『母べえ』:2008、日本

昭和15年(1940年)2月、東京の住吉町二丁目。野上家ではドイツ文学者である夫の滋、妻・佳代、長女・初子、次女・照美が夕食を 囲んでいた。野上家では、家族の名前を愛称で呼び合っている。「父べえ」「母べえ」「初べえ」「照べえ」というのが、それぞれの愛称 だ。翌日の早朝、特高刑事の小菅たちが家に押し掛け、滋を治安維持法違反で検挙した。反戦を唱えたというのが検挙理由だ。滋は家族に 「父べえは必ず帰ってくるからな」と言い残し、連行された。
佳代の元を、山口県で警察署長をしていた父・久太郎が訪れた。結婚に猛反対していた久太郎は、今回の一件についても小言を口にした。 彼は滋の早期釈放を働き掛けるため、警察署へ出向くという。かつての滋の教え子・山崎徹が野上家に現れ、佳代たちを励ました。正座 から立ち上がった途端、彼は引っ繰り返ってしまい、佳代と娘たちは思わず笑い出した。
山崎の助言を受けた佳代は何度も検事局や警察署に通い、春になってようやく面会できることになった。佳代は照美を連れて警察署へ行き、 滋と久しぶりの再会を果たした。滋の顔はやつれており、背中は吹き出物だらけになっていた。照美が小菅に反抗的な態度を取ったため、 その場を収めるために、佳代は娘を叩いた。帰宅すると、滋の妹・久子が夕食にコロッケを買って訪れていた。隣組組長・福田は佳代に 親切で、小学校の代用教員の仕事を見つけてくれた。佳代は一家の家計を支えるために働き始めた。
しばらくして滋は拘置所に移され、定期的な面会や手紙のやり取りなどが許されるようになった。手紙で「読みたい本がある」と頼まれ、 娘たちと山崎は滋の蔵書の書き込みを全て消しゴムで消した。少しでも書き込みがあると、差し入れは許されないからだ。初めて拘置所を 訪れた山崎は、変わり果てた恩師の姿にショックを受け、何も伝えられぬまま面会時間が終わってしまった。
夏休みに入ると、親戚中から変わり者扱いされている叔父・仙吉が奈良から上京してきた。東京で絵の勉強をしている久子が来ると、仙吉 は「どれぐらいで元が取れんねん?」と訊いた。久子が「芸術とお金儲けは関係ありません」と答えると、仙吉は「世の中は理屈やない、 金や」と言い切った。その言い方に、久子は腹を立てた。初子も仙吉のことを「大嫌い」と口にした。
滋の手紙で「借りてほしいドイツ語の原書がある」と頼まれ、佳代は彼の恩師である二階堂の屋敷を訪ねた。滋が連行された時のことを 佳代が語ると、二階堂は「まるで被害者のようなことをおっしゃるが、野上君は法を犯した容疑で逮捕された。治安維持法は悪法だが、 無法よりはマシだ。彼か思想問題でつまずくのは残念だ」と語る。その言葉に、佳代は強い反感を覚えた。
新宿を歩いていた仙吉は、贅沢品撲滅運動を行っている婦人運動家たちと遭遇した。指にしている金の指輪を供出するよう求められた仙吉 は、「アホ抜かせ、ワシの財産やないか」と反論した。「国策に協力しないというんですか」と非難された仙吉は、「知るか、そんなもん」 と怒鳴った。婦人運動家たちが「非国民」と叫び、仙吉は警官に捕まって、こってりと絞られた。警察から解放されて帰宅した仙吉だが、 全く懲りた様子は無かった。
初子は、服装や化粧が派手だと婦人運動家に注意された体験を語った。彼女は「どこが悪いのか」と贅沢品撲滅運動への不快感を示し、 初めて仙吉と意見が一致した。仙吉は初子の体を見て、「成長したなあ。横手から見たら立派なもんやで、乳も」とデリカシーの無い発言 をした。初子は泣き出し、佳代に「なんで、あんなおじさんをいつまでも置いておくの」と迫った。佳代は「あのおじさんの顔を見ると、 ホッとするの」と告げた。仙吉は奈良へ帰ることを決め、迷惑を掛けた詫びとして金の指輪を残した。
昭和16年(1941年)の正月になっても、まだ滋は釈放されなかった。滋の元には、かつての教え子である杉本検事がやって来た。杉本は 滋が書いた転向上申書を突き返し、全て書き直すよう要求した。理由を尋ねる滋に、杉本は「この内容では改心していると認められない。 例えば支那事変を“戦争”と書いているが、“聖戦”と書くべきだ」と具体的な例を挙げて説明した。
久太郎が再び上京し、四谷の旅館に佳代と娘たちを呼び出した。久太郎は、ふみという後家を貰っていた。久太郎が家族に困窮を強いる滋 を責めたので、佳代は「あの人の思想がくだらないなんて考えていません」と反発した。久太郎は娘婿が思想犯として逮捕されたため、 公職を辞めざるを得なくなっていた。佳代が滋との離婚を拒絶したため、久太郎は勘当を言い渡した。
佳代が倒れたと知ると、山崎は慌てて自転車で駆け付けた。山崎は熱がある佳代のために氷を運び、まだ診察を受けていないと聞くと 野村医師を連れて来た。野村は、しばらく務めを休むよう佳代に告げた。夏休み、山崎は滋の代わりに野上家の面々を海へ連れて行く。 しかし泳げない山崎は溺れてしまい、佳代がワンピースのままで海に飛び込んで彼を助けた。
久子は故郷の広島へ戻って母親と暮らすことを決め、美術学校を辞めた。佳代が「貴方は山ちゃんと一緒になるんだと思ってた」と口に したので、久子は山崎が佳代に好意を持っていることを告げた。何も知らなかった佳代は驚いた。昭和17年(1942年)年の正月、帰郷して いた山崎が、久しぶりに野上家を訪れた。佳代は買い物に出掛けており、山崎は娘たちと羽子板で遊んだ。そこへ、拘置所から一通の電報 が届いた。それは滋の死を伝える電報だった・・・。

監督は山田洋次、原作は野上照代、脚本は山田洋次&平松恵美子、製作は松本輝起、製作総指揮は迫本淳一、プロデューサーは深澤宏& 矢島孝、プロデューサー補は野地千秋、ラインプロデューサーは斉藤朋彦、製作担当は相場貴和、撮影は長沼六男、編集は石井巌、 録音は岸田和美、照明は中須岳士、美術は出川三男、音楽は冨田勲、ソプラノは佐藤しのぶ、音楽プロデューサーは小野寺重之。
出演は吉永小百合、坂東三津五郎、笑福亭鶴瓶、浅野忠信、檀れい、志田未来、佐藤未来、中村梅之助、大滝秀治、倍賞千恵子、戸田恵子、 鈴木瑞穂、小林稔侍、笹野高史、でんでん、神戸浩、近藤公園、茅島成美、松田洋治、赤塚真人、吹越満、左時枝、 高間智子、井上夏葉、田井弘子、小暮智美、冠野智美、五味多恵子、菅原司、渡辺穣、赤間浩一、檀臣幸、桜木信介、望月栄希、 大岩匡、本多新也、大沼遼平、山口太郎、天田益男、横大路仲、寺尾たかひろ、小沢和之、柴田正和、高義治、筒井巧、植村喜八郎、 松野菜野花、高橋美衣、中牧健太郎ら。


黒澤明作品でスクリプターを務めていた野上照代の自伝的小説『父へのレクイエム』(映画公開に合わせて『母べえ』と改題)を基にした 作品。
監督は『隠し剣 鬼の爪』『武士の一分』の山田洋次。
佳代を吉永小百合、滋を坂東三津五郎[十代目]、仙吉を笑福亭鶴瓶、山崎徹を浅野忠信、野上久子を檀れい、野上初子を志田未来、 野上照美を佐藤未来、久太郎を中村梅之助[四代目]、野村を大滝秀治、大人になった初子を倍賞千恵子、大人になった照美を戸田恵子、 二階堂を鈴木瑞穂、小菅を笹野高史、福田をでんでんが演じている。

タイトルの「父」が「母」になったのは、もちろん吉永小百合の存在を押し出そうということだ。
この人の主演作は、かつてプログラム・ピクチャーが多く作られていた時代と同様に、「スター映画」としての作りになっている。
映画の内容より何より、まずは「吉永小百合が主演している」ということを最大のセールスポイントに掲げているということだ。

「吉永小百合の主演作」と「駄作」が等記号で結ばれてから、随分と長く経っている。
その等記号は、今回も健在だ。
今回の作品における最大の問題点は、「ヒロインに設定された年齢と、吉永小百合の実年齢の差が大きすぎる」ということだ。
たぶん、佳代のキャラ設定は30代から40代といったところだろう。しかし吉永小百合の撮影当時の年齢は、62歳なのだ。

そりゃあ吉永小百合は、実年齢に比べれば遥かに若々しいし、美しい。世の中に彼女より美しい62歳がいるかと考えた時に、その保存状態 の良さは見事だと言っていい。
しかし、だからといって、この映画のヒロイン役は明らかにミスキャストだ。
まあ、そもそも「吉永小百合の主演作」ということで企画が立ち上がっているので、ミスキャストという言い方は正しくないんだろうが、 吉永小百合と坂東三津五郎の年齢差は11で、中村梅之助との年齢差は15。
つまり、実年齢をそのまま当てはめると、ヒロインは父親が15歳の時に誕生した子供で、11年下の夫と結婚した年上女房だということだ。
夫役の坂東三津五郎や、娘役の志田未来&佐藤未来との年齢差における違和感は、ものすごいものがある。
そこで無理をしているから、様々な場面でシワ寄せが来ている。

後半、山崎が佳代に惚れていることが、久子の口から語られる。実際に、山崎の感情がどれぐらい描写されていたのかというと、ほとんど 見えてこなかったが、設定としては、そういうことになっている。
それは「老いたヒロインが若い男から好意を寄せられる」というモノがメインになっている恋愛劇ならともかく、そうじゃない枠組みの中 で描かれる恋愛としては無理がありすぎる。
ただし、このように年齢的に無理のある設定というのは、かつての「スターシステムが映画を動かしていた時代」には、当たり前だった。
片岡千恵蔵や市川歌右衛門といった人々は、オッサンになっても若者の役をやったりしていたのだ。
そのスターシステム時代における「スター俳優としては当然のこと」を、吉永小百合は未だに受け継いでいるってことなんだろう。

いつまでも主演スターとしてのポジションを捨てられない女優と、いつまでも彼女に「スター女優としての主演作」を用意する映画界。
そこに大きな問題がある。
そろそろ吉永小百合は、「ヒロインの母親」とか、あるいは「ヒロインの祖母」とか、そういう役柄で脇役に回ることも考えた方がいい。
「永遠のスター女優」などという称号は、女優としての可能性を放棄しているだけで、何の得も無いよ。
彼女と同年代の役者は、みんな脇役に回っている。
その中には、脇役として見事な存在感を示している俳優もいるんだから。

吉永小百合の年齢は最も大きな欠点だが、それ以外は優れているのかというと、それも違う。
演出も冴えない。
大人になった照美のナレーションによって、物語は進行されていくが、意図的なのか、結果としてそうなったのか、それは「ドラマの薄い 部分をナレーションで補う」という形になっている。
それと、観客に委ねすぎている映画にも困るが、これは逆に観客の想像力に何も期待しておらず、セリフによって過剰に説明したがる。
初子から仙吉を長く留まらせていることを責められた佳代は、「彼の顔を見るとホッとする」と言う。その気持ちを、セリフによって説明 してしまうのである。
それを口で説明するのは、まだ受け入れるしても、そのセリフがあるまで、彼女がそう思っていることがドラマや芝居の中で全く表現 されていないというのは、演出の放棄ではないのか。
「実はそう思っていたのか」と観客に思わせるサプライズ感を狙っているわけでもあるまい。

目の前で幼い娘が辛そうにしていても、滋は家族を守ることより自分の思想を貫くことを優先する。
信念を曲げないというのは、思想家としては立派なことなのかもしれない。
だが、父親として、家庭人としては、果たしてどうなのか。
家族愛や絆がテーマの作品かと思ったが、山田監督の左寄りの思想が、かなり色濃く滲み出ているようだ。
その手の主張が出てくる度に、ウンザリさせられる。

四谷の旅館のシーンは、みんなが貧しい生活を余儀なくされている中で贅沢な食事が出来る警官への批判と、久太郎から勘当される佳代 への同情を誘うことを狙いとするシーンなのだろう。
だが、佳代が勘当されるのは当然で、むしろ娘婿のせいで仕事を辞めざるを得なくなった久太郎に同情したくなってしまった。
娘たちには何の罪が無いから同情するけど、でも彼女たちが辛い生活を強いられているのは、両親にも問題があるんじゃないかと感じて しまうんだよな。

ヒロインが女手一つで娘たちを育てる苦労、周囲の人々から誹謗や中傷を浴びせられる辛さ、そういったものを描いて同情を誘うことは、 皆無に等しい。
その代わりに、投獄された滋が思想犯として苦しめられる姿を描いたり、体制側の人間を醜悪で非情な存在として描いたり している。
でも、それはヒロインが味わう辛さではないし、反体制的な主張が見えすぎて、まるで同情を誘わない。
「反体制側の人間は正しいのだ」ということを、やたらとセリフで説明したがるのもゲンナリするし。

戦後のシーンは、明らかに蛇足。山崎の最期を戦友の小宮山が語り、それが回想シーンで描かれるが、そんなのは佳代が体験した出来事 でもないし、要らない。
佳代の最期を描く最終エピソードは、もっと不要。
大人になった娘たちとして倍賞千恵子と戸田恵子が登場すると、違和感たっぷりだし。
子役の志田未来と佐藤未来は、なかなかの好演なんだけどね。

(観賞日:2010年2月12日)


第2回(2008年度)HIHOはくさい映画賞

・生涯功労賞:吉永小百合
<*『母べえ』『まぼろしの邪馬台国』他、長年の功績により>

 

*ポンコツ映画愛護協会