『群青 愛が沈んだ海の色』:2009、日本

19歳の比嘉大介は、1年ぶりに故郷である沖縄の南風原島へ戻った。浜辺に行くと、仲村凉子が座っていた。だが、彼女は以前のような 笑顔を失っていた。全ての始まりは、20年前の春に遡る。

[第一章]
世界的ピアニストである森下由起子が、病気療養のために島へやって来た。しばらく村長の所にいることになった彼女は、グランドピアノ を船で運んだ。漁師の仲村龍二は、彼女の演奏に心を打たれた。彼はバーへ行き、マスターの宮城守の前で「いいなあ、芸術は」と呟く。 龍二はピアノ部屋へ行って由起子に挨拶し、箱を置いて去った。夜になって由起子が箱を開けると、数匹の魚が入っていた。
ある日、龍二はピアノの鍵盤を叩き付ける音を耳にした。ピアノ部屋へ行くと、由起子は無言で部屋を出て行く。後には丸めて捨てられた 楽譜があった。龍二は楽譜を拾い、きれいに伸ばして元に戻した。夜、龍二がバーへ行くと、悪酔いした由起子がいた。「アンタの病気、 酷いのか」と訊くと、彼女は「とっくに壊れてる。私の体」と言う。由起子が酒を注ぐと、その度に龍二はグラスを奪って飲み干した。 由起子は「ほっといて」と不機嫌になって立ち去った。ピアノ部屋に戻った彼女は、広げられた楽譜を目にした。
後日、由起子は龍二の家を訪れるが、彼は不在だった。夜、嵐の中で再び訪れるが、まだ留守だった。そこへ龍二の漁師仲間が現れ、 「この2日間、誰も姿を見ていない」と言う。翌朝、みんなが心配していると、龍二が船で戻って来た。彼は由起子に、海で採ってきた サンゴの原木を差し出した。そして「サンゴは女のお守りだ。身に着けていれば病気も治る。信じてみろ」と言う。その夜、龍二の家を 訪れた由起子は、ペンダントにしたサンゴを彼に見せた。
由起子が「何も無い島なのに、東京よりずっとぜいたくな気分。ずっとここにいられればなあって」と口にすると、龍二は「そう思うなら 、そうすればいい。俺は好きだ、アンタのピアノ」と言う。やがて2人は恋に落ち、翌年、小さな結婚式を挙げた。出会ってから2度目の 春、娘の凉子が産まれた。そして迎えた2度目の夏に由起子は病気を再発させ、この世を去った。

[第二章]
2人が凉子を授かったのと同じ年、島には2人の男児が産まれた。大介と上原一也だ。島にいる子供は、その3人だけだ。幼馴染の3人は 、やがて中学を卒業し、それぞれ別の道を歩むことになった。大介と凉子は石垣島の高校へ進学し、一也は島に残って漁師修業を始めた。 それでも夏休みになると、3人は一緒の時間を過ごした。凉子が「島を出ようと思ってる。那覇で看護師になるつもり」と言うので、一也 は驚いた。凉子は「だから大事なんだよ、今年の春休みは。3人が一緒にいられる最後の春なんだよ」と語る。
大介は家族で島を出ることになり、島の仲間たちがバーに集まってお別れ会を開いた。凉子、大介、一也は3人でバーを出た。凉子は一也 に「なんか言うこと無いの。私たち、来週には島を発つんだよ。別れの言葉とかさ」と言う。すると一也は「お前が欲しい」と告白する恋 の歌『トゥバラーマ』を歌い、その場を去る。その後、大介は気になって凉子の家へ行くが、一也が来たので身を隠した。凉子は一也を 部屋に招き入れ、「嬉しかった。一也、やっと自分の気持ち言ってくれた。知ってたよ、私たち、こうなるって」と言って抱き締める。 密かに凉子を想っていた大介は、静かに立ち去った。
大介は島を出て、那覇の芸術大学へ進学した。凉子は島に残り、一也との結婚を考える。その気持ちを聞かされた一也は龍二を訪ね、結婚 を認めてもらおうとする。龍二は「まだ2人とも子供だろう」と呆れたように言い、「結婚なんてまだ早い。そんなことはお前が一人前の 海人(うみんちゅ)になってからだ」と告げた。そこで一也は凉子に、「サンゴを取って来る。素潜りなら、もう俺の方が上だ。そのこと を龍二さんに認めさせる」と言い、海に潜った。
凉子から話を聞いた龍二は、「あいつが帰って来たら、言ってやれ。サンゴ取ったからって一人前の海人になれるわけじゃない。俺が 言いたかったのはそういうことじゃない。結婚する、家族を持つってのは、男として責任を負うってことだ。家族を守るなら、まず自分を 守らにゃいかん」と語る。だが、海に潜った一也は帰らぬ人となってしまう。龍二は一也の母・和恵から、激しく責められた。
その日から凉子は心を病んでしまい、今を生きることをやめた。そんな彼女の元へ、大介は戻ったのだ。しかし声を掛けても彼女は無表情 のままで、何も喋ろうとしなかった。焼き物を作る名目で帰郷した大介は、龍二の家で世話になる。凉子は、昼間は離れに籠もりっきり、 夕方は一人で浜に出て座り込むという行動を繰り返しているらしい。バーを訪れた大介は、宮城から「凉子ちゃんは、しばらく入院して いた。今もたくさんの薬を飲んでいる」と教えられた。
大雨の夜、大介は凉子が窓を開けたままピアノに向かっているのを目にする。大介は彼女に何もしてあげられず、焼き物作りに没頭する。 ある日、大介は、凉子が部屋から出て焼き物作りを眺めているのに気付いた。そこで彼「やってみる?」と声を掛け、彼女に焼き物を やらせてみた。凉子は花瓶を作り、大介に伴われて一也の家を訪れた。凉子は和恵に促され、一也の部屋に初めて足を踏み入れた。すると 室内には、明るく笑っている凉子の写真が飾られていた…。

監督は中川陽介、原作は宮木あや子『群青』(小学館刊)、脚本は中川陽介&板倉真琴&渋谷悠、製作は川城和実&藤原正道&大富國正& 千田浩司&白井康介&石川博&田代義二&橋本直樹&中西俊作&岸本正男、プロデューサーは山田英久&山下暉人&橋本直樹、 アソシエイトプロデューサーは三輪由美子、ラインプロデューサーは森太郎、撮影は柳田裕男、照明は宮尾康史、録音は岡本立洋、美術は 花谷秀文、編集は森下博昭、音楽は沢田穣治。
主題歌『星が咲いたよ』作詞・歌: 畠山美由紀、作曲:編曲:沢田穣治。
出演は長澤まさみ、福士誠治、良知真次、佐々木蔵之介、田中美里、洞口依子、玉城満、今井清隆、宮地雅子、畠山美由紀、井之上史織、 土屋神葉、渡部駿太、平敷慶吾、桑江良美、新垣正弘ら。


デビュー作『青い魚』以降、ずっと沖縄を舞台にした映画を撮り続けている中川陽介が、やはり沖縄を舞台にして撮った5本の長編作品。
宮木あや子の小説『群青』が原作として表記されるが、実際には本作品の脚本を原案として執筆されたらしい。
それは「原作」ではなく、「ノベライズ」と表現すべきだろう。
凉子を長澤まさみ、大介を福士誠治、一也を良知真次、龍二を佐々木蔵之介、由起子を田中美里、和恵を洞口依子、宮城を玉城満が演じて いる。

興行的には完全に失敗した作品だが、そりゃコケるわな。
とにかく、すげえ陰気なんだよな。
淡々としていても、心が安らかになるとか、癒やされるとか、そういう類の映画ではない。
悲しいけどカタルシスがあって感動できるとかとか、そういうものでもない。
ホントに、ただ陰気なだけなのだ。
長澤まさみも大半の時間では無表情で生気が無い状態だから、彼女目当ての鑑賞にも適さないし。

序盤、回想に入るのが早すぎる。
大介が島に戻って、凉子の横顔が写って、すぐに回想に入るのよ。まだ映画が始まってから2分ぐらいしか経過していない。
そこはもう少しキャラ紹介や相関関係を描いてから回想に入った方が良かったんじゃないのか。
大介のモノローグで「彼女」とか言われても、そいつが誰なのか、そもそもお前は何者なのか、どういう関係なのか、まるで分からない。
そんな状態で回想に入られても、どういう人物に関する回想なのか、何を主眼に置いて回想シーンを見れば良いのか分からない。
「あの頃の笑顔」とか言われても、そりゃ昔は笑顔だったんだろうというのは分かるけど、もうちょっと回想に入る準備としての説明が 欲しいぞ。

それと、「観客を序盤で引き付ける」という目的から考えても、どう考えたって長澤まさみに多くの訴求力を求めている映画であって、 それなのに横顔チラリだけで、第一章に入ると全く登場しないんだよな。
構成上、途中で消える時間帯があるのは仕方ないにしても、もう少し回想に入る前の時間を長く取っておくべき。
っていうか、そこに訴求力を求めているはずなのに、彼女が陰気で無表情のままというのは、もう完全に間違いなんだけどね。
どう考えたって、明るく弾けた彼女の笑顔を多く見せた方が魅力的なんだし。

たっぷりと間を取りながら、ゆったりとしたテンポで、淡々と静かに物語を進めようとしているのは、意図的なんだろう。
あるいは、監督の他の作品は見たことが無いけど、そういう持ち味なのかもしれない。
ただ、ある程度のスローペースや淡々としたタッチはいいとしても、あまりにもメリハリが無さすぎて退屈になって来る。
嵐の夜に龍二が戻らないというシーンでさえ、淡々としていて、まるで盛り上がりが無いんだよ。
あと、龍二が何かを決意して「これから漁に出る」というシーンも無いし。

龍二が由起子の演奏に心を打たれたというのを、佐々木蔵之介の表情だけで表現しようとしている。
まあ心を打たれたということは、それでも伝わってこないわけじゃないけど、あまり説得力は無い。
「そういう芝居をしている」とという形で伝わって来るだけだ。
その後、宮城に「珍しく機嫌がいいなあ」と言われているけど、じゃあ普段は不機嫌な奴なのか。
そういうことも説明されていない。

まだ龍二が漁師だということしか情報が無い段階で、「演奏に心を打たれる」とうシーンに行くのは性急だと感じる。
例えば、「普段なら穏やかな表情になることも無いし、クラシックやピアノなんかに全く関心が無いような奴だけど、その演奏には心を 掴まれた」という風に、先に龍二のキャラを描写しておけば、ピアノ演奏に心を打たれるシーンで、説得力を出す手助けになったのでは ないか。
そんな龍二がピアノ部屋に箱を置いて去った後、シーンが夜に切り替わると、由起子はピアノの近くに箱を置いたまま演奏している。で、 彼女が箱を開けて、中に入っている魚を見る。
それって変でしょ。
普通、箱を近くまで運んだのなら、その時点で中身を見るはずだろ。
なんで近くまで運んでおいて、夜になるまでシカトしていたのか。どういう神経なんだよ。
芸術家だから、その辺りのセンスも普通じゃないという設定だったりするのか。

あとさ、由起子と龍二って、ホントは「上品で物静かで繊細な女と、芸術とは無縁な海人」という対照的なキャラクターであるべきなん じゃないの。
なんか龍二に海の男らしさが薄いんだよな。物静かなのはともかく、なんか品がいいんだよ。
いや、別に「漁師は下品」と決め付けているわけじゃないよ。ただ、龍二がキャラとして、そんな感じなのは、いかがなものかと思うのよ 。
例えば他の漁師たちが粗野で無作法で、「龍二は他の連中とちょっと違う洗練された部分がある」という対比が描かれていれば話は別 だけど。

第一章だけを膨らませて、1つの長編に仕上げたら良かったんじゃないかと思ったりするんだよな。
20分程度という第一章の尺が、なんか中途半端なのよね。
男女の恋愛劇としては、あまりにも描写が不足している。出会ったばかりの2人が恋に落ちて結婚するまでのドラマとしては、かなり 薄っぺらい。
由起子が病気で落ち込んでいる、沈んでいるという描写も物足りないし。

で、それなら逆に、誰かが短く回想するダイジェストとして、ナレーションベースで、5分程度で終わらせちゃえば良かったんじゃないか と思うのよ。それなら、内容が薄くても納得できるのよ。
それなりの時間を割いたことが、逆に「ドラマや心情描写が薄い」という印象を与える結果に繋がっている。
で、第一章で龍二と由起子の恋愛劇から娘の誕生&由起子の死までを描いたのだから、続く第二章では、今度は龍二と凉子の関係が軸に なるのと思いきや、子供たちの物語が描かれているので、ますます第一章の必要性に疑問が沸く。
第二章でも龍二は出て来るけど、娘との父子関係が充実して描かれているわけではない。子供たちのドラマが軸にあって、たまに龍二も姿 を見せるという程度。

っていうか、やっぱり第一章って要らないよな。
「サンゴの原木を取りに行く」という行動が後で絡んで来るけど、龍二が過去に一也と同じことをしていたからって、わざわざ描写して おくほどの必要性は無い。セリフで軽く「過去に龍二はこんなことをやってました」と触れる程度でも充分なんじゃないか。
この映画において、由起子が登場して龍二との恋愛劇を描写することの意味って薄い。それよりも、「凉子」の物語として、最初から最後 までピシッと筋を通すべきでしょ。
だから、もう由起子が死んで、凉子が高校生の段階から回想を始めればいい。
わざわざ30年前から回想したのは、ハッキリ言って無駄だよ。

っていうか、もっと言っちゃうと、第二章も邪魔じゃないか。第一章はバッサリと削ぎ落として、第二章の部分もセリフによる説明と 断片的な短い回想だけで処理しちゃえばいい。
そうしないと、第二章って「凉子は以前からずっと一也のことが好きで、だから結ばれて」というのを見せるだけでしょ。
凉子は大介にも好意を持っていたとか、そういうのは全く無いのよ。完全にアウト・オブ・眼中なのよ。だから第二章の間は、大介は 単なるお邪魔虫でしかないのよ。
でも、この話、現在進行形の物語としては、大介が凉子の喪失感を癒やしてやろうと奮闘して、やがて凉子が立ち直りの兆しを見せると いう、この2人の関係が軸になるわけで。
だったら、極端に言えば大介がいなくても成立しちゃう悲恋の物語を、長々と1つの章を使って描くという構成は、得策とは思えない。

それと第二章で凉子は一也に歌で告白された途端に受け入れて、それどころか「海人の妻もいいかなってさ」とか言い出すんだよな。
お前、看護師になりたいというのは、そんな軽い気持ちだったのか。そんなに簡単に諦められる程度の志だったのか。「諦めたわけじゃ ないよ。勉強は続ける」と言ってるけど、本気には聞こえないし。
そこでは彼女の好感度が下がる一方なので、何もいいことが無い。
あと、なんでそんなに早く結婚したがるのかも良く分からないし。
龍二が「絶対に結婚しちゃダメ」と言ってるならともかく、「一人前になってから」と言っているんだから、とりあえず時間を置けばいい じゃねえか。
なんで「18歳の間に、何が何でも結婚しなきゃいけない」という強迫観念にかられているかのような感じになってるんだよ。

あと、そりゃあ恋人が死んだらショックはデカいだろうけど、完全に精神崩壊してしまい、1年が経過しても全くの無表情で生気を失った ままというぐらい病んでしまうってのは、ちょっと不自然に思えるんだよなあ。そこまでの深い結び付きには見えなかったし。
っていうか、この映画、実りが少ない話だよなあ。
ようするに、不幸が多く描かれた後に、後半に得られる幸せがすげえ少ないのよね。だから、なんか救われた気分になれない。
凉子は「少しだけ心を開いた」という程度だし、もちろん大介の恋愛感情を受け入れる余裕などない。近い将来、この2人が結ばれそうだ という可能性さえ感じない。
まあ死んで1年後だしなあ、そりゃ仕方がないよなあ。
だから、そもそも明るい気持ちで終わるのが無理な話なんだよなあ。
最後に凉子の笑顔で終わられても、ハッピーな気分にはならんよ。

しかも、凉子が喪失感から立ち直る兆しを見せるのは、母親が残してあった自分のための曲の楽譜を見つけたからであって、大介が努力 したからじゃないんだよな。
大介が命懸けで潜っても、彼女の心には響いていない。そもそも凉子は、そんなことを知らないし。
だから心配もしていない。
ようするに、大介が戻って来たことは、何の意味も無かったのだ。彼は何の役にも立っていない。
いてもいなくても、どっちでも変わらないのだ。

っていうか、「凉子は母の曲を見つけたから(彼女は「母さんが来てくれたの。ピアノ弾いてくれたの」と言っているけど)、喪失感から 立ち直れるきっかけを得ることが出来ました」って、なんじゃ、そりゃ。
どういう神経回路なのかサッパリ分からんぞ。
そこで急に母親を利用するという筋書きにも、ポカーンとしちゃうし。
そこまでに母子の関係性なんて、ほとんど話に絡んでいなかったのに。

一応、凉子が母の楽譜を見つけた後、何とか助かって戻って来た大介が「一也に会った。彼の言葉を伝えるよ。自分を責めてはいけない」 と彼女に語る展開はあるけど、その前に、もう彼女の心は開かれているから、それが付け足しにしかなっていないし。
っていうかさ、どうせ大介が凉子の次の恋の相手になる可能性さえ示されない程度の扱いに終わるのであれば、こいつの存在を最初から 抹消しちゃって、龍二が凉子を立ち直らせる役割を担う形にすればいいんじゃないのか。
そうすれば、第一章の意味も出て来るだろう。
第二章も、幼馴染3人のドラマを描くのではなく、凉子と龍二が絡む時間を増やせばいい。

(観賞日:2012年3月29日)


第3回(2009年度)HIHOはくさい映画賞

・最低主演女優賞:長澤まさみ
<*『群青 愛が沈んだ海の色』『曲がれ!スプーン』の2作での受賞>


第6回(2009年度)蛇いちご賞

・主演女優賞:長澤まさみ

 

*ポンコツ映画愛護協会