『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』:1997、日本

[Air]
惣流・アスカ・ラングレーは精神攻撃を受けて入院し、病室を訪れた碇シンジが「起きてよ」と怒鳴って体を激しく揺さぶっても反応は無かった。アスカの服がはだけて乳房やパンティーが見えると、シンジはオナニーして「最低だ」と漏らした。最後のシ者である渚カヲルが倒されたことにより、人類は平和を取り戻したはずだった。ネルフは第一次警戒体制のまま、本部施設の出入りが全面禁止になった。本部オペレーターの伊吹マヤ、青葉シゲル、日向マコトは、その状況を素直に受け入れられたわけではなかった。
葛城ミサトは加持リョウジの予想通り、委員会が人類補完計画のためにエヴァンゲリオンを利用するつもりだと確信した。委員会のキール・ロレンツ議長たちは碇ゲンドウと冬月コウゾウを呼び出し、初号機による計画の遂行を求めた。ゲンドウはゼーレのシナリオと異なることを指摘するが、委員会の考えは変わらなかった。ミサトがセカンド・インパクトの真意を突き止めた頃、ネルフの通信回線は全て遮断された。マギへのハッキングを受け、ゲンドウは収監していた赤木リツコを呼び出してプロテクト作業に当たらせた。
ゲンドウと冬月は、マギへの侵入が前哨戦に過ぎず、目的は本部施設と残るエヴァンゲリオン2体の直接占拠だと確信していた。リツコがマギのハッキングを停止させると、委員会は本部施設の直接占拠を決断した。軍隊がネルフを襲撃したため、ミサトはシンジとアスカをエヴァンゲリオンに乗せるよう指示した。彼女はアスカを匿うため、弐号機で地底湖に隠すことにした。綾波レイは所在不明になっており。ミサトは一刻も早く補足するよう命じた。
ネルフの防御は簡単に突破され、殺人に不慣れな職員は次々に命を落とす。ミサトはシンジを初号機に乗せるため、マヤたちに後を任せた。ゲンドウはレイを見つけ出し、「約束の時だ。さあ、行こう」と告げた。シンジは3人の兵士たちに狙われるが、無抵抗で座り込んでいるだけだった。ミサトは兵士たちを殺して、シンジを連れて行こうとする。しかしシンジはブツブツは小声で呟くだけで立とうともせず、ミサトが叱責しても全く戦う気持ちを見せなかった。
ミサトはシンジに、敵がエヴァンゲリオンを使ってサード・インパクトを起こそうとしていること、15年前のセカンド・インパクトは人間に仕組まれた物だったことを話す。そして彼女は、人間はアダムと同じリリスから生まれた18番目の使徒であり、生き残るためにはエヴァシリーズを全滅させるしか無いのだと説明した。地底湖は軍隊の攻撃を受け、アスカは激しく揺れる弐号機の中で目を覚ました。彼女は「死にたくない」と漏らすが、母の幻覚を見る。母に見守ってもらっていると感じた彼女は、弐号機を浮上させて戦い始めた。ゼーレは同じ毒で制するしか手が無いと考え、完成していた9体のエヴァシリーズを投入した…。

[まごころを、君に]
ゲンドウは左腕の抜け落ちたレイに、「時間が無い。ATフィールドがお前の体を保てなくなる。始めるぞ。心の壁を解き放て。不要な体を捨て、ユイの元へ行こう」と告げる。彼はアダムと融合させるため、レイの腹部に右手を突っ込んだ。シンジは成り行きで初号機に搭乗したが、戦う意思は無かった。そこへロンギヌスの槍が飛来し、ゼーレは「儀式を始めよう」と口にした。エヴァシリーズは初号機を拘留し、儀式を開始した。
レイはゲンドウに「私は貴方の人形じゃない」と言い放ち、彼を拒絶した。レイは「碇くんが待ってる」と言い、眼前のリリスと融合した。レイはリリスと融合して巨大化し、その姿を見たシンジは絶叫した。エヴァシリーズのATフィールドは共鳴し、巨大なカオルの幻影を見たシンジは弱々しい微笑を浮かべた。初号機はリリスに取り込まれ、生命の樹と化した。サードインパクトによって人類が補完された世界で、シンジは自身の内面と向き合う…。

総監督は庵野秀明、監督・演出は鶴巻和哉&庵野秀明、脚本は庵野秀明、企画・原作はGAINAX&庵野秀明、プロデューサーは石川光久、製作は角川歴彦&池口頌夫&山賀博之&倉益琢眞、キャラクターデザインは貞本義行(コミック:月刊少年エース連載/角川書店)、メカニックデザインは山下いくと&庵野秀明、エヴァンゲリオンコンセプトデザインは山下いくと、エヴァシリーズデザインは本田雄、絵コンテ(第25話)は鶴巻和哉&樋口真嗣&摩砂雪、キャラクター作画監督(第25話)は黄瀬和哉、メカニック作画監督(第25話)は本田雄、絵コンテ(第26話)は庵野秀明&作画監督(第26話)は鈴木俊二&平松禎史&庵野秀明、ビジュアルウォーターアーチストは摩砂雪、作画監督補佐(第26話)は古川尚哉&吉成曜、設定デザインは黄瀬和哉&鶴巻和哉&庵野秀明、色彩設定・色指定は高星晴美、美術監督は加藤浩、撮影監督は白井久男、編集は三木幸子、音響監督は田中英行、音楽は鷺巣詩郎。
声ノ出演は緒方恵美、三石琴乃、林原めぐみ、宮村優子、山口由里子、立木文彦、清川元夢、山寺宏一、子安武人、結城比呂、長沢美樹、麦人、石田影、川村万梨阿、永野広一、松本保典、大山高男、長嶝高士、菅原淳一、矢島晶子、山野井仁、渋谷茂ら。


1995年から1996年に掛けて放送されたTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の第弐拾伍話と最終話をリメイクした劇場版。
第弐拾伍話と最終話の間にインターバルが設けられ、ここでクレジットが流される構成になっている。
言わずもがなだろうが、もちろん総監督や脚本は庵野秀明が務めている。
シンジの声を緒方恵美、ミサトを三石琴乃、レイを林原めぐみ、アスカを宮村優子、リツコを山口由里子、ゲンドウを立木文彦、コウゾウを清川元夢、リョウジを山寺宏一が担当している。

TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の第弐拾伍話と最終話は、それまでの伏線を完全に無視し、多くの謎が残されたままで放り出したような形となっていた。
そのため、第壱話〜第弐拾四話を再構成した『DEATH』編と、第弐拾伍話&を最終話をリメイクした『REBIRTH』編の2部構成による『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の公開が決定した。
しかし『REBIRTH』編は、公開時期までに完成しないことが明らかとなった。そこで『REBIRTH』編は第弐拾伍話の前半部分までの内容で公開され、後に完全版が作られることになった。
その完全版が、この作品である。

TVシリーズの熱狂的なファンは第弐拾伍話と最終話で突き放され、多くの人々が「サッパリ意味が分からない」という感想になった。
必死に頭を捻り、自分なりの答えを導き出そうとした人もいるだろう。
そして『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』の公開が発表された時には、「ついに全ての謎が解ける」と期待しただろう。その『シト新生』が中途半端な形で公開され、落胆したことも多いだろう。
そんな経緯を経ての本作品には、「ようやく明確な結末が」と期待したことだろう。

だが、そんな淡い期待は、見事に裏切られる結果となった。
そもそも「全ての謎が解ける」という期待を抱くこと自体が愚かしいのだが、そういう気持ちになってしまうのは分からんでもない。
でも映画の内容は、ザックリ言うとTVシリーズと大して変わらない。
戦闘で決着を付けることも無ければ、謎を解明することも無い。意味不明な台詞や映像を並べ、心象風景に逃げ込む。シンジに意味ありげで意味の無い言葉をブツブツと喋らせて、シュールな精神世界でお茶を濁すだけだ。

シンジはミサトが命懸けで守ってくれたのに、しかも彼女の血を見て命を落としたんだろうってのも容易に想像できるのに、それでも戦う意思を見せない。アスカが必死で戦っているのも分かっているのに、それでもウジウジと弱音を吐いて塞ぎ込んでいるだけだ。ただのクソ野郎なのだ。
そうやって周囲の人間を拒絶しておきながら、そのくせ「僕に構って、僕を愛して」と要求する。
いやホント、面倒なガキなのよ。
そして何より面倒なのは、庵野秀明が自身を投影してシンジを描いているってことなのよね。
ザックリ言うと、庵野監督が自分のストレスをぶつけて好き勝手にやりまくっただけの自慰行為になっちゃってるのよ。

かなり難解そうに思えるかもしれないが、捉え方を間違わなければ簡単で分かりやすい作品だ。
庵野監督は小難しい話のように見せ掛けて、ただ観客を煙に巻いているだけなのだ。
なので、真正面から謎解きに挑み、真面目に分析しても意味が無い。なぜなら、そこには明確な正解など用意されていないからだ。
最初から監督は観客が腑に落ちる答えなんて用意しないまま、エヴァという作品をスタートさせた。風呂敷を大きく広げるだけ広げて、畳み方なんて何も考えちゃいなかった。

庵野監督はTVシリーズでシンジに「逃げちゃダメだ」と言わせておきながら、自分は逃げ出した。
だが、それは「途中で怖くなって逃げ出した」ってことではない。最初から答えを用意しないままで走っていたので、ゴールなんて無いレースだったのだ。
つまり極端なことを言っちゃうと、最初から「逃げ出すために作られた作品」だったのだ。
収拾が付かなくなったわけではなく、最初から収拾を付けるつもりなど毛頭無かったのだ。

庵野監督は意味ありげなだけの要素を散りばめてハッタリをかまし、一部のアニメオタクだけを相手にして逃げ切ろうと思っていた。
ところが困ったことに、予想を遥かに超えるような爆発的な人気になってしまった。
それを受けて劇場版の企画が決定したが、当然のことながらファンは「明確な答え」を期待する。
その重圧に困り果てた庵野監督が厄介なファンを遠ざけるため、自分なりの『ビューティフル・ドリーマー』として仕上げたのが、この映画なのだ。

庵野監督は細かい整合性なんて考えず、とにかく思い付いた「意味ありげな設定」を次から次へと持ち込んでいるだけだ。
なので、辻褄が合わなくなっても仕方がない。
謎のままで終わっている要素が幾つもあるけど、それも「そういうモノだから」と受け止めるしかない。答えを明らかにしないままで放り出されているわけではなく、そもそも答えが存在しないのだ。
熱狂的なファンが期待していたような深いテーマやメッセージなんて何も無くて、勝手に好意的な解釈をしたおかげで、作品の価値が高まっただけなのだ。

冒頭、アスカのオッパイやパンティーを見てシンジが射精するシーンが描かれる。この段階から、早くも観客を突き放そうとする意識がハッキリと見える。
ちなみに、これって一応は伏線になっている。そして、これが伏線であることも含めて、観客を突き放すための描写になっている。
そんなアスカの体でオナニーしちゃう冒頭シーンからして、シンジは見事なダメ人間になっている。TVシリーズの彼も立派なヘタレ野郎だったが、今回の映画ではさらに状態が悪化している。『機動戦士ガンダム』の影響を悪い形で受けてしまったのか、主人公を不愉快なヘタレ野郎にしているのだ。
アムロ・レイも弱い部分、脆い部分はあったけど、それでも仲間がピンチの時には必死で戦っていた。でも、この映画のシンジは、ネルフの職員が次々に殺されている中でも、ずっと塞ぎ込んでいるだけで不快感を放ちまくっている。
まるで共感を誘わない弱虫になっているのだ。

庵野監督は「皆殺しの冨野」の表層的な部分だけを歪んだ形で取り込み、エログロナンセンスで全体を覆い尽くす。
終盤に実写パートを用意し、映画館の様子を写したりしてメタ構造にしているのも、作り手が自慰行為に走っても付いて来てくれたファンを乱暴に切り捨てる行為だ。
TVシリーズで風呂敷を畳まずに逃げ出した庵野監督は、今回は「逃げ出してもいいんだ」という自己弁護のための台詞まで用意した上で、また逃げ出したのだ。

映画のラスト、シンジはアスカと2人になり、彼女の首を絞めて殺そうとする。「なぜ殺そうとするのか」なんてことを真面目に考えても腑に落ちる答えなんか無いので、そこは思考停止が賢明だ。
で、シンジが思い留まると、アスカは「気持ち悪い」と冷淡に言い放つ。
ここは一応、前述した冒頭シーンの伏線を回収する形になっている。と言うのも、アスカの「気持ち悪い」という台詞は、庵野監督が宮村優子に「もし自分の部屋で寝ていて、知らない男が入って来てオナニーして、目が覚めたら何て言う?」と尋ねて、その答えが気持ち悪い」だったのだ。
ってことは、庵野監督は宮村優子に考えてもらった「射精している男を見た女の一言」を言ってもらい、マゾとしての快感に浸って作品を投げ出したんだろうね。

(観賞日:2021年2月7日)

 

*ポンコツ映画愛護協会