『蟹工船』:2009、日本

蟹工船の博光丸では、出稼ぎ労働者の清水や久米、八木、畑中たちが働いている。小堀が「宮口、どこ行った?いねえんだよ」と言うと、八木は「宮口、逃げた」と口にする。畑中は「どうやって?」と言い、久米は「ここはオホーツク海だぞ。そんなこと出来るわけねえ」と否定する。清水が「まさか宮口さん、殺されたんじゃ?」と浅川監督による殺人を疑うと、河津は「あいつ最近、蟹っぽくなった。俺、見たんだよ。横歩きで歩いてたの」と語る。
船が激しく揺れる中、浅川が来て「これは何サボッてんだ、てめえら」と怒鳴った。漁夫の塩田たちが下りて来て「時化てきやがった。あれじゃ漁は無理だ」と言うと、彼は「黙れ。この蟹工船事業は、そこら辺の単なる一会社の儲け仕事じゃねえんだ。これは国家的事業なんだ。我が日本帝国人民が偉いか、ロシア人が偉いか、日本国とロシアの一騎打ちなんだ。それに、日本国内の行き詰まった人口問題、食料問題に対し、重大な使命を持ってるんだ。だから始終、我が国の軍艦が守ってくれてるんだぞ。これは戦争だ」と述べた。
船長は一緒に走行していた秩父丸からSOSが入ったことを告げ、漁を中止して救出に向かうよう要請する。しかし浅川は「一体これは誰の船だ。会社が金払ってチャーターしてるんだよ。物言えるのは会社代表の俺なんだよ」と言い、それを拒否した。秩父丸の沈没を知った船長や無電係が大きな衝撃を受ける中、浅川は「人情味なんぞ柄にも無く持ち出して、国と国との大相撲が取れるか」と述べた。
根本や塩田たちは集まり、炭鉱夫や開拓民が悲惨な状況に置かれていることを語る。清水が「そんな思いしないと生きられないなんて」と漏らすと、石場は「家に帰っても迷惑掛けるだけだしな」と口にする。彼は貧乏な上、子供が5人もいる。木田は「ウチはもっと悲惨だ」と言い、その話を聞いた八木は「ウチはもっと悲惨だよ」と告げる。彼の話を聞いていた漁夫の新庄は笑い出し、「お前には羞恥心ってモノがねえのか。不幸比べで自慢してんじゃねえよ」と言う。
「大体、そんな状況で良く子供が作れるな。考えが甘いっていうか、浅はかっていうか」と新庄が呆れると、石場が「お前はどうなんだよ。偉そうなこと言っても、所詮はお前も蟹工船じゃねえか」と反発する。新庄が「俺はお前たちとは違う。お前たちは物事を後ろ向きに考えすぎる。もっと前向きに考えろ」と言うと、彼は「前向きだ?俺たちに未来なんかねえよ」と吐き捨てた。すると新庄は「ある」とキッパリ言い切った。
八木が「何か考えでもあるのか」と尋ねると、新庄は「自決だ。全員の首を吊る」と告げる。彼は「俺たちは一生このままだ。だから俺は来世に賭ける。来世は金持ちの家に生まれて来る」と語る。彼の生まれ変わり計画を聞いた他の面々は、自分も金持ちの家に生まれ変わることを妄想する。すると清水は「僕はまだ死にたくありません」と大きな声で言う。「このまま生きてても何も変わらねえぞ」と新庄が告げても、「それでも死にたくありません」と彼は述べた。
新庄が「お前が小銭稼いで帰っても家族に迷惑掛けるだけだ。違うか?」と問い掛けると、清水は「それは、そうですけど」と認めざるを得なかった。新庄は「俺は、この国に殺されたくない。俺は自分のことは自分で決めたいだけなんだよ。つまらない人生に自分でケリを付けたいんだ」と言い、仲間たちに「この世に平等なんて無い。俺たちは一生勝てない。生まれた時から決まってるんだ。だからさ、自分の最後ぐらい自分で決めてえじゃねえか」と語る。
新庄が「俺たちは充分にやったんだ。もう苦しまなくてもいいんだよ」と言うと、泣き出す者もいた。「そろそろ楽になろうぜ」と彼が持ち掛け、全員がロープを用意して首を吊ろうとする。だが、いざ自決の時になると、誰も死ぬことが出来なかった。一方、浅川は役員から、「ここ数日、漁獲高が落ちてますねえ」と言われる。浅川は船長に北上を命じた。「これ以上、北上するとロシア領海に」と船長は驚くが、浅川は「言われた通りにしろ」と冷淡に述べた。
宮口が見つからないため、「発見せる者にはタバコ2ツ、賞与を与える!」との張り紙が出された。浅川は「宮口を庇うような真似してみろ。ただじゃおかねえぞ」と脅しを掛ける。山路の一派は清水たちの元へ来て、「宮口隠してんのは分かってるんだ。早く出せ」と要求する。清水たちは宮口の居場所など知らなかったが、2つのグループは言い争いから激しい喧嘩に発展した。しばらくして、殻捨て場に隠れていた宮口が発見された。
給仕係からの情報で、新庄たちはロシア領海に潜入して漁をすることを知った。木田が「今までの日本のどの戦争でも、底の底を割ってみれば1人か2人の金持ちの指図で、きっかけだけは色々とこじつけて起こしたもんだって」と語ると、「関わりたくねえよ」と八木は言う。小堀は「日本帝国のためか。会社の金持ちども、いい名義考えたもんだ」と呟く。木田は新庄に訊かれ、惚れているミヨ子のことを語った。木田は熱を出しており、話の途中で咳き込んだ。
浅川は博光丸が他の船に負けているという情報を入手し、漁夫たちに「今からもう一度、漁に行って来てもらう」と告げる。彼は雑夫長に、1日で1万箱を稼がせるよう指示した。清水は疲労で意識が朦朧とする中、故郷で和尚から「お釈迦様は私たちの心の中に極楽も地獄もあるとおっしゃっています。つまり、心の持ちようで極楽にも地獄にも暮らせる。極楽に行けるか地獄に行けるかは、心次第なのです。心をどこに置くかで、見える世界が全く変わって来る」と言われたことを思い出した。
清水が倒れると、浅川は水を浴びせて「仮病なんか使いやがって。それでも日本男児か」と怒鳴る。堀が腹を立てて反発すると、浅川は拳銃を突き付けた。浅川は「くだらねえことに首を突っ込まず、さっさと機械を回せ」と要求し、持ち場に戻らせる。倒れ込んだままの清水は、両脚を縛られた宮口が雑夫長に引きずられて来るのを目にした。その時間まで、宮口は甲板で宙吊りにされていた。雑夫長は宮口を縛ったまま、トイレに閉じ込めた。
浅川が雑夫を叩いて仕事をさせていると、漁に出ていた新庄と塩田が行方不明になったという知らせが届く。浅川は「逃げやがった」と呟いた。小舟で漂流していた新庄と塩田は、ロシア船に救助された。甲板には豊富な食料が用意され、男女が楽しそうに踊った。船員たちは笑顔を浮かべて拍手した。博光丸には中佐が訪れ、浅川たちは豪勢な料理の並ぶ夕食会を開いた。一方、新庄と塩田は金を取られるのではないかとビクビクしながら、じゃがいもを口に運んだ。
新庄と塩田はロシア人から話し掛けられるが、もちろん言葉は分からない。そこへロンという支那人が現れ、通訳を買って出る。しかし彼は「貴方たちは貧乏です」と言うだけで、まるで通訳しようとしなかった。「今は貧乏だけど、来世で金持ちになる」と新庄が言うと、ロンは「今度無いね。今が大事」と告げる。そこへ監督が来るが、浅川と違って陽気な男で、パーティーに参加して踊り出した。
新庄と塩田はロンから、「貴方たちの船、大変ねえ。でも貴方がたが悪いね。自分のことは自分で決める。これ大事ね」と言われる。新庄が「そんなことは分かってるんだよ」と言い返すと、ロンは「貴方分かってる。でも、みんな分かってない。1人1人立たないとダメ。文句言って何もしない人、ダメよ。貴方がた、出来る。誰でも出来る。大きい小さい関係ないね。イメージ。自分、どうなりたいか考える。一杯考える。で、何するか見える。今すること、見える。そして行動する」と語った…。

監督&脚本はSABU、原作は小林多喜二、プロデューサーは宇田川寧&豆岡良亮&田辺圭吾、エグゼクティブプロデューサーは樫野孝人、スーパーバイジングプロデューサーは久保田修、共同エグゼクティブプロデューサーは永田勝治&麓一志&山岡武史&中村昌志、撮影は小松高志、編集は坂東直哉、録音は石貝洋、照明は蒔苗友一郎、美術は磯見俊裕&三ツ松けいこ、VFXスーパーバイザーは大萩真司、音楽は森敬、音楽プロデューサーは安井輝、主題歌はNICO Touches the Walls『風人』。
出演は松田龍平、西島秀俊、高良健吾、森本レオ、大杉漣、谷村美月、奥貫薫、滝沢涼子、内田春菊、でんでん、菅田俊、新井浩文、柄本時生、木下隆行、木本武宏、三浦誠己、竹財輝之助、利重剛、清水優、滝藤賢一、山本浩司、高谷甚史、手塚とおる、皆川猿時、矢島健一、宮本大誠、中村靖日、野間口徹、貴山侑哉、東方力丸ら。


小林多喜二の同名小説を基にした作品。
監督&脚本は『ホールドアップダウン』『疾走』のSABU。
新庄を松田龍平、浅川を西島秀俊、根本を高良健吾、塩田を新井浩文、清水を柄本時生、久米を木下隆行、八木を木本武宏、小堀を三浦誠己、畑中を竹財輝之助、石場を利重剛、木田を清水優、河津を滝藤賢一、山路を山本浩司、雑夫長を皆川猿時、役員を矢島健一、船長を宮本大誠、無電係を中村靖日、給仕係を野間口徹が演じている。他に、久米家の通行人を森本レオ、清水の父親を大杉漣、ミヨ子を谷村美月、清水の母親を奥貫薫、石場の妻を滝沢涼子、久米の妻を内田春菊が演じている。

2008年に原作小説が異例の売り上げを記録したので、そのブームに便乗しようとして作られたのが本作品である。
当時の日本は不況の真っ只中にあり、低賃金の単純労働を強いられる若者も多かったため、共感を呼んだということのようだ。
ただし、それは表面的な分析に過ぎず、実際は過酷な労働をしなくても済む立場にある購入者が多かったということだって充分に考えられる。一部のエリート層が高く評価し、インテリに弱い一部の人々が乗っかってブームを構成しただけに過ぎなかった可能性だって考えられる。
ともかくハッキリと言えることは、決して大きなブームではなく、狭い範囲に限定されたブームだったということだ。

本来ならば、この映画は「搾取する者」と「搾取される者」という格差社会における階級闘争を描くべきだろう。
ところがSABU監督は、「それをやると観客が限定される」という理由から、そういう色を薄めてしまった。
しかし、そもそも『蟹工船』の映画化という時点で、「それをや描かないで何を描くのか」ってことなのだ。
2009年という時代に『蟹工船』を映画化するという時点で、観客が限定されるのは当たり前のことなのだ。

そういう類の小説を映画化しておいて「観客を限定したくない」ってのは、まるで道理が通っていない。
ようするに、ブームに便乗しただけの安易な企画で、狭いエリアの訴求力しか無い素材なのに普通の娯楽映画と同様に多くの金を稼ごうと目論むから、おかしなことになってしまったんだろう。
SABU監督は間口を広げることで多くの観客に見てもらおうと考えたらしいが、原作を知らない観客が見ても楽しめる内容とは到底言えないし、原作ファンにも不評だろうから、むしろ間口を狭めてしまったんじゃないか。
そもそも、「これって誰に見てもらおうとしているんだろう?」と思ってしまう。

まず時代設定がハッキリしていない段階で、違和感を覚える。それによって、リアリティーが薄まってしまうからだ。
そこに留まらず、この映画はリアリティーを追及しようとしてないい。むしろ、そこから外れようとしているようにしか思えない。
蟹工船の労働者たちの衣装も、船内で使われている機械も、妙にスタイリッシュでオシャレだ。SABU監督は、全てを「絵空事の世界」として色付けしているのだ。
SABU監督は職人タイプではないので、自らの作家性を出そうと考えても仕方が無い。そもそも、独自のテイストを出すように求めたのはプロデューサーの意向らしいので、SABU監督が勝手にやらかしたわけではない。

本来なら、蟹工船は食事も満足に与えられず、もちろん入浴は出来ず、不衛生で栄養も不足する仕事現場のはずだ。だが、一応は顔や衣装に「汚し」を入れてはいるものの、衛生面や食糧不足の問題は全く描かれない。
冒頭で逃げ出そうとした宮口は頬がゲッソリとコケているが、その後に出て来る連中は「食事も満足に与えられずに痩せ細っている」というようなことは全く無い。むしろ木下隆行なんかは、その体格からしても、充分に食事を取っている感じが強く出ているし、まだ元気が余っているように見える。
例えば雑夫が「寒いなあ」と口にするシーンがあるが、そんなに寒そうに見えない。ブルブルと凍えそうに震えているとか、歯をガチガチと鳴らすとか、顔の血色が悪くなっているとか、そんな様子は無い。だから「ちょっと寒いかな。でも余裕で我慢できるけど」という程度の寒さにしか感じない。
それ以外でも、劣悪な環境で抑圧され、理不尽に扱き使われて搾取されているということの描写は、おっそろしく弱いのだ。
登場人物は栄養たっぷりで肉付きがいいが、そこの描写はガリガリに痩せ細っている。

浅川の恐ろしさをアピールするための描写も、ものすごく弱い。怒鳴って杖で叩くことを繰り返しているだけ。
しかも、叩かれた連中が苦悶するとか、傷付くとか、そういった描写も弱い。
映画を見ていても、雑夫や漁夫たちが過酷な労働を強いられ、精神的にも肉体的にもギリギリの状況まで追い込まれているという切迫感が全く伝わって来ない。
なぜ伝わって来ないのかと言えば、そもそも「ギリギリまで追い込まれている」という状況を描こうとしていないからだ。

雑夫や漁夫が貧乏自慢をするシーンなんかは、明らかにユーモラスなシーンとして描かれている。他にも、新庄や八木たちが金持ちの家で兄弟として生まれ変わる妄想を膨らませる様子、自決に失敗する様子、ロシア船で新庄と塩田が困惑する様子、ロンが絡んで来る様子など、ユーモラスなテイストが多く盛り込まれている。
それは「SABU監督の持ち味だから」ということで深く考えずにやっているわけではなく、あえて映画に漂う雰囲気に適度な余裕を持たせるためなんだろう。
それによって、切迫感や張り詰めた緊張感も和らぐ(和らぐというか、そもそも薄いんだが)。
で、それに何の意味があるのか考えてみたが、その答えは出なかった。

新庄が「この世に平等なんて無い。俺たちは一生勝てない。生まれた時から決まってるんだ」と語っても、まるで心に響かない。
なぜなら、そこにいる面々がそういう状況に追い込まれた背景が見えず、キャラクターとしての中身が空っぽだからだ。そんな低賃金で過酷な労働を選択せざるを得ない事情が、クッキリとした形で見えて来ない。
そもそも2009年という時代においては、「蟹工船での労働」ということにピンと来る人も少ないはずで、その時点で厳しいモノはあるのだが。
しかし考えれば考えるほど、「そもそも映画化したことが間違いじゃないのか」という考えが強くなるぞ。

新庄が「自分の最後ぐらい自分で決めてえじゃねえか」と言っても、彼らが「もう絶対に勝てない状況に置かれている」ということが全くピンと来ないので、「ただ用意されたセリフを段取りとして喋っているだけ」にしか感じられない。登場人物の魂が込められた言葉には聞こえない。
っていうか、そもそも登場人物に魂が入っていない。段取りを処理するために配置された、ペラペラの駒でしかない。
喧嘩が勃発しても、「極限状態で神経が磨り減らされているので、苛立ちが募って暴力に発展してしまう」という表現には見えない。物語が進む中で、どんどん追い込まれていくという印象も受けない。
新庄が「俺たちは充分にやったんだ。もう苦しまなくてもいいんだよ」と言っても、何をどれぐらい充分にやったのかが全く分からない。彼らの抱える苦しみ、辛さ、そういったモノが全く伝わって来ない。

労働者の怒りと悲しみのパワーが反乱に繋がっていくのかと思ったら、そうではなかった。ロシア船で楽しそうなパーティーを目にした新庄がロンから「1人1人立たないとダメ。イメージ。自分、どうなりたいか考える。で、何するか見える」などと言われ、博光丸に戻って仲間にストライキを持ち掛けるという流れだ。
つまり怒りや悲しみではなく、「自由への渇望」が原動力というわけだ。
だが、そういう流れによる労働者たちの反乱には、まるで心を喚起されるモノを感じない。
新庄が博光丸に戻って来て「自分たちが一人一人の意思で立ち上がらないと何も変わっていかない」などと力強くアジっても、「お前はそういうことを言える立場じゃないだろ」と言いたくなる。生きるための方法を説いて仲間たちを引っ張っていくリーダーとしては、実行力にもカリスマ性にも欠けている。
それに、演説の内容はロンの受け売りに過ぎないし。

あと、この映画を通じてSABU監督は「努力すれば報われる」ってことを描きたかったらしいが、報われてないでしょ。
新庄は射殺され、ストライキは鎮圧されているんだから。
その後で「代表者なんて決めなければ良かった。俺たち全員が代表者なんだ」と労働者が感じ、全員が集まって歩き出すんだけど、そこで映画は終わっちゃうんだよね。
その蜂起が鎮圧される可能性も充分に考えられるだけに(だって何の計画性も無いし)、伝えたいはずのテーマと終わり方にズレを感じるぞ。

(観賞日:2014年7月27日)

 

*ポンコツ映画愛護協会