『十五才 学校IV』:2000、日本

横浜郊外に住む中学三年生の川島大介は、半年前から学校に行かなくなった。ある日、彼は両親に内緒で、九州・屋久島の縄文杉を目指してヒッチハイクの旅に出掛けることにした。小型ワゴン車に乗せてもらった大介だが、運転手の児玉と口論になって車を降りる。
次に大介は佐々木が運転して宮本が同乗している大型トラックに乗せてもらい、大阪まで辿り着く。大阪で大介は大庭すみれの運転する長距離トラックに乗せてもらい、九州を目指す。すみれに尋ねられ、大介は少しずつ学校に行っていないことなどを話し始めた。
トラックは宮崎に到着し、すみれは大介を自宅に招く。すみれには引きこもっている息子・登がいた。大介と登は親しくなり、様々なことを語り合う。屋久島に渡った大介は登山客の金井真知子と出会い、彼女に励まされながら縄文杉まで辿り着いた。
山を降りた大介だが、天候が悪化して道に迷ってしまう。彼は集落に辿り着き、一人暮しをしている畑鉄男という老人の家に泊めてもらうことになった。老人は長男の満男から同居の申し出を受けていたが、断っていた。翌朝、大介が家を出ようとすると、鉄男の具合が急に悪化した…。

監督は山田洋次、原案は松本創、脚本は山田洋次&朝間義隆&平松恵美子、製作代表は大谷信義&氏家齋一郎&宮原賢次&角川歴彦&宮川智雄、製作は迫本淳一、プロデューサーは中川滋弘&深澤宏、撮影は長沼六男、編集は石井厳、録音は岸田和美、照明は吉角荘介、美術は出川三男、衣裳は本間邦仁、音楽は冨田勲、音楽プロデューサーは小野寺重之、主題歌はゆず。
出演は金井勇太、麻実れい、赤井英和、秋野暢子、小林稔侍、高田聖子、丹波哲郎、笹野高史、梅垣義明、大沢龍太郎、前田吟、中村梅雀、犬塚弘、桜井センリ、蛭子能収、皆川香澄、野村恵里、真柄佳奈子、児玉真菜、桜むつ子、佐藤蛾次郎、余貴美子ら。


山田洋次という監督は、きっと「分かりやすいキャラクターによる分かりやすい物語」しか描けない人なんだろう。それなのに、単純に解決することは不可能な問題を描き出そうとするから、どうしても無理が生じてしまう。
その結果、予定調和の薄っぺらい偽善ドラマが完成したわけだ。

大介は「なぜ学校へ行かなければいけないのか」と考えている。
しかし、それは登校拒否の理由としては希薄である。
「学校が面白くない、行く必要なんか無い」と考える子供というのは少なくないはずだが、そう考える全ての子供が登校拒否になるわけではないのだ。

だとすれば、この映画では「大介が学校に行かなくなったことは仕方が無い」と観客に思わせる設定が必要だったのではないだろうか。
しかし、観客は「なぜ大介が学校に行かないのか」という理由を知らされない。
知らされないまま、映画に入り込むことを要求される。
それは非常に難しい作業と言える。

劇中では、主人公が旅をすることが学校の役割を果たすという形になっている。
しかし、だとするならば、最初に提示された「なぜ学校へ行かなければいけないのか」という主人公の疑問に対する答えは、「別に行かなくても構わない」ということになりはしないか。そして、そうなってしまったらダメなのではないか。

結局、この作品で主人公の心を変化させたのは、旅の途中で出会った人々との触れ合いである。いわゆる校舎の存在する学校や、そこで教える教師、さらに両親でさえも、主人公を救うことは出来ていない。
少年の疑問に対して、学校や両親は完全に無力なのだ。

ということは、主人公は旅から戻って学校に通い始めたとしても、また同じ疑問を抱くことになるのではないか。すぐに再び登校拒否になるのではないか。
山田洋次監督は、現実の問題を描こうとしたのかもしれない。
が、ここにあるのは彼の理想であって、現実ではない。

本当に深刻な問題を抱えている子供というのは、この作品の出発点まで辿り着けないから、悩み苦しんでいるのではないだろうか。
つまり、これは子供達の抱える問題とは無縁の人々に「分かったようなフリ」をさせるという結果しか生み出さない作品なのではないだろうか。

そもそも、この作品を見て何かを感じ取ることが出来るような人というのは、この作品を見なくても行動が可能な人だろう。
この作品が教育問題を全く解決できない文部省から特選映画に指定されるということは、つまり今作品が現実を見ていないということの表れではないだろうか。

 

*ポンコツ映画愛護協会