『月光ノ仮面』:2012、日本
顔に包帯を巻いた復員兵の男が、神田橘亭にやって来た。男が寄席に入ると、三風亭小らくの出番の後で口座に上がって座布団に座る。無言のまま男が座り続けているので、席亭は椿家詩丸や森乃家小天たちに早く連れ出すよう指示した。詩丸たちが抵抗する男を何とか外へ連れ出すと、そこに森乃家天楽の娘である弥生が通り掛かった。男の落としたお守りを拾い上げた弥生は、「太郎さん。やっぱり太郎さんなのね」と呼び掛ける。彼女は詩丸たちに、「この人は噺家の森乃家うさぎです」と告げる。
弥生は男を家へ連れ帰り、父の天楽や弟子の金太、福次郎、笑太郎、天助たちと会わせた。太郎は戦死したと聞かされていたため、一同は困惑した。男は何も質問されても一言も発せず、天楽は記憶喪失なのではないかと考える。医者が健忘症だと診断したため、天楽は太郎の許嫁だった弥生に「どう思う?」と問い掛ける。弥生は「私は生きていてくれただけで」と述べた。天楽は男を太郎として受け入れ、自分の家で住まわせることにした。
太郎と小天は太郎が書いた帳面を男に見せ、「兄さんは真打ちを目前にした凄い落語家だったんです」と言う。『粗忽長屋』のページを開いた男は、ブツブツと呟き始めた。弥生は出征の時にお守りを渡した神社へ男を連れて行き、「貴方は森乃家うさぎなんでしょ?そして、私が何より帰りを待ち望んだ、岡本太郎さんなんでしょ?」と言って手を握る。すると男は彼女を竹林へ連れ込み、押し倒して抱こうとする。弥生が激しく抵抗すると、男の包帯が取れて顔の右半分にある大きな傷跡が露わになった。
弥生が優しく傷に触れると、男は軍服を脱いで弥生を抱く。男の左肩にある大きな痣を見つけた弥生は、彼に抱かれながら「お帰りなさい、太郎さん」と口にした。男は弥生を抱きながら、洞窟で戦った時の出来事を思い出す。部隊の仲間が次々に命を落とす中、平尾小隊長は男に拳銃を渡し、瀕死の熊倉隊員を殺すよう命じた。男が射殺すると仲間が来て、「約束しないか、貴様か俺、どちらかがこうなった時は、お互いに」と言い掛けたところで、退却命令が報告された。
弥生は天楽に、「あの人の中で、森乃家うさぎは生きています」と告げる。天楽は男を一門に復活させ、健忘症が治るまで協力するよう弟子たちに述べた。男は遊女のお亀と会ったり弟弟子の落語を聞いたりして、日々を過ごす。天楽は深川牡丹亭という小さな寄席小屋へ行き、男を前座として使ってほしいと席亭に頼み込んだ。席亭は了承し、しばらくは別の名前を使ったらどうかと提案した。そこで天楽は、男に森乃家子鮭と名乗らせることにした。
男は深川牡丹亭の高座に上がるが、客には全く受けなかった。二つ目の神楽文鳥は聞こえるように嫌味を言い、男が森乃家うさぎだという噂も全く信じなかった。男は遊郭へ行き、お亀に手伝わせて床下に穴を掘った。天楽は男の高座を見て、「今、おめえに出来ること、目の前の客を楽しませることだけを考えてみろ」と助言した。男が桟橋へ行くとドクター中松が出現し、「私はタイムスリッパーだ」と述べて立ち去った。
男は軍帽を被ったり軍刀を差したりして高座に上がるが、もちろん客の受けが良いはずも無い。高座で軍刀を振り回した彼は、文鳥たちに連れ出された。そんな日々が続く中で、男とお亀の地下道を掘る作業は続いた。男は高座でもつるはしで穴を掘ろうとして、文鳥たちに連れ出された。天楽は男の落語家としての復帰が時期尚早だと考え、ひとまず母である孝子の元へ戻るよう促した。男は栃木県安蘇郡奥飛騨村へ行き、孝子と会った。すると孝子は、「息子は御国のために死んだんじゃ。誰だ、お前は」と怒鳴り付けた。
実は、男は岡本太郎ではなかった。本物の太郎は、戦地で男に約束を持ち掛けた男だった。男は戦地で爆撃を受けた際、喉に深い傷を負った太郎からお守りを渡されたのだった。そして男が村へ行っている間に、本物の太郎が戦地から戻って天楽たちの前に現れた。喉をやられて話せなくなった太郎は、手紙を書いて天楽に渡した。男が戻って来たので金太は殴り付けて追い払おうとするが、天楽が制止した。太郎は天楽に手紙を書き、自分の代わりに男を森乃家うさぎとして高座に上げてほしいと頼む…。監督は板尾創路、脚本は板尾創路&増本庄一郎、製作総括は白岩久弥、プロデューサーは野中雅弘&菊井徳明&小西啓介&島澤晋、アソシエイトプロデューサーは仲良平&水上繁雄、ポストプロダクションプロデューサーは篠田学、ラインプロデューサーは橋本淳司、協力プロデューサーは植本直樹、エグゼクティブプロデューサーは水谷暢宏、製作は岡本昭彦&椎名保&白石泰史&宮路敬久、撮影は岡雅一、照明は松隈信一、美術は福田宣、衣裳は宮本まさ江、録音は久連石由文、特殊メイク 残酷効果監修は西村喜廣、編集は目見田健、監督補は増本庄一郎、絵コンテは長田悠幸、落語指導は鈴々舎馬桜&鈴々舎馬るこ&入船亭遊一&笑福亭笑助、音楽は森野宣彦。
出演は板尾創路、浅野忠信、石原さとみ、前田吟、國村隼、津田寛治、根岸季衣、平田満、木村祐一、宮迫博之、六角精児、矢部太郎、柄本佑、千代将太、佐野泰臣、金橋良樹、木下ほうか、福田転球、腹筋善之介、川下大洋、アイハラミホ。、藤山新太郎、ドクター中松、沖田裕樹、大川ひろし、迫田孝也、コッセこういち、ポカ、赤松新、本田みずほ、遠藤かおる、テリー田中、松林慎司、佐藤大助、チョロ松、BOBBY、カラサワイワオ、村田唯、久嬢由紀子、内田量子、小山颯、宮本まさ江、トロイ カスピ、スティーブ ライアン、ダニエル アドリアン、宮内知美、ジジ・ぶぅ他。
2009年の『板尾創路の脱獄王』に続いて板尾創路が手掛けた長編監督第2作。
板尾創路は脚本(増本庄一郎と共同)も兼ねている他、主役の「男」を演じている。
岡本を浅野忠信、弥生を石原さとみ、天楽を前田吟、神田橘亭の席亭を國村隼、熊倉を津田寛治、孝子を根岸季衣、人力車の車夫・達造を平田満、平尾を木村祐一、文鳥を宮迫博之、金太を六角精児、福次郎を矢部太郎、笑太郎を柄本佑、天助を千代将太、小天を佐野泰臣、詩丸を木下ほうかが演じている。板尾創路と浅野忠信は顔も背格好も全く似ていないので、「男が森乃家うさぎに間違われる」ってのは絶対に有り得ない。
許嫁の弥生が男を太郎と間違えるってのも、これまた絶対に有り得ない。
「あんなんなってちゃ、顔も何も分からませんね」という言い訳みたいな台詞を天助に喋らせているけど、包帯を巻いているとはいえ、ほぼ顔は見えているんだし。
そういうのを「ファンタジーだから」ということで受け入れろというのは、無理な相談だ。でも板尾創路は、そういう無理を平気で残している。
本人も無理だらけになっていることは認識していたようだが、だったら無理な部分を無くすような作業をせずに放置しているのは単なる手抜きだろう。
そういう無理を全て受け入れてくれるのは、よっぽどのお人好しか、映画通を気取りたいインテリか、板尾創路の熱狂的なファンか、それぐらいだろう。
そんな狭い範囲の観客層だけに向けているとすれば、そういうのを全国公開の商業映画として作るのは正気の沙汰じゃない。主人公は前作に引き続き、ほとんど喋らない。
板尾創路は「映画は台詞が無くても成立する物」という考えを持っていて、だから出来る限り台詞を排除しているらしい。
確かに、台詞がが無くても成立する映画はあるだろうけど、全ての映画がそれに該当するわけではない。
この映画の場合、主人公は「落語家として高座に上がる」という役回りを担当するわけで、それなのに台詞を喋らないってのは仕事を放棄しているとしか思えない。
主人公に台詞を喋らせたくないのなら、落語家として高座に上がるという展開など持ち込むべきではない。「落語家なのに喋らない」というトコロに笑いがあるのならともかく、そうじゃないんだし。落語家の世界だから、前作に比べると登場人物が笑ったり軽妙な調子で振る舞ったりする描写は多いが、それが映画の明るさや喜劇性には繋がっていない。肝心な男は無表情で無言のままであり、喜劇に加担することも無い。そして全体の雰囲気としては、やはり暗い。
陰気なテイストでシリアスに進めて行くのは、「オチの緩和に向けての緊張」という狙いがあるとしても失敗であり、もっと明るさや楽しさがあった方がいいとは思うが、やるならやるで徹底した方がいいだろうに、また前作と同様、中途半端な緩和を盛り込んでいる。
深川牡丹亭の高座を見た天楽から「出来ることだけを考えればいい」と言われた男が桟橋へ行くと、突如としてドクター中松が出現するシーンは明らかに滑稽さを感じさせる描写だが、それよりも「唐突さ」や「違和感」の方が勝っている。
そして前作と同様、中途半端な緩和になっている。男が軍帽を被ったり軍刀を差したりして高座に上がった時には客が引いているのに、穴を掘ろうとして文鳥たちに追い回された時は客が笑っている。
それは男が落語の実力で笑わせたわけではないけど、ともかく笑いが起きていることは確かだ。
しかし、そういう笑いを中途半端に入れちゃダメでしょ。男が高座に上がる時は、常に「客が誰も笑わない」という形にしておくべきでしょ。
男が高座に上がることで笑いが起きるなら、それはそれで喜劇人としては正解っちゃあ正解になっちゃうんだから。この映画も前作と同様、オチだけで勝負している作品だ。
早々にオチの完全ネタバレを書いてしまうが、この映画の最後は「森乃家うさぎとして高座に上がった男が機関銃で客席の面々を撃ち、みんな笑いながら死んでいく」というシーンが用意されている。板尾創路は本作品において、そのシーンを描きたかっただけだ。
板尾創路って実のところ、ある意味ではデヴィッド・クローネンバーグやデヴィッド・リンチみたいな資質の人であり、ようするに「自分の撮りたいシーンだけを撮りたいように撮る。それ以外の部分はチョー適当」という監督なのだ。
だから、全体のまとまりや整合性、それぞれのシーンの脈絡、登場人物の行動の意味なんかをマトモに考えようとすると「まるでワケが分からない」「やたらと難しい」という印象になってしまうのだ。しかし、最初から「ガッチリと固まった意味なんて無い」「やりたいことをやって、他は適当に繋ぎ合わせているだけ」という風に捉えておけば、何も難しいことなんて無い。
難しく考えるから難しいと思うのであって、「思い付くままに描いた絵画」とでも捉えればいいのである。
そうすれば、そこに意味なんて求めないでしょ。
監督でさえ「何となく」のイメージでしか把握しておらず、たぶん「このシーンはこういう意味で、この展開はこういう繋がりになっていて」なんてことを詳しくは説明できないんだから、観客が全てを詳細に理解しようとするだけ無駄なのよ。「芸人が客を笑わせたまま殺す」というネタをやるために適した職業を考えて主人公が落語家になり、古典落語と関連付けようと考えて『粗忽長屋』を取り込んだだけだ。『粗忽長屋』からの着想ではなく、完全に後付けなのだ。
落語家も『粗忽長屋』もオチのシーンを描くための道具でしかないので、そこの掘り下げに対する興味は薄い。
そう考えると、男や太郎が一度も落語を披露しないってのも、当然と言えよう。
板尾創路にとっては、落語家という職業も、『粗忽長屋』という落語も、どうだっていいのである。板尾創路の前作『板尾創路の脱獄王』は、10分程度のコント、もしくは短編映画で済むような内容だった。長編映画としての面白さや質は、まるで伴っていなかった。
ラストのオチだけで勝負しており、ラストシーンまでの物語は全てオチのための前フリでしかなかった。オチに至るまでの部分は、観客を引き付けるための作業に乏しかった。
オチに至るまでの展開は、徹底してシリアスなテイストで描かれていた。
オチだけが勝負なので、そこまでは笑いの雰囲気を一切入れていなかった。明らかに滑稽さを感じさせる描写も途中で入っていたが、誰かにツッコミを入れさせて「笑いのポイント」として示すようなことは全く無かった。「オチで笑いを取るために、そこまでは徹底してシリアスに描く」という方針でやるのであれば、滑稽な印象を与えるような描写など最初から入れなきゃいいものを、なぜか数ヶ所だけ申し訳程度に入れるという、狙いの良く分からないことをやっていた。
刑務所で暴行を受けて吊るされ主人公が唐突に中村雅俊の『ふれあい』を画面に向かって歌い出すシーンなんかを入れてしまい、オチに向けたネタ振りとして長い緊張を続けてきたはずなのに、中途半端な緩和を入れて台無しにしていた。
緩和を入れるなら入れるで、もっと頻繁にやればいいものを、ホントに申し訳程度にしか盛り込んでいなかった。
おまけに、さんざん引っ張って辿り着いたオチは、長編映画としては弱すぎるものだった。そのオチは、あくまでも「コントや短編映画なら成立する」というモノでしかなかった。この映画は、『板尾創路の脱獄王』と同様の失敗を繰り返している。
前作の失敗を失敗とは思っていなかったから、同じことを繰り返しているんだろう。しかも今回は、単に同じ失敗を繰り返しているだけでなく、さらに状況は悪化している。
前作は、94分という上映時間の大半がオチのためのネタ振りでしかないという構成がキツいと感じたし、長編映画としては弱すぎるオチしか無いという問題はあったが、ともかく「フリがあってからのオチ」という形は取っていた。
しかし今回の場合、フリとオチの関係さえ成立していないのだ。「男が太郎に成り済ます」ってのも、「周囲が男を太郎だと思い込む」ってのも、この映画のオチにとっては何の必要性も無いことだ。男が本物の太郎であっても、何の問題も無く成立する。
必要性が無いだけでなく、何かしらの効果が得られているのかというと、それも無い。
それ以外の部分にしても、全て同じことが言える。
「男がお亀と地下道を掘る」ってのも、「男が高座に上がるが全く受けない」ってのも、「男と文鳥たちの揉め事で客が笑う」ってのも、「男が戦地で同僚を射殺する」ってのも、「男と太郎が戦地で約束を交わす」ってのも、「弥生が男と関係を持つ」ってのも、「本物の太郎が帰って来てから弥生が罪悪感に悩む」ってのも、「太郎が溺れた時に弥生が助けることを躊躇する」ってのも、オチに向けたフリとしての意味を成していないのだ。そももそ、普通に考えると、男が機関銃を乱射しているのに、客が笑うってのが有り得ない。たちまち阿鼻叫喚の図となり、みんな逃げ出そうとするはずだ。
つまり、「機関銃を乱射されているのに全ての客が逃げ出そうともせず大笑いしている」という状況自体が不条理なわけで。
その不条理を「自然な現象」として観客に受け入れてもらうための作業として、そこまでの時間帯を費やしているわけでもない。オチまでの道のりを全てバッサリと削ぎ落として、いきなりオチの直前から描いても成立してしまうのだ。
オチまでに描かれる内容は、ただの退屈な話でしかない。(観賞日:2015年4月24日)