『仔鹿物語』:1991、日本
北海道、釧路の塘路。小学生の谷木健一は、JR標茶線の運転手を務める父・政夫、わかさぎ加工所で働く母・栄子、妹・さやかの4人で 暮らしている。彼らの住む家の隣を線路が通っており、運転する政夫の姿を見ることが出来る。秋、健一は友人3人と共に、近所に住む 中年男・織屋太郎に連れられてエゾジカの群れを見に出掛けた。エゾジカには、こずえや花子といった名前が付けられている。織屋は 健一達に、6月になればこずえと花子の子供が誕生すると告げた。
谷木一家は車で栄子の実家へ向かう途中、墓地の正面で佇んでいる老女・大崎かなと遭遇した。かなと知り合いだった栄子は、彼女の家 まで車で送ることにした。かなは夫を10年前に亡くし、牧草地を売り払って1人で暮らしていた。栄子の実家に到着すると、彼女の父・ 義夫と母・里枝、妹・よしみが出迎えた。栄子の実家は牧場を営んでおり、よしみが後を継ぐ予定となっている。
義夫は標茶線廃止の正式決定を伝える新聞記事を政夫に見せ、心配していることを話した。しかし政夫は、「全線やっているので大丈夫 です」と答えた。彼は寂しさを口にする栄子にも、「生涯、運転手を続けるつもりだ」と力強く言った。健一は氷の上で足を滑らせて 死んでいる鹿を見つけ、ショックを受けた。そんな健一に、織屋は「ワシらには分からん世界がある」と告げた。よしみは面識のあった 釧路支庁の職員・岡部茂と再会し、交際を始めた。
友人たちと遊んでいた健一は、割れた氷の下に転落した鹿の親子を発見した。4人は大人たちを呼んで2匹を救助してもらうが、仔鹿は 助からなかった。6月、山へ遊びに出掛けた健一は、花子の姿を見つけた。その直後、花子は山道に飛び出し、ジープにはねられて死亡 する。健一は、近くに花子の子供がいるのを見つけた。彼は花子の代わりに仔鹿を育てようと決意した。
健一は仔鹿を無人の塘路駅へ連れて行き、そこで飼うことにした。健一は幼稚園でミルクを分けてもらうが、仔鹿は飲もうとしない。織屋 に相談し、牛から搾った乳を与えてみるが、やはり飲まない。書道の授業中、健一はスポイトを使うことを思い付いた。試してみると、 仔鹿はミルクを飲んだ。健一は喜び、その仔鹿にラッキーと名付けた。
政夫と栄子は、札幌に住む政夫の兄・晶彦と妻・友子の夫婦を訪れた。晶彦は銀行員で転勤が多く、子供の教育のことを憂慮している。 しかし彼は、「札幌なら都会だから問題は無い」と口にした。そして政夫にも出て来るよう勧め、「運転手を続けて、定年後はどうする つもりだ」と問い掛けた。一方、健一は両親がいない自宅にラッキーを連れて行き、さやかにも紹介した。兄妹はラッキーの世話をして、 一緒に眠った。
よしみは岡部から、「本庁へ戻ることになったので東京へ付いて来てほしい」とプロボーズされた。健一はラッキーを塘路駅へ連れ戻るが、 栄子が自転車を見つけて不審を抱く。慌てて身を隠そうとした健一は、手を滑らせてボヤを起こしてしまう。栄子は「駅で騒ぎを起こすと、 お父さんに迷惑が掛かる」と激怒し、ラッキーを山へ返すよう要求する。そこへ織屋が現れ、「この時期に山へ返すと死んでしまう」と 説き伏せた。そして秋には山へ返すという条件で、飼い続けることを栄子に承知してもらった。
谷木一家で札幌へ出掛けた時、政夫は先輩の駒井と再会した。駒井は運転手から転職し、レストラン支配人になっていた。駒井は転職に 関して「情勢の変化に対応するだけだ」と語り、割り切りの大切さを説いた。塘路に戻った健一は、織屋と共にラッキーの小屋を作った。 岡部はよしみの実家へ挨拶に訪れるが、彼が長男だと知った義夫は牧場の将来について不安を覚えた。
政夫は上司の須川に、さよなら列車の運転を願い出た。須川はそれを受け入れた後、JR系列の不動産会社への転職を持ち掛けた。帰宅 した政夫は、転職して札幌へ行くことを決めたと家族に発表した。台風が襲来する中、健一はラッキーがぐったりしているのを発見する。 健一は慌てて政夫に相談し、獣医を呼んで注射を打ってもらうが、ラッキーは元気にならない。
行者ニンニクが病気に効くと聞いた健一は、友人と共に山へ向かった。しかし健一たちは道に迷い、帰れなくなってしまう。途中で帰った 1人が学校に報告したため、健一たちが山に入ったことは政夫と栄子の耳にも届いた。政夫や織屋たちは、子供たちを捜すため山へ向かう。 翌朝になって、ようやく政夫と織屋は子供達を発見した。心配しすぎてヒステリックになった栄子は「早くラッキーを山に返しなさい」と 健一に言うが、政夫が説き伏せた…。監督は澤田幸弘、脚本は勝目貴久&澤田幸弘、製作は若松正雄、プロデューサーは結城良煕、企画は 根岸洋之、撮影は椎塚彰、編集は鈴木晄、録音は北村峰晴、照明は木村誠作、美術は沖山真保、音楽監督は久石譲。
出演は三浦友和、川谷拓三、金沢碧、山田哲平(子役)、大西史子、宮崎美子、ガッツ石松、小坂一也、高品格、美木良介、風見章子、 若村麻由美、菅井きん、左とん平、正司花江、小島三児、山本清、春川ますみ、本阿彌周子、角野卓造、 田口芳明、坂根慶祐、遊佐宙樹、神谷恵美、高橋祐子、星野晃、曽川留三子、青野由美子、中根徹、猿田修二、飯山弘章ら。
1988年、日活は成人映画の衰退を受けてロマンポルノ路線を諦め、「ロッポニカ」レーベルを立ち上げて一般向け映画の製作&配給を再開した。 しかし見事なほどの大失敗で、わずか半年で終止符を打った。
それ以降、しばらく一般向け映画に手を出さなかった日活が、久々に製作したのが本作品だ。
1946年のグレゴリー・ペック主演作に同じ邦題の映画があるが、それのリメイクではない。
健一役に起用されたのは、『ボクの女に手を出すな』で小泉今日子が守る少年を演じていた山田哲平。政夫を三浦友和、織屋を川谷拓三、 栄子を金沢碧、さやかを大西史子、よしみを宮崎美子、駒井をガッツ石松、須川を小坂一也、義夫を高品格、岡部を美木良介、里枝を 風見章子、健一の担任を若村麻由美、かなを菅井きん、友子を本阿彌周子、晶彦を角野卓造が演じている。すぐに観客を惹き付けたいということなのか、まだ始まって1分足らずでエゾジカを登場させる。
健一の生活環境とか、キャラ紹介とか、相関関係の説明とか、そんなのは後回しにしてでも「とにかくシカだよ、シカ」という慌ただしさ。
話が沈滞したり、重たくなったり、次の展開に詰まったりしたら、北海道の美しい風景や可愛い動物たちの姿をイメージ・カット的に挿入し 、観客の御機嫌を伺うという方法を採用している。
健一は氷上で死んだ鹿を見つけたり、氷の裂け目に沈んだ仔鹿の死に遭遇したりするが、そんな暗い出来事ばかりが続いても「関係ないね」 とばかりに、風景のイメージ・カットを挿入して次のシーンへと移行する。彼が悲しみやショックを引きずることは全く無い。そんな体験 によって、健一が何かを感じて心情に変化が生じたり、人間的に成長したりということは一切無い。健一が駅でボヤ騒ぎを起こした時、栄子は「この時期に駅で騒ぎを起こしたらお父さんに迷惑が掛かる」と怒る。
ヒステリックな態度ではあるものの、それは当然の怒りだ。
しかし健一は、自分が父親に迷惑を掛けたにも関わらず、全く反省しない。
山で遭難した時も、大勢の人々に迷惑を掛けているのだが、謝罪の言葉一つ無い。
こいつに全く感情移入できないってのはキツい。丁寧に描こうという意識はあるのか、「仔鹿にミルクを与えるが飲まない」→「織屋から話を聞いて搾り立ての牛乳を試すが飲まない」→ 「書道の授業でスポイト使用を思い付いて試すと飲む」という風に、ミルクを飲ませるところで丹念に手順を踏む。
しかし演出が淡々としていてタルいので、「苦労の末にようやくラッキーがミルクを飲んでくれた」という喜び・感動は伝わらない。
その場面で感動が伝わらない要因としては、子役の芝居が下手だってのも、仔鹿が芝居心のある動物俳優じゃないってのもあるが、何より もカメラワークが気になった。
まずミルクを飲まずに拒絶する際のラッキーの顔のアップが欲しいし、ようやく飲んでくれた時にはミルクを含む口元を映すためのアップ は不可欠だろう。
仔鹿を刺激するとダメだという制約があってアップは無理なのかとも思ったが、他の場面ではアップのシーンもあるのよね。その後、ラッキーが匂いを嗅ごうとしたり顔を舐めようとしたりする仕草を見せるが、健一がウザったそうに顔を避けるってのは何の つもりなのかと。そこはラッキーが自分を受け入れてくれたわけだから、喜ぶべきじゃないのか。
というか、そこに「最初はラッキーが警戒して拒否反応を示していたが、やがて献身的な健一に心を開いていく」というドラマは無いけどさ。
そこだけでなく、実はトータルでも「健一と仔鹿の触れ合い、心の交流のドラマ」というのは、無いに等しい。
例えば健一が仔鹿を育てる中で人間的に成長するとか、仔鹿が健一に母親を感じたような態度を取るとか、そういうモノは全く見られない。
広い野原で健一とラッキーが遊んでいるイメージ・フィルム的な映像が挿入されても、それはドラマとは呼べない。「健一と仔鹿の触れ合いのドラマ」に絞ればいいものを、澤田幸弘監督はそれだけでは満足できなかったのか、政夫の就職問題、よしみの 結婚問題、祖父の牧場経営の問題など、他の人間模様にも目を向ける。
ところが、それらの要素は、健一と仔鹿のドラマ(そもそも、それが無いという問題はさておき)に何の影響も与えないのだ。
ただ動物ドラマを邪魔しているだけとしか思えない。
ラストシーン、政夫が札幌行きを中止して牧場の跡継ぎになろうと車を方向転換するのは、伏線が全く無いわけではない。
しかし、そこに至る流れは無いと言っていい。だから、唐突な思い付きにしか感じられない。
最後にドラマティックなモノを持って来たかったんだろうが、それなら「札幌行きか牧場を告ぐかの二択で迷う」という話を事前に見せて おくべきだろう。義夫が「鯉の洗いにワカサギ、まさに塘路の珍味だ」というと食卓に並んだ料理がアップになるなど、北海道の観光映画としての役割を 果たすために躍起になっている意識が強く感じられる。
それがウザいのウザくないのって。
まあウザいんだけど。
でも、ファミリー映画や動物映画としてはクソでも、観光映画としての役割は果たしたと言っていいのかな。
いや、そもそも映画としてコケちゃったら、観光PRとしてはダメってことになるのか。
じゃあダメだな。(観賞日:2008年3月26日)