『監督・ばんざい!』:2007、日本

キタノ・タケシの人形が、病院で人間ドックを受けた。検査が全て終わった後、医者はタケシ人形に向かって「今度は本人に来るよう 言って下さい」と告げた。映画監督のタケシは、人形を担いで橋を歩いた。事の始まりはギャング映画だった。自ら演じる主人公が銃を 撃って人を容赦なく殺す、暴力描写が満載の映画こそが、タケシ監督の得意とするところだった。だが、彼は内外のインタビューにおいて 「ギャング映画は二度と撮らない」と宣言してしまった。
宣言してしまった以上、タケシは他のジャンルに挑戦せざるを得なくなった。そこで日本映画の原点に戻り、小津安二郎のような淡々と した人間ドラマを温かい視点で描こうと考えた。彼は『定年』という白黒映画を撮ってみたが、酒とお茶を飲むだけで30分以上も掛かって しまうような、かったるい作品に仕上がった。客はサッパリ入らず、小津作品に比べて全く風格も無いと評された。
一般に受けるためにと、次は恋愛映画を撮り始めてみた。『追憶の扉』という題名で、記憶を亡くした男と、それを取り戻してもらおうと 献身的に尽くす女の物語である。これは何年か前に知り合いの脚本家が書いたものだが、後半部分が欠落していた。脚本家に問い質した ところ、記憶が無いということになり、製作は中止になった。しかしタケシは、まだ恋愛映画を諦めようとしなかった。
タケシは、突然の事故で失明した画家の手足となり、画壇に復帰させた教え子の愛と感動の物語を撮ってみた。しかし目の見えない画家の 描いた絵が誰も分からず、これも中止となった。逆に男が女に尽くす映画を作るべきではないかという声が出て、『運転手の恋』という 悲劇を作ることになった。しかし運転手とお嬢様という設定では話が進まず、困ってしまった。そこでワルとブティックの店員という設定 で撮ってみたが、またギャングが出て来てしまった。
懐古主義の映画が受けているので、タケシは昭和30年代を舞台にした映画『コールタールの力道山』を撮ることにした。しかし貧困と差別 、意味の無い暴力が出て来る内容になってしまった。次にハリウッドでも受けている恐怖映画を撮ることにした。しかし『能楽堂』という タイトルの映画は大失敗に終わった。実は、タケシは12本の映画を撮っているが、興行的に成功したのは1本だけだ。そこでタケシは、 過去に成功しているチャンバラ映画を撮ることにしてみた。自ら演じる忍者が派手に戦う『蒼い鴉 忍part2』という作品だ。しかし、 それは新しくも何ともなくて、やはり中止になった。
次に彼は、CGを盛り込んだ壮大なスケールのSF大作に挑戦してみた。『約束の日』という、小惑星が地球に接近しているという話だ。 ところが学者の一人が小惑星の表面に人間の顔らしき物を発見し、急遽、この2人を主役にして映画を作ろうということになった。その 2人は、詐欺師の母娘という設定になった。その母娘がラーメン屋でイチャモンを付けてタダにしようとしたら、別の客がタカリを始めて 、屈強な店長と店員が出て来てボコボコにされた。
女2人ではストーリーに限界があるということで、タケシは2人の男を登場させることにした。それはタケシが演じる吉祥寺太とスタンド ・インのタケシ人形だ。東大泉政経会の名誉会長は入会式で挨拶した。その場には東大泉の側近である吉祥寺も同席した。母娘は当たり屋 で稼いだ男を目撃し、同じことをやろうと考える。しかし娘は目当ての高級車にはねられることに失敗し、オンボロの軽トラックと激突 した。軽トラックの運転手が道路に転落したので、母娘は慌てて逃げた。
母娘は東大泉と吉祥寺が乗っている車を見掛け、後を追い掛けた。屋敷に入った東大泉は、2億円を羽黒商事から受け取って井出博士に 届ける仕事を、息子と吉祥寺に指示した。母娘は吉祥寺たちが乗った車を追跡した。吉祥寺は金を受け取り、井出博士に届けた。母娘の 暮らすアパートには、大黒金融が取り立てにやって来た。母娘は恫喝に参加して誤魔化そうとするが、すぐにバレてしまった。
吉祥寺は、師範を務める東大泉流の空手道場へと赴いた。彼は師範代から試し割りを促されるが、情けない失敗をやらかし、門弟との稽古 でも全く歯が立たなかった。詐欺師母は、吉祥寺に「娘が好意を持ったので会いたい」という旨の手紙を送った。東大泉は「女に好かれる ことはいいことだ」と喜ぶが、なぜか吉祥寺は切腹しようとする。東大泉は慌てて制止し、その女と一緒になって子供を作るよう促した。 喫茶「凱旋門」の待ち合わせなのに、吉祥寺はフランスの凱旋門へ行ってしまう。しかし彼は日本に戻り、詐欺師娘と結婚した…。

監督・脚本・編集は北野武、プロデューサーは森昌行&吉田多喜男、アソシエイトプロデューサーは久保聡&古川一博&白石統一郎& 梅澤道彦、撮影は柳島克己、編集は太田義則、録音は堀内戦治、照明は高屋齋、美術は磯田典宏、VFXスーパーバイザーは貞原能文、 音楽は池辺晋一郎。
出演はビートたけし、江守徹、岸本加世子、鈴木杏、吉行和子、松坂慶子、木村佳乃、内田有紀、藤田弓子、宝田明、大杉漣、寺島進、 六平直政、渡辺哲、井手らっきょ、モロ師岡、菅田俊、石橋保、仁科貴、有薗芳記、つまみ枝豆、武重勉、入江若葉、蝶野正洋、天山広吉 、真壁刀義、矢野通、邪道、外道、裕次郎、國本鐘建、桐生康詩(現・桐生コウジ)、森下能幸、土師正貴、江口ともみ、芦川誠、 柳ユーレイ、福士誠治、坂田雅彦、江端英久、佐久間哲、紀伊修平、谷本一、新納敏正、宮村優、吉田由一、根岸大介ら。 ナレーションは伊武雅刀。


北野武が『TAKESHIS'』の次に手掛けた13作目となる映画。
東大泉を江守徹、詐欺師親子の母を岸本加世子、娘を鈴木杏、東大泉の秘書を 吉行和子、『定年』の妻役を松坂慶子、『定年』の娘役を木村佳乃、恋愛映画のヒロイン役を内田有紀、『コールタールの力道山』の 母親役を藤田弓子、『約束の日』の学者役を大杉漣、ギャング映画に出て来るタケシの子分を寺島進、東大泉流空手の師範代を六平直政、 『能楽堂』の鬼役を渡辺哲、井出博士を井手らっきょを演じており、ナレーションを伊武雅刀が担当している。

一応はコメディーとして作られているが、これで笑える人は、北野武の熱心な信者か、究極まで笑いに飢えている人か、どちらか だろう。
まず冒頭、タケシ人形が診察を受けるシーンからして、何のギャグにもなっていない。オチもオチとして成立していない。
わざとパンチ・ラインを作らずにスカしているのかというと、そうじゃない。ちゃんとオチを付けたつもりが、オチきっていないのだ。
そもそもオチの前の、コントの受ける医者の芝居が下手すぎるし。
それ以降もタケシが人形になるシーンが何度も出て来るが、法則性があるわけでもないし、それがギャグになっているわけでもない。
ギャング映画のシーンは、ホントにただ「北野武の暴力映画の1シーン」をそれらしく描いているだけで、特に何も見るべきところがない 。
そこにオチは無いし、まあオチが無いのはいいとしても、ホントにただ「例文」でしかなくて、ナレーションで「撮らないと言いながら 見本を撮ってみせるのも、おかしなものだが」と言わせて何とか喜劇的にしているものの、そこに頼るのは、ちょっと違うだろう。

続く小津風映画は、小津を丁寧にトレースしているわけではなく、パロディーになっているわけでもなく、ホントにつまらないだけの映画 である。小津を雑に真似した粗悪品でしかない。
極端すぎるローアングルにしてみるとか、笠智衆の素人くさいセリフ回しを誇張して模倣してみるとか、そういった類のアプローチは 見られない。たた単に、小津安二郎に対して無礼を働いているだけの映画である。
小津風映画の1シーンを切り取った後、ナレーションが「今の時代、庶民、情緒といった曖昧な言葉は消滅してしまい、あるのは下品な 金持ちと貧乏人だけである」と語るが、そういう問題ではない。
ちゃんと作れば、庶民を描いた情緒のある内容でも、面白い作品は撮れるだろう。
あと、そこは「面白くない映画である」ということを示したいのか、「今の時代には受けない映画である」ということを示したいのかも 中途半端だし。

恋愛映画も、ただ退屈なだけだ。
短い断片しか描かれないから、ナレーションが無ければ、どういう物語なのかも良く分からない。
だから、「何の印象も与えない無機質な映像がしばらく流れるだけ」という感じである。
そこには、「いかに面白い映画を作る作業とは裏腹のことをやっているか」「いかにダメな演出を持ち込んでいるか」というところで、 笑いを取ろうという意識も無い。

昭和30年代映画の場合なんかだと、最初はハートウォーミングでノスタルジックな映画っぽく始めておいて、そこから「殺伐とした醜悪な 出来事が描かれる」というところに持って行かないと、喜劇にならない。
そこにギャップを用意しておかず、いきなり貧乏人が金持ちの車を拾ったと主張したり、ガラの悪い男が金を脅し取ったり、それを貧乏人 たちが奪い合ったりする様子を見せても、それは「ああ、殺伐とした風景だなあ」ということで終わってしまう。
むしろ、その後に出て来るプロレスごっこなんかは普通にノスタルジーを感じさせるものになっているが、順番が逆じゃないのか。
っていうか、そこで普通にノスタルジーな場面を長く撮ったらダメなんじゃないのか。
あと、「バイオレンスは撮らないと言っていたのに、もっと酷い話になってしまった」という語りが入るが、冒頭シーンは酷いものの、 それ以降は、それほど酷いと思えないのよ。

金持ちの車が去って『コールタールの力道山』というタイトルが入った後は、ケンカをしていた夫婦がセックスを始めるとか、有害物質を 含んだお菓子を食べた子供が死ぬとか、そういうシーンはあるけど、「酷さ」という意味では冒頭がピークだったぞ。
それを過ぎると、何となく切なさのあるテイストになっているので、それはそれでアリになっちゃうし。
「ノスタルジーを感じさせない」というところで「間違った映画」になっているべきなのに、ノスタルジーはそれなりに感じさせる 仕上がりになってしまっているのだ。

恐怖映画に関しては、ただ北野武が恐怖映画を撮るセンスに欠けていることを示しただけだ。
恐怖映画のつもりがコメディーになっちゃうとか、粗が出てしまうとか、そういうネタに持って行くことも無い。
「これはお笑い映画ではないかという噂が立った」という語りが入るが、そんなにお笑い映画らしさが強く出ているわけでもなく、単に 「ダメな恐怖映画」でしかない。
「このシーンを見ればそれも分かる」と言って、殺人鬼が障子に何度もぶつかるシーンを見せるが、それはNGカットを見せているだけ だし。

忍者映画に関しては、「なぜ、あんな強い忍者が捕まってしまうのか、なぜ、順序正しく斬りかかってくるのか。井戸から飛び上がれる ならとっとと逃げろ」とナレーションで語るが、それはそんなに大きな問題じゃないと思うぞ。
たぶん北野武は従来のチャンバラ劇や忍者映画を批判したかったんだろうけど、そういうのを「新しくもなんともないから面白くない」 とは思わないけどね。
本人が新しいことをやったつもりの『座頭市』は、色んな部分で間違ったことをやらかしていたし。
っていうか、あれも従来通りの時代劇のパターンを幾つか持ち込んでいたでしょうに。

SF映画『約束の日』が始まった直後、「学者の一人が小惑星の表面に人間の顔らしき物を発見し、この2人を主役にして映画を作ろうと いうことになった」という語りが入って、完全に映画は破綻する。
実際に小惑星が接近している設定ではなく、「そういう映画を撮影していた」という設定なのだ。
だから、表面に人間の顔らしき物を発見したのだとすれば、それはシナリオに書いてあることであり、それがSF映画の中で意味を持つ形 になっているべきだ。
そこから「別の映画を撮ろう」となるのはメチャクチャである。

ひょっとしたら、北野武は撮影している途中で「どうでもいいや」という気持ちになったのではないか。
そのナレーションの後、詐欺師の母娘が登場することで、「様々な映画にチャレンジしてみる」という構成は完全に死亡する。
それ以降、この作品は「キチガイの戯言を、そのまんま映画にしたらどうなるか」を実現したかのような、支離滅裂な内容になっていく。
粗筋を説明することさえ難しいぐらい、メチャクチャである。

詐欺師母娘や吉祥寺が登場する展開になってからは、「御飯にマヨネーズ、日本人はこれだよな」と東大泉が言ったら周囲がズッコケる とか、東大泉の息子が太鼓を叩こうとしたら頭を叩いてしまうとか、そんな感じでギャグが色々と入るが、ことごとく滑っている。
ベタだからとか、古臭いからとか、そういうこと以前の問題で、やる気を感じない。
それに、そもそも支離滅裂な展開の中でギャグをやっても笑えないよな。
サイケとかシュールとか、そういう面白さがあるわけではない。
この映画は、ただ単に壊れているだけである。

最後にタケシが「先生。どうですか」と尋ねて医者が「壊れてます」と答える会話があるので、北野武も壊れた映画を撮ったことは自覚 しているようだ。
彼は「この人はダメだと諦めさせる映画」を撮りたかったらしいが、北野武を評価していない人はとっくにダメだと思っているし、熱烈な ファンはこんなクソ映画を撮っても称賛するだろう。
っていうか、諦めさせる映画なんて撮って、何の意味があるのかと。
ホントにダメな奴だと諦めてほしいのなら、もう映画なんて撮らなきゃいいわけで。

結局、それは言い訳に過ぎず、やっぱり「誉めてほしい」「認めてほしい」っていう気持ちが強いんだろうなあと思うよ。
だけど評価してほしいのなら、まずは自分が主演するのは考えた方がいいと思うけどね。
この作品では、「色々なジャンルの映画に挑戦する」という枠組みの中で全ての映画に彼が主演しているのだが、それは北野武の演技力が 低いことを改めて見せ付ける結果となっているしね。

ちなみに、この映画が上映された年に開催されたヴェネツィア国際映画祭で、「将来に渡って活躍が期待される現役の映画監督」を対象と する「監督・ばんざい!賞」(Glory to the Filmmaker! award)が創設された(第1回の受賞者が北野武)。
だけど、それって辱めにしか思えないよなあ。
だって、映画の題名が付けられた賞があることによって、このクソ映画がまるで北野武の代表作のような位置付けとして永遠に残り続ける わけだから。

(観賞日:2011年9月5日)


2007年度 文春きいちご賞:第5位

 

*ポンコツ映画愛護協会