『クイール』:2004、日本

東京で暮らす女性・水戸レンの家で、5匹のラブラドール・レトリーバーの子犬が誕生した。レンは5匹を盲導犬にしたいと考え、訓練士の多和田悟に電話を掛ける。しかし両親とも盲導犬でなければ、盲導犬にすることは難しい。それでもレンが何度も頼んだ結果、多和田は1匹だけという条件で承諾した。レンは、脇腹に斑模様のある子犬を選んだ。
子犬は多和田の手によって、パピーウォーカーの夫婦・仁井勇と三都子に預けられた。夫妻は子犬をクイールと名付け、可愛がった。やがてクイールに1歳の誕生日が訪れ、パピーウォーカーと別れることになった。多和田はクイールを盲導犬訓練センターに連れ帰り、トレーニングを開始した。クイールには、同じ場所でずっと待ち続ける才能があった。
多和田はクイールの訓練を続ける中で、馴染みの視覚障害者・渡辺満に目を付けた。渡辺は頑固な男で、ずっと盲導犬を使うことを拒否してきた。しかし多和田は渡辺を挑発するように振る舞い、クイールを連れて歩かせることに成功する。渡辺はクイールのパートナーとなり、多和田や訓練士・久保マスミ、他の視覚障害者らと共に合宿での訓練を行うことになった。
共同訓練を終えて、クイールは渡辺の家にやって来た。渡辺の娘・美津子と息子・悦男は、クイールを歓迎した。渡辺の妻・祺子は犬嫌いだったが、少しずつクイールと馴染んでいった。渡辺の頑固さのせいで少々の問題も起きたが、クイールの加わった生活は楽しいものだった。しかし、若い頃からの不摂生が祟り、渡辺は体調を崩して入院してしまう…。

監督は崔洋一、原作は「盲導犬クイールの一生」(写真・秋元良平、文・石黒謙吾)、脚本は丸山昇一&中村義洋、撮影は藤沢順一、編集は川瀬功、録音は小野寺修、照明は金沢正夫、美術は今村力、ドッグトレーナーは宮忠臣、音楽は栗コーダーカルテット、音楽プロデューサーは佐々木次彦。
出演は小林薫、椎名桔平、香川照之、戸田恵子、黒谷友香、名取裕子、寺島しのぶ、櫻谷由貴花、松田和、石田太郎、小市慢太郎、水橋研二ら。


1998年に12歳で亡くなった盲導犬クイールの人生を写真と文で綴った本『盲導犬クイールの一生』を基にした作品。映画より前に、NHKで連続ドラマ化もされている。
渡辺を小林薫、多和田を椎名桔平、勇を香川照之、祺子を戸田恵子、マスミを黒谷友香、レンを名取裕子、三都子を寺島しのぶが演じている。

クイールを演じたのは、ラフィーという犬。
元々は盲導犬としてトレーニングされていたものの、本物の盲導犬ではない。
しかしドッグ・トレーナーの訓練もあって、見事な芝居を見せている。
また、椎名桔平の訓練士っぷりも、お見事だ。
椎名桔平とラフィー、そしてドッグトレーナーに関しては、賞賛に値する。
しかし映画がそれを全く活かせていないので、ものすごく勿体無い。

まず、なぜレンが何度も電話を掛けてまで5匹を盲導犬にしたいと思ったのか、それが良く分からない。
結果的にクイールが盲導犬の訓練を受けることになるのだが、彼は「通常なら難しいのに盲導犬になった」ということのはずなのに、そこが全く表現されていない。
ごく当たり前に、大きな問題も無く盲導犬になりました、という感じに見える。

冒頭、少女の声でナレーションが入る。これは渡辺の娘・美津子の声だ。
ところがパピーウォーカーに預けられると、今度は仁井三都子のナレーションになる。
パピーウォーカーと別れると、再び美津子のナレーションだ。
ナレーターを分業制にすることのメリットが全く分からない。そこは統一すべきだろう。
そもそも、なぜナレーション担当が美津子や三都子なのか。
全体を通してクイールに関わる人物ということを考えて、ナレーター役は多和田が適切ではないのだろうか。もし「どうしても女性のナレーションにしたい」ということなら、マスミの扱いを大きくして、彼女をナレーターにするという手もあるだろう。

ナレーションまで担当している美津子の出番が、必要以上に少ないのは理解できない。渡辺が登場した後も、彼女はなかなか出てこない。
例えば渡辺が買い物をしているシーンなど、幾らでも登場するチャンスはあったはず。なのに、後半に入るまで彼女は登場しない。
登場した後も、悦男の方が扱いは大きく、彼女はほとんどクイールと関わっていない。

ナレーションの問題でなく、物語進行の視点が定まらずに移動してしまう。
クイールの世話をする人間が変わっていくので、その中で視点を定めるのが難しかったのかもしれない。
しかし、それは多和田の視点で描けば解決できる問題ではないだろうか。
途中で「クイールが夢を見る」というクイール視点のシーンまで挿入しているが、無闇に視点移動を繰り返す意味が全く分からない。

例えば「犬を可愛らしく描いておけば、それでいいんじゃねえの」という安易な考えで作ったとしよう。
そうだとすれば、いっそ犬を擬人化し、クイール視点で話を進めていった方がいい。
それで作品が面白くなるわけではなく、たぶん別の意味でポンコツ映画になるだろう。
しかし少なくとも、犬好きの観客を騙して興行収入をアップさせることは出来たんじゃないだろうか。
そういったエクスプロイテーション精神による開き直り、がめつい商売根性さえ、この映画には無い。

同じ飼い主のところでクイールが暮らし続けるのなら、その一生を映画の時間内に収めても何とかなったかもしれない。しかしクイールの場合、次々に飼い主が変わっていく。
それを100分という上映時間内に収めようとした時に、それぞれの人々との触れ合いの描写というのは、どうしても薄味になってしまう。
本当ならば、例えばパピーウォーカーとクイールの別れなどは感涙の場面のはずなのだろうが、それほど仁井夫婦とクイールの交流が描かれていないので、何の感傷も無い。

とにかく、かなり駆け足で、慌ただしく粗筋を辿っていくという状態なのだ。
一方で、盲導犬を拒否していた渡辺がクイールを使うと決める心の動きなどは、簡単に省略してしまう。取捨選択の基準が違うんじゃないか。

いっそのこと、前半部分は大幅に削って良かったかもしれない。
例えばクイールがパピーウォーカーの所から多和田に戻った時点から話を始めて、そこまでの経緯は多和田が誰かに説明するという形で処理してしまうのだ。そして、渡辺と和多田、クイールの関係に絞ってストーリーを作った方が良かったんじゃないだろうか。

ただし、「この映画の後半部分を広げる」ということでは、面白くならないだろう。
というのも、クイールが渡辺家に来た後も、なぜか悦男とクイールのユーモラスな触れ合いを描いたりするのだ。
しかし、それでは単なる「飼い主と犬の交流」だ。
そこで描くべきは、何よりも「視覚障害者と盲導犬の触れ合い」ではないのだろうか。

前述したように100分という上映時間なのだが、そこに無理をしてまでも「クイールの一生」を詰め込む必要があったのだろうか。
いきなり7年後に飛んでまで、クイールの死までを見せる必要があったのだろうか。渡辺との別れまでで、話を終えても良かったんじゃないだろうか。
個人的には、葬儀のシーンも要らないと思う。その前の、「渡辺が最後にクイールと歩いた」というシーンがクライマックスでもいいと思うのだが。

 

*ポンコツ映画愛護協会