『子猫物語』:1986、日本

牛小屋の中で生まれた7匹の子猫たちの中に、ちょっと風変わりなオスの子猫がいた。毛の色が茶で、虎のような縞があるので、その子猫はチャトランと名付けられた。朝が訪れると、チャトランは兄弟たちと外へ出てくる。アヒルも、鶏も、犬たちも、みんな遊び仲間だ。子猫たちには、何もかも珍しいことばかりだ。興味をそそることが、表には満ち溢れている。蛇は仲間ではないので、出て来た時にはチャトランも兄弟たちも用心する。
母親は、子猫たちを連れて散歩する。遊んでいい場所、危険な場所を、子猫たちに教えるのだ。チャトランが川に落ちて流された時には、すぐに母猫が追い掛け、泳ぎ方を教えて岸に戻った。産まれてから3ヶ月が過ぎ、イタズラ盛りのチャトランは蟹と戯れている最中に鼻をハサミで挟まれた。チャトランは仲良しである子犬のプースケと、庭でかくれんぼをする。鬼の役は、いつもプースケだ。チャトランは隠れるのが上手くて、プースケはなかなか見つけることが出来なかった。
チャトランが川辺の木箱に隠れていると、近くまで来たプースケは見つけられずに立ち去った。プースケが戻って来た直後、木箱が川を流れ出した。プースケは川に飛び込み、木箱を追い掛ける。しかし川の流れは次第に速くなり、木箱はどんどん流されていく。木箱は本流に流れ込み、岸辺にいた黒熊がチャトランに襲い掛かった。追って来たプースケは水に飛び込み、熊と戦って追い払った。その間にも木箱はどんどん流され、滝壺に転落した。滝壺を過ぎても木箱はチャトランを乗せたまま流れ続け、プースケは後を追った。
翌朝、プースケは懸命に川岸を走り続けるが、なかなか木箱は見つからない。その頃、木箱は荒れ果てた沼地に辿り着いていた。プースケは木箱を見つけるが、そこにチャトランの姿は無かった。お腹が空いたチャトランは、森の中で食料を探し回っていた。チャトランはキノコを口にするが、具合が悪くなってしまったので雑草を食べた。キツネを見つけたチャトランは後を追い掛け、食べ残した獲物を土に埋めていることを知る。キツネが去った後、チャトランは獲物を掘り起こして食べた。
大雨が止んだ後、空には虹が出た。プースケはキツネを見つけてチャトランのことを尋ねるが、「知らないなあ、それより遊ばないか」と言われる。尻尾を振るよう促されたプースケは、しばらくチャトランのことを忘れてキツネと遊んだ。その頃、チャトランは川から遠く離れた林の中にいた。荷袋を背負った馬を見つけたチャトランは、後を追った。チャトランは花畑で背中に乗せてもらい、しばらく進んで馬と別れた。
線路の上を走り、ワタスゲの花畑に辿り着いたチャトランは、小鹿と遭遇した。チャトランは小鹿を追い掛け、仲良くなった。その夜、チャトランは仲間とはぐれた子豚と出会った。歩き回って足が痛くなったという子豚に、チャトランは舐めると治ると教えてやった。子豚はチャトランのおかげで、フクロウが目を光らせる夜の森から抜け出すことが出来た。子豚は兄弟と合流し、チャトランも仲間に入って一緒に眠った。翌朝になると、子豚に混じって母豚の乳を吸った。
豚と別れたチャトランは川へ行き、尻尾を使って魚を釣り上げようとする。見事に魚を釣り上げたチャトランだが、アライグマに横取りされてしまった。チャトランがアライグマの後を追うと、そこに大きな熊が現れた。しかしアライグマは熊を威嚇して追い払い、悠々と魚を食べた。チャトランが高い木に登って周囲を見渡していると、そこにプースケが走って来た。チャトランは木を駆け下り、プースケとじゃれ合った。
牧場へ戻ったチャトランは、カラスの群れが産まれたばかりの子牛を狙っている様子を目にした。ひ弱な子牛が息を引き取ると、カラスの群れが近付いた。プースケは吠えながら子牛へと走り、カラスの群れを追い払った。プースケはそのままカラスの群れを追い掛け、どこかへ走り去った。夕暮れの中で、母牛は死んだ子牛の近くに佇んだ。夜になり、優しいフクロウがチャトランに獲物を分けてくれた。満腹になったチャトランは眠りに就き、様々な動物と触れ合う夢を見た…。

脚本・監督は畑正憲、協力監督は市川崑、製作指揮は鹿内春雄、製作は日枝久&角谷優、プロデューサーは緒方悟、企画は宮内正喜、作詩は谷川俊太郎、構成は南川泰三&日高真也、製作協力は岡崎澄一&山本明生、監督補は上野尭、プロデューサー補は酒井彰、動物監督は畑三喜雄、撮影は藤井秀男&富田真司、録音は大橋鉄矢&信岡実、美術は坂口岳玄、照明は山下禮次郎&煙草忠司、編集は長田千鶴子、ナレーションは露木茂、詩の朗読は小泉今日子、音楽は坂本龍一、作曲・編曲は坂本龍一&上野耕路&野見祐二&渡辺蕗子、音楽プロデューサーは宮田茂樹&朝妻一郎。
主題歌『子猫物語』作詞:大貫妙子、作曲:坂本龍一、編曲:坂本龍一・野見祐二、歌:吉永敬子。


「ムツゴロウ」の愛称で知られる作家の畑正憲が、初めて監督&脚本を務めた動物映画。
『おはん』『ビルマの竪琴』など数多くの映画を手掛けてきた市川崑が、協力監督を務めている。
畑正憲と言えば作家よりも、動物王国の王様としての顔の方が有名だろう。そんな動物王国の番組を長きに渡って放送していたのがフジテレビだ。
というわけで、フジテレビジョンが製作し、東宝が配給している。

劇中に人間は全く登場せず、動物に人間の言葉を喋らせるような演出も施していないので、ちゃんとしたセリフは一切無い。
映画の中で聞こえてくる日本語は、ナレーションと詩の朗読だ。ナレーションを担当しているのは、当時はフジテレビのアナウンサーだった露木茂。
詩を書いたのは詩人の谷川俊太郎で、朗読は小泉今日子か担当している。
1986年公開の邦画では、第1位の配給収入を記録した。

ドキュメンタリー映画ではなく、一応は劇映画の体裁を取っている。しかし困ったことに、劇映画としてはドラマ性がものすごく薄い。
こんなにペラッペラの中身で構成するなら、ドキュメンタリー映画にした方がマシだったんじゃないかと思ってしまう。
ただし問題は、ドキュメンタリー映画とドラマ仕立ての動物映画を比較すると、稼げる金額が大きく異なるってことだけどね。
もしも「そっちの方が遥かに稼げるから」ということで劇映画を選択したのなら、それは商売人としては間違っちゃいないよ。

冒頭、早朝の薄暗い森が写し出された後、「空の子どもは きらめく星々 大地の子どもは きのこ 水の子どもは ひとしずくの露 森の子どもは 一本の若木 子どもには大人とちがう物語がある」という詩が画面に表示される(ここは朗読は無し)。
映画の始まりとして、そこにキャッチーな魅力は無いが、特に邪魔というわけでもないのでスルーしようとか思ったが、スルーできない問題がすぐに起きた。
なんと、この詩、そこで終わりではなかったのだ。
その詩が消えると、すぐに今度は続きの「子栗鼠の目が おずおずとうかがうもの 子猫の舌が 大胆になめるもの 子犬の足が わけもなくひっかくもの 子熊の鼻が せかせかとかぐもの… 子どもには大人とちがう物語がある 子どもはおそれる」という部分が画面に表記される。
谷川俊太郎が偉大な詩人であることは分かるけど、冒頭から長すぎる詩の表示は、映画のテンポを悪くしていると思う。

ただ、2ページは長いなあと思っていた私は、まだまだ考えが甘かった。なんと、そこで詩は終わらない。
さらに「子どもは おそれる 子どもは うたがう」といった詩が続き、それでも終わらずに4ページ目まで続くのだ。
いや長すぎるだろ。なんで詩を表示するために3分も使っちゃうのよ。
しかも、それって子猫をテーマにした詩じゃなくて、「子ども」がテーマだよね。
映画の中身を考えると、それはピントがボヤけてないか。

最初のナレーションは、「牛小屋の中で生まれた7匹の子猫たちの中に、ちょっと風変わりな子猫がいた。チャトラン。それが、この子猫の名前である。毛の色が茶で、虎のような縞があるのでチャトラン。雄である」という内容。
この時点で、少々の違和感を覚える。
「毛の色が茶で、虎のような縞があるのでチャトラン」と名付けられたからには、そう名付けた人間がいるってことだ。だけど、この映画には人間の存在感が全く無いんだよね。
ナレーションが母猫の台詞も担当して「そうだ、この子はチャトランと名付けましょう。……こうして、その子猫の名前はチャトランになりました」などと語り、その名前を母猫が付けたように表現していれば引っ掛かることも無かったんじゃないかとは思うけど(プースケやキツネのセリフを語る箇所はあるので、ナレーターに動物のセリフを喋らせることを避けているわけではない)。
ただし、その場合、ナレーションは女性にやってもらうことが必須だけどね。
それにしても、幾らフジテレビが製作しているからって、なんでナレーションを露木茂に頼んだのかねえ。むしろ詩の朗読を露木茂に担当してもらい、ナレーションを小泉今日子にやってもらった方がいいんじゃないかと思うぞ。
露木茂のナレーションは、この映画を見ていて欲しくなる「軽やかさ」に欠けているんだよなあ。

猫を訓練して思い通りの演技をさせることは不可能という判断で、製作サイドは似たような茶虎の猫を何匹も用意している。そして場面によって、それらの猫を使い分けている。
四季の移り変わりを撮影しているので、成長の早い子猫を続けて使うことも出来ない。だから、季節が変わるごとに新しい猫を用意する必要もあった。
それらの猫は撮影後にスタッフが飼ってもらえる人を見つけて引き取ってもらったらしいんだけど、後のことを全く考えずに何匹もの猫を用意したという見方も出来る。
っていうか、そういうことでしょ。

この映画に関しては、「チャトラン役として用意された何匹もの猫が虐待を受けていた」という噂がある。
そんな噂の真相に関しては、私のようなド素人には知る由も無い。ただ、それが虐待に当たるかどうかは別として、かなり問題のある扱われ方をしていたのだろうということは、映画を見ているだけでも容易に推測できる。
何しろ、当時はCGによって猫を精密に描写する技術など無いので、どのシーンでも本物の猫を使っている。
中には危険なシーンもあるわけで、そこで本物の猫を使っているってことは、つまりは危険な目に遭わせているということになるでしょ。

蛇が出て来てチャトランと兄弟たちが警戒するシーンがあるけど、そこは「たまたま蛇が出て来た」というわけではなく、そういう脚本があって、意図的に蛇を放っているわけだ。
毒蛇ってわけではないし、子猫とはいえ蛇に噛まれるようなことは無いだろうけど、それでさえ考え方によっては動物虐待になるだろう。
蟹で遊んでいたら鼻をハサミに挟まれるってのも、それが「たまたま起きたアクシデント」ということじゃなくて、意図的に蟹を放っているわけだから、やっぱりマズいんじゃないかな。

チャトランが桟橋から滑り落ちて川を流されるのも、今だったら完全にアウトかもしれない。
とは言え、チャトランが川を流された時には、すぐに浅瀬へ辿り着くし、母猫に泳ぎ方を教わって岸に戻るので、それほど残酷性を感じることはない。
しかし、その後に、それと比較にならないほど危険なシーンが、川を使って撮影されている。木箱に入ったチャトランが川を流されるシーンだ。そこは近くまでプースケが捜しに来ており、犬の嗅覚を考えれば絶対に発見できる。つまり、発見できずに立ち去るってのは、脚本ということだ。
チャトランは木箱に入ったまま、どんどん川を流されていく。たぶん1匹じゃなくて数匹を使っているだろうけど、「数匹を使っていれば大丈夫」という問題ではない。

そこにはチャトラン以外にも、「プースケが熊と戦う」というシーンもあって、こっちも相当にヤバい。
その熊はちゃんと訓練を受けているんだろうけど、だとしてもプースケが熊と格闘したり前足で顔を押さえ付けられたりしているのは実際にやっているわけで、そりゃ確実にアウトじゃないかと。
チャトランの方にも、かなりヤバいシーンが待ち受けている。なんと、木箱が滝壺に転落するのだ。ここは子猫が乗せられている木箱が、ホントに激流を下り、滝壺へと転落しているのだ。
もはやゴツゴツした岩場のある激流を下っている時点でマズいんじゃないかと思ってしまうが、「滝壺に落ちたように見せ掛けるカメラワークと編集」ってことじゃなくて子猫を乗せた木箱が滝壺へ落ちて行く映像を堂々と撮影している辺りは、恐れ入谷の鬼子母神だわ(表現が古すぎるだろ)。
しかも、どう考えたって1回じゃ撮影に成功していないはずで、何度もやっていることを考えると、ますますヤバい。子猫が木箱から川や滝壺へ投げ出されたことだって、絶対にあるだろ。

木箱が滝壺を通過した後、しばらくして「夜が終わって、また朝が来た」というナレーションが入り、ここで再び詩が表示される。
ここで初めて、キョンキョンが詩を朗読する。「大昔から川は流れている 岸辺の草とぴちゃぴちゃ内緒話をしながら 川底の石とごろごろふざけっこしながら」といった詩なのだが、そのシーンで改めて感じたのは、やっぱり朗読とナレーションの役目は逆の方がいいだろうってことだ。
っていうか、それ以前の問題として、「詩ってホントに必要?」と首をかしげてしまう。そこで川をテーマにした詩を朗読しても、映画の厚みに繋がっているようには到底思えない。むしろ、まるで映画にフィットしてないんじゃないかと。
あと細かいことを言うと、「また朝が来た」と言ってるけど、まだ詩の朗読をしている段階では夜の風景なんだよな。ちなみに、その後もチャトランが小鹿と仲良くなった後で「夜」をテーマにした詩の朗読が入ったりするけど、「ホントに必要か?」という印象は変わらない。

森を歩いていたチャトランには、「トゲが刺さったので足の裏を何度も舐める」というシーンがある。
だけど、あの舐め方は芝居を付けているわけじゃなくて、ホントに何か刺さって痛かったんだろう。
そこもアクシデントじゃなくてシナリオ通りだとすると、ヤバいよなあ。
キノコを食べてから雑草をクチャクチャやるのも、あれはホントに具合が悪くなったから草で浄化しようとしたんじゃないのか。

牧場に戻った後、チャトランが見る夢のシーンは、本編でカットされた映像を寄せ集めているだけじゃないかと思えなくも無い。
そこで「チャトランが多くの動物と触れ合っている夢」を挟む意味は、物語としては何も無いのでね。
その直後、今度はウミドリの群れが登場し、「いのちは守る いのちを守る いのちをかけて いのちを守る 言葉はない ただ叫びたいだけ 武器はない ただおのが体だけ」という詩の朗読が入るが、唐突な場面転換だなあと。
繋がりとか流れとか、そういうのは考えてないのかと。

ウミドリが出てくるシーンはチャトランが見ている夢の続きなのかと思ったら、どうやら違うんだよな。
だったら、「ここで夢のシーンは終了です」というハッキリとした合図が欲しいわ。
それと、牧場で暮らしているはずのチャトランが、いつの間に海辺へ移動したのかと。せめて「ある日、チャトランは海へ出掛けた」というナレーションを入れるぐらいの作業はやろうよ。
あと、そこはウミドリの群れの中に放り込まれたチャトランが高い崖からが海へ落下し、登ろうとして再び転落して波に飲まれる映像があるんだけど、それは滝壺のシーンよりもさらにヤバいだろ。

(観賞日:2014年9月16日)

 

*ポンコツ映画愛護協会