『木村家の人びと』:1988、日本

木村家は父の肇、母の典子、娘の照美、息子の太郎という4人家族だ。ある日、典子の兄である雨宮晋一と妻の小百合が、木村家を訪ねて来た。雨宮夫妻は家を改築する1ヶ月間、アパートで暮らすことになっていた。しかしアパートは手狭なので、母のミツを預かってもらうために木村家へ連れて来たのだ。ミツは半年前から認知症を患っており、照美を「典子」と呼んだ。晋一の持って来た葡萄ジュースをミツが瓶ごと一気飲みしようとするので、一同は慌てて止めた。
夜、雨宮夫妻が用意された寝室にいると肇が来て、2泊分の宿泊費の明細を渡した。雨宮夫妻が困惑していると照美が来て、マッサージ代について説明した。照美が明細を渡して雨宮夫妻の部屋を立ち去る時、同行した太郎は「ごめんなさい」と申し訳なさそうに告げた。翌朝、雨宮夫妻は典子の激しい喘ぎ声で目を覚ました。照美は雨宮夫妻に、それがモーニングコールのバイトであること、近所の主婦に下請けを出していることを説明した。
肇は近所の新聞販売店で大量の朝刊と小銭を受け取り、自宅に戻った。彼は元締めになり、近所に住む老人会の時次郎や梅吉たちに新聞を配達させていた。他にも木村一家は出前朝食や配達弁当の仕事で、精力的に金を稼いでいた。近所に住む高倉正志は木村一家を「守銭奴」と軽蔑の眼差しで見ているが、車での送迎サービスは利用した。肇は車内に髭剃りやヘアリキッドなど様々な商品を揃え、客に売っていた。高倉家の妻であるさやかは、雨宮夫妻に「木村家は近所を巻き込んで何かに何まで商売にする病気だ」と語った。
肇は会社の史料編纂室で勤務し、そこでも商売に励んでいた。照美は学校の正門付近にチリ紙交換の業者を見つけ、クラスメイトと共に包囲した。彼女は縄張り荒らしだと指摘し、業者を追い払った。照美は収益を生徒に分配することで、子供会の再建に成功していた。彼女は校長に「もう少し小学生らしい活動をしたらどうだろうか」と言われ、真っ向から反論した。太郎と高倉家の息子である拳はハモニカ部を辞めたいと伝えるため、顧問である神河内の元へ赴いた。しかし拳が「木村くんの技術と情熱には勝てません」と言って逃げ出したので、太郎は神河内と2人だけでハーモニカを吹く羽目になった。
雨宮夫婦は車で木村家を去る時、封筒を見つけた。小百合が封筒を開けると、中には太郎の手紙とマッサージ代として雨宮夫婦が渡した金が入っていた。手紙には謝罪の言葉が綴られており、晋一は「意地汚い家族に染まっていないんだ」と口にした。肇は閉演後の遊園地に家族を招き、「貸し切りだ」と告げた。彼は会社が休みだったので掃除のアルバイトをしたこと、整備員と仲良くなったことを子供たちに説明し、「閉演後に整備運転をするから、お前たちぐらい乗っけても何てことないんだ」と語った。
肇が子供会の件で照美を褒めると、太郎は自分も学校でノートを貸したり掃除当番を代わったりして儲けたと話す。それは真っ赤な嘘で、本当は家で稼いだ金を全てクラスメイトにカツアゲされていた。しかし「来月から照美のように、家に食費として毎月1500円を入れよう」と肇が言い出したので、太郎は困ってしまった。肇はエキストラ事務所に登録したことを明かし、テレビ局に連れて行ってやると話した。典子は羨ましがり、自分も登録しようかと口にした。
晋一から太郎の元に、新約聖書が届いた。太郎は聖書を読んで感激し、「僕はどうしたら本当の愛を持つことが出来るのでしょうか」と相談する手紙を晋一に書いた。晋一は太郎に「純粋なる者は悩む宿命にあるんだ」と返信し、その後も2人の文通は続いた。木村家に何軒もの店から大量の蕎麦が配達され、肇たちは困惑した。ミツが老人会の時次郎を連れて帰宅し、事情が判明した。ミツは木村家全員の銀行口座から全額を引き落とし、その金の一部を使って蕎麦を注文していたのだ。
肇たちはミツから残りの金を回収し、紙幣を数えた。肇と典子と照美は蕎麦を無駄にしたくないので海苔をハサミで切り始めるが、太郎は手伝わなかった。家の改築が終わった雨宮夫妻は肇と典子に会い、太郎を養子として引き取りたいと申し入れた。肇と典子が困惑すると、雨宮夫妻は太郎から届いた手紙を見せた。その手紙には、太郎が金のことばかり喋る家族を嫌がっていることが綴られていた。改めて晋一が養子の件を口にすると、肇は「帰れ」と怒鳴り付けた…。

監督は滝田洋二郎、原作は谷俊彦(小説新潮新人賞)、脚本は一色信幸、企画は村上光一、プロデューサーは宮島秀司&河井真也、プロデューサー補は小林寿夫&村尾典子、撮影は志賀葉一、照明は矢部一男、録音は宮本久幸、美術は中澤克己、編集は冨田功、助監督は萩庭貞明、音楽は大野克夫、主題歌はBAKUFU/SLUMP『きのうのレジスタンス』。
出演は鹿賀丈史、桃井かおり、岩崎ひろみ、伊崎充則、柄本明、木内みり、風見章子、小西博之、清水ミチコ、中野慎、加藤嘉、多々良純、奥村公延、木田三千雄、露原千草、辻伊万里、今井和子、鳥越マリ、酒井敏也、池島ゆたか、十貴寺梅軒、上田耕一、竹中直人、螢雪次朗、ルパン鈴木、山口晃史、江崎和代、橘雪子、三輝みきこ、小林憲二、野坂きいち、山下徳久、二家本辰己、ベンガル、津村鷹志、高田純、植松康郎、井戸沼純子、中島義実、西村豊史、東山美鈴、田京恵、江森陽弘ら。


谷俊彦の同名小説を基にした作品。
監督は『コミック雑誌なんかいらない!』『愛しのハーフ・ムーン』の滝田洋二郎。
脚本は『私をスキーに連れてって』『山田村ワルツ』の一色信幸。
肇を鹿賀丈史、典子を桃井かおり、照美を岩崎ひろみ、太郎を伊崎充則、晋一を柄本明、小百合を木内みどり、ミツを風見章子、正志を小西博之、さやかを清水ミチコ、拳を中野慎、時次郎を加藤嘉、校長を津村鷹志、神河内を江森陽弘、チリ紙交換の業者を竹中直人が演じている。

木村一家が色んな仕事で小銭を稼いでいることを明かす前に、「ミツがジュースを一気飲みしようとするので慌てて制止する」というネタがある。
でも、まずは「木村一家の守銭奴ぶり」でギャグをやるべきでしょ。
あと、自分たちだけで色んな仕事をしているわけじゃなく、近所の住人も巻き込んで手伝わせているんだよね。その設定によって、いきなり話がボヤけていると感じる。
図式として「木村一家が金を稼ぐために色んな仕事をしている」ってのと「近所の住民に色んな仕事を任せる」ってのは、ちょっと違うでしょ。

木村一家は時間を惜しんで様々な仕事に手を出しているが、「必死になって稼いでいる」という感じは無くて、楽しそうに働いている。
また、質素な生活で倹約しまくっているわけではなく、だからって稼いだ金で贅沢三昧している様子も見られない。
肇は「小銭稼ぎこそが我が人生」ってな感じで、「金を稼いでどうするのか」という「金儲けの向こう側」は何も見えない。だが、金儲けが手段ではなく目的と化していることを、皮肉るような切り口も感じられない。
どうにも話のピントが定まっていない。

太郎がハモニカ部を辞めたいと伝えに行き、友人の裏切りで神河内とマンツーマンになるエピソードは、何のつもりで用意したのか意味が分からない。
「神河内が情熱的にハーモニカを吹き、それに付き合う太郎」という絵には面白さがあるけど、木村家の金儲けとは何の関係も無いでしょ。
ただ「太郎が嫌な部活から抜け出せない」というだけの、謎のエピソードだ。
太郎と拳は同級生で同じ部活なので仲良しのはずだが、ここの関係描写も皆無に等しいままで終わっちゃうし。

その後には、肇が正志に「1ヶ月ごとに取る新聞を変更すれば、死ぬまで洗剤を貰い続けられる。計算すると24万8千円を得する」と節約の方法を指南する展開がある。だけど、それは自分たちが金を稼ぐための方法じゃなくて他人へのアドバイスだし、しかも金儲けじゃなく節約のアイデアだ。
なので二重の意味で、話のピントがボヤけている。
さらに、典子が「駅前に新しいスタジオが出来たので、今度の日曜に社交ダンスに行かないか」と誘い、肇が「土日はドブ掃除だ。2人で1万2千円くれるんだから」言うと「ダンスがしたい」とゴネるシーンがある。
太郎以外は金儲け第一主義かと思ったら、典子は金儲けよりも趣味を優先しようとするわけで、これまた話がボヤける。
そうかと思えば、次に典子が登場すると自ら金券を使った金儲けの方法を提案するので、キャラがブレている。

その後には、肇と典子が大量の百円玉を用意してベッドに入り、相手に与える硬貨の数でサービスが増えるというエピソードが描かれる。
でも、夫婦がそれぞれ別々に金儲けをしており、財布の別々ってことならともかく、そうじゃないんでしょ。一緒に金儲けしていて、財布も一緒なんでしょ。
だったら、どっちがどれだけセックスで稼ごうが、トータルの収支は変わらないでしょうに。
ギャグとしてやっているエピソードなのは分かるけど、ギャグとしてもつまらないし。

肇が家族を閉演後の遊園地に招待するエピソードは、金儲けじゃなくて普通に楽しむための行動なので、これまたボヤける。
若い頃に音楽の先生だったミツが老人会の面々と太郎の前で上手にハーモニカを演奏するのも、狙いが分からないエピソードだ。
ひょっとすると「ミツの痴呆が改善されたのかも」と観客に思わせる狙いがあって、その上で「やっぱりボケていたので大量の蕎麦を注文する」という展開へ持って来たかったのかもしれない。
ただ、そもそも口座の金を全て引き落として大量の蕎麦を注文するエピソードも、やっぱり「木村家が守銭奴で云々」という話からズレていると感じるし。

太郎が聖書に感銘を受けるとか、雨宮夫妻が養子に貰いたがるとか、そういうのも「金儲けを巡るコメディー」からは外れている。
「太郎の機嫌を取るため、木村夫妻が小銭稼ぎを一時中止する」という展開に繋がるので、大きな脱線や余計な道草というわけではない。
だけど、もっと「熱心な小銭稼ぎに励む木村家」という図式に集中した方がいいと思うんだよね。
あと、太郎が聖書に感銘を受けてから木村夫妻が小銭稼ぎを一時中止して云々という辺りの展開って、シンプルに面白くないし。

その辺りの展開に、「一本調子になるのを避けるため、変化を付ける」という意味を感じ取ることは出来なくもない。でも、そこでトーンが変化することは無いので、メリハリや起伏は感じられないんだよね。むしろ停滞感が漂うぐらいだし。
その後には「高倉家が小銭稼ぎを始める」という展開があるが、なぜ正志たちが急に宗旨替えしたのかはサッパリ分からない。
また、そこから木村家と高倉家の戦いが勃発するが、凡庸な内容に終始する。
振り切ったバカバカしさや醜さ、荒唐無稽な作戦や突飛な策略で引き付けるような趣向も無い。

終盤に入ると、肇と正志が老人たちの奪い合いを始める。太郎が部屋でハーモニカを吹くと、老人たちは「ミツの演奏だ」と思い込む。
さやかは拳に演奏を命じるが、上手くないので老人たちが「太郎の方が本物だ」と断定する。
これに何の意味があるのかというと、演奏の上手さを理由に老人たちは肇の仕事を選ぶのだ。でも「なんでだよ」と言いたくなるぞ。
で、このタイミングで「典子は肇に刺激を与えて小銭稼ぎに復帰させるため、正志を焚き付けて小銭稼ぎを始めさせていた」という事実が明らかにされる。これで高倉家が急に小銭稼ぎを始めた理由は明らかになるけど、それも含めてバカバカしいと感じるだけだ。
最終的に肇が銭ゲバのままなのに太郎が家に残ることを選ぶとか、涙で抱き合って感動的なシーンっぽく演出するとか、そういうのも「いや無理だわ」と呆れるばかりだし。

(観賞日:2024年8月3日)

 

*ポンコツ映画愛護協会