『火宅の人』:1986、日本

作家の桂一雄には幼少の頃、母が大学生との浮気に走り、自分達を捨てて姿を消したという過去があった。それから40年後、一雄は自分の母と同じように家族を裏切り、浮気相手である矢島恵子と列車に乗り込み、青森に旅立とうとしていた。
恵子との出会いは、まだ一雄が東京に出る前、九州にいた頃のことだった。知人の手紙を持って現れた彼女は役者志望で、一雄の紹介したバーで女中として働きながら芝居の勉強を始めた。一雄は恵子に心を惹かれ、彼女の働くバーに通うようになった。しかし一雄は恵子に逃げられることを恐れ、彼女に一切触れなかった。
一雄は先妻と死別した後にヨリ子と結婚しており、先妻の子供とヨリ子の子供、合わせて5人の子持ちだった。去年の夏、次男の次郎が引き付けを起こし、入院することになった。次男は命を取り留めて退院したものの、言語と手足に麻痺が残ってしまった。それをきっかけにして、ヨリ子は怪しげな宗教にすがるようになった。
一雄が青森に出向いたのは、友人だった太宰治の文学碑の除幕式に出席するためである。除幕式を終えた後、一雄は温泉宿で恵子と関係を持った。家に帰った一雄は、ヨリ子に恵子と関係を持ったことを告げる。ヨリ子は家を出て行き、一雄はホテルで恵子との情事にふけり、彼女との関係を小説に書いて発表した。
やがてヨリ子が子供達の世話をするために、覚悟を決めて家に戻った。一雄は浅草にアパートを借り、恵子との同棲生活を始めた。やがて恵子は妊娠するが、新劇女優としての仕事のために中絶したいと言う。執筆活動に追われていた一雄が病院を探しに出掛けるのは無理だと告げると、恵子は怒ってアパートを出て行ってしまった。
一雄は編集者の中島から、恵子が島村という男の寵愛を受けていたという噂話を聞く。嫉妬心を抱いた一雄は酔い潰れ、ノワールという店で働く葉子という女に介抱される。アパートに戻った一雄は腕を負傷して小説が書けないため、ヨリ子を呼び出して代筆してもらう。やがて、堕胎した恵子がアパートに戻って来る。
恵子と激しく争った一雄は、アパートを出て旅に出る。五島列島行きの船に乗った一雄は、故郷へ帰る途中の葉子と再会する。葉子の実家に案内された一雄は、彼女から養父の子供を中絶させられた経験を聞かされる。一雄と葉子は二人旅に出て、肉体関係を持った。結婚を決めた葉子と別れた一雄は、大晦日に東京へと戻った…。

監督は深作欣二、原作は檀一雄、脚本は神波史男&深作欣二、企画は高岩淡&佐藤雅夫、企画協力は檀太郎、プロデューサーは豊島泉&中山正久、撮影は木村大作、編集は市田勇、録音は平井清重、照明は増田悦章、美術は佐野義和、音楽は井上堯之、音楽プロデューサーは高桑忠男、主題歌「火宅の人」は嵯峨美子(作詞・阿久悠、作曲・井上堯之)。
主演は緒形拳、共演はいしだあゆみ、原田美枝子、松坂慶子、檀ふみ、真田広之、岡田裕介、井川比佐志、荒井注、下条アトム、下元勉、山谷初男、石橋蓮司、蟹江敬三、片山由香、浅見美那、宮内順子、利根川龍二、一柳信之、大熊敏志、米沢由香、岡村真美、伊勢将人、谷本小夜子、野口貴史、伊庭剛、宮城幸生、谷口孝史、相馬剛三、岡本大輔、丸平峯子ら。


檀一雄が自らをモデルに書き上げた告白小説を映画化した作品。
タイトルの“火宅”とは、煩悩に身を焦がして不安の絶えない様子を、火災に遭った家に例えて表現した言葉である。
一雄を緒形拳、ヨリ子をいしだあゆみ、恵子を原田美枝子、葉子を松坂慶子が演じている。また、檀一雄の娘・檀ふみが、一雄の母親役で出演している。

この手の文芸映画、つまり男女の関係を綴った文芸映画には大抵の場合、ゲージツの皮を被ったエロいシーンが付いて回ることになる。
この作品も御多分に漏れずで、前半では原田美枝子が惜しげも無く脱ぎまくり、後半には松坂慶子の濡れ場が用意されている。

前半に登場する一雄の回想シーンでは、真田広之演じる中原中也が「汚れちまった哀しみに」などと唱えながら歩いたり、岡田裕介演じる太宰治が自殺を図ったりする。
それらのシーンは、何の流れも無く唐突に出てくる。
そして真田広之も岡田裕介も、そのシーンだけで消える。
何の意味も無い、取って付けたような余計なシーンだ。

一雄は恵子との情事をヨリ子に報告しておきながら、「しばらくは無用の騒ぎを起こすな」などと平気で言い放つ。しかもヨリ子が出て行った後、子供達を女中に任せてホテルに泊まり込み、恵子との情事にふける。
大体、ヨリ子を引き止めようとする時の言葉も、妻への愛を訴えたり謝罪したりすることは無く、「子供の世話は?」である。

ヨリ子が家に戻ったかと思うと、今度は恵子と同棲生活を始める。
恵子と揉めたらアパートを出て、今度は別の女とセックス。
その女に別れを告げられると、今度は恵子に会いに行く。
留守だと分かると、今度は自宅に戻って妻に取り入ろうとする。

で、恵子が戻っていると分かると、自宅での正月の宴を放置してアパートに向かう。
で、3ヶ月も連絡をしなかったくせに、恵子が他の男と付き合っていると怒る。
で、恵子にフラれちゃったもんだから、家に戻る。
恐ろしく身勝手な男である。

“無頼派”と言うと聞こえがいいが、単なる身勝手野郎である。
自分に正直だからOKってモノではない。
どうしようもないダメ男である。しかも残念ながら、「愛すべき」とか「憎めない」という修飾語は絶対に付けられないタイプのダメ男だ。

一雄は勝手気ままに生きており、周囲に害を撒き散らす。
周囲を不幸にしておきながら、それを何とも感じていないというサイテー男である。
女にフラれるのも揉め事があるのも、そりゃ自業自得というものだ。
「まあ勝手にやっとくれ」ってな感じである。

一雄は「不倫は文化だ」とでも言わんばかりに、自分の行為を当然と考えている。
「愚かさを愛し、おめでたく生きたい」と思うのは結構だが、それを他の人にも認めてもらおうとするのは、そりゃ調子が良すぎるというものだ。

妻がありながら様々な女と関係を持つ主人公の姿は、多くの女優との浮き名を流した深作欣二監督に重なるものがある。
そう、この映画は、深作監督が浮気を繰り返す自分の性格について弁明し、正当化するために作られた作品なのである。

深作監督は今作品を通して、「オレは色んな女とヤってるけど、ちっとも悪くないんだ。しょうがないんだ、愚かだからさ」と開き直る。自分の浮気相手である松坂慶子を出演させている辺りからして、なかなかの開き直りっぷりである。
ま、勝手にやっとくれ。

 

*ポンコツ映画愛護協会