『御法度』:1999、日本

1865年(慶応元年)夏、京都。総長を近藤勇、副長を土方歳三が務める新撰組は、厳しい戒律で結束を固めている。新隊士を選ぶ試合が行われ、新撰組には2人の若者が入隊することになった。下級武士の田代彪蔵と、美貌の少年・加納惣三郎だ。
惣三郎は近藤に気に入られ、御法度を破った隊士の処刑役を果たしてみせた。やがて、ある噂が広まった。惣三郎と田代が関係を持ったというのだ。土方は2人に試合を命じた。腕の立つ加納が田代に押される様子を見た土方は、噂が真実だと確信した。
惣三郎は六番隊組長・井上源三郎と知り合いになった。2人が道場で刀の稽古をしている時、その様子を外から覗いていた2人の男達が、馬鹿にした言葉を吐いて立ち去った。責任を感じる惣三郎を慰めるため、隊士の湯沢藤次郎は彼と酒を飲む。だが、それは惣三郎と2人になるための口実だった。藤次郎は、惣三郎を抱いた。
惣三郎は、2人の男達を探した。やがて彼は、その2人が肥後藩士・菅野平兵衛と宇土俊蔵であることを突き止めた。話を聞いた井上は、惣三郎を連れて菅野達の元へ向かうが、窮地に陥る。そこへ一番隊組長・沖田総司達が駆け付け、菅野達を斬った。田代が惣三郎に寄り添う様子を見て、藤次郎は激しい嫉妬にかられた。
藤次郎が何者かに殺された。監察の山崎烝が調査を始めるが、犯人は判明しない。近藤と土方は、惣三郎のことで規律が乱ることを不安視する。土方は山崎に命じて、惣三郎に女と関係を持たせようとする。だが、惣三郎は頑なに拒み続けた。
惣三郎をしつこく遊廓に誘っていた山崎が、闇討ちに遭った。近藤は、田代が嫉妬心から犯行に及んだものと断定する。近藤は惣三郎に、田代を始末するよう命じた。しかし、藤次郎を殺害したのも、山崎を襲ったのも、全ては惣三郎の仕業であった…。

監督&脚本は大島渚、原作は司馬遼太郎、製作は大谷信義、プロデューサーは大島瑛子&中川滋弘&清水一夫、撮影監督は栗田豊通、編集は大島ともよ、録音は安藤邦男、照明は竹久博司、美術監督は西岡善信、衣裳デザインはワダエミ、武術指導は東郷秀信、殺陣は中瀬博文&橋本和博、音楽は坂本龍一。
出演はビートたけし、松田龍平、崔洋一、坂上二郎、武田真治、浅野忠信、的場浩司、トミーズ雅、伊武雅刀、神田うの、桂ざこば、吉行和子、中村麻美、路井恵美子、富樫真、青山知可子、田口トモロヲ、藤原喜明、浦田賢一、伊藤洋三郎、菅田俊、寺島進、梅垣義明、大森嘉之、倉崎青児、山崎佑次、村松卓矢、田中要次、山口正之輔、飯島洋一、木下藤次郎、奥野和彦、イワヲ、山口幸晴、武井三二ら。


司馬遼太郎の『新選組血風録』の中の2つの短編、『前髪の惣三郎』と『三条磧乱刀』を基にした作品。大島渚監督が『マックス、モン・アムール』以来、13年ぶりにメガホンを執った作品。松田優作の息子、松田龍平が映画デヴューを飾っている。

そもそも、大島渚監督は、娯楽作品としての映画作りを心掛けているような人ではない。『戦場のメリークリスマス』は、たまたま何かの弾みで一般受けする作品になっただけであり、基本的にはゲージツ肌の小難しい作品を作る映画監督なのだ。なんせ前作『マックス、モン・アムール』は、チンパンジー愛を描いた映画だもの。
どうやら今回は大島監督、「女性が喜ぶような映画作り」というのも意識していたらしく、そういう意味では娯楽性も考えたのかもしれないが、根が前衛な人なので、限界がある。娯楽の引き出しが無い人が娯楽を意識しても、やはりゲージツになってしまうのだ。

戒律の厳しさをもっと印象付けないと、隊士が惣三郎に魅惑され、秩序が乱されていく流れが生きないんじゃないかとは思う。衆道を描く上で、井上や肥後藩士が絡むエピソードが、あまり意味の無いものになっているんじゃないかとも思う。
ビートたけしがビートたけし以外の何者でもないとか、彼のモノローグの多用はキツイんじゃないかとも思う。主要キャストに芝居の達者でない人物を集めているので、例えばビートたけしとトミーズ雅が2人で語る場面などは、見ていて厳しいんじゃないかとも思う。
ワイプの多用はどうなんだろうとか、テロップでの処理はどうなんだろうとか、セリフの聞き取れない部分が多いんじゃないかとか、そういうことも思う。
しかし、芸術映画である以上、娯楽映画として気になる点を幾つ挙げた所で、何の意味も無いんだろうな。

この映画には一応、「女性が喜ぶような映画作り」は見受けられる。
それは、ホモセクシャルを扱った映画だということだ。セクシーな美少年がホモホモ祭の中心にいて、色んな男を誘惑するというのだから、やおい大好きな女性達には受けるかもしれない。
しかし、本気で“やおい映画”を作るのならば、そこを徹底しなければならない。ビートたけしや崔洋一、トミーズ雅といった面々は、むしろホモの人々に受けるようなキャスティングだ。そこは、もっと美しい顔の持ち主に変更すべきだろう。役柄と合っているかどうかなんて、どうだっていい。とにかく見た目のいい連中を揃えるべきだ。

つまり、そこが徹底されていないということは、そこまで「やおい」に徹するだけの気概は無いということだ。やはり、それよりも「自分の描きたいものを描く」という芸術家の精神が強く出ているわけだ。
それは、芸術家としては、正しい意識だとも言える。
ただし、芸術家が自分の芸術魂を全面に押し出した時に、それが一般的に面白い映画になるかどうかは別問題だ。芸術というのは基本的には自己満足の世界だから、それが受けるかどうかは、当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界なのである。

 

*ポンコツ映画愛護協会