『キネマの神様』:2021、日本
2019年。円山歩が勤務先の出版社でラグビーワールドカップのテレビ中継を見ていると、アジアホールディングスの鈴木という男から電話が掛かって来た。歩は鈴木から、父であるゴウが金を借りていること、先月分の返済が遅れていることを知らされた。「父の借金とは何の関係もありません」と彼女が言うと、鈴木は返さないと家へ押し掛けることになると通告した。歩の母である淑子は、テラシンの経営する映画館「テアトル銀幕」で働いていた。トイレ掃除を終えた彼女は、従業員の水川が来たので帰ることにした。テラシンからゴウの検査の結果を訊かれた淑子は、「大丈夫だの一点張りで、私には見せない」と答えた。テラシンはゴウの肝臓を心配しており、アルコール摂取量を減らすよう忠告した。
テラシンが「今日は昼から競馬か」とゴウの行動について尋ねると、淑子は「金曜日はシルバー人材センターのお仕事の日だから、真面目に働いているんじゃないかしら」と語る。ゴウは公園で掃除の仕事をしていたが、その最中もラジオで競馬中継を聴いていた。賭けた馬が負けると、彼は激しく苛立った。夜、歩が帰宅すると鈴木が強引に上がり込んだので押し掛けて来たので、仕方なく財布から金を出した。鈴木は全く足りないと告げるが、とりあえず立ち去った。
歩は淑子に、ゴウを甘やかさずに怒るよう要求した。風呂から上がったゴウが呑気に寛ごうとしたので、歩は借金の件を問い質す。ゴウは「忘れてた」と全く悪びれず、幾ら借りているのか訊かれると「大したこと無い」と誤魔化した。歩が食い下がって詰問すると、彼は腹を立てて立ち去った。淑子は歩に、生命保険を解約して金を工面するので幾らか出してほしいと頼む。歩は「助けてあげられないのよ」と言い、今の雑誌の売り上げでは会社との契約更新が無理なのだと明かした。
歩の息子の勇太は引き篭もりで、夕食も自分の部屋で食べていた。ゴウは彼の部屋へ行き、『キネマの友』という映画評論雑誌を読んでいると知って「映画というのは心で感じるモンだ。頭で考えてみるモンじゃない」と批判的に語る。「博打も心で感じる物ですか」と勇太が質問すると、彼は「一緒にする奴があるか」と返した。勇太が「じゃあ何が楽しいんですか」と尋ねると、ゴウは「面白いとか、面白くないとか、そういうことじゃない。逃げてるんだな、俺は」と告げた。
歩は淑子を伴って「家族の会」に参加し、主催者の「賭博依存症から救いたいなら、絶対に借金を肩代わりせず自分で返させるんです」という説明に耳を傾けた。歩は淑子を説得し、今後はゴウの借金を肩代わりしないことに決めた。帰宅した彼女は、今後は自分で借金を返済するようゴウに通告した。歩はゴウに、年金と掃除の給料が振り込まれる預金通帳とカードを自分が預かると告げる。「博打は父さんの生き甲斐なんだぞ」とゴウが反発すると、彼女は「その代わり、大好きな映画を見て暮らすの」と促した。
淑子はゴウに、「その昔、貴方は活動屋だったでしょ。フィルムには神様が宿ってるんだって、いつも言ってたじゃないの。その神様に助けてもらうのよ」と話す。通帳とカードを没収されたゴウは不貞腐れ、テアトル銀幕へ赴いた。彼はテラシンに金を貸してくれと頼むが、「淑子さんに言われてる」と断られた。テラシンは明日から出水宏監督の特集が始まることを告げ、桂園子が主演を務めた『花筏』を見ていくよう勧めた。かつてゴウは、出水の下で助監督として働いていた。
ゴウは売店から密かに缶ビールを盗み、客席に座った。水川はテラシンに、ゴウから金を貸してほしいと頼まれたが断ったことを伝えた。テラシンは正解だと告げ、仕事を終えた水川は外で待っていた恋人のエリと合流して去った。テラシンはフィルムを回し、ゴウの隣に移動した。ゴウは彼に、園子がアップになるカットで、彼女の瞳にカチンコを持った自分の姿が映っていると話す。テラシンは信じなかったが、ゴウはアップのカットで事実を確認させた。
出水は役者の芝居に全く興味が無く、園子にも「いい芝居をしようと思ってるから、嘘っぱちの芝居しか出来ないんだ」と話す。『花筏』のラッシュが出来上がると、ゴウは映写技師であるテラシンの元へ運んだ。テラシンはゴウに、「出水監督の写真はラッシュで部分だけ見ると平凡なのに、一本の作品になると面白い。それが映画だ。カットとカットの間に、映画の神様が宿るんだ」と語る。ゴウは残業してくれたテラシンのために、食堂「ふな喜」のかつ丼を注文していた。看板娘の淑子が映写室へ配達に来ると、ゴウはテラシンを称賛して立ち去った。テラシンは淑子に惚れており、二人きりになって緊張した。
出水は「ふな喜」で思い付いた場面について饒舌に語り、ゴウが原稿に書き起こした。淑子は出水から「いい縁談があるんだ。嫁に行く気は無いか」と言われ、「お見合いなんかしませんよ」と断った。ゴウはロケーションで伊豆半島へ行き、出水監督の要求に応えようと走り回った。休日、園子はアメ車にゴウと淑子とテラシンを乗せ、井戸半島へ遊びに出掛けた。彼女が誘ったのはゴウだけで、淑子とテラシンはゴウが誘っていた。園子はゴウに、本当は二人で来るつもりだったのだと告げた。
テラシンは淑子から映画監督になるのかと問われ、「ゴウと違って才能が無いから、出来れば映画批評家になりたい。それが無理なら、小さな映画館を建てたい。名前は「テアトル銀幕」に決めてる」と語った。園子は小田組の主役に抜擢され、「言われた通りに動かなきゃいけないの」とゴウたちに難しさを話す。ゴウは「俳優は小田監督にとって小道具で、人間じゃないんだ」と言い、自分は違うと補足した。ゴウが博打で遊んでばかりいることを淑子と園子が批判すると、テラシンは「彼は今、シナリオを書いてる」と擁護した。
ゴウはシナリオの内容を問われ、美しい人妻が主人公だと話す。彼女はケチな夫から与えられる生活費を倹約し、ヘソクリで大好きな映画を見に行く。ある日、憧れの俳優がスクリーンから語り掛け、外に出て来る。そういう男女のラブストーリーだと、ゴウは説明した。淑子は「見たい」と言い、園子は「出演したい」と口にした。ゴウは「ウチの会社が作り続けてるベタベタなセンチメンタリズムにウンザリしてるんだ」と熱く語り、シナリオのタイトルは『キネマの神様』だと明かした。
テラシンが風邪で高熱を出して寝込み、ゴウは見舞いに訪れた。テラシンは「撮影所を辞めて田舎に帰ろうと思うんだ」と言い出し、淑子と会うのが辛いのだと漏らした。彼の淑子に対する恋心を知ったゴウは、「手紙を書けば必ず気持ちは動く」と告げた。「そんなことしていいのか。君とあの子の間には、何かあるんだろ」とテラシンが言うと、ゴウは「何も無いよ」と否定し、「あの子はお前と一緒になった方がいい」と述べた。
それ以来、ゴウは「ふな喜」に行くのを控えるようになった。園子はゴウに、「淑子ちゃんが会いたがったわよ。私のツケで飲んでいいから、顔を出しなさい」と告げた。ゴウが久々に「ふな喜」を訪れると、淑子はテラシンからラブレターを貰ったことを明かした。ゴウがテラシンと話すよう勧めると、淑子は他に好きな相手がいると言い出した。ゴウは相手は誰なのか追及しようとするが、途中で自分だと気付いた。淑子が断りの手紙をテラシンに渡してほしいと頼むと、ゴウは彼女を抱き寄せた。
出水組のロケーションから戻ったゴウはテラシンに呼び出され、淑子に手紙を出したのに返事が来ないと言われる。ゴウは預かっていた淑子の手紙を渡し、遅れたことを謝罪した。ゴウが部屋を去ろうとすると、テラシンは残るよう頼む。手紙を読んだテラシンは、「お互い、好きだったんだろ。だったら、なんであんな言い方したんだ」と詰め寄った。ゴウが作り笑いで「そんな手紙、真に受けんなよ。女の気持ちなんか、すぐに変わるんだから」と取り成そうとすると、テラシンは腹を立てて部屋から追い出した。
九年前、淑子はテアトル銀幕のアルバイト募集の張り紙を見て、テラシンの面接を受けた。その時点では、互いに相手の素性に気付いていなかった。淑子の昔話を聞いたテラシンは彼女の正体に気付き、自分の名前を告げた。ゴウは『キネマの神様』で初監督を務めることが決まり、園子が主演女優に起用された。クランクインの朝、ゴウは緊張で腹を下した。園子は細かく書き込まれた彼の台本を見て、「撮影の現場は生物よ。計算通りに行くもんじゃない」と心配になった。
撮影が始まってもゴウは下痢が続き、何度もトイレに駆け込んだ。彼は撮影監督の森田と意見が合わず、悔しくて泣き出した。彼は誤ってセットから落下し、怪我を追って病院に運ばれた。ゴウは会社に辞表を提出し、テラシンが思い留まるよう説得しても考えを変えなかった。テラシンが「淑子ちゃんはどうするんだ」と言うと、彼は「お前に譲るよ」と告げる。テラシンが腹を立てて掴み掛かると、ゴウは無言で立ち去った。淑子は母である若菜の反対を押し切り、帰郷しようとするゴウを追い掛けた…。監督は山田洋次、原作は原田マハ(文春文庫刊)、脚本は山田洋次&朝原雄三、製作代表は大谷信義&早河洋&木下直哉&兵頭誠之&井田寛&善木準二&大西繁&岩崎秀昭&安部順一&清水厚志&奥村景二&田中祐介&中部嘉人&多湖慎一、製作総指揮は迫本淳一、製作は高橋敏弘、プロデューサーは房俊介&阿部雅人、撮影は近森眞史、美術は西村貴志、照明は土山正人、編集は石島一秀、録音は長村翔太、衣裳は松田和夫、牧亜矢美、VFX監修は山崎貴、音楽は岩代太郎、主題歌『うたかた歌』RADWIMPS feat.菅田将暉。
出演は沢田研二、菅田将暉、永野芽郁、野田洋次郎、宮本信子、小林稔侍、寺島しのぶ、北川景子、リリー・フランキー、前田旺志郎、志尊淳、松尾貴史、原田泰造、片桐はいり、広岡由里子、迫田孝也、近藤公園、豊原江理佳、渋川清彦、松野太紀、北山雅康、関口義郎、橋爪利博、ぎたろー、ムートン伊藤、菊地優志、福井修一、山崎ユタカ、高橋洋平、ポッピングフェアリー、 森本サイダー、黒田和基、斗澤康秋、やまげん。、高橋かける、吉田爽人、岡村航、乙部佳祐、おかりょー、木津谷祥、丸山修登、倉澤保、八木謙太、西田美歩、円谷優希、小倉悠作ら。
原田マハの同名小説を基にした映画で、松竹映画100周年記念作品。ただし原作とは内容が大幅に異なっている。
監督は『妻よ薔薇のように 家族はつらいよIII』『男はつらいよ お帰り 寅さん』の山田洋次。
脚本は山田洋次と『いきなり先生になったボクが彼女に恋をした』『男はつらいよ お帰り 寅さん』の朝原雄三による共同。
ゴウを沢田研二、若き日のゴウを菅田将暉、若き日の淑子を永野芽郁、若き日のテラシンを野田洋次郎、淑子を宮本信子、テラシンを小林稔侍、歩を寺島しのぶ、園子を北川景子、出水をリリー・フランキー、勇太を前田旺志郎、水川を志尊淳、森田を松尾貴史が演じている。端的に表現するならば、「想定外の問題に上手く対応できなかった失敗作」ということになるだろう。
多くの人が知っているだろうが、当初は志村けんがゴウ役で映画初主演を務める予定だった。
しかし新型コロナウイルス感染後に志村けんが急死したことを受け、沢田研二が代役を務める形となった。
それだけでなく、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、複数回に渡る撮影の中断や公開の延期を余儀なくされている。
そのように、新型コロナウイルスに振り回された作品だったのだ。もちろん志村けんの急死によって、大きく計画が狂ったことは紛れも無い事実だ。
だが、そこからシナリオに手を加えたり、演出の方針を転換したりして、軌道修正することは可能だったはずだ。
しかし山田洋次監督は、そこには全く手を加えなかった。志村けんの主演を想定していた頃と何も変わらないシナリオを使い、何も変わらない演出方針を貫いた。
志村けんは不在だが、「志村けんの存在」を強く意識しながらの製作になったわけだ。ゴウは志村けんにアテ書きされたキャラクターであり、沢田研二は「もしも志村けんがゴウを演じていたら」という方向で芝居をしている。ようするに、志村けんに成り切ろうとしているわけだ。
でも誰がどう考えたって、志村けんと沢田研二では全くタイプが違うのだ。
実は若い頃の志村けんと沢田研二なら、似ていると言われることもあった。
でも今の沢田研二は、志村けんとは中身も外見も似ても似つかない。
だから、幾ら似せようとしても無理がある。外見に関しては、「志村けんに似ているか否か」という問題を抜きにしても、かなり厳しいと感じる。
言うまでも無いだろうが、若い頃はスレンダーなスタイルだった沢田研二も、現在はデップリとした恰幅のいい見た目に変貌している。あと、単純にガタイがデカい。その体で周囲の人間に対して乱暴な態度を取ると、ものすごく暴力的で怖い男に見えるのだ。
ユーモラスな芝居をしているシーンでも、その外見が大きな障害になっている。たぶん山田洋次監督は、ゴウを『男はつらいよ』シリーズの車寅次郎みたいなイメージで造形したんじゃないかと思われる。ザックリ言うならば、「愛すべきダメ男」ってことだ。
だけど寅さんと違って、ゴウはクズすぎて全く笑えない。寅さんのように、愛せる余地が微塵も無い。
そもそも寅さんって性格や行動に問題はあったけど、基本的には気の優しい家族思いの男だったからね。
それに対してゴウの場合、愛せる部分を「志村けんだから」という部分に全面的に頼り、おんぶにだっこみたいな感じになってんのよ。
それを志村けんじゃなくて沢田研二が演じているんだから、そりゃあ愛せるはずがないのよ。不快感の塊になってんのよ。映画の冒頭、歩はラグビーワールドカップのテレビ中継を見ており、「翌年の東京オリンピックや甲子園までが中止になるなんて、誰も 思っていなかった」という語りが入る。終盤にはコロナ渦の日本が描かれており、映画の内容と現実を密接にリンクさせている。
しかし、これは大きな失敗だったと言わざるを得ない。
劇中に投影したくなるぐらい、山田洋次監督にとって新型コロナウイルスの蔓延は衝撃的な出来事だったんだろう。無視できない、避けたくないと強く感じる出来事だったんだろう。
でも、この映画はファンタジーとして徹底すべき題材なのよ。「新型コロナウイルスに翻弄された時代」を色濃く投影させても、何の得も無いのよ。回想パートに入って以降、ゴウが淑子に惚れていることを匂わせる様子は全く無かった。
ドライブに連れ出した園子から「私と噂になると困るような女の人がいるの?」と問われて「いませんよ、そんなの」と狼狽するシーンはあるが、それは「淑子に惚れている」ってことを匂わせる描写ではない。
単に「園子からの誘惑にアタフタしている」というだけだ。
淑子に好意があるなら、彼女がテラシンと2人きりで話しているのも気になるはずだが、そんな様子は皆無だし。ゴウはテラシンから「君とあの子の間には、何かあるんだろ」と訊かれた時、「何も無いよ。そりゃあ、いい子だよ。ハッキリ言って、好きかもしれない」と言っている。
ここで初めて、淑子に対して「好きかもしれない」という感情を示している。そして、ここで初めて、こっちも「そんな気持ちがあったのね」と感じることになる。それまでに、そんな気配はゼロだったからね。
とは言え、「テラシンの恋心を聞かされて、初めて自分の淑子に対する気持ちに気付く」という形で恋愛劇を描くのも、やり方としては構わない。
ただ、そういう心境の変化も全く見えないのよ。ゴウが松竹を辞めると決めた時、テラシンは「君には才能があるんだぞ」と止めようとする。
ゴウが「そんなモン無いよ。俺には出水監督や小田監督の何十分の一の才能も無い。良く分かった」と言うと、テラシンは「そんなこと無い。『キネマの神様』は、ゴウちゃんにしか書けない本なんだ」と告げる。
ここの会話は、論点が完全にズレている。
テラシンと淑子と園子はゴウが『キネマの神様』の内容を説明した時、手放しで絶賛していた。
でも、それはあくまでも「シナリオ」を絶賛したのだ。まだゴウは1本も撮っておらず、監督としての手腕は未知数だ。もちろん、テラシンも彼の監督としての才能に関しては、評価できる材料を持ち合わせていない。
だから、「脚本の才能はあるが、監督の才能は無い」という可能性は充分に考えられる。
でもゴウとテラシンの会話は、そこを一括りにしているので、「なんか違う」と感じてしまう。
「監督としては厳しいけど、脚本家として仕事を続ける」という選択肢もあっただろうに、それすら完全に否定してしまうので、「なんだかなあ」と感じるし。淑子がゴウを追い掛けようと決めた時、出水は思い留まるよう説く。
反発する淑子を見て微笑む様子からすると、出水は本気で止めようと思っていなかった可能性もある。ただ、彼の「あいつと一緒になったら苦労する。淑子を幸せに出来る男じゃない」という言葉は、その通りの結果が出ている。
「それでも淑子の選択は間違いじゃなかった。彼女はゴウと結婚して幸せだった」と解釈するのは、かなり難しい。
たぶん「苦労は多いけど幸せ」という形で受け入れてもらいたいんだろうけど、ちょっと無理。ただ、菅田将暉が演じている若き日のゴウが、年を取ってから沢田研二が演じるゴウになるってのが、どうしてもイメージできない。
頭の中で、その両者が同一人物として繋がってくれない。
結婚後のゴウは、ひょっとしたら最初からアル中でギャンブル狂のクズ野郎だったわけじゃなくて、少しずつ自堕落に変化したり、何か大きく変貌するきっかけがあったりするのかもしれない。
でも、仮にそうだとしても、「それなら、変貌する前のゴウを描かないのは手落ちじゃないか」と感じるし。後半、勇太がゴウに「お祖父ちゃんは豊かな才能を持ってる」と言い、テラシンに貰った『キネマの神様』の台本を傑作だと賞賛する展開がある。
でも彼のゴウに対する批評は、少しズレている。
ゴウは「かつて才能があったが、それをドブに捨てて完全に終わった男」なのだ。
勇太はゴウの台本を木戸賞(もちろん『城戸賞』のイメージ)に応募して受賞しているが、これも本当の意味で「ゴウがクズ人間から脱却した」とは言えない。
なぜなら、若い頃に書いた台本が評価されたに過ぎないからだ。過去の遺産に頼っているだけなのだ。百歩譲って、若い頃の台本で脚本賞を受賞するのはいいとしよう。
だが、そこで終わりじゃなくて、本来なら「やり直そうと決意し、ゴウが新たな脚本を書く」という手順、そこまで行かないにしても「新たな脚本を書こうとする」という手順は必要なはずだ。
それなのに、ゴウは木戸賞を受賞しただけで満足してしまう。
彼は受賞後に体調を崩して入院するが、そのせいで変化の展開が描かれないわけではない。
病気か否かに関わらず、「気持ちを入れ替えて、やり直そう」という兆しが全く見えないのだ。入院したゴウは、テラシンに「淑子はお前を選ぶべきだった。間違えたんだよ」と言う。テラシンは腹を立て、「淑子ちゃんが不幸だったと本気で思うなら、今からやり直せばいい」と諭す。
この台詞の流れからしても、「ゴウが淑子のためにやり直す」という手順は必須じゃないのか。それなのに「昔の小田組の映画を見て、ゴウは満足して死ぬ」って、どういうつもりだよ。
しかも、最後に見るのは、「園子がスクリーンから出て来てゴウを誘う」という夢なのよ。
もちろん、そこを『キネマの神様』のアイデアと重ねていることぐらい分かるよ。
でも、死ぬ前に最後に見るのが園子ってことになると、淑子が報われないだろうに。(観賞日:2023年5月2日)
2021年度 HIHOはくさいアワード:第4位