『劇場版 MARCO 母をたずねて三千里』:1999、日本

イタリアのジェノヴァにやって来たマルコは、少年時代を振り返る。イタリアは貧しい時代で、多くの人々は仕事を求めて外国へ働きに行かねばならなかった。ジェノヴァやナポリの港から、数多くの人々が移民船に乗って南アメリカへ向かった。マルコの母であるアンナも、そんな出稼ぎ労働者の一人だった。母が船で出発する時、マルコは険しい顔のままで目も合わせようとしなかった。しかし船が出港すると、マルコは母の名を呼んで追い掛けた。
1年後、マルコは猿のアメデオと共に、母からの手紙を待っていた。毎月届いていたのだが、2ヶ月前から途絶えているのでマルコは心配だった。父のピエトロは診療所を営んでおり、仕事を優先して家を空けることが多かった久しぶりに兄のトニオが帰郷した日でさえ、彼は帰りが遅かった。父が家族より仕事ばかり大切にするので、マルコは反感を抱いていた。窓から出たアメデオを追ったマルコは、操り人形を手にするフィオリーナという少女を目にした。フィオリーナはアメデオに気付くと、人形を踊らせながら歌った。しかしマルコが拍手して声を掛けると、無言のまま部屋に引っ込んでしまった。
フィオリーナは人形劇団であるペッピーノ一座の次女で、長女のコンチエッタ、幼い三女のジュリエッタと三姉妹だった。コンチエッタはマルコに、自分たちのことを紹介した。そこへ父親のペッピーノが現れ、5日後に出るアルゼンチン行きの移民船に乗ることを語った。移民船なら定期船の半額で、子供はさらに半額になるという。コンチエッタが倒れたので、マルコは父が事務長を務める診療所へ走った。すると診療所に来ていた老女が、「アンタのお父さんは私たちの恩人だよ」と告げた。
医者のロンバルディーニはペッピーノ一家の元へ向かいながら、マルコに「私だって貧しい人たちを救おうとする君のお父さんの気持ちが分からんではない。しかし、物には限度というものがある。家族の幸せまで犠牲にしていいのかと思うがね」と述べた。彼が診察すると、コンチエッタは風邪だった。夜、マルコは父に、ペッピーノから移民船でアルゼンチンへ行かないかと誘われたことを明かした。するとピエトロは反対し、「ブエノスアイレスにはお母さんが世話になってるメキーネスさんがいる。何かあれば必ず連絡してくれるはずだ」と告げて船に乗ることを認めなかった。
マルコは船会社で郵便物の集配の仕事をしているジーナおばさんから、ミケランジェロ号で母の手紙が届くはずだと聞かされていた。だが、その手紙が届かなかったため、マルコは母が病気に違いないと考える。彼はペッピーノ一家の元へ行かなくなり、移民船で去る時も見送らなかった。彼はジーナから、10日後にフォルゴーレ号がブラジルのリオデジャネイロへ向かうことを聞かされた。密航した彼は、すぐに見つかった。しかしマルコの心意気を感じたコック長のレオナルドは、彼を任せてみないかとピエトロに持ち掛けた。マルコが母の元へ行くためなら何度でも密航すると言うので、ピエトロは行かせることにした。
リオデジャネイロに到着したマルコは、そこから移民船に乗り換えてブエノスアイレスを目指した。彼は船の中で、フェデリコ老人やレナータとニーノ親子と知り合った。ブエノスアイレスに到着したマルコはスリに金を盗まれるが、その時は気付かなかった。メキーネスの家を訪れたマルコは、コルドバへ引っ越したことを知らされる。コルドバへ行く列車の切符を買おうとした時、彼は財布を盗まれたことに気付いた。出発する汽車を追い掛けた彼は、駅員に取り押さえられた。
マルコが公園のベンチで眠っている間に、アメデオがペッピーノ一座を発見する。アメデオはフィオリーナに合図を送り、公園へ案内した。マルコは一家に事情を説明し、歩いてでもコルトバを目指す意思を明かす。ペッピーノはフィオリーナとコンチェッタに頼まれ、マルコを一座に加えてコルドバへ向かうことにした。しかし途中でコンチエッタが病に倒れたため、ペッピーノは修道院に助けを求めた。介抱した修道院長は、すぐに入院させるよう促した。
ペッピーノはマルコに、シスター・マルガリータと共にロサリオへ行き、退役軍人のバリエントスを訪ねるよう告げた。翌日、マルコはロサリオに着き、バリエントスの家を訪れて執事に紹介状を見せた。しかし執事はバリエントスがブエノスアイレスへ行っていることを話し、金目当てだと決め付けてマルコを冷たく追い払った。途方に暮れていたマルコはフェデリコと再会し、イタリア移民の集まる店へ案内された。マルコの事情を知ったフェデリコとイタリア移民のジョルジオは、店の客たちに寄付を募った。移民たちはマルコに同情して金を出し合い、マルコはコルドバへ行く汽車に乗ることが出来た。
コルドバに到着したマルコはメキーネスの家を訪れるが、1ヶ月前に600キロも北にあるトゥクマンへ引っ越していた。一夜を過ごす場所を探そうとしていたマルコは、サン・ペドロ地区に住む貧しい少年のパブロと出会った。パブロはマルコが寝床を探していることを知り、家に来るよう促した。パブロは病弱な妹のフアナと2人で暮らしていた。夜中にフアナが高熱を出したので、マルコは医者を呼ぶようパブロに告げる。するとパブロは、病院に頼んでもサン・ペドロ地区だと分かると来てもらえないのだと語った。マルコは町へ行って診療所のドアを叩くが、サン・ペドロ地区だと分かると、どの医者も往診を断った。マルコはトゥクマンへ行くための汽車賃を使い、医者にフアナを診察してもらう…。

監督は楠葉宏三、原作はエドモンド・デ・アミーチス「クレオ」より、脚本は深沢一夫、製作は本橋寿一&幸甫&真藤豊、企画は曽根俊治&佐藤昭司、プロデューサーは吉田剛&中島順三&田中真津美、オリジナルキャラクターは小田部羊一、キャラクターデザイン・作画監督は才田俊次、美術監督は川本征平、音響監督は藤野貞義、撮影監督は森下成一、色彩設計は小山明子、編集は名取信一、キーアートデザインはウォーレン・ナン、音楽プロデューサーは小野寺重之、音楽は岩代太郎。
主題歌「Carry a Dream」作詞:リンダ・ヘンリック、作曲・編曲:岩代太郎、歌:シーナ・イーストン。
声の出演は樋口智恵子、井上倫宏、榊原るみ、菅生隆之、山内雅人、なべおさみ、松下恵、岡本麻弥、川田妙子、田中伸幸、鈴木ヒロミツ、キートン山田、屋良有作、中西妙子、高乃麗、長沢彩、石塚運昇、緒方賢一、日野由利加、さとうあい、沼波輝枝、麻生智久、高橋広樹、上別府仁資、西松和彦、杉野博臣、田中涼子、甲斐田ゆき他。


かつて『世界名作劇場』枠で放送されたTVアニメ『母をたずねて三千里』を劇場映画版としてリメイクした作品。
脚本はTVシリーズも担当していた深沢一夫。監督を務めた『機関車先生』の楠葉宏三は、ずっと『世界名作劇場』に演出&絵コンテで携わって来た人だ。
マルコの声を樋口智恵子、30年後のマルコを井上倫宏、アンナを榊原るみ、ピエトロを菅生隆之、フェデリコを山内雅人、ペッピーノをなべおさみ、ジョルジオを鈴木ヒロミツ、フィオリーナを松下恵、コンチエッタを岡本麻弥、ジュリエッタを川田妙子、トニオを田中伸幸、執事&メキーネスをキートン山田、ロンバルディーニを屋良有作、修道院長を中西妙子、パブロを高乃麗が担当している。

松竹は昔のTVアニメを映画でリメイクする企画を、1996年の『ブラック・ジャック』から開始した。
『ブラック・ジャック』は手塚プロダクションが1993年に始めたOVAシリーズの派生作品だったが、翌年には『世界名作劇場』枠で放送されていた『フランダースの犬』のリメイク版を松竹の主導で製作した。
それに続いて手掛けたのが、この映画だ。
2年連続で『世界名作劇場』のリメイクという形になったわけだが、興行成績が良くなかったために企画は打ち切りとなった。

この映画に関して最初に思ったのは、「声優陣がTVアニメと全く違う」ってことだ。
当時の絵柄を模倣してるんだし、やはり同じ声優でやることが望ましいと思うのだ。
アンナ役の二階堂有希子は女優の仕事から離れているけど、マルコ役の松尾佳子は現役だ。ペッピーノ役の永井一郎も当時は存命だったし、他の主要キャストも現役だ。だから、オファーすれば引き受けてくれただろう。
ただし、実は製作当時、作品の二次使用料を巡る訴訟問題が持ち上がっており、松竹は日本俳優連合(まだ当時は声優だけの組合が無かった)から配役に関する協力を得られなかったという事情があるのだ。

かつてTVシリーズを再編集した107分の劇場版が、1980年に公開されている。
この映画は、その劇場版と同じ問題を多く含んでいる。
大まかには同じ内容だから、同じ問題があるのは当然と言えば当然だろう。ほぼダイジェスト状態になっているというのは、1980年版と同じ問題だ。
TVアニメは1年間のシリーズであり、全52話を費やしてマルコが母を訪ねる旅を描いていた。
それと同じ三千里の道のりを、この映画は約90分という上映時間でコンパクトにまとめている。

TVシリーズでは、長く困難な道のりを進み、幾つもの苦難を乗り越えて、ようやく母に会えるからこそ、マルコと母の再会シーンには大きな感動が生まれた。
だが、この映画ではマルコがジェノヴァを出てから、わずか1時間でアンナと再会してしまうのだ。そのために、「幼い子供が幾つもの苦難を乗り越え、長い道のりを経てようやく母の元へ辿り着いた」という印象を全く受けないのだ。
実際、苦難のエピソードも端折ってあるし。
あと、マルコが人の死に直面するエピソードも無いんだよな。

「その問題を、どうやって解決すればいいのか」という質問に対する答えは簡単だ。
「映画にする以上、解決方法は無い」ってのが、その答えである。
当初は120分の予定だったらしいが、30分延長したところで大差は無い。そもそも、これは映画に向いていない素材なのだ。
『世界名作劇場』シリーズから劇場版リメイクのネタを選ぶにしても、他に幾らだってあったでしょ。
まあ、それを言い出したら、前作の『フランダースの犬』だって「ダイジェスト版になっている」という問題からは脱却できていないんだけど、まだ「三千里」という距離が含まれていない分だけマシなんだよな。

おまけに本作品は、ただでさえ時間が無いのに、ジェノヴァを出発するまでの経緯に、ものすごく時間を費やすのだ。
そもそも、TV版と違って「オッサンになったマルコが子供時代を振り返る」という回想劇として入っているんだけど、その30年後のマルコを登場させている意味が全く無いし。
その後、マルコが父に反発していることが示されるが、それも要らない。
もっと言ってしまうと、ピエトロが貧しい人々に無料で診察を受けさせていることさえ描かなくても構わない。

ピエトロの仕事について詳しく描くことで、「そのせいでアンナが出稼ぎに行かざるを得なくなった」ということが露呈してしまう。
これも1980年版と同じ問題なのだが、そうなるとピエトロが共感を誘わない男になってしまうのだ。
マルコがアンナと涙の別れをするハメになったのも、アンナが出稼ぎ先で病気に倒れたのも、マルコが遠い異国で辛い目に遭うのも、全ての原因は、突き詰めていくとピエトロにあるのだ。

ピエトロが貧しい人々から金を取らずに診察を受けさせていたせいで借金が膨れ上がり、アンナが出稼ぎに行かざるを得なくなっている。
それは借金のカタに女房を売り飛ばすのと、実質的には変わらない。
貧しい人々に診察を受けさせたいという彼の信念は素晴らしいかもしれないが、そのせいでテメエの女房を犠牲にしている。
「みんなの病気を治したい」と思っていた奴が、女房を出稼ぎに行かせて病気にしているんだから、本末転倒なのだ。

だったら、診療所の事情なんて詳しく描かない方がいい。
アンナが出稼ぎに行った理由は原作と同様、ボンヤリさせておけばいい。そして、マルコと母親の関係に、もっと絞り込んでしまえばいい。
トニオも全く要らないキャラで、何のために登場したのかサッパリ分からない。序盤にチョロッと出て来るだけで、まるで意味のある役回りは担当しないんだから。「TV版のキャラクターだから登場させた」というだけにしか思えない。
でも、それはTV版に対するリスペクトでも何でもないし、TV版を見ていた人へのサービスにもならんよ。

マルコとペッピーノ一家の関係は、この作品にとって本来ならとても重要な要素だ。
しかし、やはり1980年版と同様、そこも薄っぺらいモノになっている。
ジュリエッタの存在意義は皆無に等しいし、最も肝心なフィオリーナとマルコの関係性も弱い。
フィオリーナは本来なら、陰気で引っ込み思案な性格で、マルコに感化されることで明るくなっていく少女のはずなのだ。
しかし時間が無いので、あっという間にマルコに対して心を開いているし、その心情変化はサッパリ伝わらないことになっている。

フィオリーナはコンチエッタがロンバルディーニに診てもらった後、マルコに「父さんは口に出さないけど、思ってるの。私には何も出来ないって。ジュリエッタのお守りぐらいがお似合いだって。そう思われても仕方ないの。私はただ、みんなにくっ付いて歩くだけ。父さんや姉さんが困っていても、何の役にも立たない。何をやっても失敗ばかり」と語るのだが、そういうキャラクターだったことが、そのシーンで初めて分かる始末だ。
そういうことを示すドラマが無いので、全て台詞で説明されてもピンと来ない。
それまで全く自信が無くて暗かったフィオリーナが、マルコと知り合うことで大きく変化したからこそ、「マルコが初めてのお客」という言葉にも強い意味が生じるはずなのだ。でも、そういう手順をバッサリと削ぎ落としているもんだから、彼女の心情には全く厚みが無い。
そもそも、あれだけ巧みに人形を操って歌うことが出来ているのに、「私は何の役にも立たない」と言われても説得力が無いわ。
「本当は役に立つけど自信が無いだけ」という設定だとしても、それがドラマとして表現されていないし。

フィオリーナは公園でマルコを見つけた時に涙を浮かべるのだが、「なんで?」と思ってしまう。
イタリアのシーンで、そこまで強く「また会いたい」と思うほどマルコとの絆が深まっていないので、その感情表現に首をかしげてしまうのだ。
マルコの事情を知った彼女とコンチエッタがペッピーノに頼み、一座がコルドバを目指すという展開にも、かなり無理を感じてしまう。
フィオリーナが「母親が家出して云々」と語るけど、そんなモノで「マルコに自分たちの境遇を重ねた」という説得力が生まれることも無いし。

届くはずだった母からの手紙が届かず、マルコが「ママは病気なんだ」と思った時点では、まだペッピーノ一座が乗る移民船は出航していない。だから、ピエトロは許可していないけど、その気になれば密航することは可能だったはずだ。
しかし、その移民船を見送った後、ジーナから聞いたブラジル行きの船にマルコは密航している。
その行動は、ちょっと良く分からない。
「ガキンチョだから筋の通らない行動も取る」ということで納得するのは、そんなに簡単ではない。

ピエトロが南米行きを認め、マルコがフォルゴーレ号でブラジルへ向かうシーンでは挿入歌が使用されており、感動的に盛り上げようとする意識が感じられる。しかし、ちっとも感動しないどころか、「外してるなあ」という印象が強い。
そもそも、そこに感動を求めようとする演出そのものが要らない。歌なんて入れずに、むしろサラッと処理してしまった方がいい。
そんなトコに力を入れるぐらいなら、本来なら重要なキャラであるはずのレオナルドを、もう少し厚く描いた方がいい。
登場したかと思ったらマルコの心意気に惚れており(密航していたマルコを見つけたり、彼と話したりするシーンは無い)、惚れたと思ったらブラジルで別れちゃうので、「段取りを処理するためだけに、使い捨てにされている」という印象が強いぞ。
だから、マルコが泣いて感謝しても、まるでピンと来ない。

フォルゴーレ号がイタリアを出航すると歌が流れ、航海の様子がダイジェスト処理され、わずか2分でリオ・デジャネイロに到着する。
マルコがイタリアを出るまでに時間を使い過ぎているもんだから、出発した後は、最後までずっと「TVシリーズの総集編ダイジェスト」という状態が続く。
フェデリコたちと出会う移民船のシーンも、やはりコンパクトにまとめてある。だから、嵐が起きて移民がパニックに陥った時、フェデリコが勇ましく歌い出し、マルコが続き、他の面々も合唱するというシーンも、ドラマとしての盛り上がりに欠ける。
人間関係もキャラ描写も薄く、そのシーンだけが点になっているからだ。
マルコがパブロと出会って仲良くなり、フアナも含めて交流を深め、高熱を出したフアナのためにマルコが有り金を捻出し、お礼としてパブロが貨車に無賃乗車させ、自分が囮として駅員に殴られるという「友情と感動のドラマ」にしても、本来ならば30分ぐらい使って描写したいところだが、実際は10分程度で片付けてしまう。
TVシリーズのような、「最初はパブロがマルコに敵対心を見せるが、そこから一気に仲良くなる」という手順も改変によって無くなっている。

マルコがアンナと再会するシーンは、「マルコが来たのにアンナは目を覚まさず、翌朝になって気付く」という形に改変してある。つまり、マルコが到着した時点では病気で死にそうになっていて、翌朝には病状が回復するってことだ。
でも、それだとマルコが来た意味が無い。
マルコが来なくても、翌朝になってアンナが目を覚ますという状況は変わらないでしょ。そうじゃなくて、「マルコが来たから、アンナは息子のためにも生きなきゃいけないという気力が湧いて、手術によって回復した」という形にすべきじゃないかと。
それと、「手術によってアンナが回復した」という展開をバッサリと削ぎ落としたことによって、「マルコが医師のロドリゲスに感謝し、自分の医師になりたいと考える」と動機の部分が薄弱になってしまう。マルコがロドリゲスに「ありがとうございました」と礼を言っても、何に対する礼なのかボンヤリしてしまう。
その後にロドリゲスが「君は医学に興味があると言っていたね」と話すけど、「そんなこと、いつ言ったんだよ」とツッコミを入れたくなるし。

マルコの「この御恩は」という言葉に対し、ロドリゲスは「それは君が大人になるまでお預けだ」と告げる。マルコが医者になりたいという考えを説明すると、彼は「その志が実現したら、もう一度この国を訪ねてほしい。私たちは、その日が来るのを楽しみに待ってる」と語る。
だから当然のことながら、回想劇が終了したら「大人のマルコがアルゼンチンへ向かう」という展開でも用意して締め括るんだろうと思っていた。
ところが、そのマルコとロドリゲの会話シーンで、映画本編は終わってしまうのだ。
エンドロールで大人のマルコがチラッと写り、医師としての活動を示す写真が写るけど、それだけで済ませちゃうのかよ。
本編の中で「現在のマルコ」に戻らないってのは、どう考えたって構成として欠落しているだろ。

(観賞日:2015年4月14日)

 

*ポンコツ映画愛護協会