1860年3月4日、鉄之介と岡部は旅籠の稲葉屋へ行き、小普請組の野村常之介と会った。野村は2人に、大半の人間が自刃か自訴の道を選んだこと、無事に逃げ延びたのは他に広木松之介&増子金八&海後磋磯之介の3名だけであることを話した。斉昭は直弼の暗殺を側近の武田耕雲斎から知らされ、全藩主に「事件に関わった者は必ず捕まえて大罪に処す」と伝えるよう指示した。斉昭は直弼との因縁について、過去を振り返った。斉昭が通商条約の締結に関して批判した時、直弼は清の二の舞を避けるためだと説明した。朝廷の許しを得なかったことについては、国の将来のためだと主張した。
尾張藩主の徳川慶勝から将軍の後継者に慶福を据える方針を確認された直弼は、血筋を重視したのだと説明する。6月25日に慶福が後継者として発表され、7月5日には斉昭や慶勝たちに押し掛け登城の罪名で謹慎処分が下された。それらは全て、将軍の名を借りた直弼の独断だった。8月8日、武家伝奏の万里小路正房は水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門を呼んで勅書を渡した。彼は斉昭が中心となって諸藩を集め、幕府の横暴を改めさせるよう命じた。
直弼は勅書が偽物だと断定し、老中の間部詮勝に京都所司代と協力して犯人に厳罰を与えるよう指示した。蝦夷地の開発調査を命じられていた鉄之介は、鮎沢からの書状を受け取った。そこには幕府からの勅書返還要求を巡って藩が割れていることが綴られており、鉄之介は鮎沢の元へ戻った。鮎沢は強硬な命令に怒った藩士や農民たちが決起したこと、斉昭親子の説得で治まったことを彼に伝えた。斉昭は金子と高橋を呼び、幕府が藩の取り潰しに言及して脅しを掛けて来ているので今は耐えろと諭した。
西郷は金子と高橋に会い、島津斉彬が幕府の政治を正道に戻すため3千の兵を率いて京に上ることを説明した。各藩の説得を頼まれた金子と高橋は快諾し、その仕事を鉄之介&黒沢&増子新八&杉山弥一郎に任せた。鉄之介と黒沢は、越前&鳥取&長州を回るよう命じられた。鉄之介たちは鳥取を訪れて藩士の安達清一郎と会い、協力を要請した。鉄之介たちは側用人に話を通してもらい、藩としての全面協力を取り付けることに成功した。しかし他の藩の協力は、まるで得られずに終わった。直弼と間部は安政の大獄によって徹底的な弾圧を実行し、11名が死罪となった。斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、金子たちは直弼を斬ると決めた。
1860年3月13日、金子&佐藤&有村は京都に向かっていたが、四日市の旅籠で薩摩藩士たちに捕まった。彼らは京都の薩摩藩邸に連行され、斉彬の後を継いだ久光が出兵を止めたことを知らされた。3月15日、薩摩藩邸を出た金子と佐藤は、役人たちに捕縛された。鉄之介の家は、水戸藩の役人たちによって徹底的に捜索された。3月23日、高橋親子は役人たちに追い詰められ、自害を選んだ。3月26日、奈良街道の玉造に入った鉄之介&岡部&野村は、金子と佐藤の捕縛や高橋親子の自決を知った。3月28日、いのは役人たちに捕まり、厳しい拷問を受けて命を落とした…。

監督は佐藤純彌、原作は吉村昭『桜田門外ノ変』(新潮文庫刊)、脚本は江良至&佐藤純彌、企画は橘川栄作、プロデューサーは川崎隆、共同プロデューサーは三上靖彦&鈴木義久、撮影は川上皓市、美術は松宮敏之、照明は川井稔、録音は橋本泰夫、編集は川島章正、殺陣は久世浩、音楽は長岡成貢、音楽プロデューサーは池畑伸人、主題歌『悲しみは雪に眠る』はalan。
出演は大沢たかお、長谷川京子、北大路欣也、柄本明、生瀬勝久、渡辺裕之、池内博之、榎木孝明、西村雅彦(現・西村まさ彦)、伊武雅刀、田中要次、渡部豪太、志村東吾、坂東巳之助、本田博太郎、温水洋一、北村有起哉、加藤清史郎、中村ゆり、永澤俊矢、須賀健太、緒形幹太、須賀貴匡、近藤公園、中山麻聖、綱島郷太郎、津村鷹志、河原崎建三、川野太郎、松本寛也、颯太、福井晋、平塚真介、鈴木豊、谷口公一、坂上祐哉、奥本真司、馬場哲男、西本篤志、大岩匡、田中輝彦、河西祐樹、松尾伴内、福本清三、深水三章、並樹史朗、モロ師岡、三田村賢二、妹尾正文、田鍋謙一郎、沢井小次郎、谷川昭一朗、ユキリョウイチ、佐久間哲ら。


吉村昭の同名小説を基にした作品。
監督は『北京原人 Who are you?』『男たちの大和/YAMATO』の佐藤純彌。
脚本は『落語娘』『必死剣 鳥刺し』の江良至と佐藤純彌監督の共同。
鉄之介を大沢たかお、ふさを長谷川京子、斉昭を北大路欣也、金子を柄本明、高橋を生瀬勝久、岡部を渡辺裕之、春嶽を池内博之、武田を榎木孝明、野村を西村雅彦(現・西村まさ彦)、直弼を伊武雅刀、稲田を田中要次、佐藤を渡部豪太、森を志村東吾、有村を坂東巳之助、桜岡を本田博太郎、与一を温水洋一、安藤を北村有起哉、誠一郎を加藤清史郎、いのを中村ゆり、西郷を永澤俊矢が演じている。

冒頭、清が阿片戦争に敗北したこと、イギリスとフランスが多くの権益を求めて動いたことが説明され、「列強の次なる標的は日本」ってことがナレーションで語られる。
でも、そんな説明の必要性がサッパリ分からない。
そりゃあ、桜田門外の変に至る経緯として、そういう外国の動きが影響していたのかもしれないよ。
でも今回の話に、そこまで直接的な関連性の薄い情報が本当に必要なのかと。歴史番組で、桜田門外の変を深く掘り下げたり考察したりしているわけじゃないんだからさ。

その後、徳川斉昭が登場して「尊攘」という書をしたため、その言葉の意味について解説するパートがある。カメラは国会議事堂を捉え、そこからパンして現在の桜田門を写しだす。そしてタイトルを入れて、安政のパートに入る。
でも、斉昭が尊攘する手順とか、現在の風景を見せる手順とか、ホントに必要なのかと。
いや、もちろん製作サイドは関連性があるといるから、そういう導入部にしているのよ。
でも、そういう方向性の味付けが上手く機能しているとは到底言い難いのよ。ものすごく無理が合って遠い関連性だと感じるし。

なぜ鉄之介が蟄居しているのか、なぜ新たな処罰を下される恐れがあるのか、彼や高橋は何を企んでいるのか、そういうことが全く説明されないまま、話が先に進んで行く。
なぜ彼らが直弼を殺そうとしているのか、それによって何を得ようとしているのか、それもサッパリ分からない。
しばらくして7年前の回想シーンが挿入されるが、そこで事情が明かされることは無いし。
ペリーが沖縄へ去ったことが説明された後、「そして、それが全ての始まりだった」とナレーションが入るが、それと鉄之介たちの計画との関連性は何も分からないままだ。なので、「何のための回想シーンだったのか」と言いたくなってしまう。

そして情報が乏しい状態のまま、ついに桜田門外の変のシーンに突入してしまう。
そこは計画に至るまでの経緯、鉄之介たちが抱えている熱い思いや大義、そういった要素が充分に描かれていてこそ、感情移入できるはずなのだ。そして、彼らの悲願成就にカタルシスが生じるはずなのだ。
そういう作業が無いから、「良く分からない連中が、良く分からない理由で、良く分からない計画を遂行しようと目論んでいる」という印象になっちゃってるのよ。
極端に言うと、「卑劣なテロ行為に過ぎない」ってことになっちゃうのよ。

開始から40分ぐらいで、鉄之介たちの襲撃が成功して直弼が殺される。当然っちゃう当然だろうが、桜田門外の変のシーンが物語のピークになっている。
もちろん、そんなことは分かった上で、あえて襲撃シーンをクライマックスに配置しない物語として作っているんだろう。
しかし、じゃあ襲撃シーンを序盤に配置しても後半に向けて物語を盛り上げていくための作戦が何かあるのかというと、それは全く見えてこない。
何の策も用意せず、ただ漫然と原作を映像化しているだけにしか思えない。

襲撃に至る経緯は、何度も挿入される回想シーンで、ブツ切りの形で少しずつ描かれている。
しかし、もう襲撃そのものを描くシーンは終了しているため、後から説明されても気持ちを高めるための機能は全く果たしていない。ミステリーとして上手く話を運んでいるわけじゃないから、謎解きのような面白さも感じられない。
あと、肝心な部分をナレーションで説明していることも少なくないので、ドラマとしての厚みや深みに欠ける。
じゃあ再現ドラマ的アプローチで「歴史の真実を暴く」みたいな方向性なのかというと、そこまで割り切っているわけでもない。

鉄之介たちにとって直弼の殺害は最終目標じゃないので、ひとまずの安堵感はあるかもしれないが、カタルシスや達成感は弱くなっている。
そして当然のことではあるが、襲撃シーンが終わった後は、「逃げ延びた面々が捕まったり追い詰められて自決したりする」という様子が延々と続くことになる。
そんな展開に面白さがあるかどうかは、もはや説明不要だろう。そこに滅びの美学があるわけでもない。
この題材、この構成で、どうやって観客を満足させようと思ったのか。根本的に、企画として無理があったんじゃないかと。

歴史に詳しい人なら、襲撃に関わった面々の「その後」については知っているだろう。
そこまで詳しくなくても、学校で学んだ程度の知識があれば、襲撃後の挙兵が無かったこと、鉄之介たちの計画が失敗に終わったことぐらいは分かるはずだ。
なので大半の観客は、この映画が革命が失敗に終わった顛末を描く内容だと知った上で、それをたっぷりと時間を掛けて見せられることになる。
終盤、いのが拷問の末に殺されたと知った鉄之介は、「我らは井伊直弼の首一つを奪うのに、どれだけ多くの命を犠牲にしたのでしょう」と漏らすが、その通りで、彼らの計画は対費用効果が悪すぎるんだよね。

「あらかじめ定められた失敗の顛末」を延々と描くだけでは観客を退屈させてしまうだろうと危惧したのか、鉄之介が鳥取藩剣術指南役の稲葉和則と一騎打ちをするシーンなんかを用意して物語を盛り上げようとしている。
しかし見事なぐらい、焼け石に水になっている。そのタイマンに勝とうが、全体としては完敗なんだし。その後、鉄之介が捕まって処刑されるのも分かり切っているし。
で、最後は再び現代に映像が切り替わって、国会議事堂が写し出される。「政治の現状を変えようとした鉄之介たちの行動は決して無駄ではなく、今の時代に繋がっている」とでも言いたかったのか。
どういう意図があったにしても、完全に外していると断言できる。

(観賞日:2022年7月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会