『さかなのこ』:2022、日本
さかなクンはテレビ番組の取材で立山の港へ行き、漁船で海に出た。船が揺れたはずみで海に転落した彼は、子供の姿に変身した。子供の頃のさかなクンは、ミー坊と呼ばれていた。水族館でタコを凝視していたミー坊は、母のミチコから魚と貝の図鑑をプレゼントされた。ミー坊は家でタコの絵を描き、タコ料理のメニューを幾つもメモして母に作ってもらった。学校でもミー坊はクラスメイトと遊ばず、タコの絵を描いた。クラスメイトのモモコが話し掛けると、ミー坊は「タコさん、カッコイイよね」と言う。モモコは顔をしかめ、「普通にキモいでしょ」と告げた。
クラスメイトの男子たちが「モモコのこと、好きなんだろ」と冷やかすと、ミー坊はキョトンとした表情で「好きだよ」と答える。男子が「エロス」と囃し立てると、ミー坊は一緒になって繰り返した。ミー坊はクラスメイトのヒヨと下校する時も、魚と貝の図鑑を読みふける。ヒヨはハコフグの帽子を被ったギョギョおじさんに気付き、ミー坊に逃げるよう促す。ギョギョおじさんが「ギョギョギョ。お魚のこと、好きなんですか」と話し掛けると、ミー坊は言葉を返そうとする。ヒヨは「い帽子ですね」と告げ、ミー坊を連れて逃亡した。ヒヨはミー坊に、「ギョギョおじさんと会ったら帽子を褒めて逃げないと、捕まって解剖される」と忠告した。
夏休み、ミー坊、ヒヨ、モモコの家族は一緒に海へ出掛けた。父親たちは釣りに夢中で、兄のスミオと海に潜ったミー坊は大きなタコを捕まえた。飼ってもいいかと問われたミチコは、「自分で飼うなら」と了承した。そこへ何も知らない父のジロウが来て、「こうしないと美味くならないんだ」とタコを何度も叩き付けた。彼はタコを焼き、皆に食べさせた。雨の日、ミー坊はギョギョおじさんに声を掛けられ、魚について会話を交わした。帰宅したミー坊は、ギョギョおじさんの家へ遊びに行く約束を交わしたことを両親に話す。母は行くことを許すが、父は「ダメだ。イタズラされたらどうするんだ」と認めなかった。
ミー坊が魚について書いた学校新聞「ミー坊しんぶん」を見た担任教師は、同僚たちも気に入っていることを教えた。彼の提案で、新聞は学校の掲示板に貼り出された。ギョギョおじさんの家へ遊びに出掛けたミー坊は、仕事について尋ねた。ギョギョおじさんは就職活動に失敗して貧乏であること、お魚博士になりたかったが勉強がダメで無理だったことを話す。それを聞いたミー坊は、お魚博士になると宣言した。2人は一緒に魚の絵を描き、すっかり時間を忘れて夜の9時を過ぎてしまった。誘拐を心配したジロウの通報で、ギョギョおじさんの家に警官がやって来た。誤解は解けたが、ギョギョおじさんは任意同行されることになった。彼はハコフグの帽子をミー坊に渡して、パトカーに乗り込んだ。
高校生になったミー坊は、ハイスクール版のミー坊新聞を学校の掲示板に貼り出していた。そこには魚や釣り餌の話題だけでなく、総長のバイクに関する記事も掲載されていた。総長が手下の田村、青鬼&赤鬼を率いて文句を付けても、ミー坊は全く悪びれなかった。ミー坊は「人気なんだから」と言って釣りを始め、総長の抗議に取り合おうとしなかった。総長の祖父は漁師で、網に掛かったカブトガニを教材用として学校に送って来た。生物教師の鈴木は育て方が分からず、ミー坊に手伝いを頼んだ。
ミー坊はカブトガニを散歩させると言い、船着き場へ連れて行く。同行した総長たちの前でミー坊は釣りを始め、青鬼のナイフを借りて魚を捌いた。そこへ籾山が率いる他校の不良グループを現れ、総長たちに喧嘩を吹っ掛けた。彼らが睨み合っていると、籾山の仲間である狂犬がやって来た。ヒヨだと気付いたミー坊が呼び掛けると、狂犬は「知らねえよ、テメエなんか」と凄む。喧嘩が勃発すると、ミー坊はヒヨを捻じ伏せた。
総長と籾山はタイマンで戦い続けるが、他の面々は海を覗き込んだ。アオリイカを見つけたミー坊は籾山の網シャツを使って捕まえ、皆に振舞った。ヒヨはミー坊に勉強して東京のいい大学へ行く考えを明かし、「魚のこと、本当にやりたいなら勉強しないと無理だぞ」と助言する。ヒヨは勉強に力を入れたおかげで成績が上がるが、ミー坊は相変わらず魚のことばかり考えていた。三者面談で担任教師が「もう少し頑張らないと」と言うと、ミチコは「この子はお魚のことが好きで、お魚の絵を描いて、それでいいんです」と述べた。
カブトガニが孵化し、ミー坊と総長は「日本で初めてカブトガニの人工孵化に成功した高校生」として表彰された。取材を受けたミー坊は、将来はお魚博士になりたいと告げた。ミチコはミー坊に、「お魚の仕事がしたいんでしょ。広い海に出てごらんなさい」と言う。ミー坊はアパートで独り暮らしを始め、おおもり水族館の実習生になった。しかしミー坊は先輩飼育員の酒井から指示された仕事をサボって魚を眺めたり、アシカショーを見学したりして注意された。酒井は失敗を重ねるミー坊に、「向いてないんじゃない?」と告げた。
寿司屋で働き始めたミー坊は、海老の殻を剥きながらボーッとする。先輩たちに同行してキャバクラを訪れたミー坊は、ホステスになったモモコと再会した。ミー坊はモモコに、「どこに行っても、思ってたのと違う」と仕事への悩みを吐露した。モモコはパトロンが用意したアパートへの引っ越しが決まっており、ミー坊に手伝いを頼む。ミー坊は「寂しいだろうから」と言い、引っ越し祝いに金魚をプレゼントした。モモコは「ピッタリの仕事がある」とミー坊に言い、歯科医を紹介した。歯科医は「ここにワンダーな水槽を置きたい」と説明し、ミー坊に仕事を任せた…。監督・脚本は沖田修一、原作は さかなクン『さかなクンの一魚一会 〜まいにち夢中な人生!〜』(講談社刊)、脚本は前田司郎、製作は河野聡&太田和宏&伊藤はやと&鳥羽乾二郎&今田圭介&森田圭&玉井雄大&広田勝己、エグゼクティブプロデューサーは濱田健二&赤須恵祐、プロデューサーは西ヶ谷寿一&西宮由貴&西川朝子&日野千尋、撮影は佐々木靖之、照明は山本浩資、美術は安宅紀史、録音は山本タカアキ、編集は山崎梓、音楽はパスカルズ、主題歌『夢のはなし』はCHAI。
出演は のん、井川遥、柳楽優弥、夏帆、磯村勇斗、豊原功補、さかなクン、三宅弘城、岡山天音、大方斐紗子、朝倉あき、長谷川忍(シソンヌ)、西村瑞季、宇野祥平、前原滉、鈴木拓、島崎遥香、賀屋壮也(かが屋)、三河悠冴、奥秋達也、中須翔真、増田光桜、田野井健、永尾柚乃、岩谷健司、黒田大輔、金子岳憲、守屋文雄、大津尋葵、宮崎敏行、師岡広明、谷川昭一朗、森田釣竿、大友律、諫早幸作、山元駿、鹿島康秀、伊島空、三村和敬、田中爽一郎、武田一馬、黒住尚生ら。
さかなクンの自叙伝『さかなクンの一魚一会 〜まいにち夢中な人生!〜』を基にした作品。
さかなクンはギョギョおじさん役で出演し、魚類監修、題字、劇伴のバスクラリネット演奏も担当している。
監督は『おらおらでひとりいぐも』『子供はわかってあげない』の沖田修一。
脚本は沖田修一と『生きてるものはいないのか』『横道世之介』の前田司郎による共同。
ミー坊をのん、ミチコを井川遥、ヒヨを柳楽優弥、モモコを夏帆、総長を磯村勇斗、歯科医を豊原功補、ギョギョおじさんをさかなクン、ジロウを三宅弘城、籾山を岡山天音、小学生時代のミー坊を西村瑞季が演じている。ミー坊がギョギョおじさんの家へ遊びに行ってもいいかと尋ねると、ミチコは「いいよ」と笑顔で了承する。ジロウが「イタズラされたらどうするんだ」と却下しても、ミチコは「暗くなるまでに帰ればいい」と許そうとする。
だけど、知らない大人家へ小さな子供が1人で遊びに行くって、どう考えても危険だろ。
だからジロウが認めないのは、当然の対応だ。
むしろ「優しく理解のある母親」として描かれているミチコは、どうかしていると感じるぞ。ギョギョおじさんを演じているのがさかなクンだからってことで、「何も危険はない」という免罪符にしている。
だけど、それは見せ方として、卑怯じゃないかと思うのよ。
それは「人を見た目で判断すべきじゃない」とか、そういう問題じゃないぞ。子供の好きな話題で興味をそそり、家に招いてイタズラしようとする大人なんて、世の中にゴロゴロと転がっているんだからさ。
それがさかなクンってことを頭から排除して、「変な格好で変な言葉遣いをする大人」をイメージして、そいつが小学生に話し掛けて家に招いたら、そりゃあ危険だと考えるのは当然じゃないかと。高校生になったミー坊は、学校新聞で魚や釣りのことばかりではなく、総長のバイクに関する記事を書く。
だが、そこだけ魚から完全に離れた話題を取り上げるのは、あまりにも不自然で不可解だ。
その件で総長から「嫌がっていることを書き続けるのはジャーナリズム精神に反するんじゃないか」と真っ当な抗議を受けた時、ミー坊が適当に受け流して釣りに没頭するのは、ただの失礼な奴でしかない。
それは「脅しに屈しない」とか、そういうことではない。総長や籾山たちが船着き場で争うエピソードは、「どこまでの設定を甘受すればいいのか」と言いたくなる。
そもそもミー坊が総長たちと仲良くなる展開自体にも強引さは感じるが、まだ受け入れることは難しくない。でも船着き場のシーンに関しては、さすがに色々と厳しい。
ヒヨはミー坊に呼び掛けられて「知らねえよ」と凄むが、知らないはずがない。でも、そこは無視して喧嘩に突入する。普通にやればミー坊は軽くボコられるはずだが、なぜかカブトガニを見せたら相手がビビるし、のっそりとした動きでヒヨを制圧できてしまう。
カットが切り替わると、なぜか総長と籾山以外の面々は一緒にアオリイカを眺めており、ヒヨはアンサンブルに埋もれる。
その全てを「そういうコントだから」と受け入れるのは、観客に求める負担がデカすぎやしないか。温かい目で見るにも、限度があるぞ。粗筋で書いたように、ミー坊は水族館でも寿司屋でも仕事に身が入らず、「どこに行っても、思ってたのと違う」と漏らす。
だけど、最初から「好きなだけ魚に触れて、自分の好きなことだけをやれる」なんて、そんな都合のいい仕事は無いでしょ。それは単なるワガママにしか思えないぞ。
それは「ブラックな職場でも我慢する」とか、そういう問題とは全く別だ。
「自分の居場所は必ずある」とか、そういうメッセージを発信する狙いがあるとしても、そこの描写は「それは違うだろ」と言いたくなる。歯科医から水槽の依頼を受けたミー坊が海に潜り、大きな鯛を手掴みして戻って来るシーンがある。すると心配しながら待っていた老婆が、「あれは人間じゃない、魚の子だよ」と口にする。
そんなコントみたいなパートで、タイトルを言わせちゃうのかよ。その老婆が何者かもサッパリ分からないし、色々と雑だなあ。
あと、せっかく荒れた海に飛び込んで捕まえた鯛を、水槽に入れないんだよね。だったら、何のために鯛を取るシーンを入れたんだよ。
っていうか、そもそも「歯科医から依頼を受けたミー坊が、色々と作業する」という手順なんて丸ごとカットでもいいぐらいなのよ。いきなりオチに飛んでもいいぐらいなのよ。ミー坊が悪酔いし、和菓子店のシャッターに魚の絵を描くシーンがある。その絵に通り掛かった人々が集まり、総長が配達先のスナックへミー坊を連れて行き、そこで寿司を握っている籾山が壁に絵を描いてほしいと依頼する。この絵が評判になり、ミー坊はイラストレーターとして仕事をするようになる。
でもシャッターの絵は勝手に描いているんだから、立派な犯罪だぞ。そこをスルーしたらダメだろ。和菓子の店だから、魚と全く関係ないし。
そこはミー坊が店主に謝罪するとか、店主が喜んで受け入れてくれるとか、何らかのフォローが必要じゃないかと。
そういう手順が無いと、「ミー坊の人生が大きく変化するきっかけ」として甘受できないわ。冒頭で「男か女かは、どっちでもいい」とテロップが出る。「いきなり言い訳かよ」とも思ったが、これは作品のメッセージになっている。
さかなクンという実在の人物が主人公だが、彼の半生を描く伝記映画ではなく、ジェンダーの問題について描こうとしている。
ミー坊を男性が演じていれば、これは「幼少期から周囲に奇特だと思われている主人公が、好きなことを探求し続けていたら評価されるようになり、その道のスペシャリストになった」と物語になる。その物語からは、「大好きは大事」というシンプルなメッセージが見えてくる。
だが、のんをミー坊役に起用してジェンダー問題を前面に押し出すことで、冒頭の「男か女かは、どっちでもいい」ってのが作品のメッセージになる。
それと引き換えに、「魚が大好きで周囲から変に思われている主人公が云々」という話の軸はボヤける。極端なことを言ってしまうと、ジェンダー問題を強調するのであれば、「魚のことばかり考えている」という要素は無くてもいいんじゃないか、むしろ邪魔ではないかとさえ思うほどだ。
もしかすると、ジェンダーも趣味も仕事も魚も、何もかもひっくるめて「色んな種類があっていい」というテーマに集約されるのかもしれない。
ただ、やっぱり手を広げ過ぎてピントがボヤけている印象は否めない。
「のんがさかなクンを演じる」というギミックに、作品が負けているんじゃないかと。(観賞日:2023年8月12日)