『グーグーだって猫である』:2008、日本

吉祥寺に住む漫画家の小島麻子が、徹夜で漫画を描いている。同じ部屋では、アシスタントのナオミ、加奈子、咲江、美智子も作業をして いる。突然、麻子は『ふしぎなポケット』を歌い出した。それは眠気が頂点に到達した証拠だ。クリスマススペシャル号の締め切りが迫り 、みんな一睡もしていなかった。「さようなら」という寂しげな声がしたが、誰も気付かなかった。翌朝、麻子は完成した原稿を編集者の 近藤に渡し、アシスタントの4人は帰っていった。一息ついた麻子は、ソファーで愛猫のサバが死んでいるのを発見した。
ポール・ウェインパーグは、吉祥寺で英会話教室の講師をしている。吉祥寺に来て5年になる彼は、井の頭公園で花見をしている人々を 眺める。ナオミは、麻子の最近の作品数が減ったことを気にしている。去年は読み切りが1本、今年は1本も書いていない。麻子はサバを 失って以来、漫画が描けなくなっていた。ナオミ、加奈子、咲江、美智子は、麻子がペット専門店の前にいるのを目撃する。だが、麻子は 店に入らずに立ち去った。サバは15年も生きた大往生だが、麻子は最後の声に気付いてやれなかったことを後悔していた。
ナオミは「中央特快」という音楽デュオでプロを目指している恋人・マモルの前でも、麻子の話をする。学生時代、ナオミは夏休みに麻子 の漫画を読んで感動した。そんな彼女にとって、麻子のアシスタントになるというのは夢のようなことだった。外出したナオミは、また 麻子がペット専門店の前にいるのを目撃する。しかし今回、麻子は店に足を踏み入れた。彼女は一匹のアメリカンショートヘアーに目を 留め、購入してナオミたちに見せた。麻子は、その猫にグーグーと名付けた。
麻子の全集が発売されることになり、記念パーティーが催された。出席した麻子は、同業のUMEZU氏に声を掛けられる。壇上では麻子の母 ・香苗が挨拶した。ある日、ポールは井の頭自然文化園へ出掛け、タイから来た象・はな子を見物する。小林とコンビを組む清掃員の梶原 は、はな子と会話するためにタイ語を学んでいる。梶原は沈んだ表情の麻子を見つけ、声を掛けた。15年前、サバの避妊手術の前の日も、 彼女は同じような顔で立っていた。今回、麻子はグーグーの避妊手術を控え、そんな表情になっていたのだ。
避妊手術の朝、麻子はグーグーをサバと呼び間違えた。サバはメス猫を追い掛け、部屋から飛び出してしまった。井の頭公園では中央特快 の屋外ライブが行われ、ナオミやタツヤの恋人・京子たちが見ていた。ナオミは、キョロキョロしている麻子の姿を発見した。麻子はサバ を捜していたのだ。沢村青自という男性が、サバを捕まえて彼女に渡した。青自は、すぐに避妊手術のことを見抜いた。彼は麻子に、 「アンタみたいな人が猫を飼うの、大変だな」と告げた。
ナオミとマモルが、麻子たちの元にやって来た。青自はマモルのライブを聴いたことがあり、ウディー・ガスリーの曲をパクっていること を指摘する。立ち去る青自を、麻子はじっと見つめる。ナオミは、そんな彼女の目を見たのが初めてだった。ナオミは山本家具店でマモル と一緒に椅子を塗装しながら、「21世紀の会」について語る。それは、かつてチーフをやっていた高梨が「小島麻子の血を絶やさないよう 男を見つけよう」と主張して結成した会だ。しかし高梨は結婚退職し、メンバーで残っているのはナオミだけだった。
ナオミはマモルを21世紀の会の工作員に指名し、家具店の店長・泰助を会長にした。ナオミはマモルと協力し、ハーモニカ横丁の居酒屋で 麻子と青自を引き合わせた。ナオミと一緒に中央特快のライブに出掛けた麻子は、そこで青自と再会する。ナオミやマモルたちは席を外し 、麻子と青自を二人きりにする。青自はマモルが置いていった麻子の全集を読んでおり、「アンタの描く漫画、悲しいな。でも、なんでか 勇気が貰えた」と感想を述べた。
麻子は泥酔した青自を部屋に連れ帰った。青自はパンツ一丁になり、ソファーで眠り込んだ。麻子は中学2年の夏休みを回想する。彼女は 学校前の文具店で漫画の道具を購入した。店主に「どんな漫画が描きたい?」と尋ねられた彼女は、「みんなが幸せになれる漫画」と返答 した。それを思い出した麻子は、グーグーに「みんなって誰だよ。なんであん時、あんなこと言ったんだろ」と漏らす。
青自はソファーから起き上がり、服を着た。彼は「帰るわ。酔っ払ったフリして、パンツまで脱いじゃう作戦だから」と言い、部屋を 出て行った。呆気に取られた麻子だが、その表情は微笑に変わった。それ以来、青自は麻子の家を訪れるようになった。2人はグーグーを 街に放し、それを追い掛けてカメラで撮影する。途中、麻子たちはナオミとマモル、タツヤ、京子と遭遇して合流した。そんな麻子の様子 を、こっそり撮影している謎の男がいた。
またグーグーが消えたため、麻子たちは街を探し回る。高架下に来たナオミとマモルは、タロット占いの老婆2人組に声を掛けられた。 老婆たちはグーグーの居場所を占い、「もう、おうちに帰ってるわよ」と告げた。老婆たちは、ナオミのことを占い始めた。麻子が青自と 一緒に部屋へ戻ると、グーグーは眠っていた。青自がキスしようとすると、麻子は冷蔵庫を開ける動きで身をかわした。
後日、麻子はナオミに電話を掛け、アシスタントのみんなを集めるよう頼んだ。ナオミたちが指定されたカフェへ赴くと、麻子は半年振り の新作の構想を語り出した。それは急激に年を取り始める病気になった女の子の物語だ。麻子とアシスタント4名は高齢者の生活を実体験 するため、市役所で老人体験シミュレーターを借りた。4人はシミュレーターを装着し、その姿で街に繰り出した。
街を歩いている最中、ナオミはマモルが女子高生のエリカと一緒にいるのを目撃した。マモルが彼女を連れて逃げ出したため、ナオミは 追い掛けた。加奈子たちも、そして麻子もナオミの後を追った。ナオミはマモルを捕まえて投げ飛ばし、関節技を掛けた。ようやく彼女に 追い付いた麻子だが、その場で倒れてしまう。密かに尾行していた謎の男は、「大丈夫ですか、麻子さん」と叫んで駆け寄った。その声で 、ナオミたちも麻子の異変に気付いた。
麻子は病院へ運び込まれたが、大事には至らなかった。意識を取り戻した彼女は、研修医として勤務している青自を見て驚いた。マモルは ナオミがニューヨークへ絵の勉強に行くと決めたことを非難し、それが浮気の原因だと主張した。ナオミは「ヤリたいだけでしょ」と腹を 立てた。マモルと別れたナオミのアパートを、麻子が訪れた。「グーグーの面倒を少しの間、見てほしいの」と言うので、ナオミは軽い 調子で承諾した。すると麻子は、自分が卵巣ガンを患っていることを打ち明けた…。

監督・脚本は犬童一心、原作は大島弓子、プロデューサーは久保田修&小川真司、共同プロデューサーは福島聡司&谷島正之&田中美幸、 エグゼクティブプロデューサーは豊島雅郎&樫野孝人&大澤善雄&和崎信哉&井上伸一郎&御領博&キム・ジュソン&石井晃、 エグゼクティブスーパーバイザーは角川歴彦、撮影は蔦井孝洋、編集は洲崎千恵子、録音は浦田和治、美術は磯田典宏、照明は 疋田ヨシタケ、振り付けは香瑠鼓、音楽は細野晴臣、音楽プロデューサーは安井輝、テーマソング『good good』は小泉今日子&細野晴臣。
出演は小泉今日子、上野樹里、加瀬亮、林直次郎(平川地一丁目)、伊阪達也、大島美幸(森三中)、村上知子(森三中)、黒沢かずこ(森三中)、 小林亜星、松原智恵子、高部あい、柳英里紗、田中哲司、村上大樹、でんでん、山本浩司、江口のりこ、鷲尾真知子、りりィ、マーティー・フリードマン、 大後寿々花、楳図かずお、角川歴彦、井上伸一郎、椎名保、小林健一、小池里奈、黒田大輔、湊谷真優、武内由紀子、三浦卓造、 小林さり、芹澤セリコ、徳納敬子、高村信、橋本三都子、土山紘史ら。


大島弓子の同名エッセイ漫画を基にした作品。
監督は『死に花』『黄色い涙』の犬童一心。1982年に撮った自主制作の16mmフィルム『赤すいか黄すいか』、1999年の『金髪の草原』に 続き、大島弓子の漫画を映画化するのは3度目。犬童監督は、大島弓子の熱烈なファンらしい。
ただし、この作品は彼の発案ではなく、角川ホールディングス会長・角川歴彦が原作の映画化を希望し、監督と小泉今日子にオファーした ことから始まっている。
麻子を小泉今日子、ナオミを上野樹里、青自を加瀬亮、マモルを林直次郎(平川地一丁目)、タツヤを伊阪達也、加奈子を大島美幸 (森三中)、咲江を村上知子(森三中)、美智子を黒沢かずこ(森三中)、泰助を小林亜星、香苗を松原智恵子、ポールをマーティー・ フリードマン、人間の姿のサバを大後寿々花、UMEZU氏を楳図かずお、京子を高部あい、エリカを柳英里紗、梶原をでんでん、小林を 山本浩司が演じている。

麻子たちが作業をしている最中、うっすらと女性らしき姿が写り、「さようなら」という声が聞こえる。
幽霊なのかと思いきや、それがサバなのだった。つまり、猫を擬人化しているわけね。
で、猫の姿のサバが死んでいるのを麻子が見つけたところでタイトルなのだが、このアヴァンは惹き付ける力が弱いなあ。
まず麻子がサバをとても可愛がっていること、そのサバが擬人化された姿で表現されることを、先に示しておいた方が良かったんじゃ ないかなあ。

タイトルが明けると、ポールが登場して英語のモノローグを語るのは、すげえ違和感。
そこで彼は、まるで外国人に向けた観光フィルムのように、吉祥寺という町について説明する。カメラに向かって話し掛ける。
その後も彼は何度か登場し、その度に吉祥寺の町案内をする。
どういう意図で、そんなシーンを挿入したのだろうか。
この映画に、観光映画としての色が必要だとは思えないんだが。

ポールによる最初の観光案内が終わった後、ナオミのモノローグが入る。
アヴァン・タイトルも彼女のモノローグで進行されていたので、ずっと彼女視点で行くのかと思いきや、麻子が「サバは私の3倍の速さで 生きました」という呟きが入ったりする。
ナオミがペット専門店の前にいる麻子を目撃するシーンでは、麻子が店に入るとナオミの視点は消えてしまう。
見事にまとまりを欠いた構成だ。

実は少女マンガだと、視点がコロコロと変わり、複数の登場人物がモノローグを語るというのは良くあることで、それはナチュラルに処理 される。
それは少女マンガだからこそ成せる業であり、何も考えず映画に持ち込んでも破綻するだけだ。
自然に処理するためには、映画という形態の中で上手く成立させるための技法を用いる必要がある。
だが、この映画は、そういうことに無頓着だ。

サバが死ぬところから話は始まっているが、それを描く必要ってあったんだろうか。もう既にサバが死んで麻子が落ち込んでいるところ から開始して、「そんな彼女がグーグーと出会って」ということで物語を始めても良かったんじゃないだろうか。
麻子はずっとサバのことを引きずっているが、「サバの死で受けた心の傷から麻子が立ち直り、前向きに生きていこうとする」という要素 が、物語の真ん中に筋を通しているわけではない。
終盤で擬人化されたサバと話すシーンはあるけど、サバから完全に話が離れている時間も多いし。
っていうか、所詮は猫だしなあ。もっと他に、それより大きな「悩むべき問題、心を痛めるべき問題」があるんじゃないかと思ってしまう 。
麻子にとって、いかにサバが大きな存在だったのかも、ちゃんと描写されていないしなあ。

タイトルからすると、「麻子がグーグーと出会ってから前向きになる」ということで、麻子とグーグーとの関係が主軸になるのかと 思いきや、すぐにグーグーは飾りと化す。
途中から、グーグーの存在価値って皆無に等しくなる。
グーグーがいなくても麻子と青自を会わせることは出来るし、2人の関係が深まっていく中でグーグーが大きく関与しているわけでも ない。

公園で立ち去ろうとする青自を麻子が見つめた時、ナオミの「先生のあんな目を見るのは初めてだった」というモノローグが入る。
つまり麻子は青自に一目で恋をしたようなのだが、どこに惹かれたのかサッパリ分からない。
青自というキャラに、まるで魅力を感じ取ることが出来ないんだよな。
そりゃ「恋愛なんて理屈じゃない」と言われたら、そうかもしれんよ。だけど映画としては、やっぱり何かしらの説得力は欲しいわけで。
「加瀬亮だから女が惚れて当然」とか、そういう俳優でもないしね、加瀬亮って。

犬童監督はエッセイ漫画である原作の映画化に際して、1つのジャンルに当てはめるため、アラフォー女性が抱えている悩みに対処して いく「ミドル・エイジ・クライシス」として脚本を書いたらしい。
だけど、ホントに1つのジャンルとして統一感を持たせようとしているのか、甚だ疑問だ。
その場その場でバラバラになっている。
それに、麻子だけでなく、例えばナオミとマモルの恋愛なんかにも目を向けたりしているが、焦点が絞り切れていないなあと感じるのだ。

ナオミが麻子の漫画を読んで感動した時の回想があったり、麻子が中学2年生で漫画の道具を購入したという回想が入ったりするが、 そういう過去のシーンは要らない。
この映画、ホントに邪魔な箇所が多い。
っていうか正直、大半が邪魔な要素で埋め尽くされている。
ポールの観光案内も、回想シーンも要らない。
現在進行形で、グーグーとの触れ合いを重視して、麻子の生活風景を描こうよ。それが40代女性のトラジコメディーを描くってことじ ゃないのか。

監督は大島作品の魅力について、トラジコメディーとして描かれていることを挙げている。
しかし本作品は、トラジコメディーにもなっていない。麻子の40代女性としての不安や焦り、悩みや迷い、そういったものが全く見えて こない。
そういった要素を、ユーモアに包んで明るく描いてこそトラジコメディーじゃないのか。
そもそも全く見えてこない状態ってのは、まるで違うんじゃないか。

あと、現実の中にファンタジーを組み込む作業に、完全に失敗している。
例えば、全集発売の記念パーティーのシーンでは、会場に展示されたマンガの登場人物がセリフを語るという描写があるが、違和感しか 感じない。
ファンタジーとしての世界観が全く構築できておらず、そこに観客を巻き込む力が無いので、ポールが「死神です」と麻子に挨拶し、人間 の姿のサバを紹介するという終盤の展開なんかも、ただバカバカしいとしか感じられない。

(観賞日:2011年2月8日)

 

*ポンコツ映画愛護協会