『海峡』:1982、日本

昭和二十九年九月二十六日、青函連絡船の洞爺丸他が遭難事故に遭い、乗客と職員1430名が死亡した。小学一年生の成瀬仙太は救助されたが、両親を失った。津軽海峡連絡の安全を図るためには、トンネルが必要だった。そこで昭和三十年二月十八日、津軽海峡連絡ずい道技術調査委員会が設置された。調査委員の阿久津剛は海岸を訪れ、海に向かって石を投げる仙太を目撃した。阿久津は調査委員長の岡部と会い、竜飛は本州最北端で大変な場所だと聞かされた。
阿久津剛は船で竜飛岬に渡り、老夫婦の家で暮らし始めた。本州側の海底地質調査が竜飛岬沖で始まり、阿久津は漁船で海に出た。荒天で船が激しく揺れたため、船長の石谷音太郎は危険だと判断して調査用のロープを切断した。若い漁師たちに働いてもらうため、阿久津は石谷と飲み屋に出掛けて報酬を支払った。女将のおれんは妊娠しており、夫は東京で地下鉄工事に従事しているが最近は連絡が無かった。石谷は阿久津に、トンネル工事が始まったらおれんの夫を呼び戻して雇うよう勧めた。
吹雪の中で山の地質調査に向かった阿久津は坂で転倒し、山小屋の主人である横溝平作に救われた、阿久津は崖から海に身投げしようとする牧村多恵を目撃し、慌てて駆け寄った。自殺を止めた阿久津は、横溝と共に多恵を山小屋へ運んだ。横溝が「虫ケラでも生きている」と説教すると、彼女は泣き出した。阿久津と横溝が多恵を飲み屋に連れて行くと、おれんは産気付いて苦しんでいた。横溝は彼女に頼まれ、産婆を呼びに行った。おれんは女児を出産し、阿久津は「峡子」という名前を考えた。
阿久津は調査委員会の会合に出席し、潜水艇で海底を調べて断層の正体を掴む必要があると訴えた。彼は婚約者である佳代子からの手紙を読み、返事を書いた。多恵は阿久津が海底から採取した石を1つ分けてもらい、手編みのマフラーをプレゼントした。阿久津は札幌工事局長から明石海峡調査出張所への異動を命じられ、今の仕事を続けたいと訴える。しかし岡部に説得され、彼は転勤を受け入れた。阿久津は世話になった村の人々に謝罪し、必ず戻って来ると約束した。
久々に帰郷した阿久津は、父の才次から身を固めて仕事に取り組むよう促される。阿久津は亡き母の墓参りに佳代子を連れて行き、彼女と結婚することにした。多恵はおれんに、福井の温泉旅館で働いていたこと、不注意から火事になって11人の客が死亡したこと、もう生きていられないと思ったことを告白した。おれんは彼女に、いつまでも自分の店でいればいいと優しく告げた。多恵は阿久津が結婚したことを村人から知らされ、激しく動揺して落涙した。
昭和三十六年五月。国鉄の十河総裁は会見を開き、さらに調査してトンネル工事に着工するかどうかの結論を出すと述べた。その十河が辞任し、財界から石田礼助が後任に選ばれた。昭和三十八年八月、青函トンネル試掘調査の実施が決定した。昭和三十九年三月、日本鉄道建設公団が発足した。阿久津は青函トンネル調査事務所工事第二課長に任命され、十月一日に仲間の金丸五郎や古川亘たちと会った。手足になってくれるトンネル部隊を結成するのは大仕事であり、阿久津は親不知ずい道での仕事を終えた熟練トンネル屋の岸田源助と会った。岸田は引退を考えていたが、阿久津の説得で青函トンネルの仕事を引き受けることにした。
阿久津は竜飛岬へ戻り、村の面々と再会した。まず建設公団は本州と北海道の両側から調査斜坑を掘り、底に着いたら海底中央部に向けてパイロットトンネルを掘り進める計画を立てた。技術的にも工費や工期についても確信が持てた時、初めて本坑の工事が決定されるのだ。岸田は部下の野崎や塚本たちを引き連れ、竜飛岬にやって来た。部下たちは厳しい環境を体感し、「こんな所で10年も我慢できない」と九州へ帰りたがる。しかし岸田が「今さら逃げて帰れるか」と自分に付いて来るよう要求すると、全員が従った。木材を運んでいる最中に塚本が足を滑らせ、坂を転落して命を落とした。
佳代子が息子の修を連れて竜飛駅に着くと、宿舎の食堂で働く多恵が多忙な阿久津の代理として迎えに行った。宿舎に移動した佳代子は、阿久津に「とてもこんな所で冬は越せないわ。覚悟していたつもりだけど、大変な所」と漏らす。昭和四十一年三月、本州側竜飛調査斜坑の掘削が開始された。阿久津は不良グループと喧嘩している成瀬を目撃し、割って入った。成瀬は明日が面接試験なのに左手に怪我を負い、後見人の江藤滝蔵に説教された。
成瀬は職員採用試験を受けるが、生意気な態度や喧嘩っ早さを懸念した試験管の面々は不合格にしようとする。しかし阿久津は「鍛えれば役に立つと思うんです」と進言し、成瀬を採用した。昭和四十二年九月、斜坑は海岸線に達した。佳代子は修を連れて岡山に戻り、才次と一緒に暮らしていた。トンネルは断層破砕帯にぶつかり、阿久津たちは次々に溢れる流水を防ぎながら前に進むことを余儀なくされた。彼らは岩盤の割れ目や柔らかい部分にセメントミルクを注入し、周囲を固めて真ん中を掘り進めることにした。
昭和四十四年二月、作業が遅々として進まないため、阿久津は注入口を倍に増やそうと考える。しかし天井が崩れて大水がトンネルに流れ込み、2ヶ月で5メートルしか掘り進めることが出来なかった。岸田は「この海の底は、人間には渡れねえ」と断念を促すが、阿久津は「俺たちも、きっと渡れる。渡るんだ」と強い口調で告げた。岸田が作業の指示を出す中、阿久津は「迂回しよう。排水に全力を尽くして撤退だ」と告げた。そして昭和四十五年一月、阿久津の率いるトンネル部隊は斜坑の底に辿り着いた…。

監督は森谷司郎、原作は岩川隆(文藝春秋刊)、脚本は井手俊郎&森谷司郎、製作は田中友幸&森岡道夫&田中寿一&森谷司郎、撮影は木村大作、美術は村木与四郎、録音は紅谷愃一、照明は望月英樹、編集は池田美千子、特殊撮影は木村大作、音楽は南こうせつ、主題歌『友ありて』作曲・唄は南こうせつ。
出演は高倉健、吉永小百合、三浦友和、森繁久彌、大谷直子、伊佐山ひろ子、青木峡子、小澤栄太郎、大滝秀治、笠智衆、藤田進、桑山正一、小林稔侍、東野英心、山谷初男、北村和夫、生井健夫、加藤和夫、小林昭二、奥村公延、大久保正信、滝田裕介、富川K夫、新田昌玄、辻伊万里、絵沢萠子、河村弘二、沢田浩二、山本武、青木卓、寺島達夫、石見栄英、蔵一彦、赤城太郎、和崎俊哉、大谷進、大山豊、竹本和正、中田博久、河合信芳、阿藤海(阿藤快)、中川勝彦、明石勤、佐久田修、浜村砂里、橋爪淳、野崎秀吾、江角英、山田勇介、小野泰次郎、木村大、布施侑宏ら。
ナレーターは平光淳之助。


岩川隆の同名小説を基にした作品。東宝創立50周年記念作品。
監督は『日本沈没』『八甲田山』の森谷司郎。脚本は『わるいやつら』『震える舌』の井手雅人。
阿久津を高倉健、多恵を吉永小百合、成瀬を三浦友和、岸田を森繁久彌、佳代子を大谷直子、おれんを伊佐山ひろ子、峡子を青木峡子、鉄建公団理事を小澤栄太郎、岡部を大滝秀治、才次を笠智衆が演じている。
青木峡子と成長した修役の中川勝彦は、この映画のためのオーディションで選ばれた新人。しかし中川勝彦は森谷監督と演技を巡って揉めたために、出演シーンを大幅にカットされたらしい。

序盤、海が荒れて調査が中止されるシーンがあるが、このトラブルによる影響は何も出ていない。その後、阿久津が漁船で海に出て調査することは無い。
その調査によって具体的に何が分かるのか、どういう成果が得られたのかは全く分からない。
阿久津は調査委員会の会合に出席し、潜水艇で海底を調べて断層の正体を掴む必要があると訴えるが、その後、実際に潜水艇で断層を調査するシーンは無い。
阿久津が津軽の仕事を離れて明石に転勤する時期があるが、これに物語としての意味があるのかと考えると、特に何も見つからない。
「しばらく村を離れ、久々に会う」という手順に繋がるための期間ではあるのだが、そんなの別に無くてもいいし。

「昭和三十八年八月、青函トンネル試掘調査の実施決定」とか「昭和三十九年三月、日本鉄道建設公団発足」など様々な出来事がテロップで示される。
だが、そういう動きにおいて阿久津の仕事がどんな風に役立ったのか、どんな形で貢献したのかは全く分からない。そこに至るまでに、どんな苦難があったのかも全く伝わって来ない。
物語は抑揚やメリハリに乏しく、基本的には淡々と進んでいく。
たまに抑揚が見えても、それはトンネル工事と何の関係も無い場所で起きている。

阿久津が吹雪の山で多恵を助けるシーンは、まず彼と横溝が何かに気付く様子が描かれる。横溝に促された阿久津が走り出すとカットが切り替わり、崖に立つ多恵がロングショットで映し出される。
でも、これって編集として不細工じゃないか。
普通に考えると、阿久津たちが何かに気付いた後、「何に気付いたのか」を示すためのカットが必要じゃないかと。
で、阿久津が多恵に駆け寄ると抒情的な音楽が流れ、映像がスローモーションになる。この演出は、恐ろしいぐらい臭い。
抵抗する多恵が無言なのは、かなり不自然だし。

阿久津が多恵を飲み屋に連れて行くと、おれんが産気付いている。でも、そこは畳み掛けない方が良くないか。阿久津が多恵を救う出来事と、おれんが出産する出来事は、完全に切り分けて描いた方が良くないか。
あと、「阿久津は足を怪我しているから」ってことで横溝が産婆を呼びに行くのだが、じゃあ阿久津が店に残ったことに何かしらの意味を持たせるのかというと、特に何も無い。
で、カットが切り替わると阿久津は下宿に戻って女児の名前を考えているが、これは編集として省略が過ぎると感じる。
もっと根本的なことを言っちゃうと、多恵もおれんも要らないでしょ。多恵が自殺を図って阿久津に助けられようが、おれんが女児を出産しようが、多恵が阿久津に惚れて失恋しようが、青函トンネルの工事には何の関係も無いんだから。

塚本が死ぬシーンは、シーンが切り替わって木材運搬の様子が描かれた途端の自己なので「あっけないな」と感じる。
しかも、塚本が急によろめく芝居が、わざとらしさに満ちているんだよね。あと、「あの程度で死ぬのか」とも思っちゃうし。
あと、まだトンネルを掘る工事が始まっていない段階で、もう死者を見せちゃうのかと。それは話の作りとして、どうなのかと。
とにかく色んな理由が組み合わさって、ホントは悲劇なのにバカバカしさしか感じない。
それに登場人物の誰も塚本の死を引きずらず、すぐに忘れちゃうし。

竜飛に着いた佳代子が多恵と会った時、その言葉や表情は意味ありげで何か含んだようなモノを感じる。
だが、例えば「夫と多恵の関係を疑った」みたいなことでもあるのかと思いきや、特に何も無い。
しかも、佳代子は「ここで冬を越すのは大変」などと吹雪を怖がる様子を見せた後、次に登場すると岡山に戻っている。
その程度で終わるのなら、彼女が竜飛に来る手順なんか要らないよ。ホントに申し訳程度に宿舎での様子を見せるだけで、そこに何のドラマも無いんだから。

昭和44年2月、天井が崩れて大水がトンネルに流れ込む出来事が起きる。
これは重大な事故のはずだが、犠牲者が出ないので、「なんだかなあ」と思っちゃう。
全てが実話を忠実に描いているならともかくフィクション満載の内容なんだから、そこはドラマティックに飾った方がいいんじゃないのか。
っていうかさ、いっそのこと、もっと徹底してドキュメンタリー・タッチに振り切っても良かったんじゃないの。
変に劇映画としての体裁を整えようとしたことが、裏目に出ているような気がしてしまう。

阿久津は岸田からトンネルを諦めるよう言われた時、「きっと渡れる。渡るんだ」と熱く語っている。そんなに威勢のいい言葉を口にしたからには、皆の士気を高めて作業を続けるのかと思いきや、なぜか外の景色が挟まれる。
そのタイミングで捨てゴマのような映像を挟む意図は、サッパリ分からない。
しかも、そこから再びトンネルの様子に戻ると、岸田が作業の指示を出す中で阿久津は「迂回しよう。排水に全力を尽くして撤退だ」と言い出すのだ。
いや、賢明な判断なのかもしれないけど、「渡るんだ」という力強い発言は何だったのかと。その宣言の後で撤退するってのは、どうにもピリッとしねえぞ。
だったら岸田が「この海の底は、人間には渡れねえ」と言った時点で、阿久津に「迂回しよう」と静かに決断させた方がいいだろ。

そんで阿久津たちが撤退し、昭和45年1月に切り替わると、すぐに「斜坑の底に着く」という様子が描かれる。つまり撤退して迂回した後は、順調に作業を進められたってことなのか。
でも、そこをバッサリと省略すると、なんか苦労せず簡単に済んでるような印象を受けるぞ。
トンネル工事の実施計画が認可された後、佳代子が竜飛に戻って来るシーンがある。だが、特にドラマが膨らむこともなく、ほぼ前回の来訪時と似たようなことの繰り返し。そして、またすぐに彼女は竜飛を去っている。
そんなモノを挟むよりも、もっとトンネル工事に集中すればいいのに。

昭和47年になると、仙太が18歳になった峡子と交際している様子が描かれる。だけど、ホントに申し訳程度に触れるだけだし、いつの間に親しくなったのかサッパリ分からない。
昭和45年1月に斜坑の作業が終わった後のトンネル工事の進捗状況は、15分ぐらいは淡々と処理されるだけで、これといったエピソードは無い。
そのまま最後まで順調に進んだら退屈を招くだけなので、昭和51年5月に修が学友たちと見学に来ると、案内役の高井義一が事故死する出来事が起きる。トロッコが通過する際にワイヤーが切れて、積んであった鉄骨が倒れて来て下敷きになるのだ。
こう書けば分かるように、トンネル工事中に起きた事故ではない。
なんで工事中じゃなくて、そういう変なトコで犠牲者を出すのか。

あと、ワイヤーが切れて鉄骨が落下するってのは、「トンネル工事中に起きた止むを得ない不慮の事故」とは言えないのよね。
例えば「急に水が流れ込んで来て」とか「急に天井が落下して」ってことなら、それは「事前に対策を取ることが出来ないアクシデント」と言ってもいいだろう。
だけど高木の事故死って、使う道具をキッチリと管理して、ワイヤーが簡単に切れないかどうかをチェックしておけば防げた問題なのよ。
そうなると、責任者が厳しく追及されるべき問題じゃないのかと言いたくなるんだよね。

その後には大規模な出水が発生するエピソードがあるけど、ここでも高木が事故死した時と同様、阿久津は現場にいない。事務所で連絡を受けて、指示を出すポジションだ。
あと、ここの見せ方も上手くないんだよね。
阿久津が部下から「出水が起きた」と知らされて、その後で初めて出水が起きているトンネルの様子が映し出されるのだ。
つまり、「しばらく作業を進めていたら小さな異変を感じ、大規模な出水が発生する」という流れみたいなモンが全く無いのよ。

残り20分ぐらいになって、ようやくトンネル工事の作業中に起きた出水によって犠牲者が出る。
だけど、あまりにも遅すぎるんだよね。しかも、「それはそれとして」みたいに淡白に割り切って、さっさと次のシーンへ移ってしまうし。
パイロットトンネルが貫通するシーンも、そこだけを切り分けて描いているので、阿久津が感涙して拳を振り上げても、こっちの気持ちは充分に高まっていない。
トンネルにいる面々は喜びを爆発させているけど、見ている側との気持ちには大きな乖離がある。

(観賞日:2025年1月7日)

 

*ポンコツ映画愛護協会