『恋する・ヴァンパイア』:2015、日本

キイラは台湾のヴァンパイアである父と日本のヴァンパイアである母の間に産まれ、日本から遊びに来る祖父の宗二郎に可愛がられた。ヴァンパイアは永遠に年を取らないので、宗二郎は人間と一緒に暮らせるよう年を取る薬を発明した。キイラの家族は血を吸うことをやめ、他のヴァンパイアとは違う生き方を選んだ。キイラは血を吸いたいという欲望を抑えられるまで、外に出してもらえなかった。ある日、ウサギを追い掛けた彼女は秘密の抜け穴を見つけ、家の敷地から外へ出た。森で哲という少年と遭遇したキイラは恋心を抱くが、視線を向けられると慌てて逃げ出した。しかし再び森へ出掛けたキイラは哲と親しくなり、彼が作ったツリーハウスへ招待された。
キイラは哲とパイナップルパンを食べたり、父のようなミュージシャンになりたいという夢を聞いたりする。哲は自作の曲を録音したCDを差し出し、ギターを弾いて歌った。哲からピックをプレゼントされたキイラは、母に作ってもらった髪留めを渡す。哲の血を吸いたい衝動に襲われたキイラだが、遠くから聞こえる悲鳴でハッとする。コウモリの群れが哲を襲っている間に、キイラは姿を消した。その頃、キイラの両親は人間との共存を許さないヴァンパイアのデレックから裏切り者として粛清されていた。宗二郎はキイラの前に現れ、「ここから逃げよう」と促した。両親を心配するキイラに、彼は「ママの妹の所で一緒に待っていよう」と告げた。
成長したキイラは横浜元町で暮らし、宗二郎が営むパン屋を手伝っている。ママの妹・まりあ、その夫である元人間の力彦も、そのパン屋で働いている。キイラたちはアンチアンチエイジングという薬を飲むことにより、年を取っている。キイラは数年前、一度だけ横浜で哲の姿を見掛けたことがあった。しかしバスに乗り込む彼を見送っただけで、何も無かった。それ以来、彼女はパンを納入しているライブハウスに彼が出演していないかと気にしているが、まだ巡り合えていない。
ある夜、キイラはみきという女の子が海へ身を投げようとして怖くなっている現場に遭遇し、声を掛けた。みきは台湾から来た漫画家志望の留学生で、失恋のショックを引きずっていた。キイラは力彦に頼み、みきをパン屋のバイトとして雇ってもらった。悪夢で目を覚ましたキイラは、みきに噛み付きそうになった。我に返った彼女は、見たことを誰にも言わないでほしいと頼んだ。キイラがヴァンパイアであることを話すと、みきは興味津々で質問を重ねた。
キイラは横浜みなとフェスティバルに向けて、パン×ソングの歌手を選ぶ公開オーディションを開くことにした。そんな中、サラリーマンがオッパイの大きくなるクリームを売りに来た。頭を下げる男の匂いを嗅いだキイラは、彼か哲だと気付く。キイラはオーディションのポスターを渡し、「来てくれたら、たくさん買うんで」と告げた。みきはキイラの仕事に付き合って中華街へ出掛けた時、甘栗を売っている元恋人の健を目撃する。彼が女性たちと話す様子を見て、みきはショックを受けた。ライブハウスに移動すると、そこにも健が現れた。彼が仲間たちに「みきは超重いからさ」と笑いながら話すのを聞いて、彼女は悲しくなった。キイラは外へ出た健を蹴り飛ばし、みきも加勢してノックアウトした。
フェスティバルの日、キイラ、まりあ、みきは力彦に留守番を頼み、会場でパンを売る。オーディションが始まると、ステージには様々なジャンルの面々が登場した。哲は会場に来るが、オーディションには参加しなかった。キイラはパイナップルパンが売っているのブースを見つけた彼に気付き、強引にステージへ引っ張り出した。哲は「歌は、もう辞めたんだ」と言うが、彼女はギターを渡した。哲はライブハウスの娘であるナツのサポートで歌い、ステージを下りると「キイラちゃんだよね?」とキイラに声を掛けた。
哲はCDデビューし、すっかりイメチェンして明るくなった。キイラは彼とデートに出掛け、台湾にパン屋の2号店を開く夢を語った。哲とキスしようとした時、キイラは噛み付きたい欲望に見舞われた、慌てて欲求を抑えた。まりあから「本当に好きなら、ヴァンパイアにしなきゃいけないんだよ」と言われたキイラは、「分かってるよ。だけど、今だけ」と告げた。彼女は哲のアパートを訪れ、新作のパンを差し出した。「ヴァンパイア関連事件」と書かれたのファイルを見つけたキイラは驚き、哲に尋ねる。すると哲は、父がヴァンパイアに襲われて死んだこと、それから調べていることを語った。
宗二郎が近所の女性に襲い掛かろうとしたので、まりあと力彦は慌てて制止した。キイラは女性の記憶を消して立ち去らせ、まりあと力彦は宗二郎にアンチアンチエイジングを飲ませる。力彦は宗二郎が認知症を患ったこと、そのせいで本能が抑えられなくなったことを語った。デレックはキイラたちの居場所を突き止め、手下のマイクを差し向ける。みきはマイクに声を掛けられ、すっかり心を奪われた。韓国の大企業の御曹司であるマイクは、キイラに結婚を申し込んだ。キイラが哲とデートしていると、マイクはコウモリの群れに襲わせた。群れが去った後、キイラの目が紫に光るのを見た哲は動揺する。それはヴァンパイアの特徴と合致していたからだ。帰宅した彼はファイルの情報を確認し、キイラがヴァンパイアだと確信する…。

原作・脚本・監督は鈴木舞『恋する・ヴァンパイア』(小学館文庫)、企画・プロデュースは宮島秀司、海外プロデュースは西本龍治、プロデューサーは原淳、制作プロデューサーは平林勉、アクション監督は園村健介、撮影監督は梅根秀平、gafferは長田慎吾テリーマン、録音は小宮元、美術は黒瀧きみえ、ファッションディレクターは軍地彩弓、編集は加藤ひとみ、VFXスーパーバイザーは藤村光貴、CGプロデューサーは大川崇子、製作代表は中林広樹&矢内廣&林三郎&村松俊亮&宮島秀司、音楽は安藤禎央、音楽監督は中脇雅裕。
主題歌『コロニー』作詞・作曲・編曲:中田ヤスタカ(CAPSULE)、歌:三戸なつめ。
出演は桐谷美玲、戸塚祥太(A.B.C-Z)、田辺誠一、大塚寧々、モン・ガンルー、チェ・ジニョク、柄本明、イーキン・チェン、中川晃教、三戸なつめ、斎藤歩、楠人、西村大地、目代雄介、東加奈子、川島鈴遥、高橋佳大、藤田彩華、アパラチア、掛田誠、高浦修、上原拓馬、下工垣将、橋垣美佑、松岡亞由美、荻野網久、結城貴史、かとうあつき、廣瀬精優、成末哲夫、村上研太、ポゼッション・モンゴー(Vampillia)、ミッチー・ザ・ミステイク(Vampillia)、ゴー☆ジャス、TRIP、放課後プリンセス、エイジアンウインズ、クールポコ、林明寛、白鳥樹里、萱野梓、南羽翔平、宮木想、華村莉紗、中村達也ら。


かつては松竹で映画プロデューサーをしていた宮島秀司がエイベックスを退職後、映画界に復帰して最初に手掛けた作品。
大山勝美のアクターズスクールと北京の中央戯劇学院で学んだ経験を持つ鈴木舞が原作小説と脚本を執筆し、監督デビューを果たしている。
実際のタイトル表記では「恋する」と「ヴァンパイア」の間にハートマークが入るが、機種依存文字なので変更している。
キイラを桐谷美玲、哲を戸塚祥太(A.B.C-Z)、力彦を田辺誠一、まりあを大塚寧々、みきをモン・ガンルー、マイクをチェ・ジニョク、宗二郎を柄本明、デレックをイーキン・チェンが演じている。

この作品は、「恋するシリーズ」の第1弾として企画がスタートしている。
「恋するシリーズ」とは、宮島プロデューサーの会社と台湾政府の外郭団体が手を組み、6本の映画を製作しようというプロジェクトである。
アジア圏での公開を念頭に置いたプロジェクトで、その第1弾として宮島が目を付けたのが鈴木舞の執筆した『恋するパンダ』という脚本だった。
そこから小説と映画の企画が同時進行したが、あえなく中止となってしまった。
そこで新たな企画として、この作品にスライドしたという次第だ。

この映画、当初はキイラ役で森星が出演する予定だった。「戸塚祥太の主演作」として企画が進められ、その相手役として彼女が起用されるはずだったのだ。
しかし慶応大学に在学中だった森星は、撮影スケジュールが試験の時期と重なったために降板した。
代役としてオファーを受けた桐谷も当時はフェリス女学院の大学生で、しかも卒論で大変な時期だったのに、なぜかOKした。
事務所の方針もあるんだろうとは思うけど、仕事選びの基準が良く分からんよ。「企画・プロデュースが宮島秀司」ってトコに食い付いたのかねえ。

戸塚祥太と比べれば、間違いなく桐谷美玲の方が映画界でのランクは上だ。なので彼女の出演が決まったことで、「戸塚祥太の主演作」ではなく「桐谷美玲の主演作」という形になった。
ただ、どっちにしても、映画としての評価には何の影響も無い。仮に森星がヒロイン役を演じていたとしても、この映画の評価は全く変わらないだろう。
それぐらい、「出演者が云々」という以外の部分の持つ力が圧倒的だということだ。
そのパワーの凄さは、出演者の訴求力や演技力なんか軽々と吹き飛ばしてしまう。

前述したように、原作小説と脚本と監督を手掛けた鈴木舞には「大山勝美のアクターズスクールと北京の中央戯劇学院で学んだ」という経歴しか無い。
短編映画や自主映画で高い評価を受けたとか、他の分野で活躍して才能を発揮していたとか、そういう人ではない。
そんな人に、数多くの映画をプロデュースして来た宮島秀司が白羽の矢を立てたのだ。しかも商業映画、それも人気女優である桐谷美玲が主演を務める全国公開の長編映画を任せたのだ。
それって、かなり凄いことである。

そんな思い切った決断を宮島プロデューサーが下したんだから、きっと鈴木舞監督には人を惹き付ける圧倒的な「何か」があったのだろう。
それが具体的に何なのか、話術なのか、オーラなのか、容姿なのか、それは会ったことが無いから全く分からないけど。
ともかく、映画を撮りたくても撮れない人が世の中には大勢いるわけで、そんな中で1本の長編映画を任されるんだから、それだけでも鈴木舞監督は凄い人だと言っていいだろう。

ヒロインをヴァンパイアという設定にしたのも、それでゴーサインが出ちゃったのも、なかなか凄いことである。
ステファニー・メイヤーのヤングアダルト小説『トワイライト』シリーズや、その映画化作品が大ヒットしたことで、そこから数多くの「ヴァンパイア物」が映画やTVドラマ、小説の世界で生産されるようになった。
そんなブームの中で、また新たなヴァンパイア物を作るってのは、かなり勇気が要る行為だ。
生半可な気持ちでは、そんなことは恥ずかしくて出来ない。

「ブームとは無関係」「その前から着想していた」と主張したとしても、便乗したと思われるのは避けられない。
しかも、ブームに便乗するだけでも馬鹿にされる恐れがあるのに、それでコケてしまったら、ものすごくカッコ悪いことになってしまう。
そういったリスクを考慮すると、仮にヴァンパイア物を思い付いたとしても、それを避けようとしてもおかしくないぐらいだ。
それでも、あえてブームの中に飛び込み、堂々とヴァンパイア物を作っちゃうんだから、かなり凄いことである。

しかも、色んなリスクを背負った上でヴァンパイア物にしておきながら、「実はヒロインがヴァンパイアである意味なんて皆無に等しい」という内容にしている辺りが、もっと凄い。
キイラの一家は薬で人間と同じように年を取っているし、日光の下でも普通に行動できる。棺桶で寝るわけでもないし、十字架も平気だし、変身もしない。
なぜか「ニンニクと銀は苦手」という要素だけは使っており、キイラがガーリックチャーハンの匂いで気絶したりシルバーのネックレスを嫌がったりするシーンはある。でも、それも申し訳程度の描写であり、ヴァンパイア物の新しい方向性や切り口なんて何も見えない。
都合のいいトコだけヴァンパイアの要素をつまみ食いして、そこに適当な設定を付け加えてキャラクターを造形しているようなモンだ。
その大胆さは、かなり凄い。

キイラは台湾で産まれているが、そういう設定にしている意味は何も無い。
「台湾政府の外郭団体が関わっている映画だから」ってことで台湾で育った設定にしたんだろうってのは推測できるし、たぶん正解だろう。
映画には色んな事情が絡んでくるから、そんな理由で「台湾で生まれ育った」という設定が決まったとしても、それは仕方がない。ただ、そうであっても、普通なら物語として「ヒロインが台湾に住んでいた意味や理由」を用意するものだ。
ところが、この映画には、そんなモノは何も用意されていない。そういう「映画として設定を自然に溶け込ませる作業」を、完全に放棄しているのだ。
そこで開き直れちゃうんだから、凄いよね。

冒頭で「ヴァンパイアは永遠に歳を取りません」という説明が表示されるが、そうなるとアンチアンチエイジングを飲んでいないデレックが大人になっている理由が付かない。
永遠に歳を取らないのなら、彼は永遠に赤ん坊のままのはずだ。
ホントは「年を取らない」のではなく、エルフみたいに「人間とは年の取り方が全く違う」ってことにしておかないと説明が付かないが、そんな細かいことを気にしてはいけない。
この映画は、そういうことを気にせずに観賞できる人のための作品だ。

なぜキイラの家族が「人間と一緒に暮らせる生き方を選ぼう」と考えたのかも、全く分からない。
これが「人間とヴァンパイアの夫婦」ってことなら、片方に合わせようとするのは分かるが、そうじゃなくて純潔のヴァンパイアなのだから、人間と同じように生きる必要性など無いはずだ。
また、キイラの家族はアンチアンチエイジングの効果で血を吸うことをやめることが出来たらしいが、それならキイラが哲の血を吸いたくなる衝動にかられるのは説明が付かない。
でも前述したように、細かいことを気にしてはいけない。

少女時代のキイラは森で少年と出会い、目が合うと家へ逃げ帰る。ここで「そして少女は恋をしました。許されぬ恋を・・・」という文字が示され、タイトルが出る。それが終わったら「現在のシーン」に移るんだろうと思っていたら、まだ少女時代のシーンが続く。
そこのセンスだけでも、かなり驚かされた。
これが「少女の淡い恋物語」として最後まで続くなら、そういう構成でもいいだろう。しかしキイラが成長してから本格的な物語が転がって行くんだから、タイトル明けには「成長したキイラ」を登場させた方がいいと普通なら思うはずだ。
そういう構成を選ばない辺りが凡人とは異なるセンスであり、だから宮島プロデューサーに選ばれたのだろう。

冒頭に描かれる台湾のシーンは、ずっと中国語のナレーションとテロップで進行される。しかし舞台が横浜に移ると、今度はキイラによる日本語のナレーションが入る。
途中でナレーションの言語を変えていることには何の意味も感じないし、それによる効果も無い。
あえて言うなら、「中国語圏の市場を想定した演出」ってことだろう。
ただ、どうせ台詞は日本語ばかりだし、序盤だけ中国語のナレーションを使っても大した効果は期待できないだろう。でも、それでも持ち込む気概が凄い。

宗二郎はキイラに逃げるよう促す時、「ママの妹がいることは知ってるだろう?そこで待っていよう」と告げている。ところが横浜に舞台が移ると、「創業百二十年の老舗のパン屋。宗二郎おじいちゃん、このパン屋の創業者」というナレーションが入る。
つまりキイラはママの妹の所ではなく、宗二郎の所で暮らすようになっているのだ。
だったら、前述したシーンは「おじいちゃんの所で待っていよう」という台詞じゃないと整合性が取れない。
ところが、それ以降、店のシーンになっても、宗二郎が働く様子が見えない。
だったら逆に、「既に宗二郎は引退している」という形にでもしておいた方がいい。
しかし、そんな細かいことを気にしちゃうのは凡人だ。

キイラはみきに噛み付きそうになった時、「見たことは誰にも言わないでほしいの」と頼む。しかし、続いて「じゃないと、みきちゃんの記憶を消すことになる」とも話している。
つまりヴァンパイアには、人間の記憶を消す能力があるってことだ。
だったら「内緒にして」と頼むより、さっさと記憶を消せば済むでしょ。周囲に喋られるリスクなんて、無駄に負う意味が無い。
ただ、そんな疑問なんて、あっさりと吹き飛ぶ。何しろキイラは、みきに自分がヴァンパイアであることをベラベラと喋っているのだ。
まだ完全にバレたわけでもないのに、そこまで喋る理由がどこにあるのかと。
しかし、そんな細かいことを気にしちゃうのは凡人だ。

で、そんな手順まで用意するような脚本なので、前述した問題なんて些細なことだと感じるのだ。そして、そんな些細なことなんて、気にしなくていいのだと思えるのだ。
何しろ、みきはキイラの話すヴァンパイアに関する話に強い興味を抱き、漫画の題材にしようと熱心にメモを取っている。つまり、内緒にする気なんて全く無いのだ。
それなのにキイラは、彼女の記憶を消そうとしない。それどころか、自分のことを全て話せる友達が出来たことを喜んでいる。
登場人物の行動が見事にデタラメなのだが、それが本作品の特色である。
それを魅力と感じ取れるかどうかは、貴方のセンス次第だ。

キイラはみきに、「宗二郎がヨーロッパへパン作りの修行に出掛けたが、訪れたのがヴァンパイア一族の村だった」と語る。
そんな祖父の設定まで細かく説明する必要なんて、まるで無い。大雑把で粗いトコのオンパレードなのに、妙なトコで神経を使っている。
そういう普通じゃないセンスが、この映画の特色だ。
また、キイラは「ヴァンパイアには特殊能力がある。宗二郎にはワープさせる能力、私には人の記憶を消せる能力」と話しているが、これが都合の良すぎる設定である上、とてもじゃないが効果的に機能しているとは言い難い。
でも、そういう「無意味なことでも平気で放り込み、そして雑に放置する」ってのが、この映画の特色だ。

キイラは幼少時代に哲と出会い、横浜へ移住する。だから、「哲と再会して云々」という物語が展開されるのだろうと思っていたら、みきと出会うエピソードが描かれる。
そんな形で新キャラを登場させるのだから、みきは大きな意味を持つ存在なのかというと、「キイラの友人」というポジションに過ぎない。
だったら横浜に舞台が移った段階で、「既に親友」という状態で登場させればい。わざわざ「身投げしようとしていたのを助けてパン屋で雇ってもらう」という手順を踏むのは無駄だ。元カレの健をキイラ&ミキで叩きのめすシーンが用意されているが、そんなのは全く要らないし。
でも、それを無駄だと思ってしまうのが凡人のセンスなんだろう。

キイラはサラリーマンが怪しい薬を売りに来た時、それが哲だと気付く。普通に考えれば、そこで「哲くん?」と呼び掛ける流れに移るべきだろう。
ところが、なぜかキイラは歌手オーディションのポスターを渡して受けるよう誘い、「来てくれたら、たくさん買うんで」と言うだけなのだ。
カットが切り替わるとキイラが「哲くん、思い出してくれるかなあ?」と呟いているが、なぜ自分から「私はキイラ」と明かさなかったのか、その理由がサッパリ分からない。
でも、そこに疑問を抱いてしまうのが凡人のセンスなんだろう。

前述した「哲くん、思い出してくれるかなあ?」の言葉を呟く時、キイラはパンダの形をしたパンを焼いている。そして、そのパンが立ち上がり、流れて来る音楽に合わせて歌い出す。
たぶん『恋するパンダ』の設定が、そこに引き継がれているってことなんだろう。
しかし、そんな要素がヴァンパイアの要素と上手く絡み合うことなど全く無い。むしろ、完全に浮いているし、邪魔なだけだ。
でも、そんなことは構わず、とにかく自分の見せたい物は見せようという意識で撮っているんだろうから、その度胸は凄い。

哲はオーディションで歌い、CDデビューする。この時点で、まだ上映時間の半分も経過していない。
たぶん大半の人は気付いただろうが、ここまでの段階でも既に話が散らかりまくっている。
そんな感じで、映画はエンディングまで到達する。「色んな要素がてんこ盛り」と言えば聞こえはいいかもしれないが、ようするに「全く話にまとまりが無い」ってことだ。
しかし、その散らかり具合に魅力を感じたからこそ、きっと宮島プロデューサーはゴーサインを出したのだ。そこに魅力を見出せないのは、所詮は凡人なのだ。

キイラが哲とデートするシーンで、「噛み付きたい欲求に見舞われて我慢する」という様子が描かれる。
「血を吸いたい欲求と哲への恋心で悩む」という要素を使ってドラマを作りたいのなら、もっとソコに集中すべきだろう。
つまり、哲との再会までに時間を掛けるのは無駄だし、みきの自殺を止めるとか、パンダのパンが歌うとか、健を叩きのめすとか、歌手のオーディションが開かれるとか、そういうのは全て邪魔なだけなのだ。
しかし、それは私のような凡人のセンスである。

後半に入ると、「キイラがヴァンパイアと気付いた哲は距離を置く」「マイクはキイラを拉致する」「宗二郎、力彦、まりあは哲にキイラを助けるよう説き、戦い方を教えると告げる」「デレックはキイラに自分との結婚を迫る」「キイラは中国語でデレックに反発する」などの展開がある。
そういうのにねいちいちツッコミを入れても意味が無い。
いや、そもそもツッコミを入れたくなる時点で、それは凡人のセンスなのだ。
このバラバラでデタラメでメチャクチャでグダグダな映画を「ごった煮の魅力」として捉えられるぐらいの突き抜けたセンスが無ければ、優れた実績を持つ映画プロデューサーの御眼鏡には適わないのだ。

(観賞日:2017年1月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会