『金メダル男』:2016、日本

1964年秋、秋田泉一は長野県塩尻市で産まれた。父の留一と母の房江は同じアパートで働いており、社員旅行の白骨温泉で意気投合した。そのまま旅館で合体したので、息子には温泉から取って「泉」の文字を使ったのだ。幼い頃の泉一は、ごく普通の人間だった。しかし、それまで漠然と生きていた彼に、転機が訪れた。1973年、9歳。運動会のかけっこで1等賞になった彼は、折り紙で作った金メダルを貰う。その日を境に、彼の1等賞に取り憑かれた人生が始まった。その後、泉一は絵画と書道と工作で立て続けに金賞を獲得し、キャンプの火起こし大会でも優勝した。担任教師の川原に将来の夢を問われた彼は、「全てにおいて一等賞を獲ることです」と答えた。
1977年、塩尻市立第二中学校に入学した泉一は「塩尻の神童」として有名人になっており、様々な部活に誘われた。水泳部に入った彼は、息継ぎせずに50メートルを泳ぎ切る無呼吸泳法を披露した。しかし1学年上の黒木よう子に心を奪われた泉一は、泳いでいる途中で彼女を見ようとして溺れてしまった。初めての挫折を感じた泉一は煩悩を断ち切るため、剣道部に入った。小手しか打たずに勝利を重ねた彼は、「小手男爵」と呼ばれるようになった。だが、間宮凛子に心を奪われて敗北し、もう女には近付かないと決めた。その後も様々なことに挑戦した泉一だが、中学では1つの金メダルを獲れなかった。
1980年、長野県立塩尻高等学校に進学した泉一は、成績学年トップを狙った。自信満々の泉一だったが散々な結果に終わってしまい、友達さえ出来ない日々が続いた。そんな中、泉一は同級生の竹岡啓二と映画の話題で親しくなり、彼に誘われてバスケットボール部に入部した。チームメイトとも仲良くなり、泉一は今までに無い一体感を覚えて楽しくなった。しかしレギュラーを決める紅白戦で、下手な泉一は竹岡たちからお荷物扱いを受けた。団体競技に向いていないのだと感じた彼は、バスケ部を辞めてグレた。しかし本物の不良に絡まれて殴られ、すぐに辞めた。
1981年春、高校2年生。『ザ・トップテン』を見ていた泉一はアイドルの北条頼子が歌う『私のサンクチュアリ』を聴き、自分一人で部活を始めようと決める。校長の承諾を得た彼は「表現部」を設立し、中庭での活動を開始する。文芸や絵画や音楽など、ありとあらゆる表現の統合格闘技が表現部だと彼は考えていた。彼は詩や俳句を読んだり絵を描いたりするが、教師の中野は精神科医に診察してもらうよう勧めた。その年の文化祭で泉一は、『坂本龍馬 その生と死』と題したパフォーマンスを披露して拍手喝采を浴びた。
『中庭に佇む私』と題した絵を見た女性教師の佐野は、「絵画コンクールに出してもいいかな」と泉一に尋ねる。上下が逆の状態で出品された絵は、別のタイトルを付けられて金賞を獲った。1982年春、大勢の後輩部員が表現部に入部してきた。調子に乗った泉一は誓いを破り、後輩の横井みどりに男女ペアでの創作ダンスを持ち掛けた。夜まで一緒に練習した泉一は彼女にキスをするが、翌日に退部されてしまった。11月に入ると、泉一は後輩部員の三村考二たちから引退してほしいと頼まれた。
1983年、正月。テレビで見た東京が輝いて見えたので、泉一は「東京で一番になろう」と決めた。1983年春、東京。江戸前寿司『なんば』でアルバイト募集の貼り紙を見た泉一は、店主である難波寅太の下で働き始める。寅太には長澤真佐樹という弟子がいて、泉一は2人目の弟子という扱いになった。泉一は寿司職人として一番になりたいわけではなく、まずは『欽ちゃんの全日本仮装大賞』の出場を目指すが一次予選で敗退した。『アメリカ横断ウルトラクイズ』でも一次予選で敗退し、難波からは「1つのことを全うするのも大事やで」と言われる。ジャニーズ事務所のオーディションも不合格になった泉一は、寿司屋の仕事を辞めた。
1986年、21歳。当ても無く街を歩いていた泉一は橋本めぐみという手相占いの女に騙され、ぼったくりバーに入って金を奪われた。朝までベンチで過ごした彼は、『和洋折衷』という小劇団が稽古している様子を目撃した。代表の村田俊太郎に勧誘された泉一は、「この劇団で天下を取ろうと思ってる」という言葉に心を動かされて参加する。日本と西洋の融合を掲げて活動している『和洋折衷』は、やがて路上パフォーマンスから芝居小屋に移った。泉一は劇団員の篠宮亜紀に恋をして初体験するが、村田から「劇団内で恋愛は禁止だ」と釘を刺される。泉一に別れを告げられた亜紀は激怒し、劇団を去った。
1989年、25歳。『和洋折衷』の看板役者となった泉一は打ち上げの後で村田から迫られ、走って逃げ出した。翌日、村田はブロードウェイに行くと宣言して劇団を解散し、稽古場から姿を消していた。新聞で「世界への旅」という旅行会社の広告を見つけた泉一は、バイトで金を貯めて世界を旅することに決めた。1991年、27歳で中国に渡った彼は、ベトナム、ミャンマー、アラスカ、ヨーロッパ、インドなど様々な地域を巡った。アラスカでの北極点単独徒歩到達、イタリアでのピザ大食い選手権、インドでのカレー大食い選手権など、あらゆる挑戦は途中で断念した。
1999年、35歳。泉一はタイでスクーター世界一周最短記録に挑戦するが、事故で複雑骨折を負った。2000年はリハビリ、2002年は筋トレに励んだ。2003年、泉一は手漕ぎボートで太平洋横断に挑戦するが嵐で海に転落し、無人島に辿り着いた。サバイバル生活を送った彼は、7ヶ月後に救助されて日本へ戻った。彼はマスコミに取り上げられて話題の人となり、亀谷頼子というプランニングマネージャーが付くようになった。
講演会まで開くようになった泉一だが、すぐにメッキが剥がれて仕事が減っていく。泉一は眼鏡を外した亀谷頼子が北条頼子だと気付くが、「若気の至りです。その話はしたくありません」と告げられた。いつもは真面目な頼子だが、酒を飲むと豹変して愚痴を漏らした。その様子を面白いと感じた泉一は交際を申し込むが、あっさりと断られる。しかし泉一は諦めずに何度も申し込み、勢いでプロポーズすると頼子は承諾した…。

監督・脚本は内村光良、原作・原案は内村光良『金メダル男』(中公文庫)&一人舞台『東京オリンピック生まれの男』、製作は村田嘉邦&岩田天植&柵木秀夫&中山良夫&松田陽三&高木ジム&薮下維也&柴垣邦夫、エグゼクティブプロデューサーは松本整&田村正裕、プロデューサーは細谷まどか&富田裕隆&星野恵&澤岳司、協力プロデューサーは横田崇&末延靖章、ラインプロデューサーは原田耕治、撮影は神田創、照明は丸山和志、録音は竹内久史、美術は岩本浩典、衣裳は青木茂、編集は栗谷川純、CGプロデューサーは鈴木伸広、VFXスーパーバイザーは前川英章、音楽は林祐介&リエ&パーティーモンスター&内村光良、音楽プロデューサーは和田亨。
主題歌『君への手紙』桑田佳祐 作詞・作曲・編曲:桑田佳祐。
出演は内村光良、知念侑李、木村多江、ムロツヨシ、土屋太鳳、平泉成、宮崎美子、笑福亭鶴瓶、大西利空、大泉洋、上白石萌歌、大友花恋、ささの友間、音尾琢真、清野菜名、竹中直人、田中直樹、長澤まさみ、加藤諒、柄本時生、山崎紘菜、森川葵、ユースケ・サンタマリア、マキタスポーツ、手塚とおる、高嶋政宏、温水洋一、福澤朗、南原清隆、水卜麻美(日本テレビアナウンサー)、久本雅美、有吉弘行、藤原一裕(ライセンス)、井本貴史(ライセンス)、河北麻友子、諏訪雅(ヨーロッパ企画)、本多力(ヨーロッパ企画)、酒井善史(ヨーロッパ企画)ら。


2011年に上演された内村光良の一人舞台『東京オリンピック生まれの男』の映画化。
内村光良が監督&脚本&主演を務めている。
青年期の泉一を知念侑李、亀谷頼子を木村多江、村田をムロツヨシ、みどりを土屋太鳳、留一を平泉成、房江を宮崎美子、難波を笑福亭鶴瓶が演じている。
他に、大泉洋(川原)、上白石萌歌(よう子)、清野菜名(北条頼子)、竹中直人(高校の校長)、長澤まさみ(佐野)、森川葵(亜紀)、ユースケ・サンタマリア(クイズ番組の司会者)、高嶋政宏(成長した三村)らが出演している。

泉一が東京オリンピックの開催された年に誕生したという設定は、タイトルの『金メダル男』と大きく関係しているのだろうと思った。何しろ、基になった舞台劇は『東京オリンピック生まれの男』というタイトルだしね。
実際、映画が始って泉一が登場すると、画面に向かって「1964年、東京オリンピックが開催された都市」と話し始める。それに続けて他の出来事も羅列するが、それでもオリンピックは重要な要素なのだろうと思っていた。
だが、回想シーンで東京オリンピックに触れるようなことは全く無い。
かけっこで貰った金メダルが転機となっているので、決してタイトルの意味が見えないわけではない。だが、やはり「東京オリンピックの年に生まれた」という設定に何の意味も持たせていないことは、物語の弱さに繋がっていると感じる。

当時の世相や流行を感じさせる描写が、ものすごく中途半端になっている。
日本テレビ放送網が製作委員会に入っている関係で、過去に放送されていた『ザ・トップテン』や『アメリカ横断ウルトラクイズ』などの映像が挿入されるシーンはある。だが、『電波少年』で放浪していた頃の猿岩石を連想させるカットを挿入するくせに、登場するのは有吉だけというのは半端な形だ。
また、権利関係が面倒だったのかもしれないが、当時のヒット曲を全く流さず、伴奏音楽が全てインストってのは大きなマイナスだ。
しかも、だったらオリジナルBGMだけにしておけばいいものを、わざわざヒット曲のインストを使うもんだから、ますます「なぜオリジナル音源を使わないのか」という不満を抱く羽目になる。

『フォレスト・ガンプ』を意識したとしか思えないような構成なのだが、「時代との距離」ってのがものすごく遠い。
そんな「時代との距離」という部分では、「泉一が東京オリンピックの年に産まれた」という設定にも増して引っ掛かることがある。それは、落胆している泉一が息子の究一から手作りの金メダルを貰うシーン。
泉一が号泣して息子を抱き締め、「忘れられない一日となりました」という語りが入り、日めくりカレンダーで「2011年3月11日」が示される。つまり東日本大震災の日なのだが、それが何か意味があるのかというと、何も無いのだ。
だったら、そんなに雑な形で東日本大震災に触れちゃダメだろ。

そのシーンには、もう1つの問題も含まれている。
「手作りメダルを貰った泉一が号泣して息子を抱き締める」というシーンを「感動的な出来事」として描いたのなら、そこからは「泉一が自分勝手な一等賞を目指すのではなく、家族のために頑張る」という姿を見せるべきだろう。
ところが、この映画は「泉一が家族よりも身勝手な願望を優先する」という形で幕を閉じるのだ。
そうじゃなくて、「同じ一等賞を目指すにしても、「家族のための一等賞、家族にとっての金メダル」ってことでいいでしょうに。
ハートウォーミングな方向へ舵を切ることに対する違和感は拭えないけど、そっちへ向かう以上、そういう形にする以外に選択肢は無いんじゃないかと。

コメディーとしての描写にも、冴えが見られない。
例えば序盤、泉一が小学校の担任教師から「将来は何になりたいんだ?」と問われるシーン。「全てにおいて一等賞を獲ることです。これが僕の将来の夢です」と泉一は答えるが、「中学へ行って、ゆっくり考えなさい」と教師は諭すように告げる。それに対して泉一は、口を大きく開けている。
でも、その表情って、どう感じてほしいリアクションなのか全く分からない。笑いを取りに来ている反応、つまりオチとしての反応のはずだが、ワケが分からない。
そもそも泉一の答えってのは、教師が呆れて諭すほどキテレツというわけでもない。小学生の夢としては、分からなくもないんじゃないかと。
あと、生徒が1人だけ残っている教室に担任教師が入って来て、いきなり将来の夢を尋ねるという状況の不自然さが気になってしまう。そういう不自然さが目立つことで、どっちにしろボケは死んでしまう。

「黒木よう子を見たいがために息継ぎして溺れてしまう」というシーンは、まず「息継ぎしなくても隣のレーンを泳ぐ彼女を水中から見ることは可能」ってのが引っ掛かる。
また、「ちゃんと息継ぎしていれば溺れることは無い」ってのも引っ掛かる。
つまり、そこをネタとして機能させるためには、ちゃんと「泉一は息継ぎが上手く出来ないから無呼吸泳法を選んだ」ってことを示しておく必要があるのだ。
そこを雑に処理しているため、オチのはずの描写がオチとして機能しなくなっている。

剣道部で凛子に負けた後、「初心に帰ろう。しかし私は、思ったより背が伸びませんでした」というモノローグが入り、徒競走でダントツの最下位、ソフトテニスと卓球で予選敗退、英語弁論大会で最下位になったことが描かれる。
だけど、それって背が伸びなかったこととの関連性が薄いでしょ。
そりゃあ、ある程度は身長があった方が、多くのスポーツでも有利かもしれない。だけど、それを予選敗退や最下位の理由にするのは間違っている。
弁論大会に至っては、まるで身長と関係が無い。

ここに関しては、「基本的にはコントとして作っているが、コントとの決定的な違いを埋め切れていない」ってことが失敗の原因になっている。
もう少し具体的に言うと、「ボケに対するツッコミが無い」ってことだ。
もちろんツッコミの無いコントもあるが、この映画の場合はツッコミが必要な個所が多い。にも関わらずツッコミ役が存在しないため、ボケがボケとして機能しなくなっているのだ。
前述のシーンも、「いや身長とか関係ないだろ」と誰かがツッコミを入れれば、喜劇として成立する。だが、そのまま流されてしまうので、「泉一が全く関係の無いことを言い訳にしている」というだけになってしまうのだ。

高校に入った泉一は、成績トップを狙うが学年105位に終わる。
しかしスポーツはともかく学校の勉強に関しては、努力すれば上昇するはずだ。そこから全く勉強しなくなるんだから、本気で金メダルを目指しているようには到底思えない。
もう1つ、「友達が出来ない」という件に関しては、もはや金メダルが云々という問題は何の関係も無い。
そもそも、1等賞を取れていた頃は、大勢の友達がいたのか。そこを見せていないから、ますます関連性の無さが気になってしまう。

高校に入った泉一は北条頼子が歌う『私のサンクチュアリ』を聴き、「自分一人で部活を始めよう」と口にする。
だが、どういうことか全く分からない。
これが「自分も歌いたい」とか「彼女の近くに行きたい」ってことなら単純で分かりやすいが、そうではない。その歌に心を動かされたとして、それと「自分一人で部活を始めよう」という決意の関連性が全く見えないぞ。
そもそも、頼子の歌のどこに心を動かされたのかも伝わって来ない。
どうやら「私のサンクチュアリ」という部分に心を動かされたから「自分のサンクチュアリ」を中庭にしてパフォーマンスを始めたようだが、腑に落ちるモノではない。

表現部としての活動を始めた泉一は生徒たちから馬鹿にされ、先生からは精神状況を心配される。ところが文化祭のパフォーマンスでは、拍手喝采を浴びる。
でも、これまた全く納得できないのだ。なぜなら、ちっとも絶賛されるようなパフォーマンスではないからだ。
泉一は音楽に合わせて「脱藩」や「新婚旅行」という題を次々に出しながら動き回るのだが、何がどう受けたのかと。「パフォーマンスのレベルが云々」ということよりも、「高校生に受けるタイプのパフォーマンスじゃねえだろ」と言いたくなる。
それを大勢の生徒が素晴らしいと感じのだとしたら、そんな高校はヤバいぞ。それこそ精神科医に診てもらった方がいいぞ。
そこから泉一が大人気になるってのも、まるで理解できない現象だし。

泉一が表現部で描いた絵画は、コンクールで金賞を獲得するが、上下が逆さまになっている。でも、それは手違いで逆さまになったわけではなく、教師の佐野が「逆さまなら入選するだろう」と考えて、意図的に逆さまで別の題名を付けて送ったのだ。
しかし、それだとネタとしての力が弱くなる。
それと、佐野が勝手に付けたタイトルは『庭に落ちていたバナナの皮』なんだけど、それで金賞を獲得するのは変だろ。
むしろ「中庭に落ちていたバナナの皮を描いただけなのに、『中庭に佇む私』と誤解されて金賞に輝いた」という形の方が、まだネタとしては理解できるぞ。

実は「コメディーとしての描写」に関しては、冒頭から外していると感じてしまった。
映画の冒頭、最初にチャールズ・チャップリンの『人生はクローズアップで見れば悲劇。ロングショットで見れば喜劇』という言葉が表示され、続いて桑田佳祐、3人目に出川哲朗、そして最後に泉一の言葉が出る。
しかし、チャップリンの次に桑田佳祐という時点で違和感がある。もちろん桑田佳祐は立派な人だけど、チャップリンと並べちゃダメでしょ。
3番目は出川哲朗だが、これはオチのつもりなのか何なのかボンヤリしている。それを3番目に配置することで、最後の泉一は要らない言葉になるし。
「人は 生まれて 飲んで 食べて 眠って 起きて 笑って 怒って 泣いたりしながらあ 時々 排泄する」ってのが泉一の言葉なんだけど、それって笑いにもならなきゃ感動もしないでしょ。「だから?」としか言いようのない言葉でしょ。

泉一の行動には、まるで一貫性を感じない。
「金メダルを獲る」ってことじゃないかと思うかもしれないが、それが一貫性として全く機能していない。その目的のために、彼が延々とフラフラしまくっているからだ。
せめて「オリンピックや世界大会の金メダル」という枠に絞り込んでくれればともかく、「何でもいいから1番になること」ってのが彼の考え方だ。つまり、もはやジャンルさえ問わないのだ。
しかも彼にとって「金メダルを獲る」ってのは、実は目的ではない。承認欲求を満たすための手段に過ぎないのだ。

泉一は承認欲求が強すぎて、それを病気の如くこじらせている厄介な男だ。彼は1つのことでトップに立ったとしても全く満足できず、しばらくすると他の分野に目を向けて、そっちで金メダルを取りたがる。
演劇なんかは看板役者にまで成長しているんだから、そのまま別の劇団に入るなり映画のオーディションを受けるなりして続ければいいはずで。
それを簡単に投げ出して他のことを始めるのは、「好奇心旺盛」とか、「活力がみなぎっている」とか、そういう好意的な評価で受け取れるようなことではない。
すぐに目移りする、集中力や持久力の無い飽き性の男に過ぎない。

なんでもかんでも手を出したがる節操の無い泉一だが、それでも「自分が目を付けたジャンルに挑む時は全力で取り組む、懸命に頑張る」 という様子が描かれていれば、応援することも出来ただろう。しかし彼は大した努力もせず、簡単に投げ出してしまう。
つまり金メダルを取りたい気持ちだけは人一倍強いが、それに見合う努力はしたくない男なのだ。口先だけで、行動が伴わない奴なのだ。
途中までは「愚かなダメ人間」であっても、終盤に入って大きな変化や成長があれば、そこまでの印象の悪さも前フリとして機能する。終盤に入って、本気になって1つのことに打ち込み、全力で頑張って何かを成し遂げようとする姿を見せてくれれば、そこで一気に挽回できる可能性はある。その動機が例えば「愛する妻のため」とか「子供のため」といった青臭い物であっても、それは一向に構わない。
だが、泉一は最後まで全く成長しないのだ。

「承認欲求を満たし続けたい」という目的に囚われて生きている泉一は、インスタグラムでオシャレ写真をアップすることに振り回されている女子と大して変わらない。
そんな人間を、頑張っている男、応援したくなる主人公として描かれても、それには乗れない。全く好感が持てないし、魅力的な人物ではない。
「大して努力もしないのに金メダルを取りたがるダメ人間」ってことで皮肉めいた形で描くのであれば、それはそれで1つの形として理解できる。
しかし本作品は、そんな奴を通じて「夢を追い掛けるのに年齢なんて関係ない」というメッセージを発信しようとしているのだ。
それは全く共感できないメッセージだわ。

(観賞日:2018年3月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会