『河童』:1994、日本

世界的に有名な報道写真家・鈴森雄太の個展が、15年ぶりに日本で開催された。雄太が帰国するのも15年ぶりだ。大勢の報道陣や招客が、 会場に押し寄せた。エージェントである佐久間の紹介で、雄太は壇上に立って挨拶を始めた。すると、そこに戸田勇という若者が現れた。 彼は雄太と別れた妻との間に生まれた息子だった。「勇君、よくきてくれたね」と歓迎する雄太だが、勇は招待状を破り捨て、「15年も 音沙汰無しで、いきなり招待状はないだろ」と掴み掛かった。
周囲の人間が慌てて勇を取り押さえようとすると、雄太は「私の息子なんだ」と説明する。勇は「俺はアンタの息子なんかじゃねえよ」と 反発した。心臓の悪かった雄太は、発作を起こして倒れ、病院に担ぎ込まれた。勇は佐久間から雄太の意識が回復したことを聞かされるが 、すぐに立ち去ろうとする。佐久間は「後悔するぞ。苦しんだのは君だけじゃないんだ」と叫ぶ。勇が病室に入ると、雄太は生まれ故郷で ある多賀地区・北川村のことを言い、「俺は子供の頃な、そこで河童を見たんだ」と告げて透明の球体を見せた。
昭和28年夏、母を亡くした8歳の雄太は、親友の克次と一緒に田舎道を歩いていた。映画『妖怪大行進』を上映する移動映画館のトラック が、その横を通り過ぎていった。苛めっ子たちが2人を待ち受けており、「女駐在、元気かよ」と雄太をからかった。彼らは克次にも 「駐在は女」と言うよう強要する。苛めっ子たちは、雄太をハーモニカを投げ合ってからかい、その場を去った。
苛めっ子たちが去ったところへ、祖父の喜助がやって来た。彼は雄太に、天神沼の川嵐洞のことを話す。そこには昔から河童様が住んで おり、河童様のおかげで村は水に困ったことが無いという。雄太が帰宅すると、父の勇吉が割烹着姿で食事の準備をしていた。雄太は喜助 から、「河童は人間と同じように死ぬが、死んだ後は違う。男の河童様は尻子魂、女の河童様は天の川になる」と聞かされた。
翌日、沼で釣りをしていた雄太は、何かが動くのに気付いた。彼は慌てて喜助の元へ行き、「何かいるよ」と告げる。喜助は「心配ねえ。 河童様は人に悪さしねえから」と笑う。克次が来て、「父ちゃんに券を貰ったから映画館に行こう」と誘った。『妖怪大行進』は分校舎で 上映された。映画の後、雄太は克次を連れて家に戻り、河童の絵を描いた。夜遅くになり、克次は自転車で帰ることになった。
雄太は克次にバットを差し出した。それを見ていた喜助に、「河童に襲われるかもしんねえぞ」と彼は言う。喜助は「河童様は村の守り神 だから襲うわけがあんめえ」と言うが、克次は「でも、おっかねえから」と、バットを持って行くことにした。沼の前を通った克次は、 何かが動くのに気付いてバットを投げ付ける。すると何かに命中する鈍い音、そして呻くような声が聞こえた。直後、光る球体が跳ねて、 克次の目の前に出現した。克次は驚いて気を失った。
克次の母が勇吉の元に来て、息子が帰らないことを告げた。捜索に出た勇吉は、克次が気絶しているのを発見した。意識を取り戻した克次 は、「河童だ」と叫ぶ。しかし村の男たちは、熊が出たのだと決め付ける。勇吉が止めても、「村のことには口出ししないでください」 「割烹着を着て味噌汁でも作っていればいいべ」と、男たちはバカにして笑った。村長が「熊がこんな場所に出るはずがない」と言っても 、克次の父・茂作たちは聞く耳を貸さず、猟銃を持って熊退治に出掛けた。
茂作たちは松明を掲げて天神沼の葦原に入り、勇吉と村長も後を追った。村長は娘が恋人と密会しているのを発見し、激怒してランプを 投げ付けた。そのせいで、葦原は大火災に見舞われた。その時、雄太は葦原にいた。彼は炎を避けようとして歩き回り、沼に落ちた。どこ からか流れてきたイカダに乗った雄太は、陸地に戻った。彼は、茂作たちがイノシシを仕留めて鍋にしているのを目撃した。
翌日、川のゴミを掃除する勇吉の姿を見た雄太は、「そんなん駐在がする仕事じゃないやろ」と声を荒げた。しかし勇吉は「みんな畑仕事 で忙しいだろ。だから、こういう仕事は暇な人間がするのさ」と穏やかに言う。移動映画館の館長が川に現れ、校庭の銅像が足元から切断 されて無くなっているいることを勇吉に告げた。他の場所では、火の見櫓も無くなった。いずれも切り口は同じだった。
雄太は天神沼に河童がいるのではないかと考え、怖がる克次を誘って調べに行く。川嵐洞に辿り着くと、克次は「母ちゃんが入っちゃ いけねえって」と言い、入り口で待機することにした。中を調べようとした雄太だが、洞にやって来た苛めっ子たちに引っ張り戻された。 苛めっ子たちは「俺たちのイカダを勝手に使って、何やってたんだ」と雄太を殴り倒し、克次を連れてイカダで去った。
洞の奥へと進んだ雄太は、未知の生物と遭遇した。それが河童だった。身を縮こまらせていると、後ろからサイズの小さい河童が現れた。 どうやら親子らしい。言葉は分からないが、威嚇する親を子が止めている様子だった。雄太がハーモニカを吹くと、子供の河童は興味を 示した。河童親子に付いて行くと、そこには彼らの住処があった。大きなカプセルの中には、もう一匹の河童が収容されていた。それは 河童の母親だった。雄太は子供の河童を「TEN」と呼ぶことにした。
再び現在。雄太は病室で出掛ける準備をしていた。彼は勇に「ちょっと大事な用事が残ってるんだ」と告げる。「そうやって俺とお袋を 捨てていったんだな」と勇が責めるように言うと、雄太は無言のまま病室を出て行った。再び回想。喜助が亡くなり、雄太は勇吉と共に 墓参する。そこへ村人が来て、寺の鐘が無くなったことを告げた。村の男たちは、河童の祟りでないかと言い始めた。
雄太は再び川嵐洞へ赴き、河童親子と会った。彼がハーモニカを演奏すると、TENは楽しそうな様子を見せた。その夜、自転車で沼に転落 した村長は、不思議な何かを見て驚いた。天神祭の夜、雄太が洞へ行くと、TENと父河童はカプセルの中で衰弱している母を見つめていた。 カプセルが開き、母河童はTENの手に触れた。息を引き取った母河童の体は水になり、天へと昇った。村の男たち3人は金目当てで洞に 侵入し、不可思議な現象に遭遇して悲鳴を上げた。
また現在。北川村ではゴルフ場が建設されることになり、男が老婆に立ち退くよう説得していた。その家屋に雄太が勝手に上がり込み、 写真を撮り始めた。男は腹を立て、出て行くよう要求するが、雄太は外から写真の撮影を続行した。男は激怒し、「記録として残したい だけ」と釈明する雄太を突き飛ばした。男が雄太に殴り掛かろうとすると、そこに駆け付けた勇が制止に入った。
また回想。天神祭に現れた3人組は、「ホントに河童がいるぞ」と叫んだ。村長が「河童を捕まえて見世物にするぞ。捕まえた奴に5千円 を払う」と村人たちに言うと、茂作は「その倍を出す」と告げた。村人たちは川嵐洞へ行き、入り口を爆破して広げようとする。洞には 雄太だけでなく、「雄太と河童がいる」ということで追ってきた子供たち3人もいた。彼らは迷って出られなくなっていた。
子供たちが洞にいると知った勇吉は、慌てて村長たちに知らせに行く。だが、村長が止めようとして明かりを振ったのを、茂作たちは爆破 の合図だと勘違いした。入り口は爆破され、洞の天井は崩れ始めた。勇吉は子供たちを救うため、洞に突入した。雄太はTENの手を掴み、 逃げ出そうとする。しかしTENは、父河童と共に留まることを選んだ。雄太は「また会いに来るからね」と言い、そこから逃げ出そうと する。その時、天井が崩れて父河童とTENが下敷きとなり、そこから尻子魂が飛び出した…。

監督は石井竜也、キャラクター・デザインは石井竜也、脚本は末谷真澄、エグゼクティブ・プロデューサーは岡本朝生、プロデュースは 河井真也、製作総指揮は岡本朝生、ライン・プロデューサーは石矢博、撮影は長谷川元吉、編集は冨田功、録音は中村淳、照明は森谷清彦 、美術は部谷京子、SFXスーパーバイザーは秋山貴彦、SFXプロデューサーは杉村克之、音楽は金子隆寛、主題歌は米米クラブ 『手紙』。
出演は陣内孝則、藤竜也、舟越圭佑、原田龍二、今福将雄、坂上二郎、苅谷俊介、木ノ葉のこ、荒木定虎、浜村純、原ひさ子、 車だん吉、南野陽子、中村雅俊ら。


米米クラブのヴォーカリストであるカールスモーキー石井が初めて映画監督に挑戦した作品。
カールスモーキー石井としてではなく、本名の「石井竜也」名義で監督を務めている。
勇吉を陣内孝則、51歳の雄太を藤竜也、8歳の雄太を舟越圭佑、勇を原田龍二、喜助を今福将雄、村長を坂上二郎、茂作を苅谷俊介、 立ち退きを迫られる老婆を原ひさ子、老婆を説得する農家の男を車だん吉が演じている。
雄太の母の遺影は、カールスモーキー石井と交際していた南野陽子。

冒頭、個展の会場が異様に暗い。
世界各国の紛争による悲劇を撮影した個展であるにしても、華々しさをアピールするような雰囲気ではないにしても、だからって会場を 薄暗くするのは違うでしょ。
そこは「世界的写真家が15年ぶりに日本で個展」ということなんだから、明るい場所で、「脚光を浴びています」ということを 示さないと。
スポットライトが照らされるので、それを強調するために会場を暗くしたのかもしれんが、だとしてもプラス効果は感じない。
雄太が苦しんで倒れるシーンでも、暗い中なので、良く見えない。
どうやら監督は、映画館の観客を重視して陰影を付けたらしいんだけど、それにしても暗すぎるだろ。

あと、そのシーンで司会を務める佐久間は、なぜか喋りがたどたどしくて、何を言っているのか良く分からない。
もっと朗々と喋れよ。
続いて登場した雄太は、ボソボソと喋るので、何を言っているのか良く聞こえない。病室で勇に村のことを語る時も、やはりモゴモゴと 喋るので、セリフが聞き取れない箇所がある。
それも意図的な演出なんだろうか。
でも、何のメリットも無いぞ。

佐久間は勇に「後悔するぞ。苦しんだのは君だけじゃないんだ」と言う。
では、そこからの物語の中で、「雄太は家族のことで、具体的にどんなことを悩んだのか」という答えが描かれるのかと思ったら、それは 最後まで見ても全く分からない。
結局、なぜ雄太が妻と息子をないがしろにしていたのかは、全く分からないんだよな。
それを説明しないと、和解には至らないはずなのに。

雄太と河童や勇吉との思い出を描かれても、それは「だから妻子を15年も放置していたのです」という理由の説明になって いないのよね。
そういう思い出は、雄太と勇の和解には何の関係も無いでしょ。
「一番大切なことを大切な人に言えなかった」という死ぬ間際の雄太のセリフで、そこを繋ぎ合わせたいようだが、そりゃ無理だわ。
しかも、それは「彼が息子に語った思い出話」という形でさえないんだよな。回想として描かれるけど、それは雄太の中での回想であり、 勇が話を聞かされるわけではないのだ。

雄太が苛められた後、喜助が来て天神沼の河童のことを話す。
だけど、そこは手順が違うと思う。
まだ「女駐在」とか言われた段階では、なぜ雄太が苛められているのか良く分からないし、父親との関係も全く示されていない。
まずは父親を登場させ、親子関係を描写して、それから河童伝説について説明すべきだ。
その日のシーンでは、割烹着を着て夕食の準備をしている父の姿しか描かれない。だから、何が「女駐在」なのか良く分からないのだ。
早い段階で、駐在として働いている勇吉の姿を見せるべきだ。

克次が沼の近くで気を失った後、入浴している雄太に喜助が「人間には役割がある。その人間にしか出来ないことがある」と説き、それに 雄太が「分かんねえ」と反発するシーンがある。
喜助は「父親を理解し、仲良くするように」と説いているのだが、タイミングがおかしい。
それは雄太が勇吉に反抗的な態度を取った次のシーンに持って来るべきだ。
映画を見て、河童の絵を描いて、克次を見送って、その克次が気絶して、その流れで、なぜ、そのシーンなのかと。

意識を取り戻した克次が「河童だ」と叫び、それを聞いていた雄太の顔が写ると、「ドーン!」という大げさなSEが入る。
村人の「それは熊じゃねえのかなあ」という言葉を聞いた克次の母が「熊?」と驚くと、また同じSEが入る。
リアクションも大げさだ。
それは意図的な演出なのか。喜劇的に見せたいという狙いなのか。
しかし残念ながら、ただ「恥ずかしい芝居」になっているだけだ。

勇吉が「村のことには口出ししないでください」「割烹着を着て味噌汁でも作っていればいいべ」とバカにされるシーンで初めて、雄太 だけでなく勇吉も村に受け入れてもらえず、大人たちに苛められていることが判明する。
だが、それはタイミングが遅い。
それと、村で受け入れてもらえていないのなら、克次の母親が助けを求めに来るのもおかしいでしょ。
「男と女は別」ということなのかもしれんが、だとしたら設定として中途半端だし。

葦原が大火災になった時、なぜ雄太がいたのんだろうか。そこへ雄太が向かうシーンなんて無かったはずなのに。
あと、「父ちゃん」と助けを求めていたのに、途中で「母さん」に切り替わるのは違和感がある。
葦原で炎が広がっているのに、未だに熊を捜し続けている村の男たちも頭がおかしい。そんなことより火を消そうとするとか、逃げようと するとか、そういう行動を取るのが普通だろ。みんなキチガイ設定なのか。なんで火事は放置しておいて、呑気に酒盛りしているん だよ。
あと、村人たちは当然のことながら、村に長く暮らしているはずなのに、「メスのイノシシは殺しちゃいけない」とか、「河童様を大事に 扱うべし」とか、そういう古くからの決まり事を平気で破る連中ばかりというキャラ設定も、違和感が強い。
後半には河童を捕まえようとするが、村にとって河童は守り神のはずなのに、なぜ全員がノリノリで「見世物にしよう」と言い出すのか、 理解に苦しむ。

河童の捕獲に反対するのが、なぜ勇吉だけなのか。その構図の作り方は納得しかねる。
どうやら村の農業は苦しく、「貧乏だから河童で金儲けしよう」ということらしいが、それも充分に表現できていないし。
それに貧乏だとしても、だからって、守り神を見世物にしようという考えに全員が何の迷いも無く賛同するのは理解し難い。
そこを田舎の村として描いているのなら、田舎であればあるほど、そういう古くからのしきたりは大切にするものなんじゃないのか。
外から来た一部の連中が、村のしきたりを無視して河童を捕まえようとするなら分かるけどさ。
なんで中の奴らが、天神祭で崇めているほどの存在である河童を見世物にしようとするのか。

克次が失神するシーンでは、その直前に彼がバットを沼に投げて、それが何かに命中して呻き声が聞こえ、跳ねる球体が出現する。
その時点で、呻き声を上げた生物や球体の正体が分からないのは、別に構わない。
ただし、雄太が河童と遭遇しても、そこのクエスチェンが解消されないのはキツい。
父河童がバットを投げ付けるのだが、克次のバットが命中したのが父河童なのか、母河童なのか、TENなのか、それが良く 分からないのである。

カプセルに母河童が入っているので、バットが当たったことで傷付いたのかと思ったら、どうやら設定では病気ということらしい。
それは映画を見ていただけじゃ分からないよ。
で、母河童が病気だとしたら、バットが当たったのは父河童なのか。だとすると、人間が投げたバットで傷付いているのに、なぜ息子で あるTENは雄太に懐くんだろう。「雄太は悪い奴じゃない」と確信できるようなエピソードは、何も無かったと思うんだけど。
っていうか、雄太は子供の河童を「TEN」と呼ぶが、何故そう呼ぶんだろうか。
しかも、なぜ名前の表記がアルファベット表記なんだろうか。

再び雄太が洞を訪れると、すっかりTENと仲良くなっている。
心の距離が近付くのが、すげえ早いな。
で、そこでは雄太のハーモニカ演奏に合わせてドラゴンボールみたいな球が空を飛ぶんだが、ありゃ何なのか。幻想的なイメージを 狙ったのかもしれないが、説明が無いから、何が何やらワケが分からない。
あと、自分がやったんじゃないとはいえ、自分のバットで親友が河童を暴行してしまったんだから、それについて雄太が申し訳なく感じて いるという気持ちを見せようよ。

カプセルが開いて母河童がTENの手に触れるシーンでは、それを見た雄太が嗚咽するんだけど、なぜ悲しむことが出来るのかサッパリ 分からない。
すげえ感受性が強いんだろうなあ、雄太は。
それを見ただけで、「弱っている母が息子と最後の別れをしようとする」という場面だってことが、すぐに理解できているんだろうな。 ワシには全く分からなかったけど。
っていうか、分かっても同情心は沸かないわ。 そこまで河童と通じ合えていないから。

回想シーンに突入した後、何度も現在のシーンに戻るのだが、それは構成として上手くない。現在に戻るタイミングも上手くない。
あと、男が老婆に立ち退きを説得しているところを勝手に上がり込んで写真を撮り、抗議されても詫びようともせず撮影を続ける雄太の 態度は、すげえ失礼だぞ。
「記録として残したいから」とか、言い訳にならないからね。
どういう人物として描きたかったのか。

雄太は爆破で崩れる洞からTENを連れて逃げようとするが、父河童のことは完全にシカトしてるんだよな。
それぐらい無意味な存在にするなら、父河童は要らないでしょ。
描きたいのは雄太とE.T.、じゃなかった、TENの関係なんでしょ。
いや、ハッキリ言って、母河童も要らないわ。そこに母を失った雄太を重ね合わせて描こうとしたのかもしれないが、全く表現できて ないし。

あと、河童は村から盗んだ様々な物品でオブジェを作っているが、それに何の意味があるのかもサッパリだ。
単純に、そういうアート作品を石井監督が作りたかっただけなんじゃないのかと邪推したくなる。
「なぜ河童が村の物品を次々に盗んだのか」というところに、意味を持たせることが出来ていないんだよね。
「それらの物品が、どうしても必要な理由」は、劇中に存在していないのだ。

雄太は崩れる洞で「逃げないと死んじゃうんだよ」と言った後、逃げずに留まろうとするTENに「また会いに来るからね」と声を掛けるが、 それはセリフとしておかしいんじゃないか。
その洞は今にも崩れそうになっているのだ。だから、そこへ再び会いに行くというのは現実的ではない。
再会を約束させたいのなら、「また、きっと会おう」とすべきではないか。
それと、再会シーンで勇が全く要らない子になっているのも、どうなのよ。
雄太とTENの再会に、彼が同席している意味って皆無でしょ。

(観賞日:2011年2月17日)

 

*ポンコツ映画愛護協会