『漁港の肉子ちゃん』:2021、日本

身長151cm、体重67.4kgの肉子は関西の田舎で生まれ、16歳で大阪に出た。スナックで働き始めた彼女はカジノのディーラーを好きになるが、仕事で失敗した彼に借金を押し付けられて逃げられた。肉子は必死に働いて借金を返済し、27歳で名古屋へ移った。スナックで働き始めた彼女は自称・苦学生の男に惚れるが、騙されて金を巻き上げられた。30歳で横浜に移った肉子は妻子持ちのサラリーマンを好きになり、離婚するという嘘で何度も金を騙し取られた。33歳で東京に移った肉子は自称・小説家の男を好きになり、彼が本を買うための金を出した。男は浮気しなかったが全く小説を書かず、「故郷で死ぬ」という書き置きをして姿を消した。
肉子は8歳にする娘の喜久子を連れて北の町へ行き、男を捜し回る。しかし男は見つからず、肉子と喜久子は町で暮らし始めて3年が経過した。小学5年生の喜久子は毎朝、転校初日から仲良くなったマリアと一緒に学校へ向かった。昼休みのバスケが女子の間で流行し、参加しない生徒もクラスの人間関係から外れたくないので外で応援した。金本はスポーツの出来る喜久子を必ず自分のチームに入れて、森のチームと対戦した。いつも最後まで選ばれないマリアは、金本への不快感を隠そうとしなかった。
喜久子とマリアが登下校する時、いつも2人を見ている松本&桜井&二宮という3人の男子たちがいた。喜久子が「マリアのことが好きなんちゃうの?」と言うと、マリアは「嫌だ」と顔をしかめた。3人の中で二宮という男子だけは寡黙で、喜久子は彼のことが気になった。肉子と喜久子は、漁港に停泊した漁船を住まいにしていた。漁船の所有者は焼肉屋「うをがし」を経営するサッサンで、肉子は彼の店で働かせてもらっていた。夜になって喜久子が店に行くと、サッサンは夕食としてまかないを出してくれた。
喜久子が買い物を終えて店を出ると、松本&桜井が現れた。彼らは靴の色を訪ね、喜久子は黒だと答えた。通り過ぎようとした喜久子は、松本&桜井の向こうにいた二宮が変な表情を作っているのに気付いた。それ以来、喜久子は二宮を観察するようになるが、変な表情を作ることは無かった。大雨の日、喜久子が帰宅すると、「うをがし」が定休日だった肉子は家事の途中で居眠りしていた。喜久子は昼食としてミートスパを作り、肉子を起こして一緒に食べた。
肉子はなかよし水族館にペンギンを見に行こうと誘い、喜久子は承諾した。水族にはカンコというペンギンがいるが、肉子はペンタと思い込んでいた。バス停でバスを待っている時、喜久子はクラスの誰かに会わないよう心で願った。バスで水族館へ向かった喜久子は、途中で二宮が乗って来たので動揺する。しかし二宮は彼女を一瞥しただけで、一番前の席に座った。喜久子が観察していると、二宮は窓を見て変な表情を作っていた。肉子と喜久子は、水族館前駅でバスを降りた。そのまま二宮がバスに乗って去ったので、彼がことぶきセンターへ向かうことを喜久子は知った。
ある日、喜久子はマリアから家へ遊びに来るよう誘われた。喜久子は少し考えてOKするが、森のチームの面々を呼ぶと聞いて憂鬱になる。マリアが金本の悪口を言うことも、自分たちのチームに加わるよう持ち掛けることも確実だったからだ。肉子は喜久子が悩んでいるのに気付き、風邪をひいたと嘘をつくよう助言した。喜久子は彼女に言われた通り、マリアに電話を掛けて風邪をひいたと嘘をつく。罪悪感はあったが、そのおかげで喜久子の気持ちは軽くなった。
翌日、マリアは森さんグループと共に、喜久子を学校のトイレまで呼び出した。マリアは「金本さんのやり方だと仲間外れが出る」と言い、昼休みのバスケを断って自分たちと一緒に遊ぶよう誘う。喜久子が返答に困っていると、森たちはマリアに「いいよ、行こう」と告げてトイレを去った。昼休み、マリアがクラスメイトに自分たちと遊ぶよう持ち掛ける。金本は彼女の揺さぶりに全く動じず昼休みのバスケを続け、喜久子は彼女のチームから離れなかった。それ以来、マリアは森さんグループとばかり遊び、喜久子を拒絶した。
祭りの日、喜久子は森たちと縁日へ出掛けた。その頃になると、マリアは強引なやり口が嫌われ、森のグループからも外されて1人ぼっちになっていた。喜久子は森たちに誘われ、一緒に盆踊りへ出掛けた。彼女は母と2人で来ているマリアを見掛けるが、自分から声を掛けて関係を修復する勇気は無かった。盆踊りには肉子も来ており、喜久子は森たちから「全く似ていない」と言われる。肉子はお好み焼き屋台の主人に惚れて、頬を緩ませていた。盆踊りには二宮も松本&桜井と来ており、喜久子は彼の変顔を目撃した。
2学期に入ると金本さんグループと森さんグループは元に戻り、マリアだけが孤立した。喜久子は買い物帰り、馬頭観音を見ている二宮と遭遇した。二宮はバスで会ったことに気付いており、ことぶきセンターが何をする場所なのか良く分からないこと、親に言われて模型を作っていることを話す。喜久子が模型を作る理由を尋ねると、彼は何かに集中する必要があること、自分では顔を動かす癖を止められないことを説明した。
二宮は今から歩いてことぶきセンターへ行くことを明かし、「来るか?」と誘った。喜久子は彼に同行し、ことぶきセンターに到着した。職員に通された教室で待っている間に、喜久子は女子たちの問題について話そうとする。彼女がマリアの名前を出すと、二宮は「あいつ、可愛いよな」と口にした。喜久子は苛立ち、マリアについて「クラスで中心になりたかった」「みんなに私の悪口を言った」などと悪口が止まらなくなった。
喜久子はマリアへの悪口を吐き出している途中で、誰よりも自分が悪く思っていたことに気付いた。自分がズルくて嫌なことだと感じて、彼女は泣き出してしまった。職員が模型を持って来ると、二宮は喜久子に自慢した。喜久子はマリアの家へと走り、互いに謝罪して仲直りした。秋になると、肉子は火曜日の深夜に小声で電話をするようになった。運動会の日、喜久子は自分の写真を撮る人物の存在に気付くが、周囲に視線を向けても見つけられなかった。昼休憩の時、肉子は喜久子が作ったおにぎりを掴むと、トイレに行くと言って姿を消した。借り物競争に参加した肉子は笑い者になるが、構わずに激走した。
冬が訪れると、肉子は運動会の一件で町の人気者になっていた。肉子は機嫌が良く、喜久子は何かいいことがあったのだと確信した。彼女はサッサンに盆踊りで屋台を出していた金髪男性のことを訪ねるが、魚河岸には来ていないと言われる。肉子が誰かに惚れると必ず町を離れる日が来るので、喜久子は不安を覚えた。サッサンがまかないでミスジを出してくれた翌朝、喜久子は腹痛で目を覚ました。肉子たちはサッサンの好意で漁船に格安で住まわせてもらっているが、「お腹を壊さない」というのが条件だった。喜久子は肉子に打ち明けられず、彼女が買い物に出た間に薬を飲もうとする。しかし薬箱に薬は入っておらず、喜久子は意識を失った…。

監督は渡辺歩、原作は西加奈子『漁港の肉子ちゃん』(幻冬舎文庫)、脚本は大島里美、企画・プロデュースは明石家さんま、プロデューサーは山田貢&田中栄子、チーフプロデューサーは神夏磯秀、ゼネラルプロデューサーは菅賢治&小松純也、エグゼクティブプロデューサーは岡本昭彦&吉崎圭一、アソシエイトプロデューサーは大沼知朗&五藤渕英、協力プロデューサーは貸川聡子、アニメーションプロデューサーは青木正貴、キャラクターデザイン 総作画監督は小西賢一、美術監督は木村真二、演出は秋本賢一郎、色彩設計は伊東美由樹、CGI監督は中島隆紀、編集は廣瀬清志、音響監督は笠松広司、動画監督は小島知之、音楽は村松崇継、主題歌『イメージの詩』は稲垣来泉。
声の出演は大竹しのぶ、Cocomi、花江夏樹、吉岡里帆、マツコ・デラックス、中村育二、石井いづみ、山西惇、八十田勇一、下野紘、滝沢カレン、宮迫博之、明石家さんま、稲垣来泉、ゆりやんレトリィバア、岩井ジョニ男、オラキオ、チャンス大城、Yes!アキト、本村玲奈、植野瑚子、原口紗綾、留冬藍名、上西哲平、明神碧人、はやしりか、多田哲太、佐々木奈緒、木原実優、神楽千歌、菅賢治、貸川聡子、田中栄子、渡辺歩。


西加奈子による同名小説を基にした長編アニメーション映画。明石家さんまが企画・プロデュースを担当している。
監督は『ドラえもん のび太と緑の巨人伝』『海獣の子供』の渡辺歩。
脚本は『君と100回目の恋』『サヨナラまでの30分』の大島里美。
肉子の声を大竹しのぶ、喜久子をCocomi、二宮を花江夏樹、みうを吉岡里帆、ダリシアをマツコ・デラックス、サッサンを中村育二、マリアを石井いづみ、ゼンジ&ゲスト&屋台の店主&じいさんを山西惇、水族館のおじさん&受付ロボット&あやしい店の係を八十田勇一、ヤモリ&トカゲ&松本を下野紘、カモメ&運動会アナを滝沢カレン、セミを宮迫博之が担当している。
明石家さんまも、テレビ出演している本人役としてラスト直前の1シーンだけ出演している。

明石家さんまは原作小説の映像化を熱望し、吉本興業を通じて権利を取得した。彼が映像化に動き出したのは2015年なので、そこから6年が掛かっているわけだ。
当初は実写の映画やドラマを考えていたが、最終的にはアニメ映画という形を取ることになった。
明石家さんまは単なる名義貸しのような立場ではなく、積極的に打ち合わせに参加してアイデアを出している。それぐらい、彼にとっては熱望した作品というわけだ。
そして皮肉なことに、彼の熱すぎる気持ちが、この映画がヒットする可能性を大きく萎ませてしまったのだ。

そもそも実写映画だったとしても、「企画・プロデュース:明石家さんま」というセールスポイントが好印象に繋がるかどうかは疑問だ。
「西加奈子が原作の映画」を見ようと思う客層が、「明石家さんまの企画・プロデュース」に食い付く客層と合致しているとは思えない。
そして、これがアニメ映画になると、もっと厳しい。劇場アニメを見に来る客層は、むしろ敬遠したくなるんじゃないか。
さらに困ったことに、「西加奈子が原作の映画」を見たがる客層とアニメ映画を見たがる客層も、まるで合致しないし。

根本的な問題として、西加奈子の原作小説とアニメというジャンルが完全にミスマッチなのだ。肉子というキャラクターも、物語の内容も、どう考えてもアニメーション映画に不向きだ。
映画『ドラえもん』シリーズの監督である渡辺歩を起用し、まるでファミリー映画であるかのように宣伝したが、それも全く違うし。
原作のファンだから映像化を熱望したはずの明石家さんまが、なぜアニメ映画にしようと決断したのか理解に苦しむ。
「この内容を実写化すると生々しいから、アニメにして和らげよう」ってことだったのか。
でもアニメにしても、生々しさは充分すぎるぐらい伝わって来るぞ。そしてアニメだからこそ、余計に肉子というキャラの生々しさが際立つぞ。

アニメーション映画にしたこと自体が既に失敗なのだが、それ以外にも明石家さんまは色々と間違ったことをやらかしている。自分が企画・プロデュースしていることを大々的に打ち出したのも、積極的に宣伝活動を行ったのも、大きな過ちだ。
「明石家さんま」という人物が前に出過ぎることは、アニメ映画の宣伝効果としてはマイナスの方が遥かに大きいのだ。
そして最も大きな間違いが、内輪の面々ばかりで固めたキャスティング。
肉子が元妻の大竹しのぶ、喜久子は木村拓哉の娘であるCocomi。その他、吉岡里帆、マツコ・デラックス、山西惇、八十田勇一、滝沢カレン、宮迫博之といった顔触れに、多くのアニメファンはウンザリしたことだろう。
プロの声優である花江夏樹と下野紘にしても、『鬼滅の刃』の大ヒットを受けての安直な起用だし。

このように列挙していくと、もはや観賞する前の段階で多くの障害があったことが良く分かる。
明石家さんまはお笑い芸人としては大人気だし経験も豊富だが、映画のマーケティング戦略においては間違ったことばかりを繰り返したのだ。
そして彼が大物であるがゆえに、周囲の人間は誰も止められなかったのだろう。
ようするに、裸の王様のような状態だったのだ。
同じ吉本興業の松本人志が映画を撮っていた頃と、ほぼ同じような状況になっていたんだろう。

少しだけフォローしておくと、大竹しのぶやCocomiの声優としての仕事は、そんなに悪いわけじゃない。
大竹しのぶは「肉子のイメージとは少し違うんじゃないか」とは感じるが、「大竹しのぶ」という女優の顔がずっとチラ付くようなことは無い。
Cocomiは声優どころか演技そのものの経験が全く無いはずだが、それを考えると充分に及第点だ。拙さを感じさせる部分も無くはないが、それも含めて喜久子のキャラクターには良く合っている。
他の面々も含めて、声優陣を批判しようという気持ちは全く起きない。
全ての問題は、アニメーション映画として製作したことに起因するのである。

劇中の描写を見る限り、たぶん肉子は知能の発達に問題を抱えているのだろうと推測される。そういう人間を純粋な善人や聖人のように扱う趣向は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『白痴』を連想させる。
実写で描くのであれば、それほど気にならなかったかもしれない。
しかし「オツムが弱いせいで簡単に男に惚れて体を許し、騙されることを繰り返す」というキャラをアニメのヒロインに据えるのは、それだけでもキツい。
しかもファミリー映画の皮を被って公開されているので、余計にタチが悪い。

尺の都合はあるんだろうけど、ずっと散文調で1つ1つのエピソードの繋がりや流れが悪いと感じる。
例えば、マリアが森本グループへの反旗を喜久子に持ち掛けてから5分ぐらい経過すると、もう彼女自身が森グループから外されて1人ぼっちになっている。
マリア個人のドラマがメインではないにしても、彼女が置かれている状況の変化を描く過程が、あまりにも雑に片付けられてないか。
喜久子にとっては彼女との関係がとても重要なはずなんだし、もう少し丁寧に描いた方がいいんじゃないかと。

マリアが森グループから外されたことが観客に明かされるのは、盆踊りのシーンだ。
そのシーンでは、「喜久子がクラスメイトから肉子と似ていないと言われる」「肉子が屋台の店主にデレデレしている」「喜久子が二宮の変顔を目撃する」といった出来事もあり、情報が多い。
そこから2学期に入るとマリアがクラスで孤立していることが明かされるが、すぐに喜久子と二宮がことぶきセンターへ向かう展開に入る。
マリアを巡るエピソードに関しては、大事なことの大半をナレーションで片付けている印象が強いんだよなあ。

喜久子はことぶきセンターで二宮から模型を見せられるが、どういう模型なのかは描かれない(終盤になって明らかになる)。
二宮が模型の入っているアタッシェケースを開けると光が放たれ、シーンが切り替わると喜久子が外を走っている。
そして泣き出すマリアと会っている様子が映し出され、「家に行くと、マリアちゃんは泣いた」というナレーションが入る。
でも、それだと喜久子がマリアの元へ謝罪に向かう展開を上手く作れていない。だから、ちっともスムーズに感じないのだ。

手順を見る限り、喜久子がマリアの元へ行くのは、模型を見たのが引き金になっているはずだ。
だけど、なぜなのか全く分からない。
それなら模型を見る過程を無くして、「マリアへの悪口を吐き出した喜久子が自分の醜い感情に気付き、すぐに謝罪へ向かう」という流れにした方が遥かにスムーズでしょ。
ここの流れが悪くてドラマの厚みも不充分だから、「喜久子とマリアが泣いて仲直り」というシーンは感動的な要素がたっぶりと詰まっているはずなのに、淡々と過ぎて行くだけになってしまう。

喜久子は意識を失ってシーンが切り替わると、それまでは彼女のナレーションで進行していたのに、突如として「彼女は美しかった」と、物語を俯瞰で見ている立場の人物による語りが入る。
そして、ある女性が家出して各地を転々としたこと、その度に名前を変えていたことが語られる。「みう」と名乗って夜の店で働ていた時、肉子と出会って仲良くなったことが語られる。
「みう」について説明するパートを上手く物語に組み込むのが、かなり難しいのは分かる。
でも唐突さが強いし、まるで上手く繋がっていない。かなり不細工なパッチワーク状態になっている。

みうが赤ん坊を産む様子で彼女のパートが終了すると、盲腸の手術を受けた喜久子が病室で目を覚ますシーンに切り替わる。この流れだと、まるで「みうのパートは喜久子の見ていた夢でした」という感じだ。
しかし、幾らファンタジー要素がある作品でも、そこは無理がある。
しかも喜久子が「私は望まれて生まれてきたわけじゃないから」と言っているので、彼女の夢というわけでもない。どう解釈しても、みうのパートは上手く組み込めていない。
みうの赤ん坊が喜久子ってのを描きたかったのは分かるけど、だったら「喜久子が肉子の娘じゃないと気付いていたことを明かす」という手順の後で、「実はこんな経緯が」という順番でも良かったんじゃないかな。

アニメーション制作はSTUDIO 4℃で、監督は渡辺歩なので、企画・プロデュースが明石家さんまじゃなくて、声優陣が彼の内輪だらけじゃなかったら、それだけでも大きく変わっていたかもしれない。
ただ、それでもアニメーションには不向きだという問題は残る。
そして私は、『漁港の肉子ちゃん』を上手く実写映画化できる人物を知っている。それは西加奈子の原作小説を映画化した『円卓 こっこ、ひと夏のイマジン』を撮った行定勲監督だ。
あの作品を「ファンタジーの雰囲気に包まれた子供の世界」として見事に仕上げた行定勲なら、『漁港の肉子ちゃん』を任せる価値はあったんじゃないかと思うのだ。
それを考えると、余計に「アニメじゃなければ」と思うのだ。

(観賞日:2022年11月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会