『かあちゃん』:2001、日本
天保末期、老中・水野忠邦による改革の効力は見られず、過酷な税の取り立てや飢饉による米価の高騰が続いていた。浮浪者は増加し、下層階級の窮乏は激化する一方だった。そんな中、ある貧乏長屋に勇吉という若い男が現れた。初めて泥棒稼業に手を出した彼は、汚い家に「御免下さいまし」と遠慮がちな声で告げる。住人が留守だと確認した彼は、ゆっくりと家へ上がり込む。しかし道具らしい物は何も無く、勇吉は空き家に入ってしまったのではないかと考える。
住人である大工の熊五郎が歌いながら戻って来たので、勇吉は慌てて床下に隠れた。熊五郎は足跡を見て泥棒の侵入に気付くが、どうせ盗まれる物など何も無いので全く慌てなかった。それどころか彼は、泥棒を理由にして店賃を猶予してもらおうと目論んだ。大家が家賃の催促に来ると、熊五郎は泥棒が入ったと告げて家賃の猶予を了承してもらう。ところが盗まれた物を品書きにして御上に届ける必要があると知らされ、熊五郎は困惑する。だが、届ければ品物が出ることもあると聞き、熊五郎は喜んだ。彼は大家に泥棒が狙いそうな物を尋ね、それを全て盗まれたと証言した。勇吉は床下から外へ脱出し、熊五郎の行動に呆れ果てた。
居酒屋では長屋の住人である印半纏の男、禿げ老人、左官風の男、商人風の男が会話を交わしていた。勇吉は居酒屋に入って酒を注文し、小女からつまみを問われて「塩」と告げた。印半纏の男たちは、やもめ女のおかつがケチで金を貯め込んでいると話す。一家で稼いでいるにも関わらず、貧乏同士の付き合いも悪いのだと、印半纏の男は彼女への不満を漏らした。その話を聞いた勇吉はおかつから盗もうと考え、すぐに店を出た。
おかつは市太、おさん、次郎、三之助、七之助という子供たちの稼ぎを数え、「どうやら間に合ったね。お前たち、よくやってくれた」と口にする。3年前から家族全員で働き続け、ようやく目標額に達したのだ。その日の夕食のうどんは、ご苦労祝いで天ぷらが乗っていた。おかつは子供たちを寝かせた後も、裁縫仕事に精を出した。いつの間にか眠り込んでいた彼女は、物音で目を覚ました。彼女は勇吉が侵入するのを待ち受け、全く動じずに対処した。勇吉が動揺すると、彼女は子供たちが寝ているので静かにするよう求めた。
勇吉は震えながら、「金を出せ」と脅す。おかつは「いいよ」と軽く言い、金の入った袋を収めた箱を棚から取り出した。おかつが袋から金を出すと、勇吉は「箱ごと渡せ」と要求した。かると、おかつはどんな金か話すので聞くよう促した。3年前、市太の大工仲間である源さんが切羽詰まって仕事場の金を盗んだ。源さんが牢に入れられ、おかつは彼が出て来た時に仕事を用意するため金を工面してやろうと考えた。そこで彼女は子供たちに、全員で金を稼いで生活費を切り詰めることを求めた。
子供たちは全く抗議せず、源さんのために頑張った。ようやく金が目標額に達し、明日は源さんが戻って来る。そんなことを説明した後、おかつは「今の話を聞いて、持って行くというなら持っておいで」と勇吉に告げた。勇吉が何も奪わずに立ち去ろうとすると、彼女は引き留めてうどんを食べさせた。さらに彼女は、行く当ての無い勇吉に「今夜からウチにいておくれ」と告げた。翌朝、彼女は子供たちに、勇吉を遠い親戚の三男だと紹介した。ウチを頼って来たので世話したいのだと彼女が言うと、子供たちは快諾した。
おかつは子供たちに、長屋の住人には源さんのために金を貯めていたことを絶対に言わないよう釘を刺す。そんな話が広まれば、源さんが肩身の狭い思いをするからだ。市太、次郎、三之助は源さんを迎えに行き、おかつとおさんは御馳走を作るための買い出しに出掛けた。勇吉は七之助と留守番を任されるが、身許が露呈しない内に逃げ出そうとする。しかし七之助に見つかり、集めた鉄屑の選り分けを手伝うよう頼まれた。おさんが戻ると、調理の手伝いを求められた。
御馳走の用意が終わると、勇吉は密かに抜け出した。すると印半纏の男たちが、おかつの家から御馳走の匂いがすると話していた。彼らは憤慨し、おかつの家へ乗り込もうとする。腹を立てた勇吉は彼らの元へ行き、「これには立派なワケがあるんだ」と告げる。しかし事情を問われた彼は、「ワケは言えねえ」と答えておかつの家へ舞い戻った。源さんと女房と幼い娘は、市太たちに伴われておかつの家へやって来た。おさんが酒を注ぐと、源さんは飲んで涙した。
おかつは「家を買って商売が出来るようにしてある」と言い、用意しておいた金を差し出した。「この金はあんたたちの物。どうか商売に精を出して下さいね」と言われ、源さんは涙を流して礼を述べた。市太たちも泣き、勇吉も感涙した。翌日、おかつは子供たちに、勇吉に仕事を探すための協力を持ち掛けた。勇吉は申し訳なさそうに遠慮し、「俺の覚悟は出来ていますから」と告げた。そこへ大家が現れ、勇吉の身許を確認する。彼は「店子が間違いを起こすと大家にまで類が及ぶんでね」と言い、決まりなので身許を保証する書付を提出するよう求めて立ち去った。
書付を得るには、以前に働いていた店に頼む必要があった。だが、おかつは子供たちに「勇吉は淡路屋で働いていた」と説明していたが、そんな店など実在しない。勇吉は密かに逃げ出そうとするが、おさんが気付いて追い掛けて来た。勇吉は彼女に、自分が親戚ではなく泥棒だと打ち明けた。だが、おさんは母親の話を信じると言い、勇吉を家に連れ戻した。その夜、おかつは書付を貰いに行くと嘘をつき、家を出た。彼女は易者に金を渡し、偽の書付を用意してもらう。尾行した三之助と次郎は、そのことを笑いながら市太に知らせた。帰宅したおかつが淡路屋へ行った芝居をすると、三之助と次郎はニヤニヤしながら聞いていた…。監督は市川崑、原作は山本周五郎、脚本は和田夏十&竹山洋、製作は西岡善信&中村雅哉&長瀬文男&松村和明、プロデューサーは西村維樹&猿川直人&鶴間和夫&野口正敏、撮影は五十畑幸勇、美術は西岡善信、録音は斉藤禎一、照明は下村一夫&古川昌輝、編集は長田千鶴子、時代考証は大石学、タイトル画は和田誠、音楽は宇崎竜童。
出演は岸惠子、原田龍二、うじきつよし、勝野雅奈恵、小沢昭一、石倉三郎、宇崎竜童、中村梅雀(二代目)、春風亭柳昇(五代目)、コロッケ、江戸家小猫(二代目)、尾藤イサオ、常田富士男、山崎裕太、飯泉征貴、紺野紘矢、仁科貴、横山あきお、阿栗きい、新村あゆみ他。
山本周五郎の同名小説を基にした作品。
監督は『新選組』『どら平太』の市川崑。市川崑と妻の和田夏十が「久里子亭」名義で脚本を担当した1958年の映画『江戸は青空』の実質的にリメイクに当たる。
西山正輝の第一回作品だった『江戸は青空』では60分という上映時間に合わせて大幅な改変を求められ、納得できない仕事となっていたため、市川崑が自らの手で再映画化した。
『義務と演技』『ホタル』の竹山洋がオリジナル版の脚本に手を加えている。おかつを演じる岸惠子は、1991年の『天河伝説殺人事件』以来の映画出演。
勇吉を原田龍二、市太をうじきつよし、おさんを勝野雅奈恵、大家を小沢昭一、熊五郎を石倉三郎、同心を宇崎竜童、印半纏の男を中村梅雀、禿げ老人を春風亭柳昇、左官風の男をコロッケ、商人風の男を江戸家小猫、源さんを尾藤イサオ、易者を常田富士男、三之助を山崎裕太、次郎を飯泉征貴、七之助を紺野紘矢、岡っ引を仁科貴、居酒屋の亭主を横山あきお、源さんの女房を阿栗きい、居酒屋の小女を新村あゆみが演じている。
宇崎竜童は出演だけでなく、伴奏音楽も担当している。冒頭、長屋に忍び込んだ勇吉は、「きたねえ部屋だなあ」「ひでえ貧乏暮らしだ」「道具らしい物は何もねえや。空き家に入っちまったのかなあ」などと独り言を並べる。
この時点では、まだそんなに気にならない。
しかし、戻って来た熊五郎が「大きな足跡だなあ。泥棒が入ったんだな。変な泥棒がいるもんだな。金や物の入って取るから泥棒なんだが。こんなウチへへえったって、何も持って行く物はねえ」とベラベラ喋ると、「おやおや」と不自然さに気付くことになる。
どうも様子が変だと思っていたら、大家と熊五郎の会話によって、答えが明確になる。
「何を取られたんだ」「何がようございましょ」「ワシに聞く奴があるか。お前が取られた物を言え」「すっかり取られちまったんで」「すっかりじゃ分からねえ」「泥棒なんてものは、どういう物を取っていくんでしょうねえ」というやり取りがあるのだが、それは完全に落語だ。
つまり、この映画は落語の内容をそのまま役者に演じさせるような演出になっているのだ。ちなみに勇吉は、床下から脱出した時や、おかつの家から逃げ出そうとした時にも、やはり独り言をベラベラと喋る。
普通の時代劇なら、いや時代劇に関わらず現代劇であっても、そういう状況で登場人物が饒舌に独り言を喋りまくるのは不自然極まりない。しかし落語なら、そういうのは良くあることだ。
居酒屋で話す住人4名が横に並ぶ構図や、セリフ回しや間の取り方も、普通の時代劇としては不自然だが、これも落語を意識しての演出なのだろう。
町や長屋には多くの住人が住んでいるはずなのに、「その他大勢」の人間が全く登場しないという辺りの箱庭感覚も、きっと「落語的な世界観」ってことで意図的にやっているんだろう。ただ、大家と熊五郎の会話は「いかにも落語でござい」という形にしてあるのに、おかつと勇吉のやり取りは普通に描かれているので、そこで「おやおや」と思ってしまう。
そもそも落語的な演出が成功しているとは到底言い難いのだが、やるならやるで徹底しなきゃ意味が無いはずだ。
それなのに、肝心なメイン2人の会話シーンに落語としての色が全く無いのだから、どういうつもりなのかと思ってしまう。
そのせいで、せっかくの仕掛けが中途半端なことになっている。また、落語を意識して演出するのなら、もっと軽妙で笑えるようにしておくべきだろう。笑いの要素を排除した落語もあるが、この映画で意識しているのは、明らかに笑いのある落語だからね。
でも、そういう印象は薄い。おかつや勇吉の周囲には、軽妙さや笑いがほとんど見えて来ない。
たぶん長屋4人衆はコメディー・リリーフとして配置されているのだろうが、そこでさえ弱い。
画面が薄暗くて冷え冷えしているので、そこも仕掛けとのアンバランスを感じるし。岸惠子の台詞回しには、落語家のような引き付ける力や説得力が全く無い。
そのため、おかつが貯めてある金に関する事情を説明しても、その背景が厚く見えて来ない。
なので「話を聞いた勇吉が心を打たれ、金を取らずに去ろうとする」ってのは段取りとしては理解できるが、ドラマとしてのパワーは皆無に等しい。
そもそも岸惠子にしろ原田龍二にしろ、掛け合いによって落語的な面白さを出せるタイプには全く思えない。仕掛けにマッチするような役者を選んでいないのだ。メインのストーリーで人情話をやりたいのは分かるが、落語的な軽妙さに欠けるしテンポも悪い。
だから、やたらと独り言を喋るとか、妙なセリフ回しになっているとか、そういうダメな部分ばかりが目立つ羽目になる。
自分が持ち込んだ仕掛けに、演出が追い付いていないという困った状態になっている。
BGMも、落語としての仕掛けに全く合っていない。なんでヴァンゲリスの出来損ないみたいな曲を何度も流すのか、そのセンスは理解不能だ。町回り同心になったばかりの男が、若いか年寄りかも分からない人相書きだけを頼りに逃げた囚人を捜しているというサブストーリーが用意されている。大嵐で川が溢れて人足寄場のある石川島が危なくなったので、奉行が5日以内に戻るよう約束させて囚人たちを解放したが、その男だけが戻らないというのだ。
だが、その男が勇吉じゃないことは分かり切っている。明確な証拠が提示されているわけじゃないけど、そんなのは誰でも分かる。
なので、幾ら大家や店子たちが疑いを抱く様子を見せたり、おかつが動揺する様子を見せたりしても、まるで意味が無い。同心が来た時に肝心の勇吉が全く慌てないことを見ても、彼じゃないことは明白だし。しかも同心がおかつの家へ来た直後、その男が番所へ現れたという知らせが届くし。
そのエピソードは喜劇のネタとしても、緊迫感を煽る意味でも、まるで生きていない。
っていうか、この映画に、そんな類の緊迫感なんて要らないし。おかつが書付を貰いに行くと嘘をついて出掛けると、密かに尾行した三之助と次郎が帰宅し、易者に頼んでいたことを市太に知らせる。
彼らは母の嘘を知って憤慨したり、勇吉を問い詰めたりしようと考えているわけではない。それを知った上で、笑顔で受け入れる。
しかし、それなら尾行した理由は何なのか。
「母の嘘を知っても受け入れる息子たちと、それを知って感動する母」というシーンを描きたかったようだが、息子たちが偶然に母の嘘を知ったのならともかく、尾行して探るのは不自然でしょ。ラスト近くになり、勇吉が「生みの親にも、こんなにされたことは無い」と感動して口にすると、おかつは憤慨して「聞き捨てならないよ。親の気持ちに変わりがあるかい。もし出来るなら身の皮を剥いでも子に何かしてやりたいのが親の情だ。それが出来ない親の気持ちを察してあげたことがあるのかい」と説教する。
やりたいことは分からんでもないが、ものすごく不自然だし、取って付けたような印象しか無い。
あと、そもそも子に対する情の全く無い親も存在するってのが事実なので、おかつの意見に賛同しかねるし。
もしかすると、勇吉の親はホントに情愛が全く無い人間かもしれないわけでね。(観賞日:2017年11月13日)