『金魂巻』:1985、日本
1956年、少年の田所幸一は、病院で生まれたばかりの弟・幸二を見ていた。彼はバナナと引き替えに、幸二のベッドを同じく生まれたばかりの近藤紀美雄の物と交換した。だが、大人達はベッドを交換したとは知らず、紀美雄と幸二は入れ替わってしまった。
そして現在、田所幸二はホカ弁屋の店長になり、木下紀子という恋人と付き合っていた。ある日、彼は中学の同級生で今は教師をしている中川と会った。幸二は中川から、映画監督になった同級生の清水が、若妻・さちを残して亡くなったことを聞かされた。
清水の葬儀の帰り、幸二と中川は中学の同級生・近藤紀美雄に会う。紀美雄は金持ちの息子として豪邸に暮らしており、今は医者になっていた。幸二と中川は紀美雄の家に行き、同窓会の打ち合せをすることになった。幸一は紀美雄の姉・久美子と結婚して裕福に暮らそうと考えており、まるで使用人のように媚びへつらっていた。
同窓会は旅館で行われることになり、中川が全ての手配を担当した。当日、同窓会に集まったのは幸二と紀美雄、スタイリストの田中千秋、銀行員の斉藤裕一郎と妻・麻衣子、誰も覚えていない謎の女・渡辺ひろ子、大橋秀之と長谷川満が現れ、さちも参加することになった。借金まみれの竹本六男は、会費が工面できなかった。
中川は学校の修学旅行で来られなかったが、集まったメンバーはバスで旅館へと向かった。ところが中川が代金を値切りまくったせいで、一行は大広間でのザコ寝を余儀無くされる。さちは牛乳風呂で気を失い、幸二は初恋相手の千秋を口説こうと必死になる。遅れてきた井上定夫が連れてきたイタコは、死んだはずの小林先生を呼び出す…。監督は井筒和幸、原作は渡辺和博、脚本は西岡琢也、製作は樋口弘美、プロデューサーは沖野晴久、企画は小松裕司、助監督は平山秀幸、撮影は森勝、編集は鍋島惇、録音は瀬川徹夫、照明は加藤松作、美術は細石照美、音楽は藤野浩一。
出演は九十九一、小林まさひろ、大門正明、東てる美、川上麻衣子、春やすこ、風祭ゆき、中村亜湖、木ノ葉のこ、桜金造、光石研、ベンガル、中村ゆうじ、小林のり一、清水昭博、由利徹、塩沢とき、南利明、南州太郎、石井富子、天本英世、寺田農、太平サブロー、太平シロー、ゆーとぴあ、港雄一、掘礼文、渡辺良子、城源寺くるみ、堀江しのぶ、高山千草、たこ八郎、オナッターズ(小川菜摘、南麻衣子、深野晴美)、MAKOTO(現・北野誠)、鈴木祐子ら。
イラストレーターの渡辺和博と編集者の神足裕司が仕掛けたベストセラー本『金魂巻』を基にした作品。
映画データベースでは『(金)(ビ)の金魂巻』(“まるきん・まるびのきんこんかん”と読む)となっているが、フィルムでは『金魂巻』としか表記されていない。ちなみに「まるきん・まるび」という言葉は、第1回流行語大賞・流行語部門で金賞を受賞した。原作は31種の職業を金持ちと貧乏人に分け、そのライフタイルを解説した本である。
これはトレンド・ウォッチ本であって、ストーリー性のある内容ではない。
だから、この映画はタイトルを借りただけで、脚本はほぼオリジナルと考えるべきだろう。幸二を九十九一、紀美雄を小林まさひろ、幸一を大門正明、久美子を東てる美、さちを川上麻衣子、紀子を春やすこ、千秋を風祭ゆき、渡辺を中村亜湖、麻衣子を木ノ葉のこ、中川を桜金造、斉藤を光石研、大橋をベンガル、竹本を中村ゆうじ、長谷川を小林のり一、井上を清水昭博、小林先生を由利徹、イタコを塩沢ときが演じている。
井筒和幸監督が、この映画を「最も迷っていた頃の作品」だと認めている。話がデタラメでも展開が支離滅裂でも、そこに強烈なパワーがあれば、それなりに観客は乗って行くことが出来たかもしれない。しかし監督の迷いが顕著に表れてしまったのか、映画自体も「どうしていいのか分からない」といった感じで迷走してしまう。
人物の行動がデタラメでも構わない。テーマやメッセージが無くても一向に構わない。だが、最初に赤ん坊の取り違え事件を持って来るのであれば、幸二と紀美雄の境遇の差は誇張して描かれるべきだ。それだけは、適当に済ませては困るのだ。この映画は、職業ごとに勝ち組と負け組を両極端に分類し、そのライフタイルを解説るというカタログ形式の映画作りを放棄している。だからこそ、幸二と紀美雄の2人に関してだけは、その貧富の差、勝ち組と負け組の差を色濃く描写する必要があるはずだ。
そういうことを考えれば、まず幸二が紀美雄の家を訪れるシーンからして、その豪華な生活ぶりがアピールされるべきなのである。幸二が異常なリッチ生活に圧倒されるという描写があってもいいだろう。しかし、そういう演出の意識は全く感じない。生き方が不器用で情けなく、見た目もヒョロっとしていてカッコ悪い幸二との対比を考えれば、紀美雄はイヤな性格だということを誇張されるべきだし、見た目からしカッコ良く、キザに決めているような男に設定されるべきだろう。しかしながら、それほど性格の悪さも誇張されないし、見た目だって、お世辞にもカッコ良くない。
例えば幸二や中川が葬儀に参列するシーンも、竹本を当時のトルコ風呂に連れて行くシーンも、「そこで働く人々の職業を解説する」というカタログ形式は前述したように放棄しているのだから、無駄に寄り道しているだけのシーンになってしまう。そこにハチャメチャなパワーでもあればいいのだろうが、それが足りない。例えばトルコ風呂でウンコして起こられバキュームカーでウンコを撒き散らすという明らかなギャグシーンで、シリアスっぽいBGMを流す。どういうシーンにしたいのか全く分からん。
幸二と紀美雄の違いを軸に進めていくのかと思ったら、後半は同窓会旅行に出掛ける集団劇になる。しかし、集まった面々の“まるきん、まるび”を見せていくわけでもないし、そもそも“まるきん、まるび”という切り口で作られていない。
じゃあ、どういう切り口なのかというと、まあ超テキトーに包丁を落として切り刻んでみたって感じかな。