『子ぎつねヘレン』:2006、日本

小学生の大河原太一は、北海道の学校に転校して来た。彼は作文発表で「カメラマンの母がいるミクロネシアには算数の出来る魚がいる」 などと語り、クラスメイトに笑われる。太一の母・律子は、大きな仕事が入って海外へ行ってしまった。そのため、シングルマザーの律子 は自分の好きな男の元に太一を預けることにしたのだった。
学校帰り、太一は道端でじっとしている子ギツネを見つけた。太一は子ギツネを派出所に連れて行き、落とし物だと告げる。困った警官は 、「あそこに頼もう」と言って太一と子ギツネをパトカーに乗せる。車は、森の中にある動物診療所に辿り着いた。そこには、獣医の矢島 と娘の中学生の美鈴が暮らしている。そして、太一が預けられているのは、その診療所だった。
太一が子ギツネを見せると、美鈴は「コブがコブを連れて来てどうすんのよ」と冷たく言う。矢島も「野生動物は飼えない」と告げ、太一 が「入院させて」と頼むと「金は払えるのか」と問う。しかし結局、矢島は子ギツネを保護することにした。だが、矢島が電話で「殺した 方がいい」と言うのを聞いた太一は勘違いし、子ギツネを連れて診療所を飛び出した。警官に連れ戻された太一は、「殺した方がいい」と いうのが寄生虫のことだと知らされた。
子ギツネを詳しく調べた矢島は、目が見えず、耳も聞こえず、鳴き声も発しないことに気付いた。「まるでヘレン・ケラーだ」と彼が 漏らしたことから、太一は子ギツネをヘレンと呼ぶことにした。太一はヘレン・ケラーの本を読み、サリバン先生のようにヘレンに物を 触らせたり語り掛けたりする。ヘレンがミルクを飲まないことに太一が困っていると、矢島は強引に口を開いて流し込んだ。太一が非難 すると、矢島は「ヘレンにとってミルクは得体の知れない液体だ。こうでもして飲ませないと死ぬ」と告げた。
矢島から「ヘレンにとって何が大切なんだ?」と問われた太一は、母親と一緒に暮らしたがっていると考える。そのことを話すと、矢島は 「今の体では野生で暮らしていけない」と告げる。手術を求める太一に、矢島は「治る可能性は低いし、そもそも耐える体力が無い」と 言う。そこで太一は、ヘレンに体力を付けさせようと考え、積極的にエサを与える。
矢島から「ヘレンがどんな世界で生きているのか知りたいか」と問われた太一は、深く頷いた。すると矢島は太一に耳栓と目隠しをして、 砂浜で一人ぼっちにする。5分後に耳栓と目隠しを外した矢島は、「ヘレンにとって生きることは恐怖だ」と語る。「ヘレンを治して」と 頼む太一に、矢島は「自分に何が出来るのか、まず考えろ」と告げた。
ヘレンの体重が手術可能な状態にまで増えたため、矢島は恩師である獣医大学の上原教授に依頼する。ヘレンは大学に運ばれ、検査を 受けることになった。しかし上原から矢島の元へ、手術しても治らないとの連絡が入った。そこで矢島は、大学病院でヘレンを入院させて もらうことにした。それを知った太一は、ヘレンを取り戻すため一人で病院へ向かう…。

監督は河野圭太、原作は竹田津実、脚本は今井雅子、製作は久松猛朗、プロデューサーは石塚慶生&吉田繁暁&榎望&井口喜一、 製作総指揮は迫本淳一、アソシエイトプロデューサーは矢島孝、撮影は浜田毅、編集は田口拓也、録音は郡弘道、照明は松岡泰彦、美術は 瀬下幸治、VFXプロデューサーは佐藤高典、アニマルトレーナーは宮忠臣、音楽は西村由紀江、主題歌「太陽の下」歌・演奏はレミオロメン。
出演は大沢たかお、松雪泰子、深澤嵐、小林涼子、藤村俊二、吉田日出子、阿部サダヲ、田波涼子、佐藤和也、米本来輝、尾崎千瑛、 龍田(藤田は間違い)直樹ら。


北海道在住の獣医で写真家・エッセイストでもある竹田津実(たけたづ・みのる)が子ギツネの介護記録を綴った著書『子ぎつねヘレンが のこしたもの』を基にした作品。
矢島を大沢たかお、律子を松雪泰子、太一を深澤嵐、美鈴を小林涼子、上原教授を藤村俊二、森に住む老婆を吉田日出子、警官を 阿部サダヲ、太一の担任教師を田波涼子が演じている。
監督はフジテレビのドラマを手掛けてきた河野圭太で、これが映画デビュー作。

「感動狙いの動物映画はドカベン以上の高い打率で駄作になる」というのが私の持論だが、それを裏付けるような出来映えだった。
まずBGMの使い方がヘタだ。
感情を揺り動かすために音楽を流すのは当然のことだから、それはいい。
ただ、入れるタイミング、やめるタイミングが悪すぎる。
それと音楽だけが過剰に盛り上がるシーンが目立ち、逆に気持ちが冷める。

序盤から、太一の空想を映像化したシーンが何度も挿入される。
算数をする魚であったり、ヘレンと佇んでいる数秒の間に四季が通過したり、ヘレンを抱いて絵の中を歩いたり、老婆が魔女に変身 したり、矢島が恐ろしいサーカスの団長になったり、太一とヘレンが空を飛ぶ列車に乗り込んだりと、ファンタジーとしてのシーンが何度も登場する。
そういった幻想的映像は、完全に浮いている。
寓話性を出そうとしたのかもしれないが、本作品にそこまでの非現実感を持たせる意味があったのかと思う。
そうではなく、ありのままの大自然、ありのままの動物たちを見せるだけで、この映画に必要なファンタジーは充分に 賄えたはずだ。そこに余計な手を加えて飾りを増やすのは、ただ目障りで邪魔なだけだ。
あまりにも太一の空想シーンが引っ掛かるので、「それならヘレンは要らないだろ」とさえ思ってしまった。妄想に浸る癖のあった太一 が、矢島親子や大自然に触れることで現実を受け入れ、成長するという物語でいいじゃねえかと思ってしまった。
妄想シーンに気が散って、肝心の太一とヘレンの交流に集中できなくなってしまう。

矢島と美鈴の2人は、両方とも「口が悪く、とっつき難い」というキャラになっており、太一にそっけなく、ぶっきらぼうな態度を取る。
このキャラ付けは大失敗だった。
これによって、矢島親子と太一は、どちらも仲良くしようとする態度を示さないところから「心の距離が近付く」というところへ持って行かねばならなくなった。
これは大変な作業である。
「口は悪いけど心根は優しく、太一を受け入れようという意欲はある」ということが最初から観客に伝わる形になっていれば、それでもOKだった。
だが、そういう繊細な演出や芝居は、一応はやろうという意識が伺えるが、こちらに伝わってくるものは薄い。
特に矢島は、ぶっきらぼうな態度の裏に、動物に対する思いやりや優しさが全く感じられない。
例えばヘレンを獣医大に入院させる下りでも、苦渋の決断という印象は皆無。ただ事務的に追い払ったという冷徹な態度にしか見えない。
後半に入ると、矢島と美鈴の太一に対する突き放したような態度、無愛想な態度が無くなっている。
だが、「矢島と美鈴が最初は突き放すような態度だったが、次第に太一と親しくなっていく」というドラマは、スムーズに進行していない。
ここは分かりやすく、「矢島親子は最初から優しく太一に接しようとする。しかし太一は素直に飛び込んでいけない」というところから 始めるべきだった。そして、太一のサイドだけが次第に変化していく、ということにすべきだった。

原作では原作者と妻がヘレンを介護した記録が綴られているが、この映画版ではその部分を変更し、獣医に預けられた少年を主役に据えている。
ファミリー映画としての訴求力、とっつき易さを考えて子供を主役に据えたのかもしれないが、これが完全に裏目に出た。
ヘレンとの触れ合いと少年の成長を描くだけでなく、学校での人間関係、シングルマザーとの息子との絆、新しい家族という問題と、 扱うことが多すぎて、何もかもが手に負えない状態となってしまっている。
いや、そこは例え子供を主役にしても、主人公の成長と動物との交流だけに絞り込んで描けば良かっただけのことなのだ。
それなのに、なぜか色々なことに手を出して、肝心の部分が疎かになってしまった。
まるで、「調子に乗って事業を他分野に拡大したら散々な目に遭い、それまでやっていた本業もダメになる」というバカな二世社長の ようなことになっている。
子供に関わる要素だけでなく、矢島がいつも逃げていたとか、そんな余計な要素まで放り込んでいるし。

肝心の太一とヘレンの絆が深まっていくというドラマも、他の要素に妨害されたためか、充分な描写が無い。
そこが充実していないから、太一が獣医大学へ行った時にヘレンが母親を呼ぶ声で鳴くというシーンでも、全く感動が無い。
そこに向けたドラマの高まりが無いから、そこだけ急に感動的に盛り上げようとしても、気持ちが付いていかないのだ。
というかさ、子供を主役にするにしても、なんで「獣医の恋人であるシングルマザーの子供」という、ややこしい設定にしたんだろうか。
そこはシンプルに、獣医の子供を主役にすれば良かったんじゃないのか。
あと、結局のところ、太一が成長したとは見えないのが、それはキツい。
それと、この子役、そんなに可愛くないし、芝居も大して上手くないんだよなあ。

 

*ポンコツ映画愛護協会