『陽炎』:1991、日本
昭和3年、夏。菩薩の刺青を背負った女胴師の城島りんは、人々から“不知火おりん”と呼ばれている。依頼を受けて大阪の難波政組に向かったおりんは、熊本の二本木で料亭“八雲”の若旦那をしているはずの義弟・小杉市太郎に出会う。
市太郎は亡くなった両親から引き継いだ八雲を、大滝岩蔵が率いる岩船一家に乗っ取られていた。市太郎は金策のために博打にハマり、さらに借金を作っていた。おりんは八雲を取り戻すため、難波政組の仕事を断って熊本に向かう。
八雲に向かったおりんは女将の千代春に追い返されそうになるが、旧知の女衒・安五郎と出会って中に入れてもらい、仏前に線香を上げる。おりんは幼い頃に胴師だった実の父を殺され、市太郎の両親に引き取られて、娘として育てられたのだった。
おりんは岩船一家が仕切る花会に、難波政組の胴師として参加することにした。花会に向けて練習を積むおりんの前に、岩船一家の胴師・村井常次郎が姿を現す。常次郎は背中の刺青をおりんに見せて、自分がおりんの父を殺した男だと明かす。
おりんと共に熊本に戻った市太郎は、安五郎の家に身を隠していた。市太郎は安五郎に頼んで、八雲で芸者をしている恋人・小よしを連れて来てもらう。だが、岩船一家に見つかってしまい、2人を助けようとした安五郎が殺される。小よしは八雲に連れ戻され、傷を負って逃げ出した市太郎は、雲井夢乃丞一座の番頭に助けてもらう。
いよいよ花会の日がやって来た。おりんは勝負に挑むが、常次郎の強さの前に全く歯が立たない。だが、おりんは中休みを経た最後の大勝負で逆転勝利し、八雲の権利書を奪い返す。だが、岩船一家は市太郎と小よしをおびき出し、心中に見せ掛けて殺害する。おりんは常次郎からの情報でダイナマイトを手に入れ、八雲に殴り込む…。監督は五社英雄、原作は栗田教行、脚本は高田宏治、製作は奥山和由、プロデューサーは西岡善信、撮影は森田富士郎、編集は市田勇、録音は大谷巌、照明は中岡源権、美術は西岡善信、殺陣は菊地竜志、音楽は佐藤勝、主題歌は聖飢魔II。
主演は樋口可南子、仲代達矢、荻野目慶子、本木雅弘、かたせ梨乃、夏八木勲、高品格、神山繁、川地民夫、岡田英次、北村和夫、川谷拓三、竹中直人、丹波哲郎、岩下志麻、白竜、清水ひとみ、沢竜二、うじきつよし、芦屋小雁、高橋長英、山内としお、岩尾正隆、光石研、島木譲二、沖田さとし、石倉英彦、高樹真、北原将光、山口幸生、山村弘三、水上保広、諸木淳郎ら。
昭和初期の熊本を舞台に、女胴師がヤクザ組織に立ち向かう任侠映画。
おりんを樋口可南子、常次郎を仲代達矢、小よしを荻野目慶子、市太郎を本木雅弘、岩蔵を白竜が演じている。また、子供時代のおりん役で、岡本綾が映画デヴューしている。まず最初に賭場のシーンがあるが、そこをチラッと見せただけで終わってしまう。
そこはキッチリと描いて、おりんの女胴師としての迫力やカッコ良さを見せるべきでしょ。そこを軽く流すぐらいなら、逆に賭場のシーンは最初に描かず、おりんの女胴師としての姿を初めて見せるシーンを、もう少し後に取っておいた方が、効果的になったはず。
で、その初めての賭場のシーンを、大阪での難波政組の仕事ということにしておけば、全てスッキリするでしょ。で、その仕事の後で、市太郎に会えばいいのよ。そうすれば、仕事で大阪に来たのに何もしないで熊本に行くという、マヌケな展開も避けられるし。で、おりんが熊本に向かうことになった直後から、しばらく回想シーンが続く。
父の殺害シーンや八雲に引き取られた経緯などを描く必要性は分かるけど、それにしたって始まった途端にマッタリしちゃう。それと、おりんの過去を描くということより、北村和夫や岩下志麻といった大物俳優のカメオ出演のために時間を割いている感じもするし。
で、そのマッタリした回想シーンが終わって、ようやく本格的に物語が進み始めるのかと思いきや、全く必要性の無い女2人の絡み合いショーを見せる。あと、岩蔵の女と千代春の確執が示されるんだけど、これも完全に意味が無いんだよなあ。おりんが熊本に向かうのは義弟・市太郎のためなんだけど、この市太郎がどこまでもダメ男。博打で料亭を取られて、さらに博打で借金を作る始末。おまけに、おりんや安五郎が彼のために動いているのに、呑気に「恋人に会いたいよお」とか言ってやがる。
おりんが上半身ヌードになって(本番のことを考えたら服を着た方がいいはずだが)博打の練習をするシーンは、妙に長い。途中では雷が入るという分かりやすい演出があるが、決してギャグではない。
そこへ特に必要も無いのに、タンカを切るためだけに常次郎が現れる。
たぶん、おりんのヌードをこっそりと盗み見ていただけだろう。市太郎と小よしの恋愛や、岩蔵の女と千代春の確執が、メインのストーリーに厚みを与えてくれれば良かったのだが、おりんの影を薄くしているだけ。
おりんのドラマより脇役のドラマが濃いってのは、シリーズの何作目かならOKだけど、第1作ではイカンでしょ。
大体、前述したように、岩蔵の女と千代春の確執は絶対に要らない要素だし。この手の映画を作る人達って、観客は博打に詳しいと勘違いしているのかもしれないけど、普通の人は博打のルールを知らないから、何が起きているのか分からないのよね。そこを上手く見せれば、ルールなんて分からなくても説明不要の迫力や緊迫感が生み出せるんだろうけど、少なくとも今作品からは、そういうモノは伝わってこない。
花会は“圧倒的に不利だったヒロインが、最後に大逆転勝利を収める”という分かりやすいパターンなんだけど、見事にカタルシスは無い。
で、おりんが権利書を取り戻した後は、すぐに岩船一家が襲い掛かればいいものを、身内でゴタゴタしちゃってる。常次郎を悪役として描かなかったのは、失敗じゃないかな。別に渡世の掟で仕方なくおりんの父を殺したわけでもなく、見逃してやってもいいのに娘の目の前で惨殺してるんだし、それをヒロインの味方に宗旨替えさせるのは無理があるんじゃないかなあ。宗旨替えの理由が「おりんに惚れたから」ってのも、なんかショボいしなあ。
そりゃあ、ヒロインと一緒に戦う男のパートナーを用意するのは適切な判断だと思うけど、その役割は安五郎とか雲井夢乃丞一座の番頭に任せましょうよ。番頭の高品格なんて、意味ありげに出てきたのに、あっさりと消えちゃってるし。というか、この映画って意味ありげに出てきて特に何もせずに消えちゃう連中が多いような気がするぞ。で、終盤に入ると、おりんが八雲に乗り込み、ダイナマイトを投げまくって敵と料亭を爆破する。
おいおい、アンタは料亭を取り戻すために熊本に戻って来て、花会に参加したんだろうが。その料亭をメチャクチャに破壊してどうするのよ。
おまけに、そこでも岩蔵の女と千代春がケンカしてるし。
邪魔でしょ。
最後までヘロヘロじゃん。