『サイレン FORBIDDEN SIREN』:2006、日本

1590年、アメリカのロアノーク島で島民全員が失踪する事件が発生した。島には乱闘の跡も無く、手掛かりは一軒の家の柱に残された 「Croatan」という文字だけだった。1872年、大西洋。かつて海上で失踪したマリー・セレスト号が発見されるが、乗組員の姿は無かった。 船室に残された航海日誌には、「12月4日 我が妻マリーが」という書き掛けの文章が残されていた。
1976年、夜美島。嵐の夜に、レスキュー隊が住民の救出へと駆け付けた。しかし、どこを捜しても住民の姿は見当たらない。ようやく彼ら は、ある家で土田圭という住民を発見した。しかし保護しようとすると、土田は暴れて拒絶した。彼は「サイレンが鳴ったら外に出ては ならない」と、取り付かれたように繰り返した。直後、どこからかサイレンが鳴り響き、土田は頭を抱えて絶叫した。
それから29年後の現在。天本由貴はフリーライターの父・真一と無口な弟・英夫の3人で、フェリーに乗って夜美島に向かっていた。発作 の持病がある英夫の療養のため、真一が仕事をしている出版社の人が用意してくれた家に引っ越すのだ。夜美島に到着すると、診療所の 医師・南田豊が3人を出迎えた。由貴は、港にいる人々の冷たい視線を感じた。
夜美島は、まるで異国のような雰囲気を持つ場所だった。南田によれば、過去に米軍がレーダー基地にしようと考えたこともあるらしい。 由貴が新居となる一軒家を掃除していると、隣に住む女性・里美が手伝いに来た。彼女は由貴に、「夜はあまり出歩かないように。特に森 の鉄塔の辺りには近付かないように」と警告した。さらに里美は、「サイレンが鳴ったら外に出てはダメ」と告げる。それは島の迷信の ようなものだという。
翌日、由貴は英夫を診療所へ連れて行き、南田と話をした。一方、真一は漁師に取材を行い、「鉄塔の辺りから聞こえる音を聞くと連れて 行かれる」という島の言い伝えを知った。他の場所に移動して写真を撮影していた真一は、赤い服の少女を見掛けた。由貴はいなくなった 英夫を探し回り、ある空き家に入った。そこで彼女は、サイレンについて記された手帳を発見した。その手帳には、「三度目のサイレンで 島民に変化」と記されていた。
いきなり空き家に怪しげな中年男・東が現れ、由貴に詰め寄って「サイレンが鳴ったら絶対に家の外に出てはならない」と告げた。怖く なった由貴は、慌てて空き家から逃げ出した。彼女は、英夫が赤い服の少女と一緒にいるのを発見した。英夫を連れて帰宅する途中、由貴 は公民館らしき場所に島民が集まり、何やら怪しげな儀式を執り行っている様子を覗き見た。
その夜、真一は「夜行生物の撮影に行く」と由貴に告げて外出した。突然の停電の後、圏外で繋がらないはずの携帯電話が鳴った。由貴が 電話を取ると、男の声が聞こえた。声が途切れがちで良く分からなかったが、「サイレン」という言葉だけはハッキリと聞き取れた。その 直後、どこからかサイレンが鳴り響いた。由貴は、家の外に出た英夫を呼び戻しに行った。
翌朝、由貴は戻らなかった真一を捜すため、南田と共に森へ入った。だが、飛んで来た鳥を追い払っている間に、南田の姿は消えた。 何者かに見られている気がした由貴は、怖くなって森から逃げ出した。公民館に入った由貴は、奉られている像の下に書かれている文字に 気付いた。それは「敬い奉る 尊き鏡の中にこそ真の理現れん。鏡を覗きたる 狗は神へと転じたり 生者は悪へと転じたり。変わらぬ者 こそは 果て無き命を授かりし この世の理越ゆる者」という文言だった。
公民館の地下に降りた由貴は、椅子に座っている死体を発見した。慌てて逃げ出した由貴は、森の道で南田と再会した。由貴は南田に事情 を説明し、島の警官・山中巡査も伴って公民館へと戻った。しかし、地下には死体など無かった。由貴が帰宅すると、傷だらけの真一が いた。山から滑り落ちたのだという。傷の手当てをした由貴は、真一の様子がおかしいと感じた。
翌日、いなくなった飼い犬オスメントを捜しに出掛けた由貴は、真一のビデオカメラが落ちているのを発見した。撮影されている映像を 再生した由貴は、真一が転落したのではなく誰かに襲われたのだと確信した。由貴は診療所へ行き、その映像を南田に見せた。由貴が帰宅 すると、真一はいなかった。真一のパソコンを見た由貴は、父が集団失踪事件や人魚の不老不死伝説について調べていたことを知った。 さらにパソコンには、29年前の土田圭を撮影した映像もあった…。

監督は堤幸彦、脚本は高山直也、製作は島谷能成&藤原正道&亀山慶二&亀井修&安永義郎&稲田一郎&古屋文明&岡田稔&水野文英& 石川治、プロデューサーは阿部謙三&長澤佳也、エグゼクティブプロデューサーは市川南&梅沢道彦&春名慶&釜秀樹、企画は山内章弘& 川村元気、撮影は唐沢悟、編集は伊藤伸行、録音は白取貢、照明は木村明生、美術は相馬直樹、VEは吉岡辰沖、VFXスーパーバイザー は野崎宏二、音響効果は北田雅也、音楽は配島邦明、音楽プロデュースは北原京子、エンディングテーマ『SIREN』は石野卓球。 出演は市川由衣、田中直樹、阿部寛、森本レオ、西田尚美、松尾スズキ、高橋真唯、西山潤、嶋田久作、皆川猿時、蒲生純一、小林一英、 真柴幸平、海老原智彦、浜田道彦、森富士夫、谷津勲、増田純子、根本和美、清水しめ志ら。


プレイステーション2で発売された人気ホラーゲームのシリーズ第2作『SIREN2』をモチーフにした作品。
ただし登場人物も内容も全く異なっている。
由貴を市川由衣、南田を田中直樹、土田を阿部寛、真一を森本レオ、里美を西田尚美、東を松尾スズキ、赤い服の少女を 高橋真唯、英夫を西山潤、山中巡査を嶋田久作が演じている。
監督はTVシリーズ「ケイゾク」「トリック」の堤幸彦。
脚本はTVシリーズ『エースをねらえ!』『アタックNo.1』の高山直也で、映画は本作品が初めて。

モチーフとなっているのはホラーゲームなのだから、映画版もホラーになると考えるのが普通だ。
そして実際、たぶん製作サイドはホラー映画として作ったつもりなんだろう。
しかし残念ながら、ちっとも怖さが無い。
冒頭に登場するレスキュー隊員の様子からして、既に陳腐なコントにしか見えない。
悪天候にして薄暗くすれば、それで怖くなるというわけではないのだ。

この映画は、色々な方向に恐怖のポイントを置こうとする。
「サイレンが鳴ったら云々」という言葉でサイレンに注目を集め、そこに恐怖のポイントを絞り込むのかと思いきや、そうでもない。もう サイレンが鳴る前からお構い無しで、色んなモノで怖がらせようとしている。
その結果、ただ散らかってゴチャゴチャしているだけで何一つとして怖くないという状態になっている。
そもそも堤幸彦には、おどろおどろしいモノを描き出すセンスが著しく欠如しているんだな。
ホラーってテクニックや経験じゃなくてセンスが必要だから(まあホラーに限らずコメディーでもアクションでも同様だろうが)、それが 無い人が撮っても無理なのよ。

この映画の締め括り方を例えるならば、リック・スタイナーの投げっ放しジャーマン状態。
無造作に投げ出して「後は知らねえ」という感じ。
それまでに謎めいた要素が色々とあったのだが、伏線は全て放り出して終了。
ロアノーク島とかマリー・セレスト号とか、全く要らない。
人魚伝説や赤い服の少女も、全て散らかしたままでオシマイ。
っていうか伏線でも何でもなくて、ただ適当に入れてみただけだろ。最初から伏線を張り巡らせて回収するという気ゼロだろ。
映画で描かれなかった真相を推理することは、もちろん可能である。しかし、それは観客に要求する負担が大きすぎる。
それに人魚伝説と絡めて仮説を立てるにしても、こじつけに近いし。
ある程度の謎を残して終わるのは別にいい。ただ、この映画は謎解きをする気が全く無い。
そんなところだけゲームを踏襲しているのか。

話のネタとしては、ほぼM・ナイト・シャマランの世界かな。
っていうか『恐怖の足跡』だろうか。
「おかしいのは向こうじゃなくて、こっちでした」というオチ。
もうハッキリとネタを明かすちゃうと、「弟は半年前に死んでいて、島に来たのは彼女の治療のためでした。サイレンは彼女の中で鳴って いただけで、ゾンビ化した島民も彼女の見た幻覚でした」というモノ。
「それでいいなら何でもありだぞ」という、反則まがいの手口である。
それでも上手く見せていけば「ギリギリでセーフ」と受け止めることも出来たかもしれんが、この映画では完全にアウトだな。
っていうか原作ゲームはゾンビ(屍人)が登場する内容なのに、それの映画化で「ゾンビじゃなくて幻覚でした」というオチはイカンだろ。
そもそもゲームと全く無関係な話にするなら、それを「ゲームの映画化」と銘打つのは反則だよな。

で、全て投げ出して終わらせた結果、全く整合性が取れなくなっている。
一応はネタバラシの直後に「あの時、実はこうなっていた」ということを示す映像が挿入されるが、それ以外の部分で辻褄が合わないこと だらけ。
ホラー映画で辻褄が合わないとか整合性に無理があるってのは、それほど珍しいことじゃない。
だが、ここまであからさまに辻褄合わせを放棄されると、さすがに問題視せざるを得ない。
それを凌駕するほどの恐怖も狂ったパワーも無いんだし。

由貴が島で見たものが全て幻覚だったという設定なら、森のシーンにおける「誰かが彼女を覗き見ている視点映像」はどう説明するのか。
父親のパソコンには29年前の嵐の夜の土田の映像があるが、それは誰が撮影したのか。レスキュー隊員はカメラなど持っていなかったぞ。
それも全て由貴が見ている幻覚という設定なのか。だとしたら、まさに「なんでもあり」だな。
全てが幻覚ではなく人魚が引き起こした現実も含まれていると仮定するにしても、それはそれで統一感が無くてダメだし。
また、由貴が父親の捜索で森に出掛ける間、彼女の中で英夫はどこにいることになっているのか。あれだけ英夫のことを心配しているわけ だから、一人で家に置き去りにすることは考えにくい。「その時だけ都合良く弟の存在を消去した」と仮定するのも無理がある。
他にも、飼い犬が消えたのは何なのか。儀式とか像とか謎の文言は何だったのか。
あと、29年前にそんなヤバい事件があったのなら、そんな場所を病気療養に使うこと自体、おかしいでしょ。療養に適した場所なら、他に 幾らでもあると思うぞ。

終盤に入るとゾンビ化した島民がワラワラと出てきて、もちろん田中直樹や森本レオ、西田尚美らもゾンビのメイクでゾンビの芝居をする わけだが、完全にギャグ。
パントマイム・マジシャンの神雅喜が屍人の演技指導を担当しているが、その必要性を全く感じない程度のモノにしか見えない。
神雅喜が悪いわけじゃなくて、もちろん映画がダメだということだ。
そもそも有名人がゾンビ化する時点で、ギャグになってしまう傾向はあるんじゃないかな。
ゾンビって、誰だか分からないから怖いという部分もあるし。

(観賞日:2008年5月2日)

 

*ポンコツ映画愛護協会