『次郎長三国志』:2008、日本

清水次郎長とお蝶の婚礼が小料理屋で開かれ、子分の大政、桶屋の鬼吉、関東綱五郎、それに江尻の大熊と和田島の太左衛門夫婦も出席した。だが、役人が小料理屋に迫って来る音に、次郎長たちは気付いていた。次郎長一家は婚礼の前に、津向の文吉親分の元を訪れていた。津向一家は和田島一家と出入りになっていた。文吉が可愛がっていた女を、太左衛門がかどわかしたというのだ。しかし次郎長は、それが三馬政の企みによるものだと文吉に教えた。
次郎長が文吉と話していると、法印大五郎という男がやって来た。彼は自分の女を三馬政にかどわかされ、恨みを抱いていることを話した。文吉は次郎長の言葉を信じ、彼に喧嘩を預けた。すると三馬政は川に死体を浮かべ、次郎長が出入りをすると嘘をついて役人を動かしていたのだ。祝宴の場に法印が駆け込み、役人が店に迫っていることを知らせた。次郎長は太左衛門にお蝶のことを任せ、旅に出ることにした。子分を引き連れて店を出た彼は、役人たちを蹴散らして逃亡した。
清水港にやって来た大野の鶴吉は、お蝶に声を掛けて口説き落とそうとする。そこへ次郎長一家が戻って来た。次郎長一家には、石松という新しい子分が加わっていた。お蝶の夫が次郎長と知り、鶴吉は腰を抜かした。そこへ鶴吉の女房・おきんが現れ、彼を叱り付けた。鶴吉は次郎長に、草鞋を脱ぎたいと申し入れた。次郎長はお蝶の兄である大熊の元へ挨拶に出向き、甲州で祐典仙之助という貸元が売り出していることについて尋ねる。すると大熊は、祐典の背後に猿屋の勘助、そのまた背後に黒駒の勝蔵がいることを語った。
石松と旅先で道連れになって追分政五郎という男が、次郎長一家を訪ねて来た。政五郎は次郎長に、赤鬼の金平の元から連れて来た大勢の相撲取りを紹介した。政五郎は次郎長に、興行を打った金平が金を支払ってくれなかったので連れて来たことを話す。頭取の久六は、空腹な仲間たちに食事を与えて欲しいと頼んだ。次郎長は政五郎から、相撲の興行を打つよう促した。次郎長は久六たちを助けて親身になって動いてやった政五郎を、本物の渡世人だと褒め称えた。
石松は極度の吃音だが、政五郎だけは彼の言葉が理解できた。そこで次郎長一家は彼に通訳してもらい、石松の話を聞くことにした。石松は旅の途中だった一家の前に立ちはだかり、次郎長に勝負を要求していた。その行動について質問された石松は、小川の武一から次郎長のことを聞き、剣を教わりたかったのだと説明した。武一は次郎長にとって、刀の先生に当たる人物だった。石松は剣を習いたいのは、恨みを晴らすためだった。彼は親分である森の伝六の娘・おしまに惚れていた。おしまは結婚を嫌がり、石松を連れて駆け落ちした。だが、すぐに石松は捨てられた。おしまには他に惚れた相手がいたからだ。その相手とは、三馬政だった。
相撲興行を取り仕切った次郎長は、大政の勧めで花会を催した。大勢の親分衆が集まる中、勝蔵も姿を見せた。賭場で壺を振っている投げ節お仲に、勝蔵は興味を示した。金平一家が清水港へ乗り込んで来たのを知った政五郎は、売上金を持って逃亡した。追い掛けた石松が引き留めようとしていると、金平一家が取り囲んだ。政五郎が逃げ出し、石松は一家と刀を交える羽目になった。石松に叩きのめされた金平一家は、次郎長の家に怒鳴り込んだ。政五郎は金平一家でも興行の金を持ち逃げしていたのだった。そこへ久六が現れ、金平が金を出し渋ったので自分たちのために持ち逃げしてくれたのだと、政五郎を擁護した。
政五郎は湯治場でお仲と出会い、次郎長の元に戻って来た。反省の様子を示す政五郎に対し、次郎長は男になりたければ旅に出ろと命じた。政五郎は法印に、旅先で出会ったおやまという大柄な女が会いたがっていたことを教えた。すぐに法印は、それが三馬政に奪われた女・おだんだと悟った。次郎長は政五郎に、法印を案内してやるよう頼んだ。お蝶は法印に金を渡し、おだんを身請けするよう促した。だが、おだんの元から戻って来た法印は、彼女が自分に看取られて息絶えたことを語った。
大熊が次郎長の家に駆け込み、祐典一家が金平と手を組み、甲州の賭場を奪ったことを知らせる。甲州には三馬政もいる。次郎長は一家を率いて甲州へ乗り込み、三馬政を斬ると決意した。すると大熊は、お蝶も一緒に連れて行くよう求めた。甲州へ向かった次郎長一家はお仲と遭遇し、力になろうとして祐典一家を探っていた政五郎が捕まったことを知らせた。祐典や金平は次郎長一家が退却したという知らせを受け、宴を開こうとする。一緒にいた勝蔵は三馬政を残し、甲州を去ることにした。
次郎長一家は変装して祐典一家に乗り込み、政五郎を救出する。戦いの中で、石松は左目を斬られていた。政五郎は次郎長から「小政」と呼ばれ、嬉しくなった。鶴吉は竹林で待っていたお蝶とお仲の元へ行き、結果を報告する。だが、そこに三馬政が現れて鶴吉を斬った。三馬政はお蝶とお仲を人質に取って次郎長一家の前に現れ、刀を捨てろと脅す。しかし隙を見せたことで形勢が逆転し、三馬政は逃亡した。鶴吉を看取った次郎長は、おきんから非難され、「金輪際、喧嘩はしない」と誓った。
お蝶が病に倒れたため、次郎長一家は二足草鞋を履いている久六の家で面倒を見てもらうことにした。久六の女房・お駒は、夫の前でも平気で三馬政に抱かれるような女だった。次郎長の兄弟分である沼津の佐太郎が、久六の屋敷を訪れた。佐太郎は次郎長に、命を狙われていることを教えた。次郎長一家は久六の屋敷を立ち去るが、待ち伏せていた三馬政の発砲を受けてお蝶が傷付いた。三馬政や役人たちを追い払った次郎長一家を、佐太郎は女房・お園と共に暮らす家へと連れて行く…。

監督はマキノ雅彦、原作は村上元三(角川文庫)、脚本は大森寿美男、企画・製作は鈴木光、製作は川城和実&杉田成道&井上泰一、プロデューサーは坂本忠久、撮影は加藤雄大、美術は小澤秀高、照明は西表燈光、録音は阿部茂、編集は田中愼二、殺陣は玄海竜二、三味線指導は本條秀太郎、踊り指導は猿若清三郎、殺陣は島口哲朗、音楽は宇崎竜童、音楽プロデューサーは長崎行男。
主題歌は『旅姿三人男』宇崎竜童、作詞:宮本旅人、作曲:鈴木哲夫、編曲:宇崎竜童。
挿入歌『ちゃっきり節』歌唱:高岡早紀、作詞:北原白秋、作曲:町田嘉章。
出演は中井貴一、鈴木京香、岸部一徳、佐藤浩市、木村佳乃、大友康平、竹内力、北村一輝、温水洋一、近藤芳正、笹野高史、高岡早紀、荻野目慶子、蛭子能収、木下ほうか、山中聡、真由子、春田純一、玄海竜二、上杉祥三、浅見小四郎、ともさかりえ、いしのようこ、とよた真帆、前田亜季、竹脇無我、朝丘雪路、浅利香津代、烏丸せつこ、高知東生、本田博太郎、寺田農、螢雪次朗、西岡徳馬、梅津栄、勝野洋、六平直政、仙波和之、草村礼子、長門裕之、ユキリョウイチ、田中章、川井つと、西村覚、神木優、古村隼人、須田邦裕、七海智哉、島口哲朗、片岡長次郎、田中あきはる、橘小竜丸、宗像拓郎、葦月照師、河口博昭、坂井映二、福田高士ら。


マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』を、甥である津川雅彦が「マキノ雅彦」の名義で撮った監督2作目。
脚本は『寝ずの番』でも津川と組んだ大森寿美男。
次郎長を中井貴一、お蝶を鈴木京香、勝蔵を佐藤浩市、大政を岸部一徳、法印を笹野高史、政五郎を北村一輝、石松を温水洋一、鬼吉を近藤芳正、綱五郎を山中聡、鶴吉を木下ほうか、佐太郎を大友康平、お仲を高岡早紀、お園を木村佳乃、三馬政を竹内力、鬼吉の両親を長門裕之&草村礼子、久六を蛭子能収が演じている。

マキノ雅弘監督は1952年から1954年に掛けて東宝で『次郎長三国志』シリーズを第9部まで撮っているが、1960年代に入って東映で全4作のリメイク版を手掛けており、他にも『若き日の次郎長』シリーズ全4作、『次郎長遊侠伝』シリーズ全2作など、次郎長が登場する映画を数多く撮っている。マキノと言えば次郎長、次郎長と言えばマキノという感じの人だ。
だから津川雅彦が「次郎長もの」を撮りたいと考えるのは、分からないではない。
ただ、『次郎長三国志』をリメイクするというのは、企画の段階で間違っていると言わざるを得ない。
前述したように、東宝版では第9部まであった長いシリーズであり(しかも物語は完結していない)、それを1本にまとめるってのは無謀すぎる。
どこか一部分を抽出するということなら分からないでもないが、そうではないんだよね。

さすがに最初から最後まで収めようとはしていないが、お蝶の死が描かれるのは東宝版の第6作だから、3分の2ぐらいは消化しようとしている。
それは無理だよ。
126分しか無いのに、その中で「お蝶と結婚した次郎長が一家が率いて売り出し、石松と鶴吉が子分に加わり、相撲の興行を仕切り、花会でお仲が登場し、金平一家が怒鳴り込んで来て、金を持ち逃げした政五郎が戻り、法印が惚れていた女を看取り、祐典への殴り込みで石松が隻眼になり、鶴吉が三馬政に斬られ、次郎長が喧嘩はしないと誓い、久六が裏切り、お蝶が三馬政に撃たれ、お園が佐太郎に自分を売って金を工面するよう勧め、大政が元女房・おぬいから金を受け取り、お蝶が息を引き取り、次郎長一家が三馬政を斬るために久六の屋敷へ乗り込む」というのを描くのは、明らかに詰め込み過ぎ。
それに、ここに記した以外のエピソードもあるからね。

いっそのこと、もう次郎長一家が勢揃いしている状態から物語を始めてしまえばいいものを、そこは3人しか子分がいない状態から始めて「順番に仲間が加わって行く」という手順を踏んでいる。
ところが時間が無いので、それぞれの子分たちが加わる際、そこのドラマに厚みを持たせることが出来ないし、キャラクター紹介を充実させることも出来ない。
段取りとして「こんな奴が加わりました」というのを処理するだけで精一杯になっており、全てのキャラクターは薄っぺらくて魅力に欠ける状態になっている。

時間が足りないせいで、「追分政五郎」という謎の人物まで登場してしまう。
本来、「追分」と来れば「三五郎」であり、「政五郎」とは「小政」のことだ。
どうしても小政と追分三五郎の2人を登場させたくて(つまり、それぞれが関与するエピソードが描きたくて)、合体させてしまったということらしい。
だけど、そんな半端なことをするぐらいなら、やはり片方を削るべきだった。それが嫌なら、他の子分を削ってしまうとかさ。

無理な作業を強引に進めたもんだから、当然のことながら物語を端折りまくり、「ツギハギだらけのダイジェスト版」といった状態に仕上がっている。
既に冒頭シーンからして慌ただしい。
いきなり婚礼の宴から始まっており、次郎長とお蝶や大熊といった面々とのドラマを描くことも出来ず、そいつらの紹介も雑に済ませて、逃亡する展開へ移行する。そして逃亡したと思ったら、タイトルバックが終わると、もう戻って来てしまう。
そして旅から戻ると、いつの間にやら石松が加わっている。

次郎長一家が旅先で石松と出会ったエピソードについては、後から回想シーンとして描かれるが、構成としては不格好。
しかも、せめて「次郎長一家が戻って来ると、石松が加わっている」というのを見せたら、その流れで「旅先で何があったのか」を説明すべきだろうに、
回想シーンまでに「鶴吉の登場」「おきんの登場」「政五郎の登場」という手順を処理しなきゃいけなくなっている。
そのせいで話の流れが悪くなり、エピソードが散らかっている印象が強くなっている。

そこに限らず、全体を通して、とっ散らかっている印象を受ける。そして1つ1つのエピソードが薄っぺらく、どんどん次へ進んでいく。
無理に2つのキャラをまとめてまで盛り込んだ政五郎の絡むエピソードなんて、むしろバッサリと削ってしまってもいい。
法印がおだんを看取るシーンにしても、戻って来た彼の台詞で説明するだけで、該当するシーンをドラマとして描かないのなら、バッサリと削るべき。
そこを感動的なシーンとして盛り上げようとしているけど、後から「こんなことがありまして」と台詞で説明するだけでは、こっちの心は何も揺り動かされない。
しかも余韻もへったくれもなく、すぐに大熊が来て次の展開に移るし。

鶴吉の死も雑に処理されており、悲劇性がイマイチ高まらない。
だから、その死を知ったおきんに責められた次郎長が、もう二度と喧嘩はしないと誓うのだが、その展開にも引き付けられるモノを感じない。
しかも、彼に決意させるきっかけとなる重要な役回りを受け持つのは、監督が身内びいきで起用している娘の真由子。
他の面々と比べて明らかに見劣りしているのだが、縁故採用のため、不必要に扱いが大きくなっている。
そういうことも含めて、そのシーンに気持ちが高まらない(ちなみに東宝版だと、次郎長が喧嘩御法度を誓うきっかけは豚松の死を受けて母親が口にする言葉だが、このリメイク版では豚松が登場しない)。

次郎長が世話をしてやった久六が二足草鞋の親分として再登場するってことは、それまでに随分と年月が経過しているはずだ。しかし映画を見ていても、月日の経過ってのは全く伝わらない。
また、その久六が次郎長を裏切る理由がサッパリ分からないし、いつ頃から裏切るつもりだったのかも分からない。
その久六の屋敷を一家が去った後、待ち伏せていた三馬政がお蝶を撃つ理由は意味不明。次郎長を狙って誤射したのならともかく、彼女を狙って撃ったようにしか見えない。
それと、その三馬政が映画のラスボス扱いなのだが、ただの女好きのゴロツキにしか見えない。ラスボスとしては、キャラ造形が弱すぎる。

配役にもおおいに問題がある。
この映画に登場する次郎長は、「これから全国的に売り出していく」という時代だから、まだ若き親分だ。
しかし封切当時、中井貴一が47歳、岸部一徳が61歳、北村一輝が39歳、温水洋一が44歳、近藤芳正が47歳、笹野高史が60歳、木下ほうかが44歳、山中聡が36歳。みんな年を取り過ぎている。
次郎長が47歳だったら、もう全国的に名の轟いた大親分じゃないとマズいぞ。
中井貴一が若く見えるとか、メイクで若く見せているとか、そういうことなら分からんでもないが、年相応に老けているからね。お蝶は「町娘」の雰囲気であるべきなのに、鈴木京香は40歳だから、その年で「新婚の若妻」ってのも変だし。
ちなみに東宝版だと、次郎長役の小堀明男はシリーズ1作目の時点で32歳。東映版の鶴田浩二でも、まだ38歳だった。

マキノ雅弘監督が『次郎長三国志』を撮っていた1950年代や1960年代であれば、映画を見る人の大多数は「次郎長もの」について詳しく知っていた。
次郎長と子分たちのキャラクターも、次郎長に関わる人物たちも、次郎長にまつわる数々の物語も、ちゃんとした予備知識を持ち合わせていた。
だから、それほど丁寧に時間を割いて説明しなくても、Aがどんな人物なのか、AとBはどういう関係なのか、そこはどういうシーンなのかってのは、理解できた。
しかし今の観客は、次郎長をあまり良く知らないという人も少なくないだろう。

そういう人々に『次郎長三国志』を見てもらおうとすれば、それなりの説明が必要になる。
しかし、詳しく説明しているとテンポが悪くなるし、おまけに時間の余裕が無い。
一方で説明を省くと、観客が話に付いて行けず置き去りになってしまう恐れがある。
で、津川雅彦がどうやったかというと、どうやら「そこまで考える余裕は無かった」ということなんだろうと推測される。
キャラ紹介や状況説明はバッサリと削ぎ落とされているが、それでテンポが小気味よくなっているわけではなくて、前述したようにツギハギ感が強くなっているだけだ。

「次郎長もの」を撮るにしても、『次郎長三国志』ではなく、何か別の作品にするか、あるいはオリジナル脚本を用意すれば良かったのだ。
どうしても『次郎長三国志』をリメイクしたいのであれば、やはり何本かのシリーズにするしか手は無いだろう。
だから1作目では序盤だけを映画化して、ヒットすれば続編を作る、という形で行くべきではなかったか。
それが難しいのであれば、TVドラマとして企画を持ち込むぐらいしか無いんじゃないか。
でも、諸々を考えると、やはり『次郎長三国志』のリメイクという企画は厳しいかな。

(観賞日:2014年1月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会