『京都太秦物語』:2010、日本

京都太秦、大映通り商店街。東出クリーニング店の長女である東出京子は、家族4人で朝食を取る。高校に通う妹の智絵は、ほとんど手を付けずに学校へ向かう。父が仕事を始める中、京子は自転車で職場である立命館大学へ向かう。やなせ豆腐店の一人息子である梁瀬康太を目にした彼女は声を掛け、朝早くからどこへ行くのか尋ねる。お笑い芸人の康太は、大坂へオーディションを受けに行くことを話す。
京子は司書になることを目指しており、現在は立命館大学の図書館で派遣職員として働いている。榎大地という白川静文字学の客員研究員が来るが、目当ての本は貸し出し中だった。来年の2月15日が返却期限だと知ると、彼は「あと4週間しかここにいられないんだよ」と文句を言う。京子はリコールの手続きを勧めるが、まだ榎木の怒りは収まらない。しかし京子が謝罪すると、榎は急に恐縮した。榎が背負ったリュックの重さで転倒したので、京子はカートを貸した。
康太は相方のナベとオーディションを受けるが、まるで受けずに不合格となった。「ネタ飛んでもうたわ。ツッコミも間違ってたし」とナベが謝って落ち込むと、康太は「ラーメンでも食おうや」と元気付けた。夜、京子は康太が訪ねて来たので、外へ出た。すると康太は、ナベがコンビ解散を告げたこと、田舎へ帰って父親の仕事を手伝うと話したことを語る。強い苛立ちを示す康太に、京子は今後のことを考えるよう促した。
1人でやったらどうかと京子が勧めると、康太は「学生時代はみんなに受けると単純に嬉しかった。でも今は有名になりたい、モテたいという気持ちがプレッシャーになってる」と話す。「自分で分かってるんやったら、初心に帰る努力してみたらいいやん」と京子が言うと、彼は「そんな簡単に行くか」と口にする。京子が励ますと、康太は彼女にキスをして「どっか行こう」と言う。京子は「康ちゃんは私のこと、どう思ってんの?自分のことは話すけど、私のことは一回も言うてくれへんやん」と告げ、泣きながら走り去った。
クリーニング店を訪れた榎は、京子がいたので驚いた。京子が洗濯物を干していると、父親の許可を得た榎が上がって来た。彼が太秦の由来について詳しく説明すると、京子は感心した。榎は白川静文字学について問われ、饒舌に語った。京子が高校時代に走り高跳びをやっていたと聞くと、榎は妄想を膨らませた。その夜、智絵は京子に、「今日来たヒゲの変な人、お姉ちゃんに気があるんと違うの?康ちゃんに浮気してるって言い付けるで」と冗談めかして述べた。
榎は京子への思いを募らせ、本を返却する時に漢詩の恋文を挟んでおいた。しかし京子は漢詩の意味が分からず、榎が店へスーツを取りに行った時に忘れ物として渡した。榎は漢詩を読んで意味を説明し、「僕の貴方への思いを書きました」と言う。京子が「いけません。私には決まった人がいます」と動揺しながら告げると、彼は「そんなことは僕にとって関係ない。僕が貴方を好きだってこと、分かってほしいんだ」と告げて彼女との距離を詰めた。両肩を掴まれた京子が戸惑っていると智絵が来たため、榎は店を立ち去った。
榎が記念研究発表会で文字学について解説していると、京子がやって来た。後日、榎は図書館へ本を返しに来て、職員以外は立ち入り禁止の区域にまで足を踏み入れる。彼は京子に、「もうすぐ短期研究期限が過ぎるので、東京に帰らなければいけません。今夜一緒に、食事をしてもらえませんか」と誘う。京子が困った様子を見せても、彼は強引な態度で気持ちをぶつける。しかし別の職員が来て立ち入り禁止になっていることを告げたので、榎はその場を去った。
その夜、康太は京子と食堂へ出掛け、後輩に頼まれて立命館大学のお笑いライブに出演することを話す。彼は嬉しそうに「俺のピン芸の初舞台や。京子も来てや」と言い、京子も喜ぶ。しかし当日、京子が智絵と共に見ていると、康太のビン芸は観客に全く受けなかった。ライブの後、京子は康太と共に河原へ出掛けた、彼女が受けない理由について「お客さんを笑わせようという気持ちが見えすぎてるんやないかな」と考えを述べると、康太は「お笑い芸人が人を笑わせようとしたらアカンのか」と反論した。
苛立った康太は、「俺はお笑いに向いてへんいうんか。お笑い辞めて豆腐屋の親父にでもなれって言うんか」と告げる。その言葉にカチンと来た京子は、康太を激しく非難した。康太が不機嫌になって立ち去った後、その様子を見ていた榎が京子に声を掛けた。榎は場所を移動した後、北京大学へ留学することを京子に話した。留学期間は2年で、彼は京子に付いて来てほしいと頼む。京子は困惑するが、榎は彼女に翌朝の新幹線のチケットを握らせた…。

監督は山田洋次&阿部勉、企画・原案は山田洋次、脚本は山田洋次&佐々江智明、製作は長田豊臣&野田助嗣、プロデューサーは山本一郎、撮影は近森眞史、録音は岸田和美、編集は石島一秀、美術は西村貴志、照明は土山正人、ダンス監修は田中泯、白川学監修は高島敏夫、お笑い指導は鹿児島俊光、音楽は富貴晴美。
出演は海老瀬はな、USA(EXILE)、田中壮太郎、田中泯、西田麻衣、北山雅康、ボルトボルズ弓川、アメリカザリガニ、のろし、代走みつくに、池田勝志、仲野毅、鹿児島俊光、山田啓二、小阪風真、寺石逸子、槙山広樹、山村嵯都子、高嶋敏夫、五十川あき、ガ→デん、植田そら、鈴木豪、内藤麻貴、廣瀬浩二、大西圭子、東出耕太郎、東出好子、梁瀬一仁、梁瀬弘美、山本和子、谷口輝余子、山本明彦、中川みゆき、中川星矢、中川香澄、藤居茂、藤居八重子、御館統生、角谷博之、中川俊也、森義治、宮原一男、宮原見充子ら。
ナレーションは檀れい。


松竹&立命館大学&京都府による「産学官連携プロジェクト」の一環として製作された映画。
立命館大学映像学部客員教授の山田洋次が監督と脚本を務め、22名の学生が製作に携わっている。
共同で監督を務めた阿部勉、共同脚本を担当した佐々江智明は、いずれも山田洋次の助監督を務めて来た人物だ。
京子を海老瀬はな、康太をUSA(EXILE)、大地を田中壮太郎、先輩警備員を田中泯、智絵を西田麻衣が演じており、檀れいがナレーションを担当している。

冒頭、「京都の三条通を真っ直ぐにどこまでも西に行くと、弥勒菩薩で有名な広隆寺を通り過ぎて太秦に辿り着きます。かつて、この町は東洋のハリウッドと呼ばれたほど幾つもの撮影所がありました」という檀れいのナレーションが入り、「大映通り商店街」という表記が出る。そして「その1つの大映撮影所では『羅生門』や『雨月物語』という、世界の映画史に残る傑作が作られたのです」という語りが入り、旧大映京都撮影所や両作品の主演女優である京マチ子の写真が写し出される。
その導入部は、完全にドキュメンタリーの作りになっている。
しかし、そこで写し出されている景色の中で、京子が朝のジョギングをしている。そして「大映通り商店街の朝、この物語は東出クリーニング店から始まります」というナレーションの後、京子が店に戻って来る。
そこからドラマがずっと進行していくのかと思いきや、朝食の様子をチラッと見せた後、クリーニング店の主人である東出耕太郎のインタビュー映像が入る。京子の両親を演じる東出耕太郎と東出好子は、実際に大映通り商店街でクリーニング店を営む夫婦なのだ。
だからインタビューの部分も、やはりドキュメンタリーってことになる。

ただ、クリーニング店の主人にインタビューで「ほとんど寝ずに仕事をしてきた」とか語られても、「だから何なのか」と言いたくなる。
映画の最初に「この作品は松竹と立命館大学、そして長い映画の歴史を誇る京都太秦通り商店街の人たちが、映画再興への熱い思いを込めて描くラブストーリーです」という山田洋次のメッセージが表記されているんだから、インタビューの内容は「撮影所が元気だった頃の思い出」とか、そういうモノなら分かるのよ。でも全く関係の無いことを喋られても、作品として散らかるだけでしょ。
京子も「図書館司書を目指す女性」という体裁でインタビューを受ける映像が挿入されており、ドキュメンタリーとフィクションを混合させてあるんだけど、どういう作りなのかと戸惑ってしまう。
これがモキュメンタリーなら、そういうのも分かるのよ。だけど、ドラマ部分はドキュメンタリーと全く無関係なモノとして存在しているわけで、だからインタビュー部分との相乗効果も得られていない。
ドラマ部分とインタビュー部分が、まるで別のベクトルを向いているようにしか思えないのだ。

康太の両親役の梁瀬一仁と梁瀬弘美も、実際に大映通り商店街で豆腐店を営む夫婦だ。
梁瀬一仁はインタビューで「出来れば息子に店を継いでもらいたい」と語り、それを受けて康太のインタビューも挿入される。
ただ、ここも映画再興とは全く結び付かない内容になっている。
「商店街を盛り上げよう」ってのがメッセージなのか。でも、だとすると冒頭に表記されたメッセージとズレちゃってるし。

USAの芝居は見事なぐらい大根なのだが、そもそも演技のプロじゃない人に対して「京都の人間で、お笑い芸人」というキャラクター設定はハードルが高すぎるでしょ。
まず京都弁だけでも随分と苦労している感じなのに、そこにお笑い芸人としての芝居もあるんだぜ。そりゃ厳しいだろ。
で、その大根ぶりが特に顕著なのはインタビュー部分だ。他は実際に大映通り商店街で働く人々であり、だから素人臭さがあっても成立するんだけど、USAは京都弁で演技をしているせいで、余計に稚拙さが目立つという皮肉な結果になっている。
「そうか、オヤジ、そんなこと言うてましたか」と泣きそうになる芝居なんて、かなりドイヒーになっちゃってる。

康太は京子から「中学生の頃、みんなを笑わしてたやん。ジャッキー・チェンとか、ブルース・リーとか」と言われ、酔拳の真似をする。
だけど、それって人を笑わせるネタなのかな。
あと、康太は「あの頃は歌ったり踊ったりすることが楽しいて、楽しいて」と言うけど、歌と踊りが楽しかったのかよ。お笑いじゃないのかよ。歌ったり踊ったりしていたのなら、そっちの方面へ進もうとすりゃ良かったんじゃないのかよ。
そんで「歌ったり踊ったり」と言ってるのにジャッキー・チェンやブルース・リーの真似をしていた設定だし、どういう奴にしたいのかブレブレじゃねえか。

お食事処つたやの女将が「朝早くから弁当を作って撮影所に出前を届ける日々が続いている。昔はメニューを持って撮影所を回っていた。ものすごく忙しかった」などと語るインタビューは、映画に関連した内容だ。
ただし、榎が食堂にいるシーンが、女将のインタビュー映像を挿入するためだけのモノになっているってのは頂けない。
インタビュー映像が終わると榎は外に出ており、食堂では何のエピソードも描かれないんだぜ。
インタビューがメインで、榎の登場する部分が刺身のツマみたいになっちゃってるのよ。

お食事処つたやの女将のインタビュー映像の後、店を出た榎が万引き男を目撃する様子が写し出される。
何の意味があるのかと思ったら、東出耕太郎の「品物を盗まれたことがあった」というインタビュー映像の後、夜になって万引き男が母親に連れられて謝罪に来る様子が描写される。
でも、「だから何なのか」と言いたくなる。
それ、メインのストーリーに何の関係も無いからね。捨てゴマとしては意味を持たせすぎちゃってるし。

中川デンキや、たぬき堂書店の店主は、映画産業と商店街の関係についてインタビューで語る。この2人に関しては、最初にインタビュー映像で登場し、その後にドラマ部分で顔を見せている。
それは順序が逆じゃないかと。
っていうか、映画に関する内容か否かに関わらず、インタビュー部分の必要性がサッパリ分からないんだよなあ。前述したように、ドラマ部分との関連性が薄くて、何の相乗効果も発揮していないしね。ドラマ部分も映画産業と関連の深い内容ならともかく、まるで無関係なんだから。
だから商店街の店主たちが映画産業や撮影所について語っても、ドラマ部分とリンクする箇所が無くてバラバラのままなのよ。

前述したように冒頭で「ラブストーリーです」と出るんだけど、その肝心なラブストーリーが陳腐極まりない。
まず康太が京子にキスをした時に「急な展開だな」と感じ、その後2人のやり取りで「こいつら付き合ってたのかよ」と驚かされる。さらに、京子が泣いて自分の気持ちを吐露することに違和感を覚える。
っていうか、もっと穏やかで緩やかでホンワカした恋愛劇を淡々と描き出せばいいのに、そっちの方がドキュメンタリー部分とも合うだろうに、やたらとシリアスでドラマティックに仕上げようとしているのね。
だけど、それに見合うドラマの厚みや深みが無いもんだから、無理が生じてギクシャクしてしまっている。

榎の京子への思いを表現する方法として、この映画は「高校で走り高跳びをやっていたことを知った榎が、体操着で高跳びをする彼女の姿を妄想する」というシーンを2度に渡って挿入している。
それって、ただの変態にしか思えないのよ。純粋な恋愛感情ではなく、欲情が圧倒的に勝っていると感じるぞ。
それと、榎のキャラクター造形や芝居がクドすぎて、完全に浮いているんだよな。しかも彼を使って恋愛劇を作っているもんだから、その恋愛劇自体も浮いてしまう。
ドキュメンタリー的な情景描写とも、全く融合していない。恋愛劇がメインだと考えると、むしろ周囲をそっちに合わせるべきなんだろうけど、どっちにしろ全体のまとまりが無いってことよ。

榎が単に気持ち悪い男にしか見えないし、京子は康太と付き合っているんだから、相手にしなければいい。
ところが、なぜか京子は榎のアタックを受けて迷いを示している。
告白されただけで心が揺れ動いているんだから、簡単な女だなあ。それまでは恋愛感情なんて1ミリも抱いていなかった相手なのに。
それどころか、「北京へ付いて来てほしい」と誘われたり、東京へ向かう新幹線のチケットを渡されたりしたら、本気で行こうかどうか迷ってるんだぜ。
なんだよ、そのアンポンタンな思考回路は。

深夜の警備員をしている康太がマネキンを相手に踊り出すシーンは、なぜ用意したのか理解に苦しむ。
それは「お笑い芸人が軽いノリで踊ってみた」というレベルではなく、当然っちゃあ当然だがプロのダンサーとしての踊りだ。そういうのを「USAの見せ場」として用意してしまったら、「お笑い芸人」というキャラ設定がブレるでしょうに。
それなら「プロを目指すダンサー」という設定にしておけばいいだけのことだ。なぜ芸人の設定にしてあるのかサッパリ分からないんだし。
松竹の映画だからって、松竹芸能に気遣いしなきゃいけないというわけでもあるまいに。

康太が「お笑い辞めて豆腐屋の親父にでもなれって言うんか」と告げると、京子は急に怒り出し、「豆腐屋の親父って、なんてこと言うの。お父さんの仕事を馬鹿にするやなんて、誰のおかげで大きなったと思ってるの。ウチはクリーニング屋やから、職人の仕事がどんなに大変か分かってるつもりよ。一人前の豆腐屋になるにはどんだけの苦労と才能が必要か、子供の頃から見て来た康ちゃんはよう分かってるはずやないの」と非難する。
その怒りのスイッチ、サッパリ理解できないわ。
そもそも、今はそんなことを話してるんじゃないでしょ。なんで論点を自分からズラすのよ。
まさか、ホントに「お笑いの才能は無いから豆腐屋を継ぐべきだ」と言いたかったのか。

その会話劇の辺りから、急に話を「商店街に残って店を継ぐべきか否か」「町に残るべきか否か」みたいな方向へ展開させるんだけど、強引すぎて違和感しか抱かない。
そもそも京子は立命館大学で司書として働き続けたいと思っていたわけだから、町を離れる気も無かったはず。
だけど、「榎から北京へ付いて来てほしいと頼まれて悩む」という筋書きで、そっちへ舵を切らせようとする。
でも前述したように、その恋愛劇からして強引極まりないからね。京子が悩む要素なんて、ホントは何も無いはずだからね。

康太が「30歳を過ぎても芽が出えへんようやったら豆腐屋を継ぐ。1年半待ってくれって親父と話した。豆腐屋の親父になったら、豆腐屋の女房になってくれるか」と話すと、京子は嬉しそうに「いいよ。康ちゃんと2人で美味しい豆腐を作る」と言う。
だが、それは話の着地として全く賛同できない。
そもそも、康太は「お笑い芸人として成功したい」という夢があるんでしょ。だったら、「もしも芸人を諦めて豆腐屋になったら結婚してくれ」と言うのは違うでしょ。
なんで最初から失敗した時の保険を掛けるような約束を求めるのかと。そんなことを言い出すぐらいなら、今すぐに芸人なんて辞めちまえよ。

一方の京子も、そこで嬉しそうにイエスと返事するのは間違ってるだろ。それだと、まるで康太が芸人として失敗するのを期待しているかのようじゃねえか。
まだ康太が芸人として頑張っているんだったら、むしろ「失敗した時の約束なんて出来ない」と断るべきじゃないのか。そして、芸人として売れることを応援してやるべきじゃないのか。
もしも「芸人を辞めてほしい」という気持ちがあるのなら、辞めたら結婚してくれと言われて喜ぶのも分からんではないよ。
でも、そうだとしても話の作りとしては中途半端で、もっとハッキリとした形で「康太が芸人の道を諦め、豆腐屋を継ぐことを決める」という展開に至るべきだわ。

あと、康太に芸人の才能は全く感じないから足を洗うのはいいとしても、それと豆腐屋を継ぐのは別問題として捉えるべきなんだよな、ホントは。
まるで彼が豆腐屋を継ぐことが正しい選択のように描かれているけど、「芸人の才能が無いから豆腐屋を継ぐ」ってのが、ただの逃げ道にしか見えないのよ。
康太が父親を尊敬する気持ちを改めて抱いたとか、豆腐屋の仕事に誇りを感じるようになったとか、そういうことではないのでね。

それと、康太が豆腐屋を継いだ場合、当然のことながら奥さんも手伝うことになるわけだ。
だから京子が康太との交際を続けて結婚に至った場合、当然のことながら図書館司書になる夢は断念せざるを得くなる。
康太は才能が無いから芸人を諦めてもいいけど、京子は全く立場が異なる。
頑張れば「図書館司書として立命館大学で働く」という希望は叶えられる可能性もあるのに、康太が豆腐屋を継ぐことで、それを断念せざるを得なくなるってことを考えると、どうにもスッキリしないんだよな。

(観賞日:2015年4月8日)


第7回(2010年度)蛇いちご賞

・新人賞[USA(=宇佐美吉啓)]

 

*ポンコツ映画愛護協会