『劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオス』:2002、日本

昔々、水の都アルトマーレの島に住む老夫婦は、傷付いた小さな兄妹を看護した。邪悪な怪物が島を襲った時、兄妹は無限ポケモンのラティアスとラティオスに変身して仲間を呼び寄せ、“心のしずく”という宝石で怪物を追い払った。この伝説を知った怪盗姉妹のザンナーとリオンは、心のしずくを手に入れようと動き出した。
少年サトシはポケモンマスターになるため、仲間のカスミとタケシ、それにポケモンのピカチュウ達と共に旅を続けている。今回、サトシ達は水上レースに参加するため、アルトマーレにやって来た。レースが終わった後、サトシはピカチュウに水を飲ませてくれた少女に出会う。それは、人間に姿を変えたラティアスだった。
ザンナーとリオンは、少女に姿を変えたラティアスを捕まえようとするが、タケシに邪魔をされる。タケシは少女を連れて逃げるが、いつの間にか彼女は姿を消してしまう。聖堂に出掛けたサトシは、先程の少女の姿を見つけた。サトシは少女を追い掛けて、姿を消した理由を尋ねるが、「何のことかしら」と言われ、立ち去られてしまう。
戸惑うサトシの前に、再び少女が現れた。彼女はサトシを、ある大庭園へと誘い込んだ。すると、そこにラティオス、そして自分が追って来た少女に瓜二つの少女カノンが現れる。そこでサトシは、自分が助けた少女が、実はカノンに化けたラティアスだったことを知る。ラティアスはサトシのことを気に入って、一緒に遊びたかったのだ。
2匹のポケモンは、ラティアスが妹、ラティオスが兄だ。カノンの一族は先祖代々、ラティアスとラティオスのために秘密の庭を守り続けているという。だが、その夜、ザンナーとリオンが庭に侵入してラティオスを捕まえ、心のしずくを奪い去ってしまった。そしてリオンは心のしずくを使って聖堂の装置を作動させ、世界を征服しようとする…。

監督は湯山邦彦、原案は田尻智、脚本は園田英樹、製作は亀井修&鶴宏明&富山幹太郎&芳原世彦&宮川鑛一&福田年秀&八木正男、プロデューサーは吉川兆二&松迫由香子&盛武源、エクゼクティブプロデューサーは久保雅一&川口孝司、アニメーションプロデューサーは奥野敏聡&神田修吉、アニメーション監修は小田部羊一、スーパーバイザーは石原恒和、演出は越智浩仁&鈴木輪流郎&浅田裕二&井硲清高、キャラクターデザインは一石小百合&松原徳弘&玉川明洋、作画監督は玉川明洋&井ノ上ユウ子&松原徳弘&毛利和昭&高橋英吉&辻初樹&池田和美、撮影監督は白石久男、編集はジェイ・フィルム&辺見俊夫、美術監督は金森勝義、音響プロデューサーは南沢道義&西名武、音響効果は三間雅文、音楽はcoba&宮崎慎二、音楽プロデューサーは斉藤裕二。
声の出演は松本梨香、大谷育江、飯塚雅弓、上田祐司、林原めぐみ、三木眞一郎、犬山犬子、神田うの、釈由美子、グッチ裕三、山寺宏一、広川太一郎、こおろぎさとみ、西村ちなみ、かないみか、坂口俊一、小西克幸、折笠富美子、江原正士、石塚運昇ら。


TVアニメ『ポケットモンスター』の劇場版シリーズ第5弾。
TV版のレギュラー声優陣の他、ザンナーの声を神田うの、リオンを釈由美子、聖堂のガイド役ボンゴレをグッチ裕三、レースの準優勝者ロッシを山寺宏一、アナウンサーを広川太一郎が担当している。

序盤から、無駄な寄り道で話の流れを停滞させる。それは、ロッシのゴンドラにサトシ達が乗せてもらうシーン。このシーン、例えば実写映画なら、美しい風景を見せることで、観光映画としての意味を持たせることが出来るが、これはアニメ映画だ。
ロッシというキャラクターが大きな役割を果たすのなら、彼をクローズアップする意味もあるが、彼の出番は、そこでオシマイだ。つまり、「レースで2着になってゴンドラでサトシ達の観光案内をする」というだけの、特に重要性を持たないチョイ役なのだ。

ゴンドラのシーンで重要なのは、サトシ達がロッシからラティアスとラティオスが町を守っているという話を聞くという部分だ。ところが、観客は最初に、この伝説について聞かされている。つまり、2度も同じ話を聞かされるのだ。これは、無駄なだけ。
例えば、サトシ達が最初からラティアスとラティオスの伝説を知っているという設定にしておけば、ゴンドラのシーンはカットできる。ゴンドラの場面で説明するのなら、最初の説明シーンは削った方がいい。どっちにしろ、2度も説明する必要は無い。

どうやらCGを多用していることを、かなりアピールしたかったらしい。
その過剰なアピール精神が、妙な絵作りに繋がる。
例えば、ザンナーとリオンから逃亡するためピカチュウが町を走る場面。走るピカチュウ目線による町の様子がCGで描かれているのだが、その目線による構図が無意味に長い。CGを見せたいのは分かるが、流れを壊してまで主張するのは勘弁してほしい。ただでさえスピード感に乏しいのに。

サトシが少女を追い掛けるシーンでも、彼がグルリと見回す町の様子がCGで描かれるが、「CGをアピールするため」だけに、サトシにグルリと町を見回す行動を取らせているとしか思えない。さりげなくCGを溶け込ませるのではなく、やたらCGをアピールしているように感じられる。
まずCGありきという絵の作り方をしているのではないだろうか。

ラティオスがサトシ達に水の中を案内するというシーンも、やはりCGを見せるためとしか思えない。そうやって、CGを見せるためだけのシーンに時間を費やすことによって、ドラマを描く時間が減り、内容が薄いモノになっているように思えてならない。

劇場版ポケモンで気になるのは、ロケット団の扱いだ。TVシリーズならば、サトシ達とロケット団の対立を軸にして進めて行くことも出来るが、劇場版では必ずオリジナルのキャラクターがサトシ達の敵として登場するので、ロケット団は完全に脇に追いやられる。
結局、この映画においてのロケット団は、ただ「顔を見せました」という程度の扱いに終わっている。コメディリリーフとしてさえ弱い存在だ。だが、登場させるからには、ちゃんと活用してほしい。使いこなせないのなら、いっそ出さない方がいいかもしれない。

ラティアスがサトシに好意を抱いて近付いたのだから、CGをアピールしている暇があったら、その感情を活用した方がいい。例えば、ラティアスがカスミに対してライバル心を燃やすとか、サトシとカノンが親しくなって、嫉妬心を抱くようになるとか。
ラティアスのサトシに対する気持ちは、両名を知り合いにするために使われるだけで、それ以降の展開では、ほとんど利用されていない。ラティアスのサトシに対する気持ちが、終盤の展開に大きく関わって来るのかと思ったのが、全く使われていない。

話の締めくくり方も、どうも納得がいかない。
町を救うためにラティオスが犠牲となって、その原因を作ったザンナーとリオンがヘラヘラと笑って生き残るというのは、それでいいのか。ポケモンの死を通じて子供達へのメッセージがあるのかと思ったら、そういう気配も無いし。
最後、兄の死じゃなくてサトシへの恋心で締めちゃってるしなあ。
あと、思うのだが、サトシって主人公のはずなのに、何もしていないような気がするのだが。ピカチュウに戦わせているだけだし、町を救ったのもラティアスとラティオスだし。
町で起きた出来事を解決するために、サトシは何の役にも立っていない気が。

 

*ポンコツ映画愛護協会