『案山子 KAKASHI』:2001、日本
吉川かおるは両親を亡くしており、兄の剛に対して強い愛情を抱いていた。そんな剛との連絡の途絶えたため、かおるは彼のアパートを訪れた。部屋に入ったかおるは、一通の手紙を発見した。それは高校時代の同級生・宮守泉が送ったもので、「会って下さい、愛しい人」と書かれてあった。かおるは兄の行方を探すため、差出先の不来彼方村へと向かった。
かおるは車でトンネルを抜けようとするが、急に故障してしまう。車を降りて歩き始めたかおるは、案山子を軽トラックの荷台に積み込む村人と出会った。しばらく行くと、かおるは1人の女性が少女と遊んでいるのを目撃する。その女性は、トンネルの入り口にあった探し人の札に書かれてあった香港からの留学生、サリー・チェンだった。
かおるは泉の実家に到着するが、彼女の母・幸恵は冷淡な態度を取った。そこへ泉の父・耕造が帰宅し、娘は診療所に入院していると語った。かおるが見舞いに行きたいと言うと、耕造は早く村から出るよう告げた。かおるの車が故障したことを知ると、耕造は泊まっていくよう告げた。その日の深夜、かおるは人の気配を感じて納屋へ行く。かおるは女性の姿をした案山子を発見し、背後から現れた泉の冷たい視線を浴びるが、気が付くと彼女は布団の中にいるのだった。
翌朝、合同会所へ向かったかおるは、村人達が案山子を作っている様子を目撃した。図書室に入ると、そこではサリーが働いていた。かおるは巡査に会い、兄のことを尋ねた。しかし写真を見せられた巡査は、「小さい村だから来ていれば分かるはず」と答えた。その夜、再び宮守邸に泊まったかおるは、納屋で剛に出会うが、案山子に襲われる。だが、気が付くと布団の中にいた。
翌朝、図書室へ向かったかおるは、藁で出来た人間に襲撃される。かおるは合同会所から逃げ出し、宮守邸に戻った。二階へ上がった彼女は、泉の日記を見つけた。そこには、剛に恋心を抱いた泉が、邪魔をするかおるに強い憎しみを抱いたことが記されていた。その時、かおるの背後に泉が現れた。慌てて家を飛び出したかおるは耕造と出会い、死んだ人間の魂を案山子に憑依させて生き返らせる村の風習を聞かされる。実は、泉は既に死んでおり、幸恵は祭りの晩に娘を蘇らせようとしていたのだ・・・。監督は鶴田法男、原作は伊藤潤二、脚本は村上修&玉城悟&鶴田法男&三宅隆太、プロデューサーは尾西要一郎、アソシエイトプロデューサーは唐銘基&笠井正規&鈴木径男&盧聰明、エグゼクティブプロデューサーは楊受成&相原英雄&北村喜久雄&川島晴男、企画は相原英雄&尾西要一郎、撮影は菊池亘、照明は近守里夫、編集は須永弘志、録音は深田晃、美術は丸尾知行、特殊メイクはピエール須田、音楽は尾形真一郎。
出演は野波麻帆、柴咲コウ、グレース・イップ、松岡俊介、河原崎建三、りりィ、有薗芳記、五十嵐瑞穂、田中要次、ボブ鈴木、森下能幸、小柳友貴美、かじたにふみこ、小林勲、高野弘樹、飯田邦博、山中聡、堀文明、中村靖日、猫田直、三坂知絵子、蘭博之、山本茂、東條進、石羽澤竹男、山下隆博、河野和子、宮原京子、五十嵐さゆり、西本みずき、三野愛子、細原好雄、長塚道太、新垣恵美、本間康子、菊地加代子、遠藤美智子、木下瑞代、村上和子ら。
ホラー漫画家・伊藤潤二の原作を基にした作品。
短編集『伊藤潤二 恐怖マンガCollection』の中から、『案山子』や『墓標の町』など幾つかを組み合わせて話を作っているらしい。
かおるを野波麻帆、泉を柴咲コウ、サリーをグレース・イップ、剛を松岡俊介、耕造を河原崎建三、幸恵をりりィ、巡査を田中要次が演じている。香港からの留学生サリーは全く立ち位置が定まらず、最後までフラフラと彷徨っている状態だ。というか、明らかに要らないキャラだ。
香港との合作だから、仕方なく香港の女優を出演させたという事情はあるんだろう。
ただ、そうだとしても、この話にハメ込む作業を放棄して、あからさまに取って付けた感を出したままにしておくのはイカンだろうに。
そりゃ確かに、この話に香港の俳優をあてはめるのは、マンホールの穴に蓋を落とすのと同じぐらい難しい作業だろうけどさ(あっ、それって無理だな)。冒頭、「動物の死体の匂いで害獣を追い払ったのが『嗅がし』で、人型の害獣除けが『かかし』で、それには邪悪な霊魂を追い払う力もあって、だけど呼び降ろしたものが神とは限らないぜ」ってな感じのテロップが入る。
ハッキリ言って、ものすげく無駄に長い説明である。
この映画で、最初に案山子の語源とか由来とかを説明する必要なんて無いだろうに。おまけに、そういうことを最初に語ってしまうせいで、これから起きる出来事が完全にネタバレしてるんだよな。そこをネタバレさせる必要性もメリットも無い。
さらに言うなら、その説明は、特異な世界観に観客を誘う呼び水の役割も果たさない。
というか、かおるが村の入り口で出会う、赤ん坊タイプの案山子を乳母車に乗せたオバサンが呼び水の役割を果たすので、冒頭に呼び水は要らないし。で、最初に案山子の語源や由来をクドクドと説明する一方で、劇中の案山子の設定は、ものすげえアバウトなんだよな。
いや、あらかじめ決めてあった設定を自分で崩しちゃうような展開であろうとも、狂ったパワーが溢れていれば、それも良しとしよう。
でも、パワー不足この上ないんだよな。終盤になると、依代としての案山子が無い死者が蘇る。
それまでに「依代で蘇った死者」がさんざん出てきているのなら、依代の無い死者の復活を例外として受け止める余地もあるだろう。
しかし基本となる案山子人間がほとんど出てきていない内に例外を出しても、それはルールが定まっていないとしか受け取れない。設定がアバウトだったり整合性が無かったりしても、絵として圧倒的なものがあれば、それによって捻じ伏せることは可能だ。例えば村人が全て案山子軍団になって襲ってくるとか、村を脱出したと思ったら無数の案山子人間がバッと現れるとかね。
でも、そういう絵のスゴさも無い。
この映画が見せるべきは、祭りの会場に立て掛けられた案山子が1体ずつ動き出す絵ではなく、かおるが魂を吹き込まれた案山子軍団に襲撃される絵だったと思うんだが。この映画に何よりも必要なモノって、「閉鎖的な田舎の村と村人達が醸し出す不気味さ」のはず。
でも、それが全く感じられない。
例えば市川崑監督の金田一シリーズみたいに冷淡な様式美で田舎を描くと、そういうのが上手く出たような気はするけど。
やたら天気が良くて晴れているシーンが多いのも、マイナスに働いたような気がするぞ。不用意に太陽と青空を見せすぎじゃないかな。後は村人だよな。
劇中に出てくる村人が安っぽくて、ちっとも不気味じゃないのよ。
鶴田監督はショッカー映画を狙っていたらしいんだが、映画を見る限り、そういう意識はあまり感じられない。ホントにショッカー狙いなら、もっとケレン味たっぷりにやらんとダメだろう。
というか、殺人シーンがほとんど無いのにショッカー映画って、それは難しいだろ。終盤に入るまで、殺人シーンがゼロなんだよな。数少ない殺人シーンも、残酷描写になってないし。初見で「不来彼方村」を「こずかたむら」と何の問題も無く読むことが出来るスゴいヒロイン役の野波麻帆は、スクリーミング・クイーンとしては、てんで冴えない。
というか、そもそも鶴田監督が彼女をスクリーミング・クイーンとして見せようという意識を持っていないように思える。
ただ、だとすれば、ショッカー映画を狙っているという監督の意図とは矛盾してないかね。後半、かおるが図書館で案山子人間に襲われるまでは、「村で何か恐ろしいことが行われている」という雰囲気が薄いのね。
それは、その案山子祭りに加わってヒロインを怖がらせるサイドに、主要キャラが誰もいないってのも1つの要因だ(幸恵は寡黙だが恐怖の対象ではない)。
だから、かおるは大して恐怖を感じてないし。
案山子人間に襲われて、ようやくエンジンが掛かるのかと思いきや、すぐに元のマッタリズムに戻っていく。ショッカー演出が頻繁にあれば、そこで緩急が生じるが、それが少ないもんだから、ひたすら単調で退屈な時間をやり過ごさなくちゃいけなくなる。
ショッカー映画にする気がホントにあったのかと、監督を問い詰めたくなるぞ。個人的には、もう伊藤潤二の漫画をマトモなホラーとして映画化しようとするのは、やめた方がいいんじゃないかと思っている。
「ちっとも怖くない」という失敗を繰り返すだけに終わる可能性が高いからだ。
それよりも、むしろ突き抜けた感覚で描いて、「一応はホラー映画だけど、怖いというより笑える」というノリを狙った方が上手く行くんじゃないかなあ。