『十手舞』:1986、日本

伊勢屋奉公人の乙松、鍋島藩江戸屋敷中間の勘八、愛宕下目明かしの弥助は、それぞれ別の犯罪によって捕縛された。しかし北町奉行所で斬罪を言い渡された3人を、同心の内海孫兵衛は殺さなかった。孫兵衛は3人に、殺されたくなければ「影十手」になるよう要求した。影十手とは、町奉行も手が出せない悪党を秘密裏に葬る殺し屋稼業だ。弥助たちは何の迷いも無く、差し出された十手を拾った。孫兵衛は「表のことは御法度だ」と言い、3人の喉を切って声が出せないようにした。
それから20年後、牙の伝蔵一味の始末に向かった弥助は、お蝶という女に邪魔される。襲って来た彼女の顔を見て、弥助は驚いた。お蝶は弥助の娘だったのだ。弥助が去った後、事件現場に入った孫兵衛は転がっている幾つもの死体を確認する。米相場を操って大儲けを企んでいた地方藩の江戸家老や旗本、それに兇状持ちたちが仕留められていたが、伝蔵の死体は見つからなかった。孫兵衛は弥助の失敗を知り、苛立ちを隠せなかった。
弥助は10年ぶりに会った娘と喋ろうとするが、もちろん声は出せない。20年前、弥助は旗本の次男坊を標的として追っていた。弥助は男の情婦であるお咲と出会い、恋に落ちた。お咲は弥助の気持ちに打たれ、男の住み家を教えた。弥助はお咲と夫婦になり、お蝶が産まれた、そんな中、孫兵衛は島抜けした男が姿を現したという情報を入手し、弥助に仕事を命じた。妻子がいるので勘弁してほしいという願いも聞き入れられず、弥助はお咲とお蝶を捨てて仕事に赴いた。
お蝶は弥助に、捨てられてから1年も経たずに母が亡くなったことを話す。復讐心に燃えた彼女は殺しの腕を磨き、現在では伝蔵の情婦となっていた。弥助が「逃げてくれ」と頼むと、彼女は憎しみの言葉を浴びせて走り去った。その様子を、伝蔵の元情婦・おれんが盗み見ていた。弥助は孫兵衛の元へ行き、自分を見捨ててほしいと頼んだ。孫兵衛は「影十手を捨てるということは、死ぬことが掟だぞ」と冷淡に告げ、伝蔵一味を片付けろと命じた。
おれんは伝蔵の元へ行き、お蝶と弥助の関係を知らせた。お蝶は影十手を手引きした裏切り者とみなされ、伝蔵一味に捕まった。弥助たちが屋敷に侵入すると、お蝶を吊るした伝蔵一味が待ち受けていた。娘を人質に取られた弥助は武器を捨て、捕縛された。だが、一味がお蝶も殺すつもりだと知った弥助は暴れて縄を解き、伝蔵に襲い掛かった。孫兵衛が捕り手を率いて現場に駆け付けると一味は全滅しており、瀕死の弥助が倒れていた。お蝶が泣きながら歩み寄ると、弥助は「勘弁してくれ」と詫びて息を引き取った。おりんだけは物陰に隠れて生き残っており、お蝶を睨み付けた。
孫兵衛はお蝶を公開処刑したように偽装するが、おりんは埋められた遺体を掘り起こして別人だと知った。お蝶は孫兵衛から、影十手になるよう持ち掛けられた。弥助の仕事を引き継ぐよう促され、お蝶は十手を取った。孫兵衛は彼女に、任務の内容を説明した。廻船問屋の叶屋源四郎は、かつて浜田藩主・松平周防守の側用人だった。しかし些細なことで追放処分となり、表向きは藩と無関係な立場になった。しかし周防守は偽の渡海赦免状を源四郎に与え、抜け荷をやらせて藩の財政を裏から支えさせた。周防守は抜け荷で儲けた金を元手に、蔵前の札差し連中に米を買い占めさせ、伝蔵を手先にして米相場まで引っ繰り返そうと目論んでいたのだった。孫兵衛は周防守を今の地位から叩き落とすため、動かぬ証拠として海渡赦免状を手に入れるようお蝶に命じた。
源四郎の妻・花絵は、病死した侍女の死装束として自分の帯と着物を着させてやった。源四郎は死装束に帯締めが含まれていたことを後になって知り、激しい怒りを示した。花絵が理由を尋ねても源四郎は教えず、目付の佐吉を「お前が付いていながら」と叱責した。葬儀を行った僧侶たちは、次女の着物と帯締めを脱がせて競りに掛けた。帯締めを買い取った古着屋に駆け込んだ源四郎は、小唄の師匠・おちかが購入したことを知ったた。
おちかは遊び人の千太郎を家に連れ込み、深い関係を求めた。彼女は冷たい態度を取る千太郎の首に帯締めを巻き付け、「アンタを殺して私も死ぬんだ」と体を絡めた。その夜、おちかの家を訪れた源四郎は、首に帯締めを巻き付けて死んでいる彼女を発見した。すぐに源四郎は帯締めを奪い取ろうとするが、固く結ばれていて解けなかった。目撃した小女が悲鳴を上げたので、源四郎は慌てて走り去った。
源四郎が帰宅すると、佐吉が花絵を自殺に見せ掛けて殺害していた。憤りを示す源四郎に、佐吉は「災いの芽は断つ。浜田藩のためだ」と説いた。「地獄」の異名を持つ同心の柿崎征三郎は岡っ引の半次たちと共に、おちかの殺害現場を調べた。柿崎が帯締めを持ち去る様子を、源四郎は野次馬に紛れて見ていた。そして、お蝶も物陰から観察していた。おれんは千太郎を捕まえて甚振るが、佐吉は「もう良い」と告げた。千太郎を締め上げても意味が無いことを、彼は理解していた。
柿崎はおれんの陰間茶屋に乗り込み、千太郎を出せと要求した。おれんが「ここのところは御無沙汰で」と嘘をつくと、柿崎は「居場所が分かったら教えてくれ」と告げて立ち去った。源四郎は柿崎と会い、女房の形見なので帯締めを返してほしいと頼む。金なら幾らでも払うと申し出ると、柿崎は「帯締めを死体から抜き取ろうとした奴がいる。そいつが分かるまでは預かっておく」と言う。源四郎は刀を抜くが、殺気を感じ取った柿崎は攻撃をかわした。
源四郎は柿崎と戦うが、呼子で役人たちが来たので逃げ出した。その一部始終を、物陰に隠れたお蝶が見ていた。柿崎は源四郎が落とした浜田藩の印籠を見つけ、「面白いことになってきやがった」と笑みを浮かべた。その夜、おれんは柿崎の家へ行き、彼を誘惑して関係を持った。明け方、お蝶は陰間茶屋に忍び込み、千太郎を連れ出そうとする。おれんが戻って来たので、彼女は刀を突き付けた。おれんは「お前が欲しがってる者は地獄が持ってるよ。お前とは必ず決着を付けてやるからね」と告げ、その場を去った。
お蝶はおれんの使いと称して柿崎と会い、千太郎の居場所を教える代わりに帯締めを譲ってほしいと持ち掛けた。柿崎が拒否すると、お蝶は彼を殺して帯締めを奪った。用済みになった千太郎を逃がしてやった直後、お蝶は黒装束の男に襲撃された。お蝶は相手が源四郎だと確信する。格闘の中で、帯締めは半分に切れてしまった。男は切れた半分を握り締め、その場から逃走した。お蝶は残り半分を入手するため、女のために寝返った伝蔵一家の子分・音止の安と手を組む…。

監督は五社英雄、原作は五社英雄&森幸太郎(週刊サンケイ連載)、脚本は古田求、製作は升本喜年&遠藤武志&西岡善信&宮島秀司、プロデューサーは徳田良雄、撮影は森田富士郎、美術は西岡善信、照明は中岡源権、編集は市田勇、録音は大谷巖、手話指導は熊谷真実、振付は山崎浩子、殺陣は菊地竜志、特技は宍戸大全、音楽は佐藤勝。
主題歌「AGAINST THE WIND」作詞:世良公則&松井五郎、作曲 唄:世良公則。
出演は石原真理子(現・石原真理)、世良公則、渡瀬恒彦、夏木マリ、川谷拓三、地井武男、小澤栄太郎、高樹澪、ピーター、佳那晃子、加藤健一、萩原流行、高田純次、竹中直人、片桐竜次、安岡力也、阿藤海(阿藤快)、隈本吉成、篠塚勝、笑福亭鶴光、小林昭二、松野健一、佐藤京一、伊吹聰太朗、福本清三、有川正治、山本一郎、奈辺悟、谷崎弘一、東悦次、飯島大介、橋本和博、諸木淳郎、小舟秋夫、徳永明廣、松尾勝人、佐藤美鈴、和田かつら、香住美弥子、悠木江美、竹中直子、池ノ内美紀、明日香尚、和田京子ら。


週刊サンケイで連載されていた同名劇画を基にした作品。
監督は原作者でもある『櫂』『薄化粧』の五社英雄、脚本は『危険な女たち』『薄化粧』の古田求。
お蝶&お咲役の石原真理子(現・石原真理)は、これが映画初主演。
源四郎を世良公則、孫兵衛を渡瀬恒彦、おれんを夏木マリ、弥助を川谷拓三、伝蔵を地井武男、周防守を小澤栄太郎、花絵を高樹澪、千太郎をピーター、おちかを佳那晃子、佐吉を加藤健一、おれんの手下・仙蔵を萩原流行、安を高田純次、柿崎を竹中直人、半次を笑福亭鶴光が演じている。

この映画の最大の欠点は後に置いておくとして、その前に順を追って気になる点を列挙していこう。
まず序盤、3人の犯罪者の罪状が説明されるのだが、乙松は遺恨で主人を殺そうとして怪我を負わせた罪、勘八は人家に押し入っての強盗殺人、弥助は犯罪者を匿って盗品を配分していた罪と、全員が斬罪なんだけど、かなりの差がある。
乙松と弥助はともかく、勘八を殺さずに善玉として使うってのは、やや危険な気がするんだよな。
一方で乙松と弥助に関しては、能力的に影十手としてはどうかと感じるし。

そこでは気になることがもう1つあって、それは孫兵衛の喋り方。
「テメエたちをもう一度ブチ殺すのはワケはねえ。だがテメエたちがもう一度息吹き返して御役に立とうってんなら、その十手取んな。そうすりゃ、その十手がテメエたちの命を拾ってくれる。ねっきりはっきりこれっきり、テメエたちに残された道は2つっきり」などと、べらんめえ口調でヤクザみたいに喋る。
だけど、そこに違和感を抱いてしまうんだよなあ。
そこは、むしろ「いかにも役人」という口調でクールに喋らせた方が雰囲気が出るように思える。

構成としても、「影十手」とは何ぞやという説明が薄くて、ちょっと慌ただしい印象を受ける。
そりゃあ、お蝶を早い段階で登場させる必要があるから、そこまでの手順に多くの時間を掛けていられないという事情は分かる。だけどね、それを考えると、そもそも乙松たちが影十手に選ばれるシーンから始める必要があったのかと思ってしまうのよ。
それ以降も弥助たちが活躍するのならともかく、そうではない。だったら、もう始まった段階で弥助たちが影十手として活動している状態にして、例えばナレーションか何かで「影十手とは何か」について説明するような入り方をしても良かったんじゃないかと。
ぶっちゃけ、捕縛された弥助たちが斬罪に見せ掛けて生かされるシーンから始めている意味って、何も無いでしょ。

弥助がお蝶と遭遇した時、驚いた彼の「おめえは、俺の、俺の娘じゃねえか」という声が聞こえて来る。その後、場所を移動した弥助は、お咲と出会った頃のことをお蝶に話す。
しかし彼は冒頭で孫兵衛に喉を切られているので、声を出せるはずがない。
だから、そこで流れて来るのは彼の心の声なのかと思ったが、そうではなかった。喋れないはずなのに、なぜかお蝶と会話が通じているのだ。
どういうことかと思ったら、それは「弥助が手話で伝えている内容が、モノローグとして表現されている」という演出だった。でもハッキリ言って、かなり不細工な演出だ。手話で伝えているなら、スーパーインポーズで文字を出した方がいい。

っていうか、手話で簡単に通じちゃうのなら、「喉を切られて声が出せない」という設定の意味が薄いでしょうに。「言葉を話せないから、伝えたいことも充分に伝えられない」というところで、苦悩や悲哀に繋がるように作るべきだろうに。
あと、どうせ手話で話せるから情報を伝えることも可能なわけで、だから情報漏洩を防ぐという意味も無い。「表のことは御法度だ」として喉を切っているけど、喉を切ったから表のことは御法度になるわけでもないし。
ぶっちゃけ、喉を切った意味ってホントに何も無いんだよな。
ただ単に、手話の内容をモノローグで表現するという不細工な形が残っただけ。
そんなの何のメリットも無いわ。普通に喋らせた方がいいでしょ。

影十手は町奉行も手が出せない悪党を秘密裏に葬る殺し屋稼業のはずなのに、なぜか旗本の次男坊の時は始末せずに捕縛するだけになっている。
それは影十手のやるべき仕事じゃないだろ。
しかも、それから10年後に次男坊が島抜けすると孫兵衛は弥助に仕事を命じ、「女房と子供がいるので勘弁してほしい」と頼まれると「10年、俺は黙って夢を見せた」と言うんだけど、なんで影十手が影十手であることを完全に忘れて家族を作ったのに、それを10年間も黙認しているのかと。

弥助に捨てられた母が死んで、お蝶が復讐心を募らせるのは分かる。だけど、「そのために殺しの腕を磨く」ってのは、かなり無茶のある設定だ。ただの小娘が、どうやって殺しの腕を磨くのかと。
で、殺しの腕を磨いた方法については、何も教えてくれないんだよな。
どうせ彼女がヒロインなんだから、だったら最初から彼女を影十手として登場させてしまえばいいのに。
なんか色々と無駄な手間が多すぎて、それが話をモタモタした印象にしてしまっているぞ。
しかも、復讐心を抱いていたはずなのに、なぜか目の前に現れた弥助を殺そうとせず、「苦しみな」と告げて走り去っちゃうし、何がしたいのかと。

弥助が娘のために影十手を辞めたいと願い出たり、娘を人質に取られて苦悩したりするのは理解できる。しかし、乙松と勘八が弥助と一緒に自分たちも見捨ててほしいと願い出たり、お蝶が人質に取られているのを見て動きが止まったりするのは、まるで意味不明だ。
お前らはお蝶と何の関係も無いだろうに。弥助のことを考えているのか。情にほだされたのか。
だとしたら、そんな奴らは影十手として失格だろう。
弥助が家族のせいで冷淡な殺し屋に成り切れないのはいいとして、他の2人が同調するのは解せないだけでなく、キャラの動かし方としても上手くないぞ。
そんなことをしたら、弥助の「影十手らしからぬ人間味」という特殊性が消えちゃうだろうに。

屋敷に乗り込んだ弥助たちが武器を捨てろと伝蔵に要求された途端にカットが切り替わり、おりんだけが画面に写る。そして、おりんがラテン調の音楽に合わせ、激しく踊り出す。
何の意味があるんだろうと思っていたらカットが切り替わり、乙松が拷問を受けている様子が写し出される。
いや、だからさ、おりんのダンスは何だったんだよ。そこから何か展開があるのかと思ったら、何も無いのかよ。ただアイキャッチ的に挿入しただけなのかよ。
ワケが分からんわ、その演出。

孫兵衛はお蝶に源四郎や周防守のことを説明し、「周防守を今の地位から叩き落とすため、動かぬ証拠として海渡赦免状を手に入れろ」と命じる。ってことは、今回も相手を始末するのが仕事じゃないんだよね。
だけどさ、そういうのって、わざわざ「影十手」がやるべき仕事なのかと思ってしまうんだよなあ。
そりゃあ、奉行所が堂々と動くことは無理だけど、それだけデカい問題だったら幕府だって問題視しているはずで、それなら御庭番のような連中が動けばいいんじゃないかと思ってしまう。
奉行所レベルで対処するような事件じゃないでしょ。仮に海渡赦免状を手に入れても、相手が藩主だったら、奉行所の力では及ばないと思うぞ。

あと、海渡赦免状を手に入れたからって、「そんなの知らんわ」とか「俺の物じゃない」と言われたら、それ以上の追及は無理でしょ。
っていうか、なんで偽の海渡赦免状を発行する意味があるのかってことからして引っ掛かるんだよな。海渡赦免状をを出す権利を周防守が持っているのなら、本物の海渡赦免状を発行すればいいわけで。
それと、海渡赦免状を出している時点で、「浜田藩と源四郎は無関係」なんて説明は通用しなくなるわけで、だったら表向きに無関係を装っている意味は無いよな。
それと、なんで源四郎が海渡赦免状を帯締めに隠しているのか良く分からん。それは仕事に必要な免状のはずなんだから、そんなトコに隠すのは変だろ。

柿崎が「千太郎の居場所が分かったら教えてくれ」と告げて陰間茶屋を去り、隠れていた佐吉が立ち上がり、おれんがニヤリとすると、弥助たちが武器を捨てろと伝蔵に要求された時と同じような展開になる。
つまり、カットが切り替わり、おれんがスモークとライティングの中でラテンのリズムに合わせて踊りまくるのである。
いや、だからさ、それって何なのよ。
これがコメディー映画ならともかく、たぶん監督はマジな映画として作ってるはずだよね。それにしては、そこは「おバカな喜劇映画」のノリしか感じないぞ。

そのダンスからカットが切り替わると、源四郎は柿崎に帯締めを返してほしいと頼むシーンになる。
もう登場した時からクドさがプンプンしていた竹中直人だが、ここでは完全にリミッターが外れてしまい、本人が得意とするブルース・リーの形態模写を感じさせるような怪鳥音まで発する。
ここは注意すれば止めることも出来たわけだから、たぶん監督も「それでOK」ってことだったんだろう。しかし、明らかに竹中直人の芝居は浮いており、クセが強すぎる彼の悪い部分ばかりが目立つ羽目になっている。
この映画はシリアスな正統派の時代劇じゃないから、荒唐無稽なノリを入れるのは別にいい。ただ、この映画が目指すべき荒唐無稽って、そういうことじゃないのよ。最初からコミカルさを狙うようなノリは明らかに間違いで、「荒唐無稽を真面目にやる」ということが必要なのよ。

おれんが「お前が欲しがってる者は地獄が持ってるよ。お前とは必ず決着を付けてやるからね」と告げて去った直後、カットが切り替わる。
これまでのパターンであれば、何の脈絡も無く、おれんが唐突に踊り出す展開になるところだ。
しかし今回は、お蝶がリボンを使って新体操のダンスを披露する。流れる音楽も、背景のパターンも異なる。
ただし、「何の意味があるのか」と思わせる演出であることには変わりが無い。
ホント、その踊りのシーンが入る度に、脱力感がハンパないぞ。

お蝶が影十手になってからは、「色んな奴らが渡海赦免状の仕込んである帯締めを狙う」という構図になる。
「大勢の連中が同じ物品を奪い合う」というのは、昔から時代劇映画では良く使われてきたパターンだ。しかし、この映画では、それが逆に見事だと思うぐらい、まるで上手く機能していない。
なぜなら、「さっさと柿崎を殺すなり拘束するなりして奪い取ればいいじゃねえか」と思ってしまうからだ。
それが出来ない連中じゃないはずでしょ。悪党の連中は、柿崎を殺すなんて屁でもないはず。「相手が同心だから遠慮する」というのは、何の理由にもならない。
ようするに、柿崎が無駄に存在感をアピールしすぎなのよ。こんな奴、ホントは殺害現場から帯締めを持ち去った後、あっさりと始末されるなり、帯締めを奪われるなりしていい程度のキャラなのよ。「影十手と悪党一味」という対立の構図には全く無関係なのに、出番が多すぎるわ。

後半に入り、帯締めの半分だけを手に入れたお蝶が手を組む相手として、音止の安という男が登場する。
そこに来てお蝶の新しい仲間を初登場させるのは、キャラクターの出し入れとして明らかに上手くない。前半から登場させておいても何の支障も無いし、そっちの方が遥かにスムーズだ。安は「惚れている盲目の女のために仕事をする」ってなことを語るけど、彼も盲目の女も初登場だから、まるで心に響くモノが無いし。
そこに限らず、この作品、古い香港映画みたいに作りながら話を考えているのかと思うほど、行き当たりばったり感が強いぞ。
で、お蝶と安が喋った後、おれんの踊りがまた挿入されるし、何なのかと。

終盤に入ると浜田藩の刺客たちが介入し、佐吉を始末する。おれんは「帯締めの半分は私が持っていて、残り半分も手に入れてあげる」と持ち掛けて命乞いし、お蝶を誘い出す。
それより前から源四郎は「からくり屋敷に匿われている」ということで画面から消えており、佐吉も退場したことで、お蝶の戦う相手でハッキリとした輪郭を持っているキャラは、おれんだけになってしまう。
浜田藩の刺客たちに関しては、今さら介入されても、お蝶の敵としては力不足。
そりゃあ、おれんの存在感は、それまでから強かったよ。だが、それにしても、巨悪を相手にしていたはずなのに、おれんがボスのような扱いになっちゃうのは違うでしょ。

しかも、その後には藩に見捨てられて処分されそうになった源四郎をお蝶が救う展開まである。松平周防守と並ぶ巨悪のツートップだったはずの源四郎がそこに来て善玉サイドになってしまう。
そりゃあ、それ以前から悪玉にしては情けない感じだったけど、それにしてもお蝶が助ける展開はヘナヘナだわ。おとなしく一味に始末されればいいのよ。
それと、そこに来て急に浜田藩家老が登場し、ボスのポジションに座るんだけど、それもキャラクターの出し入れとして下手すぎるわ。
急に登場して「ボスでござい」というツラをされても、そんなのは簡単に受け入れられんよ。

しかも、浜田藩家老がホントにボスとして、お蝶の前に立ちはだかるわけではない。浜田藩の連中は、おれんを始末しようとして彼女の一味と戦いになる。
その後、なぜか取引が成立したらしく、浜田藩の連中は金を用意して渡海赦免状を引き取ろうとするが、おれんは火を放って皆殺しにしてしまう。
だからお蝶が最後に戦う敵は浜田藩ではなく、おれん一味になるのだ。
序盤で用意された構図から、完全にピントがズレてしまっている。
上手くズラすことが出来ていれば良かったのかもしれんけど、すんげえギクシャクしてるぞ。

しかも主役であるはずのお蝶は、浜田藩の連中を相手に回しての戦いに参加できず、完全にカヤの外。その後で3人の刺客を始末することはやっているけど、おれん&仙蔵との戦いは時間も短く、全く盛り上がらない。
しかも、おれんを殺すのはお蝶じゃなくて源四郎だ。
それ以前から、お蝶はヒロインのはずなのに出番が少なく、存在感も薄かった。
そのまま終わらせると、おれんが主人公みたいになっちゃうということで、さすがにマズいと思ったのか、最後になって「お前は知り過ぎた」と孫兵衛がお蝶を殺そうとして戦いになるという展開があるが、あまりに唐突で取って付けた感がハンパない。

しかし、おれんが主人公のようになってしまい、お蝶の存在感が薄く、戦闘シーンでの活躍も乏しいという仕上がりになってしまったのは、後回しにしていた「この映画が抱える最大の欠点」に関係しているんじゃないかと思う。
その欠点とは、石原真理子を主演に起用したことである。
五社英雄と言えば「強い女」を描くのが得意な監督だが、なぜ彼女を起用したのか理解に苦しむ。
石原真理子は『櫂』にも出演していたから、どういう女優なのかは分かっていたはずなのに。

石原真理子は、「強い女」とは全く異なるタイプである以前に、そもそも演技力が全く足りていない。もちろん格闘シーンでキレのいい動きを見せることも出来ない。
何をトチ狂ったのか主演に抜擢してしまった五社監督も、たぶん撮り始めてから「こりゃヤバいぞ」と気付いたんじゃないだろうか。
だから、夏木マリの出番を増やし、石原真理子の出番を減らして、その結果としてバランスがおかしなことになってしまったんじゃないだろうか。
まあ、そうだとしても、そんなのは何の赦免状にもならないけど。

(観賞日:2014年11月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会