『黒執事』:2014、日本

その世界は、西と東に分断されていた。女王が統治する「西側諸国」、それに対立する「東側諸国」。西側の女王は世界統一を果たすため、諜報活動を行う腹心の貴族を各国に送り出していた。その存在は「女王の番犬」として噂され、恐れられていた。3週間前から東側の某国では、ミイラ化した遺体が7体も発見されていた。事件性の有無について、保安省は明確な発表を行っていなかった。その夜、車を運転していた男がスラム街の路地に突っ込み、ミイラ化して死亡した。
青木宗光と手下たちは、倉庫に大勢の少女たちを拉致監禁していた。少女たちに紛れ込んで潜入した幻蜂清玄は、青木が女に封筒を渡している様子を撮影した写真を所持していた。写真を見つけた青木に、清玄は「ミイラになった者の多くは生前に貴様と接触していたようだな。あの写真に写っている封筒の中身はは何だ?」と質問した。青木が清玄を蹴り付けると、幻蜂家の執事を務めるセバスチャンが現れた。彼は清玄の命令を受けて、一味を始末した。青木は発砲するが、セバスチャンは銃弾を浴びても平然としていた。「知っていることを全て話せ」という要求を青木が拒否したので、清玄はセバスチャンに彼を殺害させた。
幻蜂家は19世紀から続く名門貴族であり、当主の清玄は豪華な屋敷に暮らしている。セバスチャンの他に、ハウスメイドのリンとハウススチュワードの田中が幻蜂家に仕えている。女王直属秘書官のチャールズ・B・サトウは清玄を訪ね、「悪魔の呪いで、また新たな犠牲者が出ました」と言う。彼は大使館員のアンソニーがミイラ化した遺体で見つかったこと、現場には悪魔の絵柄が印刷されたカードが残っていたことを語る。これまでと同じ手口であり、犠牲者は諸外国の大使館員ばかりだ。
サトウは清玄に、女王陛下が解決を急ぐよう求めていることを伝えた。清玄はセバスチャンに、警察の捜査資料を手に入れるよう命じた。警察保安省外事局の鴇沢一三は指揮官の猫磨実篤と会い、倉庫の事件で黒い燕尾服を着た男が12人を殺害したという目撃情報があることを告げる。彼は現場に落ちていた紋章入りのボタンを見せ、女王の番犬がいたのだと語る。「我が国にとって危険な存在。排除が必要です」と彼が話すと、猫磨は「憶測だけで許可は出来ない」と言うが、「番犬を消すなら飼い主にバレないようにね」と付け加えた。
清玄は経営するファントム社の会議に出席するが、事件のことが気になって上の空だった。母の妹で共同経営者でもある若槻華恵は、協力できることがあれば言ってほしいと告げた。ファントム社は西側の名門貴族が幻蜂家を名乗り、東側に移住して創設した玩具会社だ。事業は拡大の一歩を辿っていたが、三代目当主の有人と妻の絵利香が何者かに射殺され、一人娘の汐璃は行方不明となった。事件の半月後、有人の隠し子を名乗る清玄がセバスチャンと共に現れた。DNA鑑定で血縁が証明され、華恵が清玄の後見人となった。
清玄はサトウと会い、警察の捜査資料を渡した。清玄とセバスチャンは葬儀屋のジェイを買収し、彼に運ばせていたアンソニーの遺体を調べた。清玄は歯に挟まった葉巻の切れ端を発見し、セバスチャンはワインの染みが付着したハンカチの存在を教えた。清玄は彼に、葉巻とワインの流通ルートを探るよう命じた。すぐにセバスチャンは、高級クラブの地下で一部の者しか入れない秘密の会合が行われていること、それ以外に葉巻とワインが揃う場所が見つからなかったことを報告した。彼の話を聞いた清玄は、写真に写っていた封筒の中身がパーティーの招待状だと確信した。
既にセバスチャンはパーティーの参加者リストを手に入れており、潜入するには紹介が必要だと告げる。リストを見た清玄は、華恵の知り合いが多いので何とかなるかもしれないと考える。清玄は華恵と会い、招待状を手に入れる頼みを承知してもらう。華恵は清玄が両親を殺した犯人への復讐心を抱いていると知っており、気持ちは同じだと告げた。華恵が発作で胸を抑えると、すぐに執事の明石が薬を渡した。華恵が落ち着いた後、リンがヘマをして薬瓶を飛ばしてしまう。セバスチャンは薬瓶を掴み、明石に渡した。
会場入りするにはエスコートする相手が必要なため、清玄はリンを連れて行くことにした。華恵から招待状を受け取った清玄は、刻印を見て顔を強張らせた。それは両親を殺した犯人の拳銃に刻まれていた物と同じだった。清玄はパーティーの主催者がイプシロン製薬社長の九条新兵だと聞き、セバスチャンに薬品工場の調査を命じた。ハーティー会場へ潜入した清玄は、九条が武器商人の篠崎洋造と去る様子を目撃した。清玄はリンに留まるよう指示し、2人の後を追う。だが、リンが付いてきたせいで発見され、2人とも捕まった。
セバスチャンは薬品工場へ潜入し、古い文献を呼んで錠剤を入手した。奥の部屋に入った彼は少女の遺体を発見した後、工場を爆破した。頭から袋を被せられた清玄は、九条が取引相手と話す様子を目にした。九条は新作ドラッグを試す会と偽り、壁に向こう側にある部屋へ数名の人々を集めていた。彼は新作ドラッグの披露と偽り、カプセルから蒸発した成分を吸い込むとミイラ化する薬品「ネクローシス」の実験を行った。九条は解毒剤を奪い合う面々の様子を見た後、取引相手に薬品の化学式を差し出した。すると取引相手は彼を射殺し、清玄を放置して部屋を後にした。
リンと共に脱出した清玄は、セバスチャンに命じてサトウを呼び出させた。清玄は悪魔の呪いの正体がネクローシスであること、招待客が店を去る時に九条が薬品を仕込んだ葉巻を渡したことをサトウに語り、「オーダーして彼を殺したのは篠崎に違いない」と述べた。清玄は篠崎の元へ行こうとするが、警察からセバスチャンと共に来るよう要請される。セバスチャンは荒っぽい手を使おうとするが、サトウが「今日は各国の要人が集まる除霊祭があります。トラブルは避けて頂きたい」と釘を刺した。
セバスチャンは清玄の指示を受け、保安省へ赴いた。鴇沢は特別調査室に彼を連行し、部下の松宮たちに痛め付けて尋問するよう指示して立ち去った。セバスチャンは松宮たちを軽く始末し、その場を後にした。一方、篠崎商事へ乗り込んだ清玄は、地下で社員たちが次々に射殺されている様子を目撃した。そこへリンが来るが、2人とも敵に見つかって銃を向けられる。敵の動きを見た清玄は、連続怪死事件で世界中の注目を集めて除霊祭での大規模テロを行うこと、篠崎商事に罪を被せることを察知した。
リンは眼鏡が落ちた途端、急に強くなって敵を倒した。彼女は幻蜂家を守る一族であることを清玄に明かし、自分が戦っている間に脱出するよう促した。清玄を逃がした後、リンは窮地に陥った。そこへ清玄の命令を受けたセバスチャンが駆け付け、リンを助けた。清玄は華恵と明石の車に乗り込み、除霊会の会場へ向かおうとする。だが、華恵は清玄に拳銃を突き付け、工場へ連れ込んだ。ネクローシスをオーダーして九条を殺害したのも、大規模テロを計画したのも、全て彼女だったのだ…。

監督は大谷健太郎&さとうけいいち、原作は枢やな『黒執事』(掲載 月刊『Gファンタジー』スクウェア・エニックス刊)、脚本は黒岩勉、製作総指揮はウィリアム・アイアトン、製作は上木則安&竹内成和&田口浩司&高木政臣&宮本直人&遠藤真郷&菅野信三&平野宏治、エグゼクティブプロデューサーは久松猛朗、プロデューサーは松橋真三、共同プロデューサーは齋藤智裕、ラインプロデューサーは平野宏治、アソシエイトプロデューサーは田中美幸&江川智、撮影は鰺坂輝国、照明は平野勝利、美術は小泉博康、録音は芦原邦雄、スーパーバイジングサウンドエディターは勝俣まさとし、編集は今井剛、アクション監督は大内貴仁、VFXスーパーバイザーは小坂一順、スタイリスト(セバスチャン・汐璃)は徳永貴士、衣装は清水寿美子、音楽は松浦晃久。
主題歌「Through the ages」ガブリエル・アプリン 作詞・作曲:絢香、編曲:松浦晃久。
出演は水嶋ヒロ、剛力彩芽、優香、山本美月、丸山智己、岸谷五朗、伊武雅刀、志垣太郎、城田優、安田顕、橋本さとし、大野拓朗、栗原類、海東健、ホラン千秋、甲斐恵美利、宮川一朗太、小澤真利奈、マッシュー、吉田麻梨紗、野添義弘、宮田はるな、U、栄木明日香、横山美雪、結夜、山村真也、酒井靖史、中村卓二、中山ヨシロヲ、緒方泰司、細見環、内山直美、片山麻未、国武彰、中嶋さと、中村公美、萩原純、松尾信二、森田勝行、西小野竜希、天田益男ら。


枢やなの同名漫画を基にした作品。
脚本は『ライアーゲーム -再生-』『映画 謎解きはディナーのあとで』の黒岩勉、監督は『ジーン・ワルツ』『LOVE まさお君が行く!』の大谷健太郎と、『アシュラ』のさとうけいいちによる共同。
セバスチャン役の水嶋ヒロが、共同プロデューサーも務めている。
清玄を剛力彩芽、華恵を優香、リンを山本美月、明石を丸山智己、猫磨を岸谷五朗、九条を伊武雅刀、田中を志垣太郎、サトウを城田優、鴇沢を安田顕、青木を橋本さとし、松宮を大野拓朗、ジェイを栗原類、有人を海東健、絵利香をホラン千秋、幼少期の汐璃を甲斐恵美利が演じている。

現実と大きく乖離した世界観なので、そこに引き込むための作業が序盤では必要となる。
しかしオープニングに、そういう力は無い。
最初に「その世界は、西と東に分断されていた。女王が統治する「西側諸国」、それに対立する「東側諸国」。西側の女王は世界統一を果たすため、諜報活動を行う腹心の貴族を各国に送り出していた。その存在は「女王の番犬」として噂され、恐れられていた」という文字が表記されてナレーションでも説明されるが、まるで頭に入って来ない。

この映画は、越えなきゃいけないハードルが1つではない。
まず前述した世界観設定がある。「剛力彩芽が男言葉で喋るけど、男を演じているわけじゃなくて男装の麗人を演じている」ってのがある。「執事の見た目がバリバリの日本人なのに名前はセバスチャン」ってのがあって、「セバスチャンは人間じゃなくて悪魔」ってのがある。
それらは一度に越えられるハードルではなく、1つ1つ別々で越えなきゃいけないハードルだ。
漫画であれば、そこは上手く突破できるかもしれない。しかし1本の長編映画という限られた時間の中では、それは厳しい作業になる。
実際、まるで越えられていない。
それどころか、全てのハードルを倒していると言ってもいい。

私は原作を読んでいないのだが、どうやら大半のファンが激怒するぐらい大幅に改変されているようだ。
ちょっと調べてみると、なるほど、ほぼ別物になっていると言っていいだろう。
松橋真三プロデューサーによれば、原作は19世紀のイギリスが舞台なので、日本人キャストでは無理が出てくるので大幅な改変を施したらしい。
なるほど、舞台を近未来のアジアに設定したことで、その辺りの無理は完全に解消できている……とは到底思えないぞ。

舞台が現代の日本ならともかく、近未来における架空の国なので、やっぱりマズいことになっているよね。それに、日本人に変更しているけど、名前は日本人離れしているし。
あと、バリバリの日本人が「セバスチャン」という名の悪魔執事を演じている時点で、無理っちゃあ無理だろ。
そもそも原作の世界観からして、良くも悪くもバカバカしさ満開なんだよね。
それを考えると、日本人が外国人を演じたとしても、それほど大きな支障は無いんじゃないかという気がするのよ。
それは同じ類のバカバカしさであって、まるで別物に改変した本作品よりはマシじゃないかと。

前述したナレーション説明の後、雨の夜に車が激突する様子が描かれ、運転手がゾンビみたいな顔で喚いて怪死する様子が描かれる。
その後に「女王陛下からの指令−連続ミイラ化怪死事件を捜査せよ」という文字が出るのだが、「あの運転手はミイラ化したってことなのか。ちっともミイラに見えないけど」という引っ掛かりを覚える。
カットが切り替わると大勢の少女たちが倉庫のような場所に集められるが、全員が白い服ってことに関する言及は無い。
だから、そこも無駄に違和感がある。何か意味があって白い服の奴らだけ拉致されているのか、その辺りは良く分からない。

清玄は青木に「ミイラになった者の多くは生前に貴様と接していたようだな」と言うのだが、剛力彩芽の滑舌が悪いので、肝心の「ミイラになった者の多くは」という箇所が聞き取りにくい。
で、セバスチャンが青木と一味を殺した後、清玄は監禁されていた少女を放置したまま立ち去る。
そりゃあスパイだから警察に説明したりするわけにはいかないだろうけど、「そいつらから何かしらの情報を得ることが出来るかも」という考えは沸かないのね。
っていうか、そもそも青木を脅して情報を聞き出そうという考えはゼロなのね。

清玄は「本当は女だけど男を装っている」という設定なのに、登場した時点で女性の姿をしている。どう考えたって、最初に男装して男として振る舞う姿を見せなきゃダメだろ。
だから、その後でセバスチャンが「坊ちゃん」と呼び掛けたり、清玄が「ボク」と言ったりしても、そっちの方に違和感が生じるのよ。
長髪のカツラを外して短髪になったところで、もはや「女が男として過ごしている」という設定に入り込むことは難しい。
そもそも演じているのは紛れも無い女性である剛力彩芽なんだし。

かなり現実離れした話であることを考えれば、導入部では世界観を説明したり、主要なキャラクターの人物紹介をしたりすることに使った方がいいはずだ。
しかし、いきなり本筋に入ってしまう。しかも、かなり雑で慌ただしい片付け方をしてしまう。
そもそも、なぜ清玄が女王の番犬をやっているのか、サッパリ分からない。
両親を殺した犯人を見つけ出すのが目的なら、女王のスパイじゃなくても勝手に諜報活動をやればいい。彼女が女王の番犬として活動することのメリットや意味が、サッパリ分からない。

最初のエピソードによって、セバスチャンが銃弾を浴びても平気な不死身の男であることが分かってしまう。そして清玄が拳銃を頭に突き付けられても、瞬時に敵を倒して救うことが出来るほど無敵の男であることも分かる。
そうなると、そこからどんな話が進もうと、「清玄やセバスチャンがピンチだ」という類の緊迫感や危機感を抱くことは難しい。
最初にセバスチャンの驚異的な能力を見せることで観客を惹き付けようとするのは理解できるし、それは悪くない。
ただ、不死身キャラのアピールは後半まで引っ張った方がいいでしょ。

清玄が青木を殺して立ち去るとタイトルが表記され、サトウが仕事の依頼に来るシーンで連続ミイラ怪死事件についての説明が入る。その後にはセバスチャンも解説を入れている。
だったら、そこで初めて事件に触れる形にしておけばいいでしょ。
オープニングにアクションシーンを配置して観客を引き付けたいのは分かるけど、だったら事件とは無関係のアクションにすればいい。
どうせ、せっかく捕まえた青木を清玄が簡単に殺しちゃうから、何の情報も得られていないんだし。

鴇沢は「女王の番犬がいたら我が国にとって危険」と話し、猫磨はセバスチャンの始末を促す。
だが、そもそもの設定がボンヤリしているもんだから、なぜ女王の番犬がいたら危険なのか、なぜ排除しなきゃならんのか、まるでピンと来ない。
無駄にややこしい設定を用意して、それを観客に伝える作業に失敗しているため、映画の世界観に引き込むことが出来ていないのだ。
最も重要な作業を導入部で完全に失敗しているため(もしくは怠っているため)、その後で何をやろうが無駄な努力でしかない。
ちゃんと土台を作らないままドアや壁や屋根をデザインしても、マトモな家は完成しないのである。

原作に関する詳細は知らないけど、この映画って清玄がスパイ活動している設定も、事件に関するミステリーも、彼女が両親を殺した犯人への復讐心を抱いていることも、全て邪魔なんだよな。
松橋真三プロデューサーは『ダークナイト』を意識したことを認めているが、その時点で大間違い。
『ダークナイト』以降、あれを意識した映画がやたらと作られているけど、ロクな結果になっていないぞ。
っていうか、そもそも原作付きの作品で別の映画に寄せるってのは、考え方として絶対に間違っている。

『ダークナイト』問題は置いておくとして、上述したような要素をメインにして話を進めていくのであれば、「セバスチャンが清玄と契約を交わした悪魔の執事」というギミックは無駄にデカすぎて上手く融合していない。
セバスチャンの悪魔設定を排除し、「有能で腕の立つ執事」という部分だけを残したた方が、間違いなくスッキリとした仕上がりになる。
ただ、そんな内容にしたら、もちろん原作とは大幅に異なる内容になるし、もはや『謎解きはディナーのあとで』みたいになっちゃうけど。

リンは「警察の方が、坊ちゃんとセバスチャン様に御用があると」と言っているのに、なぜか清玄はセバスチャンだけを行かせており、警察の方もそれで納得している。リンは篠崎商事の地下で捕まった時、急に強くなって戦っている。
「それなら九条に捕まった時に無抵抗だったのは、どういうことなのか」と疑問が湧く。
っていうか、そもそも「眼鏡を外すと強くなる」という荒唐無稽でクセの強いリンのキャラは、邪魔でしかない。
これがシリーズ2作目であり、彼女が新キャラとして登場するのなら、問題は無い。しかし、セバスチャンというクセの強いキャラクターを紹介するだけで手一杯になっているわけで(手一杯どころか、そこも充分に消化できていない)、そこにリンを放り込んだもんだから、完全に散らかっている。

終盤、華恵は2時間サスペンスドラマの犯人のように、色んなことを詳しく喋ってくれる。
ただし、ちゃんと伏線を回収するトークを展開してくれる2時間サスペンスの犯人とは違い、彼女は何の伏線も無かった裏事情を語っている。
彼女が語る犯行動機はデタラメと言ってもいいような内容だが、どうせ映画自体がデタラメなので、ある意味ではピッタリだ。
ちなみに華恵も顔を知らない黒幕の存在が明らかにされており、まだ解決していない問題が色々とある。
つまり露骨な形で続編へ繋げようとしているわけだが、そういうの、なんかカッコ悪いよ。

セバスチャンは不死身の悪魔であり、人間より圧倒的に強いはずなのに、なぜか普通の人間である明石との戦いで苦戦を強いられている。
だけど、その後の展開を見る限り、本気になれば最初から簡単に勝てていたとしか思えない。
華恵が清玄に拳銃を突き付けたことで彼はナイフを捨てているけど、その気になれば瞬時に華恵の近くまで移動し、拳銃を奪い取ることも出来たはずだ。
そこから感じるのは、「段取りのために彼を駒として動かしているけど、動かし方が下手」ってことだ。

企画が持ち上がった段階で、実写化が困難であることは容易に分かったはずだ。
そして、大幅に改変して実写化するぐらいなら、もはや原作を使う意味が薄くなってしまうことも容易に理解できたはずだ。
つまり、本来なら選択肢は「実写化を断念する」「無理は承知で、なるべき原作の設定を生かしたまま実写化する」という2つだったはずだ。
ところが、そこに「バカな観客から金を巻き上げよう」という邪念が入ることによって、「大幅に改変して実写化する」という3つ目の選択肢が入り込み、そこが答えになってしまったのだ。

原作は人気作品だから、ファンは大勢いる。そのファンを取り込むことが出来れば、たくさんの金を搾取することが可能だ。
だから内容は全く別物なのに、原作のタイトルを利用してファンを欺こうという考えが芽生えてしまうわけだ。
実のところ、邦画の世界でそういった類の作品が公開されるのは珍しいことじゃないし、今に始まったことでもない。
まだプログラム・ピクチャーの制度があった時代には、漫画を原作としながら内容は全く異なる映画が多く作られていた。

ただし、それがファンからどう思われたか、作品の評価がどうだったかは「推して知るべし」である。
つまり、「昔も作られていたし」「他の人もやってたし」ってことで、同じことをやってもいいわけではない。
いや、やっちゃダメというルールがあるわけじゃないから、やってもいいのよ。
ただ、それが原作ファンから批判されることは確定的だし、大抵は一般客からもそっぽを向かれる結果になるってことは、ちゃんと認識しておくべきだ。
まあ本作品の場合、「原作と比較して云々」という問題ではなく、オリジナル作品として捉えた場合でも、色々と酷すぎるんだけどさ。

(観賞日:2015年8月2日)

 

*ポンコツ映画愛護協会