『獣人雪男』:1955、日本

雨の夜、1人の新聞記者が駅にやって来た。彼は駅員に尋ね、日本アルプスから下山した東亜大学山岳部員たちの元へ赴いた。部員である飯島高志や武野道子たちの他に、動物学者の小泉博士も同席している。道子の傍らには、兄である武野清の遺骨箱がある。記者は小泉に名刺を渡し、今度の事件について話してほしいと要請する。すると小泉は、飯島に「君から話すのが順序だろう」と告げた。飯島は記者に、武野が残した手帳を見せたそこには「世にも凄まじい怪物を見た」という文面があった。
事の起こりは、正月の休暇中のことだった。山岳部員の飯島、道子、中田、武野、梶は、雪山でスキーを楽しんでいた。武野と梶は飯島に、道子と中田を連れて先にヒュッテへ行くよう告げた。自分たちは源さんの山小屋へ立ち寄ると告げ、彼らは別行動を取った。飯島たちがヒュッテに到着すると、主人の松井は嵐が迫っていることを知らせた。武野と梶が一向に戻って来ないので、飯島たちは不安になった。松井は山小屋へ電話を掛けるが、誰も出なかった。
隠れ里の娘であるチカがヒュッテに現れ、山が荒れているので少し休ませてほしいと松井に告げた。チカは松井に、源さんの小屋へ行く途中にある「炭焼き地獄」という場所で雪崩が起きていることを教えた。飯島たちが天候の回復を待っていると、電話が掛かって来た。道子が受話器を取ると、向こうから悲鳴が聞こえて来た。直後に銃声が響き、再び悲鳴が上がった。松井が半鐘を鳴らす中、チカは無言でヒュッテを後にした。
嵐の過ぎ去った翌朝、飯島たちは警官隊と共に山小屋へ向かった。すると室内に源さんの遺体が転がっており、雪上には巨大な生物の足跡が残されていた。一行は武野と梶の所持品を発見し、2人が小屋に来ていたことを知った。小屋の中には、動物の毛が付着していた。雪崩に巻き込まれた梶の遺体は発見されるが、武野は行方知れずのままだった。小泉は記者から毛について問われ、日本に生息する全ての動物と合致しないことを語った。彼はヒマラヤの雪男の足跡の写真を見せ、小屋にも同種の生物が出現した可能性を示唆した。
小泉は遺体捜索と共に不思議な生物も見つけたいと考え、雪解けを待って飯島たちと山へ向かった。今回のメンバーには飯島と道子、中田の他に、山岳部員の品川や道子の弟である信介も同行した。一行が休憩を取るため山小屋に立ち寄ると、奥の部屋にいた動物ブローカーの大場は手下たちを率いて出発した。彼は巨大な猿のような動物がいるという噂を聞き付け、捕まえて金儲けしようと企んでいた。小泉たちに先を越されては困るため、彼は急いで出発したのだ。
しばらくして山小屋を出た飯島や小泉たちは、捜索拠点となるベースキャンプを設営する。その様子を密かに見ていた大場は、手下の1人に見張りを続けるよう命じた。飯島たちは武野の捜索に向かうが、発見することは出来なかった。案内役を引き受けた猟師たちは、山の向こうにあるガラン谷に入ってしまったのではないかと口にする。ガラン谷は人喰い谷とも呼ばれており、入って戻って来た者はいない場所だ。小泉は谷を捜索しようと考えるが、猟師たちは嫌がった。
翌朝、捜索に向かった一行は、何かに殺害された熊の死骸を発見した。落石が発生したので一行が慌てて逃げると、どこからか恐ろしい叫び声が響いた。猟師の1人が足を骨折し、仲間と共に下山した。その夜、小泉は飯島たちに、武野は叫び声を上げた動物に連れ去られた可能性もあると話す。彼は一行に、捜査を続行するか中止するかの判断を求めた。道子たちが中止すべきだと言う中で、飯島は続行を主張した。すると他の面々も同意し、捜索の続行が決定した。
大場は飯島たちを見張っていた手下から報告を受け、すぐにガラン谷へ向かうことにした。一方、道子がテントで就寝していると、雪男が現れた。しばらく道子の寝顔を眺めていた雪男は、手を差し込んで触れようとする。目を覚ました道子か悲鳴を上げたので、雪男は慌てて逃げ出した。見張りをしていた飯島は猟銃を持って追い掛けるが、足を滑らせて崖下に転落してしまった。大場と手下たちが罠を仕掛けている現場を目撃した飯島は格闘になり、崖下に落とされてしまった。
飯島が意識を取り戻すと、そこはガラン谷の隠れ里だった。チカが粥を持って来るが、長老や部落の仲間たちは掟を破って飯島を救った彼女の行動を叱責する。彼らは獲物が取れなくなることを恐れており、「ガラン谷の主が連れて行かれたら、冬場はどうするだ」とチカを非難した。長老は「村の掟を忘れねえな?主様に逆らっちゃ怖えぞ」とチカに言い、洞窟へ獲物を持って行くよう命じた。チカが出発した後、部落の連中は飯島を連れ出した。
チカは洞窟に近付いて呼び声を発し、獲物を置いて立ち去った。洞窟から雪男と子供が現れ、獲物を拾い上げた。里に戻ったチカは飯島が消えたことを知り、どこへやったのかと長老に尋ねる。しかし長老は答えず、チカを棒で打ち据えた。飯島は口を塞がれて両手を縛られ、崖から吊るされていた。大場はチカが飯島を捜していると知り、巨大な猿のような動物の居場所を教えてくれれば会わせると持ち掛けた。チカは迷いつつも、洞窟の場所を教えた。
狩りに出ていた雪男は、飯島が吊るされているのを発見した。彼は飯島を引き上げて網を引き千切り、その場を去った。一方、大場たちは洞窟へ赴き、外へ出て来た雪男の子供を捕まえた。部落へ戻ったチカは大場から預かった指輪を長老に見つかり、激しく殴られた。雪男が洞窟へ戻ると、大場は子供の声を聞かせて誘い出す。大場と手下たちは網で雪男を捕獲し、薬で眠らせた。その最中に、雪男の子供は網を切って逃げ出した。長老は部落の仲間を率いて、大場たちの元へ乗り込んだ。しかし大場の発砲を受け、長老は死亡した…。

監督は本多猪四郎、原作は香山滋、脚本は村田武雄、製作は田中友幸、撮影は飯村正、美術は北辰雄、録音は西川善男、照明は横井総一、特殊技術は円谷英二&渡辺明&向山宏&城田正雄、監督助手は岡本喜八郎、編集は庵原周一、音楽は佐藤勝。
出演は宝田明、根岸明美、河内桃子、中村伸郎、堺左千夫、高堂國典、小杉義男、谷晃、笠原健司、大村千吉、鈴木孝次、山本廉、P良明、堤康久、岡部正、西條悦郎、坪野鎌之、山田彰、大西康雄、中山豊、千葉一郎、熊谷二良、草間璋夫、加藤茂雄、吉頂寺光、勝本圭一郎、佐藤功一、福田和郎、安芸津宏、小沢経子、相良三四郎、伊東隆ら。


『ゴジラ』の本多猪四郎(監督)、香山滋(原作)、村田武雄(脚本)、円谷英二(特殊技術)、田中友幸(製作)という主要スタッフが再結集して作り上げた怪獣映画。
飯島役の宝田明、道子役の河内桃子というメインキャスト2人も、『ゴジラ』と同じ顔触れだ。
チカ役の根岸明美はジョセフ・フォン・スタンバーグが日本で撮った1953年の映画『アナタハン』で主演デビューし、当時は肉体派女優として活躍していた。
他に、小泉を中村伸郎、中田を堺左千夫、長老を高堂國典、大場を小杉義男が演じている。

東宝は『ゴジラ』に次ぐ作品として、雪男が登場する映画の企画を進めていた。
しかし『ゴジラ』の大ヒットを受けて『ゴジラの逆襲』の製作が決定し、そちらに円谷英二が携わるため、こちらの企画は先送りされた。その間に本多猪四郎が『おえんさん』の仕事に入り、両方の撮影が終了してから企画が再スタートした。
東宝としてはゴジラに続くモンスターとして雪男を売り出したい考えがあったようで、公開された時には「ゴジラより強い雪男」と宣伝された。
大ヒットしたゴジラを利用して「それより強い」とアピールしているわけだから、かなり力の入った映画だったと言えるだろう。

そんな作品なのに、現在では一部のマニアックな人々を除けば、ほとんど知られていない状態にある。
その理由はヒットしなかったからではなく(まあ『ゴジラ』に比べると雲泥の差ではあるのだが)、封印されてしまった作品だからだ。
部落の描写に問題があるという理由で、現在までに一度もビデオやDVDが発売されず、もちろんテレビ放送もされていない(予告編やダイジェスト映像はビデオ化されたこともあるが、全編のビデオ化は無い)。
劇場での公開は可能であり、また過去には海賊版ビデオが出回ったこともあるが、なかなか観賞することが出来ないということで、「幻のカルト映画」と化しているのだ。

部落の描写が問題視されたのは、そこに差別的な表現が含まれているからだ。
ただし、脚本上では「近親婚を繰り返して障害者が多くなった」という設定があるものの、実際に映画を見る限り、「そんなに気にするほどかなあ」と感じた。
確かに障害者が多く見受けられるものの、上述した設定には言及していないし、差別的な発言が出て来るわけでもない。
だから、部落や障害者を差別しているという印象は受けなかった。

ちなみにアメリカだと、本編の一部が削除され、アメリカ人俳優の登場シーンが追加されたバージョンに変更されているものの、DVDは普通に発売されている。
そしてアメリカ版でも、もちろん部落の障害者たちは登場する。
日本でDVD化されないのは、どこからか抗議を受けたからではなく、「抗議を受けると面倒だ」という東宝の自主規制だろう。東宝は同様に、『ノストラダムスの大予言』も自主規制で封印している。
気持ちは分からなくもないが、何となく「カッコ悪いなあ」と感じてしまうねえ。

序盤、武野と梶がヒュッテに戻らないので飯島たちが不安を抱く中、窓の外に目をやった道子は、吹雪の中に二足歩行の獣人のような生物が出現したので驚く。しかし、それは毛皮を来たチカだ。
いわゆる肩透かしってやつだね。
不安を煽っておいて、「獣人が出現した」と思わせておいて、「ただの人間でした」という見せ方をするのは、方程式としては間違っちゃいない。
ただ、そこで肩透かしをすることが本当に必要なのかと考えると、「むしろ邪魔じゃねえか」と思うわな。

記者が飯島や小泉たちに接触するシーンから始まり、山岳部員が雪山で犠牲となった出来事が回想劇として描かれる。
で、回想シーンから駅の様子に戻り、小泉が「雪男がいるかも」と話した後は現在進行形の物語が開始されるのかというと、そうではない。回想シーンでは「武野の捜索には雪解けを待つしか無い」ってなことを言っているが、そこの手順が残されている。だから、今度は「雪解けを待って捜索に行った」という出来事、つまり今回の一行が下山するまでの出来事が回想劇が挿入される。
だが、序盤から2つの回想劇を連ねる構成は、観客を物語に引き込む力を著しく弱めていると感じる。雪解けを待って捜索に赴いた出来事が全て、回想劇として描かれるのだ。
つまり全ては終わったことであり、「武野は遺体で発見された」「飯島や道子や小泉など主要人物は誰も雪男に殺されていない」といったことが、最初の段階で明らかになっているわけだ。
そうなると、雪男が出現しても、「誰かが犠牲になるのでは」といったサスペンスが生じないわけで。

結局、ラストシーンの直前まで、ずっと「飯島たちが山で雪男と出会った話」が回想劇として綴られる。
で、そこまで大半を回想劇として構成したことのメリットが、まるで見えて来ない。逆にデメリットは、前述したように大きなモノがあるわけで。
名前も出ない新聞記者に何の存在意義があるのかというと、特に何も見当たらない。ただ単に「飯島たちの回想劇の聞き手」というだけであり、そんなのは観客が担当できる役割だ。
どう考えたって、現在進行形で物語を構築すべきだわ。そっちを選ばない理由が見つからないわ。

ポスターだと巨大な怪物に見える雪男だが、実際は人間と同じぐらいのサイズだ。「ゴジラより強い」と宣伝されたが、どう考えてもゴジラより圧倒的に弱い。
そんな雪男が初登場するのは、映画開始から40分ほど経過した辺り。道子のテントを覗くシーンが初登場だ。
で、雪男はテントの小窓からひょっこりと顔を覗かせ、手を伸ばして触れようとするのだが、これっぽっちも恐怖や脅威を感じさせない。
実際にどんな性格かどうかは置いておくとして、とりあえずは「畏怖の対象」にした方がいいんじゃないかと思うが、最初から「そんなに怖くない奴」と思わせるのね。

雪男は単に「そんな怖くない」というだけでなく、とても親切な奴でもある。飯島が吊るされているのを見つけると、引き上げて助けてくれるのだ。「結果的に助ける形となった」というわけではなく、確実に「助けよう」という意志を持って行動しているんだから、いい奴なのだ。
そこまでに雪男の凶暴性を感じさせるようなシーンは全く無いし、だから「見た目で怖がられているだけ」という感じだ。
ただ、そういうシーンを用意するなら、なおさら「そんなに怖くない奴」と最初から思わせるのは、得策じゃない気がするぞ。
最初は怖い奴だと思わせておいて、飯島を助けるシーンで「実は怖くない奴」とアピールした方が効果的じゃないかなと。

この映画に登場する獣人は「雪男」というキャラクター設定だけど、たぶんキングコングの模倣だよね、これって。
モンスターが凶暴な性格じゃないのに恐れられているとか、人間の女性に興味を示すとか、動物ブローカーが捕獲を目論んでいるとか、色々と類似する点が見つかる。
せっかくゴジラという日本が誇るキング・オブ・モンスターを生み出しておいて、「それを超えるモンスター」として誕生させたはずの雪男が、あからさまなキングコングの模倣ってのは、ちょっと寂しいねえ。
絶対に人間サイズじゃなくて巨大な方がいいと思うけど、そうじゃないのは「巨大だとキングコングに似過ぎちゃう」ってのを懸念したのかもね。

飯島はテントから逃げた雪男を追い掛け、崖下へ転落する。そこまでは、別に何の問題も無い。
ただ、そこから「大場たちが罠を仕掛けている様子を目撃し、揉み合いの末に崖下へ転落する」という手順に移るのは、どうにも賛同しかねるわ。
なんで「崖下への転落」という出来事を連続で配置するかね。
だったら、例えば「雪男を追い掛けるが見失い、周囲を捜索していると大場たちが罠を仕掛けている」とか、そういう形でも良かっただろうに。

ヒュッテに来た時のチカは無愛想で、飯島たちとも積極的に関わり合うことを避けている様子だった。ところが隠れ里に運ばれた飯島が目を覚ますと、チカは笑顔で粥を差し出す。ヒュッテの時とは、まるで別人のように変化している。
その間に何かあったのかと思ってしまうが、もちろん何も無いわけで。
しかも、チカには「飯島に惹かれる」という設定まで用意されているのだが、どのタイミングで惚れたのかサッパリ分からない。
可能性としては、そもそも助ける前から惚れていたってのが濃厚だろう。助けた後に、惚れるような出来事なんて何も無いしね。
ただ、そうなるとヒュッテで一目惚れしたと解釈すべきなんだろうけど、そんな素振りは微塵も無かったし。

チカが飯島と会いたい一心で大場の策略に乗ってしまうのは、分からんでもない。
でも指輪を受け取るのは、ちょっと筋書きとして苦しいかな。
一応、大場が「明日連れて来る」と約束し、それまでの担保として指輪を預けるという形ではあるんだけど、そもそも「明日になったら連れて来る」という約束をOKしている時点で、ちょっと苦しい。
あと、長老がチカの行為を叱責するのは当然なんだけど、死の間際まで「えれえ事をしてくれた、村はこれでおしめえだ」と非難するのは、キャラの動かし方として、どうかと思うなあ。

大場たちが雪男を捕獲している間に、子供は逃げ出している。
だったら、その子供が飯島やチカと遭遇するとか、そういった展開にでも移行するのかと思いきや、「トラックで移送される雪男を子供が助けに行くが、大場たちに捕まる」という展開が待ち受けている。
そうなると、子供が逃げ出す手順の意味が全く無いよね。
「大場たちが雪男も子供も捕まえてトラックで運ぶ」という手順にしても、何の支障も無いし、そっちの方がスッキリするよね。

トラックで目を覚ました雪男は暴れ出し、運転手を絞め殺す。後方のトラックは運転を誤り、崖下へ転落する。大場の発砲で雪男の子供は死亡し、雪男は彼を崖下へ投げ落とす。
つまり雪男は2人しか殺していないんだけど、それは中途半端。
あと、「目を覚まして暴れて1人を殺す」という形よりも、「子供を殺されてから激昂して一味を殺す」という形の方がいいんじゃないかと。そうすると「怒りと復讐心で凶暴化し、人間を殺す」という形になるのでね。
もちろん雪男を捕獲した段階で「復讐の標的」としての条件は満たしているけど、そこで1人を殺し、子供を殺されてから大場を殺すよりは、どっちも「子供を殺された怒りの行動」にした方がスッキリするかなと。

それはともかく、大場と運転手を始末する行動については納得できるのだが、そこから「雪男が部落を襲撃する」という展開になるのは、どういう道理だかサッパリ分からない。
強引に解釈するならば、「人間の所業に腹を立てた雪男が、部落の連中も大場の仲間として捉え、復讐心で襲い掛かる」ってことになるけど、それで腑に落ちるものではない。
飯島を助けたことからも、本来は優しくて親切な奴だったはずで。
そいつが終盤に入って急に「無差別殺人鬼」みたいな状態に変貌するのは、動かし方としてギクシャクしている。

飯島たちのベースキャンプを襲撃するのも、道子を連れ去るのも、やはり「なんで?」と首をかしげてしまう。
終盤には武野を助けたのも雪男だったことが分かるし、それだけ人間に対して親切だった奴が、その急変ぶりは何なのかと。
繰り返しになるけど、子供を殺された怒りに燃えるのは分かるのよ。ただ、それと道子を連れ去る行動の関係性って、どう頑張って解釈しようとしても、答えが見つからないわ。
キングコング的に動かしたかったんだろうけど、そこは無理があるなあ。
っていうかさ、そこまで露骨に『キングコング』の真似をする意味って何なのよ。

(観賞日:2015年12月8日)

 

*ポンコツ映画愛護協会