『公園通りの猫たち』:1989、日本

東京の渋谷の公園通りにはダンサーやカルメン、ブラックやジュンサー、グリドンといった多くの野良猫が暮らしている。関雪夫が演出家を務めるダンススタジオでは、猫好きだけが集まる劇団によるミュージカル公演が予定されている。スタジオに通うカルーやマユミ、ユミやミホコたちは、出演者のオーディションに向けて稽古を重ねている。カルーのルームメイトのリエは、関の助手を務めている。ある朝、リエがスタジオに行くと、ジュンサーに案内された花村千代という少女が入り込んでいた。北海道から上京したばかりの千代は、関とリエに行く場所が無いことを話した。
マユミは公園でクラリネットを演奏する顔馴染みの雪村に、オーディションへの不安を漏らした。雪村はグリドンを可愛がっており、彼のことをマユミは「グリさん」と呼んでいた。オーディション結果が発表され、ボス猫のダンサー役はカルー、ヒロインのカルメン役はユミ、ダンサーのライバルのブラック役はミホコ、グリドン役はマユミが選ばれた。関はジュンサー役として、千代をカルーたちに紹介した。雪村はマユミから舞台への参加を勧められ、「ただの猫好きだから」と遠慮した。
マユミが去った後、雪村は過去を振り返った。ある時、グリドンが車にはねられて怪我を負った。助手席に乗っていた女性は心配するが、運転していた男は「そんなの構ってないで、早く行くぞ」と冷たく告げた。女性は腹を立て、動物病院へグリドンを運ぶ雪村に同行した。グリドンは打撲で済み、女性は治療費の支払いを雪村に申し出た。雪村は遠慮し、折半することになった。リエはベビーシッターのバイトで、板金家を訪れた。一人息子の薫と飼い猫のマリリンの世話が、彼女の仕事だ。薫の母である篤子は高慢な女性で、薫やマリリンが少しでも外に出ることを認めようとしなかった。
千代は稽古に付いて行けずに挫けてしまい、リエが元気付けようとすると反発した。彼女は踊ることを辞め、リエと言い合いになって姿を消した。ユミは関の叱責に耐え切れずに辞めると言い出すが、カルーが励ました。ビックカメラで働き始めた千代はダンススタジオの前へ行くが、カルーに見つかると逃げ出した。カルーが追い掛けると、彼女は「踊りは好きだけど、何か他にあるような気がする」と告げる。カルーは「やりたいことが見つかるまで踊っていようよ」と誘い、千代をスタジオへ連れて行った。
雪村は具合が悪くなって路上で倒れ込み、グリドンがマユミに知らせた。彼は病院に搬送され、一命を取り留めた。リエは薫と公園へ行き、バドミントンで遊ばせた。そこへ篤子が現れ、薫を遊びに連れ出したこと、マリリンを野良猫と接触させたことに激怒してリエに解雇を言い渡した。彼女は木の上に集まっていた野良猫の群れを見つけ、驚いて絶叫した。篤子はキャットバスターズを雇い、野良猫を撲滅するよう依頼した。キャットバスターズは野良猫を片っ端から捕まえ、ペットショップに売却して儲けようと目論む…。

監督は中田新一、原作・脚本は早坂暁(講談社刊)、企画は岡田裕介、プロデューサーは坂上順&河瀬光、撮影は奥村正祐&米原良次&藤石修、美術は桑名忠之&山崎秀満、照明は篠崎豊治&磯山忠雄&山口利雄、録音は林鑛一&柿沼紀彦、編集は西東清明、ミュージカル演出・振付は関矢幸雄&結城敬二&佐久間尚美、音楽監督は多賀英典、音楽は森英治。
出演は荻野目洋子、五十嵐いづみ、伊藤智恵理、万里洋子、石橋蓮司、江戸家猫八、松本伊代、塩沢とき、常田富士男、小谷ゆみ、麻里万里、遠藤裕美子、麻里万里、堂ノ脇恭子、浅田みき、成清加奈子、鵜飼貴子、小林さゆり、八木由紀子、大竹裕子、西村舞子、下司みほ、岸田里佳、上田耕一、殺陣剛太、三田村賢二、大場明之、矢沢美紀、稲垣弘子、入江まゆ子、安永憲司、山口仁、勅史瓦武志、山本千香子、高田恵梨子、劔持誠、皆川衆、大川透、岸伸一郎、藤咲めぐみ、石田哲也、工藤美樹、長谷川歩、鈴木信明、内田龍磨ら。


『青春の門』『夢千代日記』の早坂暁が執筆した同名のエッセイを、彼自身の脚本で映画化した作品。
監督は『海に降る雪』『ドン松五郎の生活』の中田新一。
カルー役の荻野目洋子は、これが映画初主演。
リエを五十嵐いづみ、マユミを伊藤智恵理、千代を万里洋子、関を石橋蓮司、社長を江戸家猫八、助手席の女性を松本伊代、篤子を塩沢とき、雪村を常田富士男、ユミを小谷ゆみが演じている。
カルーのダンス仲間として、麻里万里や堂ノ脇恭子、成清加奈子らが出演している。

関は千代をジュンサー役に選ぶが、その理由がサッパリ分からない。千代が歌や踊りの実力を披露し、関が驚くシーンが用意されているわけでもないし。
っていうか、後で千代が稽古に付いて行けない展開があるので、ますます抜擢された理由が分からない。
あと、急に登場した千代がジュンサーに抜擢されたのに、スタジオの面々が誰も反発せずに受け入れているのは、どういうことなのか。
カルーたちは希望の役を貰ったからいいとして、ジュンサー役を貰っていたメンバーもいるだろうに、全員が歓迎するのは変だよ。

岡田裕介プロデューサーが原作エッセイを劇映画として製作することに決めた理由としては、「それまでに何本かの動物映画がヒットしていた」という状況が関係しているのかもしれない。
1978年の『キタキツネ物語』が当時の日本映画の歴代興行成績トップの大ヒットとなり、1980年代に入っても1983年の『南極物語』や1986年の『子猫物語』、1987年の『ハチ公物語』がヒットした。
各映画会社は「動物映画は儲かる」と思ったのか、他にも色々と動物映画を作った。
全てがヒットしたわけではないが、そこに鉱脈を見つけたのだろう。

ただ、動物映画を作るにしても、普通に劇映画として製作しても良かったはずだ。
しかし本作品は、ミュージカルの要素を持ち込んでいる。
これは明らかに、劇団四季のミュージカル『キャッツ』が大ヒットしたことに影響を受けているんだろう。
あと、レオタード姿で踊るカルーたちの姿を見ていると、オリヴィア・ニュートン=ジョンのヒット曲『フィジカル』から派生したエアロビクスのブームや、映画『フラッシュダンス』の影響やもあるのかなと感じたりする。

冒頭、野良猫がスケボーに乗っている様子が描かれるが、バレバレの合成である。わざわざ必要性の無いシーンで、のっけから安っぽさをアピールしている。
オープニングロールではカルーたちの稽古風景もあるが、ここを最初のミュージカルシーンにしてもいいだろう。その後、部屋にいるカルーが映るシーンもあるので、そこを一発目のミュージカルシーンにするのもいいだろう。
だが、どちらも普通に描いている。
そのままオーディション結果が発表されるので、カルーたちの実力は全く分からないままになっている。

オーディション結果が通達された後、カルーたちが町に繰り出すと踊り出す。ここが最初のミュージカルシーンという形になるが、それは違うなあ。
そして一発目かどうかを抜きにしても、ミュージカルに入るタイミングが違うわ。
もっとダメなのは、踊りだけで歌わないこと。歌はBGMとして流される。
おまけに、歌っているのは荻野目洋子じゃなくて出演していない大山潤子なのだ。
しかも、カットは細かく割るし、基本は屋外ロケだが最初のシーンはバリバリの合成だし、何もかもが間違っている。

雪村がマユミと別れた後、グリドンの事故を回想するシーンがある。
でも、そこで回想を入れるなら、どう考えてもミュージカルにすべきだよ。そこを普通に描くなら、脇役のオッサンの回想なんて、わざわざ入れる意味が無い。
続くエピソードでは野良猫が町を歩き回り、歌が流れる。途中で3匹の猫が同じタイミングで頭を動かす様子があるが、それだけでミュージカルとは到底呼べない。ただ猫を見せるだけの時間だ。
粗筋ではカットしたが、実は猫の動きを追うシーンが何度も用意されており、かなりの時間を割いている。

動物映画が陥りがちな失敗のパターンとして、「人間ドラマを描こうとして、動物と上手く融合させることが出来ないまま終わる」というケースがある。
この映画の場合、「猫好きが集まった劇団で、猫のミュージカルを作る」という設定を用意することで、人間と猫の関係性を持たせている。
しかし結果としては、人間を描くパートと猫を描くパートが分離している。
ダンサーとブラックが喧嘩をする時にカルーたちがレオタードで踊る様子を挿入するような演出もあるが、まるで関係性が無いので滑稽なだけだ。

猫が夜の町を徘徊していると映像がアニメーションに変化し、猫の声で歌い出すミュージカルシーンがある。だが、アニメへの変化は唐突だし、プラスの効果は何も無い。
動物パートは人間パートと相乗効果を生まず、どっちも薄くなって見事に「あぶはち取らず」となっている。
マトモなミュージカルシーンが訪れるのは映画開始から50分が経過した辺りで、ユミを励ましていたカルーが歌い出して他の面々と一緒に踊る。
でも、わずか30秒足らずで終わってしまい、急に登場した新婚カップルがホテルへ向かい、その車に野良猫が乗るという目的が見えないシーンに切り替わる。

終盤に入るとキャットバスターズが登場するが、上手く話の流れに乗っていない。しかも彼らと猫の戦いは、カルーたちが全く知らない内に終わっているのだ。
最初から最後まで、人間パートと猫のパートは上手く絡み合わないままとなっている。
肝心なミュージカルシーンも、最後まで見せ場らしい見せ場が無いままだ。
根本的に、ミュージカル映画の作り方を分かっていないとしか思えない。
やる気が無いなら、最初からミュージカルの要素なんて持ち込まなきゃ良かったのだ。

(観賞日:2023年3月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会