『寒椿』:1992、日本

昭和初期、高知。芸妓・娼妓紹介業、すなわち女衒の富田岩伍は、格式の高い妓楼“陽暉楼”と親しく付き合っている。ある時、岩伍が足抜けした芸妓・小奴を連れ戻して自宅に帰ると、妻・喜和が息子・健太郎を連れて兄の家へ去っていた。
岩伍は喜和を迎えに行くが「離縁したい」と強く拒否されたため、健太郎だけを強引に連れ帰った。健太郎は逃げ出してバスに乗り込むが、すぐに岩伍が追い掛けた。女車掌・貞子の背後に隠れた健太郎だが、岩伍に叱責され、家に戻ることになった。
数日後、岩伍の元に、博打で多額の借金を作った桑名勝造が現れ、娘を売りたいと言ってきた。その娘とは、貞子だった。貞子は陽暉楼へ身売りされ、牡丹という源氏名が付けられた。岩伍は女将の松崎みねに会い、貞子に芸事を教えてほしいと頼んだ。
牡丹は初座敷を迎え、南海銀行頭取・多田宇一郎の息子・守宏に抱かれた。牡丹の評判は、あっという間に高まった。ヤクザの田村征彦の下で働く元力士の仁王山は、町で牡丹を見掛けて一目惚れした。彼は、牡丹と親しげな岩伍に嫉妬心を覚えた。
高知では平民選挙が行われることになり、守宏と土佐銀行頭取・中岡亮太が立候補した。選挙は銀行の代理戦争の様相を呈し、多田陣営はヤクザの百鬼勇之助と、中岡陣営は田村と手を組んだ。岩伍は田村から手伝いを求められるが、やんわりと断った。
陽暉楼には、守宏と中岡の両方から牡丹を身請けしたいという話が持ち込まれていた。返事を引き延ばしていた牡丹は、岩伍に相談してから決めると告げた。岩伍は守宏に身請けしてもらうことを勧めるが、牡丹は以前から岩伍に想いを寄せていたのだった。
仁王山は、守宏が牡丹を身請けしようとしていることに焦りを感じていた。彼は牡丹を手に入れるため、田村に身請け料を出してくれと頼んだ。だが、選挙戦で多忙な田村は、しつこい仁王山を怒鳴り付ける。仁王山は守宏を襲い、牡丹を奪い去った…。

監督は降旗康男、原作は宮尾登美子、脚本は那須真知子、企画は日下部五朗、プロデューサーは奈村協&中山正久、撮影は木村大作、編集は市田勇、録音は伊藤宏一、照明は増田悦章、美術は内藤昭、舞踊振付は藤間勘五郎、擬斗は菅原俊夫、音楽は小六禮次郎、
主題歌「寒椿」作詞は藤生香太郎、作曲は小六禮次郎、唄は倍賞千恵子。
出演は西田敏行、南野陽子、高嶋政宏、萩原流行、かたせ梨乃、藤真利子、神山繁、高橋悦史、野村真美、海野圭子、中野みゆき、白竜、段田安則、本田博太郎、浅利香津代、岡本麗、津嘉山正種、三谷昇、笹野高史、西野浩史、黒部進、河原さぶ、荒勢、小沢象、児玉謙次、大前均、佐々木勝彦、歌澤寅右衛門、大念寺誠、掛田誠、筒井巧、天田益男、桂木香織、上田雄大、国舞亜矢、飯高真弓、中尾麻祐子、服部博行、山村紅葉ら。


宮尾登美子の小説『寒椿』と『岩伍覚え書』を基にした作品。
岩伍を西田敏行、牡丹を南野陽子、仁王山を高嶋政宏、田村を萩原流行、みねをかたせ梨乃、喜和を藤真利子、中岡を神山繁、多田を高橋悦史、守宏を白竜が演じている。

それほど多くはないが、たまに健太郎の語りが入ってくる。状況説明のためにナレーションが必要で、それは岩伍に近い人物がいいだろうということで彼に白羽の矢が立ったのだろう。しかし最終的に彼の所で話が収まるわけでもないし、そこは疑問が残る。
序盤、岩伍が健太郎を強引に奪い返したり、暴れたりする様子が描かれる。そこでは、彼の傲慢で荒っぽい性格が示される。たぶん、女衒としては一流だが夫や父親としては失格だということを見せたかったんだろう。しかし、それ以降は女衒として「親切で気の良い人」をアピールするのだし、そこでイヤな部分を見せる必要があったのだろうか。

岩伍の物語が描かれるのかと思ったら、牡丹の話に移り、そこへ仁王山が出張ってくる。侠客に憧れる健太郎と岩伍の関係があったり、また喜和が出て来たりする。色んな所へ目移りして、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、どこも半端になっている。
岩伍と牡丹の関係に関しては、まず岩伍には全く恋愛感情は無い。牡丹も、ほとんど岩伍への気持ちを表現することは無い。だから、単細胞の仁王山が積極的に牡丹への気持ちをアピールするという部分で恋愛劇を引っ張るという、いびつな形になる。元力士だけに、仁王山が独り相撲を取っているような状態なのである。

形としては岩伍が主役、牡丹がヒロインなので、ここに恋愛劇を作るのであれば、恋敵は金持ちや権力者にしておいた方が構図としては分かりやすい。しかし前述したように岩伍に恋愛感情が無いので、そもそも恋愛劇が成立しないのだ。
牡丹と仁王山が互いに惚れ合うという関係ならば、「岩伍は愛し合う2人の手助けをする心優しき男」という設定にすれば、それはそれで話として成立する。しかし、牡丹が惚れているのは岩伍なので、そういう話の作り方も出来ないわけである。

仁王山が、短気で暴力的な男にしか見えないというのが、かなりツラいところだ。仁王山が「いい奴」に見えないために、終盤になって岩伍が牡丹を彼に託すという展開をスンナリと受け入れられなくなる。だって、かなり悪質なストーカーだよ。
仁王山と牡丹の関係は、本来ならばプラトニックにしておかなければ後の展開に響くのだが、そんなことは、お構い無し。仁王山は牡丹を連れ去ってレイプするわ、ドスを振り回して暴れるわ、岩伍を殺そうとするわと、とにかくメチャクチャな男なのである。

牡丹が田村の一味に輪姦されたり、満州に売り飛ばされそうになったり、命を狙われたりするのは、全て仁王山が悪いのだ。彼がレイプしなければ、牡丹は守宏に身請けされて、何事も無く暮らしていただろう。牡丹を不幸にしたのは仁王山なのに、こいつが最終的に善玉として彼女を奥さんにするというのは、どうにも納得いかない。
仁王山とは別の意味で、牡丹も相当なキャラだ。レイプされた翌朝に、微笑んで仁王山と仲良くしている。しかし岩伍が迎えに来ると、仁王山を完全に無視して去って行く。岩伍が警察に捕まっても、ニコニコして見送っている。こいつの気持ちが全く分からん。

選挙戦やヤクザの陰謀が、話が進むに連れて大きくなっていく。そんな中で、岩伍の存在は薄くなっていく。田村が悪党として出張ってくるのだが、岩伍に出来ることは少ない。岩伍の周囲に陰謀が関わってくるまでは、動きようがないからだ。
終盤になって、いきなり仁侠映画のような殴り込みシーンになる。しかし、いわゆる仁侠映画のように「主人公が耐え忍んで最後に怒り爆発」というわけではない。なんか残り時間が少なくなって、慌てて派手に盛り上げようとしているなあ、と感じてしまう。

あの流れで、完全に腹を深く突き刺されているのに、「実は岩伍は生きていました」というのは有り得ない反則だ。健太郎にメッセージを伝えたかったのかもしれないが、だとしても、それは死を覚悟して殴り込みに行く前に済ませておくべきだろう。

しかし、どれだけアラが目立っても、どれだけ欠陥が多くても、極端な話、そんなことはどうだっていい。
なぜなら、この映画の目的は南野陽子を脱がすという一点のみにあるからだ。
そういう観点で見た場合、南野陽子は乳は見せても尻は見せないし、いわゆるフルヌードの状態が無い。
そこが中途半端ってことは、やはりダメな作品だということだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会