『ゴジラ対ヘドラ』:1971、日本

海洋生物学者の矢野徹は、小学生の一人息子・研、小学校教師をしている妻の敏江、敏江の弟である行夫の4人で郊外の家に暮らしている。研はゴジラが大好きで、スーパーマンのような存在として心酔している。漁師の伍平は矢野を訪ね、駿河湾で獲れた珍しい魚を見せる。それは大きなオタマジャクシのような形状をした魚だ。桜エビの穴場へ漁に出たのだが、肝心のエビは全く見つからず、そんな魚がいたという。それ以外にも、駿河湾では変な魚ばかりが見つかっていた。
矢野家の面々がテレビを見ていると、タンカー事故の起きた現場に謎の巨大生物が出現したというニュースが報じられている。その生物の姿を目にした研は、「オタマジャクシのお化けだ」と叫んだ。矢野は研を浜辺に待機させ、調査のために駿河湾へ潜る。研が佇んでいると、海中から怪物が飛び出して来た。怯えた研は目をつぶり、持っていたナイフを突き出した。研が目を開けると、怪物は海へ去っていくところだった。一方、矢野も海中で同じ生物と遭遇した。
矢野は顔の左半分が焼け爛れ、自宅で療養する。取材にしたTVリポーターに、彼は目撃した生物がタンカー事故現場に現れた個体よりも小さかったことを語った。研は未知の生物を「ヘドラ」と名付け、「ヘドラは一匹じゃないんだ」と口にした。各地でタンカー事故が続発し、その現場ではヘドラと思われる生物が目撃された。ゴジラがヘドラをやっつけにくる夢を見た研は、それが正夢になると信じた。
矢野は伍平が持ち込んだ魚を調べ、それが鉱物であることを知った。田子の浦から採取した泥水を分析した彼は、ヘドラのオタマジャクシがヘドロの中から生まれること、ヘドラが仲間に出会うと合体して大きくなることを突き止めた。ヘドラは駿河湾から上陸し、工場の煙突に上がってガスを吸い込んだ。そこへゴジラが出現し、ヘドラと戦い始める。同じ頃、行夫はアングラバーでドラッグをやって朦朧としていた。恋人の富士宮ミキはバンドを従えて歌い、それに合わせて客が踊っていた。
ゴジラの攻撃を受けたヘドラからヘドロが飛び散り、麻雀店の窓を突き破る。店にいた客たちは、ヘドロに埋もれて死亡した。ヘドラはゴジラに振り回され、思いきり飛ばされた。アングラバーの階段からヘドロの一部が入って来たので、客は悲鳴を上げた。ヘドラの一部が引っ込んだ後、行夫はミキを連れて店を出た。車に乗り込んだ2人は、ゴジラがヘドラを追い掛けている様子を目撃した。2人が近付いて見物していると、ゴジラの熱戦を浴びたヘドラの表面から火花が散った。ゴジラはヘドラを追って、海へ入った。
翌朝、矢野は行夫とミキに案内してもらい、ヘドラの目撃現場を訪れた。矢野は残っていた火花のカスを見つけ、持ち帰って詳しく分析する。矢野は研たちに、ヘドラが鉱物とヘドロで出来ていること、煙を吸って硫酸ミストを吐いていること、それによって全ての金属を腐食させる光化学スモッグが発生していることを説明した。さらに矢野は、ヘドラが隕石にくっ付いて宇宙から飛来したのだろうという仮説も立てていた。
ヘドラは太陽を避けて曇りや雨の日に出現すると考えられたため、政府はそのように広報した。良く晴れた日、行夫とミキは研の子守りでで遊園地へ出掛けた。ジェットコースターに乗っていた研は遠くにゴジラを見つけるが、行夫とミキには信じてもらえなかった。すぐに研は電話ボックスへ走り、ゴジラを目撃したことを矢野に伝えた。近くの工場でガソリンタンクの爆発事故が発生し、電話ボックスも被害を受けた。敏江が小学校の校庭で生徒たちに体育の授業をしていると、ヘドラが上空を飛んで行く。すると敏江と生徒たちは、硫酸ミストの影響で具合が悪くなった。敏江は生徒たちを連れて、校舎へ避難した。
行夫とミキが車を走らせていると、着地したヘドラに通せんぼされた。ヘドラは工場でゴジラと戦い、硫酸ミストを浴びせて苦悶させた。ヘドラは空を飛び回り、大勢の人々が硫酸ミストの影響で白骨化した。富士市西南部は壊滅に近い状態へと陥り、1600人の使者と3万人の怪我&発病者が出た。ヘドラ対策の緊急性を感じる矢野に、研は何気無く「乾かしちゃったら?ヘドロだから」と告げた。一方、行夫は全日本青年連盟の仲間たちと会合を開き、公害反対をスローガンとする100万人ゴーゴーを富士の裾野で開くことに決めた。
矢野は巨大電極板を使ったヘドラ退治のための装置を思い付き、自衛隊に連絡を取った。行夫はミキや研たちと共に富士の裾野へ行くが、集まったのは100人程度だった。しかし行夫は落ち込まず、「俺たちの若いエネルギーを宇宙にぶちまけよう」と叫んだ。バンドが演奏を開始し、若者たちは激しく踊った。ヘドラは田子の浦に上陸し、北へ向かって飛んだ。研はテレパシーをキャッチし、「ゴジラが来てるよ。近くにヘドラもいるんだ」と行夫やミキに告げた。
若者たちがゴジラの彷徨を耳にした直後、ヘドラが近くに飛来した。そこへゴジラが現れて戦い始めると、多くの若者たちが逃げ出した。しかし研は怖がる様子も見せず、ゴジラを応援した。矢野は自衛隊に電話を掛けて電極版の準備状況を尋ね、ヘドラが富士山麓に出現したことを知らされた。彼は敏江に、「俺を連れてってくれないか。電極版が失敗したら、もうヘドラを食い止めることは出来ないだろう。俺たちが生き残れるかどうかが懸かってるんだ」と告げた。
ヘドラはゴジラを圧倒し、若者たちの近くまで飛んで行く。行夫は数名の仲間たちに呼び掛け、火の付いた松明をヘドラに投げ付けた。しかしヘドラの攻撃を受け、行夫たちは命を落とした。ゴジラは再び立ち上がってヘドラと戦うが、劣勢を強いられた。矢野が敏江の運転する車で富士山麓に到着したのは、ちょうど自衛隊が電極版の準備を完了した時だった。しかしゴジラとヘドラによって、送電線が切断されてしまう…。

監督は坂野義光、脚本は馬淵薫&坂野義光、製作は田中友幸、撮影は真野田陽一、美術は井上泰幸、録音は藤好昌生、照明は原文良、特殊技術は中野昭慶、編集は黒岩義民、音楽は眞鍋理一郎。
出演は山内明、川瀬裕之、木村俊恵、麻里圭子(ビクター)、柴本俊夫(現・柴俊夫)、吉田義夫、中山剣吾、中島春雄、鈴木治夫、勝部義夫、岡部正、小川安三、大前亘、小松英三郎、宇留木康二、由起卓也、権藤幸彦、中沢治夫、渡辺謙太郎、岡部達ら。


“ゴジラ”シリーズの第11作。
脚本は『キングコングの逆襲』『怪獣総進撃』の馬淵薫と坂野義光監督の共同。
坂野義光は監督助手として経験を積んで来た人で、これが監督としても脚本家としてもデビュー作。
矢野を山内明、研を川瀬裕之、敏江を木村俊恵、ミキを麻里圭子、行夫を柴本俊夫(現・柴俊夫)、伍平を吉田義夫が演じている。
麻里圭子の本職は歌手であり、主題歌『かえせ! 太陽を』の歌唱を担当している。

“ゴジラ”シリーズは第10作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』が1969年冬期の「東宝チャンピオンまつり」興行に組み込まれた後、1970年春期、冬期、1971年春期は旧作の再編集版リバイバル上映で、1970年夏期は『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』が公開されたため、しばらく新作から遠ざかっていた。
1971年夏期の「東宝チャンピオンまつり」興行で、久々に公開された新作が、この『ゴジラ対ヘドラ』である。
当時の日本映画界は斜陽の一歩を辿っており、東宝の特撮チームは存亡の危機にあった。そんな状況を何とか打破したいと考えた田中友幸プロデューサーの発案で、久しぶりにゴジラの新作が製作されることになった。
ただし東宝は経営不振の真っ只中にあったため、製作費は今までと比較にならないほど抑えられた。また、収益悪化の煽りを受けて、円谷英二が存命だった頃の主要スタッフは大半が会社を離れていた。
かなり厳しい状況のため、これまでは本編班と特撮班を分ける製作体制だったが、この映画では一班の編成となった。

公害という要素を持ち込んだのは、監督である坂野義光のアイデアである。
この映画が作られた1971年当時は、光化学スモッグやヘドロなどの公害が大きな社会問題となっていた。劇中では、ヘドロに埋もれた人々が死んだり、ヘドラの飛び去った後に女子生徒がバタバタと倒れたりという描写があるが、それはもちろん、公害の象徴であるヘドラを通して痛烈に社会を批判し、問題提起しているのだ。
ゴジラの背負っていた「反核」のメッセージはとうの昔に消え去り、娯楽一辺倒の子供向け怪獣プロレスになっていた本シリーズだが、久々に強烈な社会的メッセージを訴え掛ける内容に仕上がっている。
ただし、公害を撒き散らすヘドラをゴジラが退治し、ゴジラが人間による公害汚染に怒りを向けるという形になっているのは、どうなのかなあと思ってしまう。
だってさ、ゴジラって攻撃する際に放射能熱線を口から吐いているのよ。それも明らかに環境汚染じゃないのかと。

“ゴジラ”シリーズなのにカルト映画という枠組みで語られることも少なくない本作品だが、裏を返せば「真っ当な怪獣映画としては決して高く評価できない作品」ということでもある。
まずオープニング・クレジットからして、かなり捻じ曲がっている。
サイケな背景の前に麻里圭子が現れて『かえせ! 太陽を』を歌うのだが、既にサイケデリックな匂いがプンプンと漂っている。“ゴジラ”シリーズなのに、のっけからサイケなのだ。
ちなみに劇中では、ラリった行夫が、アングラバーの人々が魚の頭をしている幻覚を見るというシーンがある。
ここもサイケだが、その幻覚、本筋には何の関係も無いのであった。

『かえせ! 太陽を』の歌詞は、相当に捻じれている。
「鳥も魚もどこへ行ったの。蝶もトンボもどこへ行ったの」という歌い出しは、“ゴジラ”シリーズとはミスマッチに思えるが、まあいい。
だが、続いて「水銀、コバルト、カドミウム。鉛、硫酸、オキシダン。シアン、マンガン、バナジウム。クロム、カリウム、ストロンチウム」と、有毒な化学物質を列挙する歌詞に突入すると、かなりヤバい匂いが強くなる。
さらには「生き物みんな居なくなって、野も山も黙っちまった」「返せ、返せ、緑を、青空を返せ」と訴え掛けるのだが、これが意外にノリのいいポップな曲調なので、そこのアンパランスにも戸惑ってしまう。

硫酸ミストで人々が白骨化する様子が描かるなど、ヘドラは暗くて重いイメージのキャラクターになっている。その一方で、ゴジラの仕草などは明らかに軽いタッチで描かれている。
サイケな装飾のアングラバーで若者たちが踊る様子や、ドラッグで幻覚を見る様子が描かれる一方で、ゴジラを崇拝する子供が夢を見たりポエム的な作文を読んだりする様子も描かれる。
陰気でシリアスな大人向けのテイストと、子供向け娯楽映画のテイストと、その両方を盛り込んで、分離したままになっている。
っていうか、もっと根本的なことを書いてしまうと、この映画、ゴジラを排除して「人間とヘドラの戦い」という構図にした方が、まとまりが良くなるんだよな。

ヘドラの初登場は、リアルタイムでは描写されない。テレビのニュースで「事故現場に謎の生物が現れた」という後追いの形で示される。
しかも、そのタンカー事故でさえ、ニュース映像が写る時に初めて提示される。
その辺りは、見せ方がイマイチだと感じる。
また、矢野が海でヘドラと遭遇して驚いた後、カットが切り替わると自宅療養している彼の姿が写し出されるというのは、編集が粗いと感じる。
布団に入っている矢野の顔面が焼け爛れているが、どういう経緯でそうなったのか、具体的にどういう症状なのかは全く分からない。
部屋に入って来たカメラマンが写真を撮影した時、矢野は「テレビを見るたくさんの人たちに恐ろしさを知ってもらうんだ」と言っているが、矢野の被害についてテレビで報じられることは無い。専門家が出て来て、矢野の皮膚の症状について自説を語るようなことも無い。

っていうか、矢野にしろ研にしろ、すぐ近くまでヘドラが迫っているのに殺されずに済んでいるけど、そこはさっさとヘドラによる犠牲者を出してしまってもいいんじゃないかと思うんだよな。
矢野と研を生き残らせたいのであれば、殺されるための雑魚キャラを配置すればいいだけだし。
後で「人がヘドロに埋もれて死ぬ」とか「硫酸ミストで白骨化する」といったシーンがあるので、人間が殺される描写を避けているわけではないし、むしろヘドラの恐ろしさをアピールしようという意識はある。
だったら、序盤にヘドラによる犠牲者を明確な形で見せてしまってもいいんじゃないかと。

「各地でタンカー事故が起きて、現場でヘドラが目撃されている」というニュースの後、アニメーションが挿入される。そこでは、太陽の下に「ごきげん」と書かれている絵をバックにして、立ち上がったヘドラがタンカーを掴んで漏れてくるオイルを飲み干す様子が描かれる。
これ、ちょっとユーモラスな雰囲気も漂うアニメーションなので、怖がらせたいのか、そうじゃないのか、良く分からないぞ。
それ以降も、工場がロボットアームを使って植物を食べていたらヘドラが飛来して包み込んでしまうといったアニメーションが挿入されるが、あまり効果的には思えない。
そこに限らず、野心的に取り組んでいることは分かるし、たぶん「予算が少なくてマトモに戦っても無理だから、映像に凝ってみよう」という意識はあったんだろう。ただ、マルチ画面も含め、そういった映像表現は「前衛的な映画」という印象を与えることには繋がっているが、ゴジラ映画の面白さには繋がっていない。

あと、映像演出はひとまず置いておくとしても、「ゴジラが熱線を発射した反動で、後ろ向きに空を飛ぶ」という描写は無いわ。
幾らヘドラが空を飛ぶからって、それを追い掛けるゴジラも飛ばすのはダメだわ。
田中友幸プロデューサーが大反対したにも関わらず、彼が体調不良で入院している間に、坂野監督が東宝の幹部連中から了承を取り付けて飛行シーンを撮影したらしいが、これに関しては田中友幸に賛同するわ。
坂野は続編を企画したものの、続編どころか1974年に『ノストラダムスの大予言』の協力監督を務めて以降は東宝で二度と映画を撮っていないが、それは田中友幸の怒りを買ったことが影響しているのかもしれない。

ヘドラがオイルを飲み干すアニメーションの後には、研が書いた「げんばく、すいばく、しのはいはうみへ。どくがす、へどろ、みんなみんな、うみへすてる。おしっこも。ゴジラがみたら、おこらないかな。おこるだろうな」という作文が表示される。
「なんで人々が海を汚染したらゴジラが怒るんだよ」と思っていたら、ホントにゴジラがヘドラ退治へと駆け付ける。
ここ最近のゴジラは「人間の味方」として描かれていたが、今回は「地球の守り神」というポジションだ。
むしろ地球を汚染する人間には怒っている。

ただしゴジラは、全ての人間に対して怒りを抱いているわけではない。少なくとも、研に対しては何の怒りも持っていない。
何しろ、研が「ヘドラをやっつけに来る」という夢を見たら、その通りに行動するぐらいなんだから。
まるで研の言いなりのような状態で、すっかりガメラ化しちゃってるのよね。
長い映画の歴史において、「脅威の対象となるべき圧倒的に強い存在が子供に操られると、ロクなことにならない」と相場が決まっているんだけどね。

タンカー事故にしろ、巨大生物の出現にしろ、かなり大きなニュースのはずなのに、あまり騒ぎになっている様子が無い。
そういう印象を受けない一因は、それらの出来事を追う記者も、対策を考える政府機関の人間も出て来ないからだ。
また、矢野は個人的に興味を抱いた民間の科学者として海へ潜るが、専門機関が組織として巨大生物の調査に乗り出すこともない。
その辺りは、たぶん予算の問題で大勢のエキストラを雇ったり複数のセットを使ったりすることが難しいという事情が関係しているんだろう。

「ヘドラに建物を破壊されて逃げ惑う大勢の人々」「パニックに陥りながら非難する大勢の人々」というシーンが一度も無いってのも、やはり予算の問題なんだろう。
「田子の浦に上陸した怪獣ヘドラとゴジラによる被害は、死者35名、負傷者81名、倒壊家屋は320」などとTVアナウンサーが語るシーンがあるが、それほどの被害が出ている印象は全く受けない。
なぜなら、建物が次々に破壊されたり、大勢の人々が逃げ惑ったりする様子が挿入されていないからだ。

「全自衛隊に出動命令が下り、主要工業都市の沿岸警備を固めております」とアナウンサーが語るシーンはあるが、実際に自衛隊が出動して警備している様子は写し出されない。
「沿岸警備の陸上警備隊は集中砲火を浴びせましたが、弾丸は全てヘドラの体を突き抜けて効果無く」というアナウンサーの説明はあるが、その戦闘シーンは描かれていない。
終盤に巨大電極板を使う小規模の部隊が登場するものの、それ以外では自衛隊が出て来ない。
防衛庁の司令官も登場しないし、対策本部の会議も無い。
そこも、やはり予算の都合だろう。

(観賞日:2014年4月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会