『教祖誕生』:1993、日本

高山和夫は帰省する途中、ある宗教団体が街頭で布教活動をしている様子を目撃する。その宗教の教祖が手をかざすと、車椅子の老婆が自力で立てるようになった。和夫は老婆がサクラだということを知り、その宗教団体に興味を持つ。
和夫は教団の主管である司馬大介の口添えで、彼らに同行することになった。教団には純粋に信仰を守ろうとする駒村哲治のような熱心な信者もいたが、司馬や経理担当の呉はビジネスとして考えており、インチキ療法での金儲けを励んでいた。
教祖は単なる町で拾った酔っ払いの老人だったが、やがて本当の病人まで治療しようと考え始めてしまう。司馬は教祖に金を渡して教団から追放し、新しい教祖に和夫を据える。和夫が教祖としての修行を積む中、司馬と駒村の対立は深まっていく…。

監督は天間敏宏、原作はビートたけし、脚本は加藤裕司&中田秀子、製作は鍋島壽夫&田中迪、企画は森昌行&馬越勲、プロデューサーは吉田多喜男&吉田就彦、撮影は川上皓市、編集は荒川鎮雄、録音は宮本久幸、照明は磯崎英範、美術は磯田典宏、衣裳は中山邦夫、音楽は藤井尚之。
出演は萩原聖人、玉置浩二、岸部一徳、ビートたけし、下条正巳、南美江、山口美也子、国舞亜矢、もたいまさこ、田村元治、つじしんめい、矢野泰子、秋山見学者、津田寛治、窪田尚美、本庄和子、小池幸次、徳永廣美、藤谷果菜子、神田正夫、高山千草、水上竜志、吉田淳、谷口公一、寺島進ら。


ビートたけしの原作を映画化した作品。
和夫を萩原聖人、駒村を玉置浩二、呉を岸部一徳、司馬をビートたけし、初代教祖を下条正巳が演じている。
着眼点と切り口は決して悪くない(むしろ面白い)と思うのだが、どうやら切り方が浅かったようだ。

最初から教団がインチキ臭を丸出しにしているというところで、もう話に乗り切れなくなった。
堂々とサクラが人前で教団に同行するなんて、イカサマを公表しているようなモノ。
中身はインチキ臭い教団でイイから、外面はもっとホンモノらしく見せるべきだろう。

田舎を転々と巡って布教活動をしている様子も、マイナスに働いているように思われる。布教活動の中で集会が行われたりもするのだが、客席は半分も埋まっていないなど、スケールが小さい。
もっと最初からスケールの大きな教団にした方が良かったかも。

呉や司馬に対比させるキャラが駒村というのは弱い。
というのも、駒村は信仰心はあるが、教団のインチキを知っているわけだし、彼らに同行しているので、教団サイドに取り込まれているからだ。
宗教が本当だと考えてイカサマを知らずに崇拝している信者を用意した方が、騙す側と信じる側のコントラストが見えて面白くなったと思う。

和夫が本気で教祖に目覚めるに至る動機が、全く見当たらない。
例えば1人の相談者をクローズアップして、その人の相談に親身になる余りにマジになるとか、あるいは相談者に感謝されてマジになるとか、そういう展開を用意すれば良かったかも。

宗教をコケにするにしても突っ込むにしても、鋭さが足りない。
例えば教団の教義や枠組みなどを明確に描写しておいた方が、もっとリアリティーが出たはずだ。
ほぼ一方的に騙す側ばかりを描いていて、信者の声がほとんど聞こえてこないのも気になる。
もっと盲目的な信者の熱狂ぶりを見せるべきだったのではないだろうか。

この作品は「デタラメな宗教を信じてる人間や、信仰に目覚めてしまう人間」を皮肉っぽく描くことで面白くなるはずなのだが、最も肝心なはずの、その部分の描写が弱いのだ。
結局、徹底的にシニカルになり切れなかったということだろうか。

 

*ポンコツ映画愛護協会