『ゲド戦記』:2006、日本
荒れる海を、一隻の帆船が航海していた。船長は風の司に、海を鎮めるよう求めた。だが、風の司は海と風の真の名を思い出せなかった。 空には二匹の竜が現れ、共食いを始めた。王国では、羊や牛が原因不明の高熱で死んでおり、乳児にも同様の症例が出ていた。国王は 旱魃の対応に風の司を派遣したが、状況は芳しくない。二匹の竜の一件も、国王に報告された。自分の部屋に戻った国王は、息子のアレン に襲われて死んだ。アレンは国王の剣を奪い、城から逃走した。
小舟で陸地に辿り着いたハイタカは、砂漠で狼の群れに追われるアレンを見掛けた。アレンは剣を抜かず、無抵抗で狼に殺されようとした。 そこへハイタカが現れ、狼を追い払った。ハイタカは、アレンが魔法で鍛えられた剣を持っていることに気付いた。彼は、今のアレンには 剣を抜けないことを指摘した。ハイタカは、「行き先が決まっていないなら一緒に来んか」とアレンを誘った。
ハイタカとアレンは、ホート・タウンに辿り着いた。街では、若い女たちが商品として売られている。ハイタカは魔法の剣を隠すため、 アレンにマントを買い与えた。ハイタカは、「世界の均衡が崩れつつある。あちこちで人間がおかしくなっている」と語った。アレンは ハジア売りに声を掛けられ、「全て忘れられる」という誘惑に負けそうになる。だが、そこへハイタカが現れてハジア売りを追い払った。 その近くでは、ハジアを口にした面々が半ば廃人のようになっていた。
ひとまずハイタカと別れたアレンは、人狩りのウサギと手下2名に追われている少女テルーを見掛けた。アレンは後を追い、鞘に収めた ままの剣で手下2名を倒した。ウサギはテルーに剣を向けて「殺す」と脅すが、アレンは「やれよ」と冷徹に言い放った。ウサギが逃亡 した後、テルーはアレンを睨み付けて走り去った。テルーの顔の右側には、火傷の痕があった。その夜、アレンはウサギと手下たちに 襲われた。ウサギはアレンの剣をその場に捨て、彼を連行した。
奴隷として枷を付けられたアレンは、人狩りで捕まった他の面々と共に馬車で運ばれる。そこへ魔法で体を輝かせたハイタカが現れ、 アレンを奪還した。ハイタカは傷付いたアレンを連れ、昔馴染みの女テナーの家を訪れた。アレンを休ませた後、ハイタカは世界の均衡が 崩れている理由を探して旅をしていることをテナーに告げた。
テナーは、女手一つで育てているテルーをハイタカに紹介した。テルーは極度の人間嫌いで、テナー以外の人間には心を開かなかった。 ウサギは、自分が仕える魔法使いクモの城を訪れた。クモはハイタカのことを知っており、激しい恨みを抱いていた。翌日、テルーは アレンを見て、露骨に不快感を示した。アレンはハイタカと共に、畑仕事に精を出した。
「なぜ魔法使いなのに農夫の仕事をするのか」と疑問を抱くアレンに、ハイタカは「界の森羅万象は全て均衡の上に成り立っている。 どうしたら均衡が保てるか、良く学ばねばならない」「全てのものには真の名がある。それを知ることによって相手を支配できるのが魔法 の力だ。使い方を誤れば、均衡を崩してしまう」と語った。アレンはテルーから、「命を大事にしない奴なんか大嫌いだ」と敵意を 向けられた。夜、アレンは父の悪夢にうなされた。
翌朝、ハイタカはテナーに「済まなきゃならない用事がある」と告げ、アレンの馬を勝手に拝借して外出した。アレンはテナーから、 テルーが両親に酷い扱いを受けて捨てられていたという境遇を聞かされた。近くに住むオバさん2人組は、テナーやテルーを気味悪がって いた。ウサギたちは2人組からハイタカの居場所を聞き、テナーの家にやって来た。ハイタカが不在だと知ると、ウサギたちは「また来る」と 告げて去った。
アレンはテナーから、ハイタカが大賢人であることを知らされた。さらにテナーは、ハイタカが自分を光の中に連れ出してくれたことを 語った。街に出たハイタカは、クモが自分を探していることを知った。アレンはテルーに、父を殺したことを打ち明けた。そして、「なぜ 殺したのかは分からない。自分はここにいちゃいけない。奴が来てしまう」と漏らした。
アレンはテナーの家から姿を消し、自分の影に襲われて気を失った。そこへクモが現れて影を追い払い、アレンを城へ連れ帰った。ウサギ はテナーの家に現れ、彼女をハイタカの身代わりに連れ去った。置き去りにされたテルーは拘束を解き、ハイタカに事情を知らせた。 アレンはクモに魅入られ、真の名を教えた。ハイタカは城に赴くが魔法が使えず、捕まって牢に入れられた…。監督は宮崎吾朗、原作はアーシュラ・K・ル=グウィン、原案は宮崎駿、脚本は宮崎吾朗&丹羽圭子、プロデューサーは鈴木敏夫、 作画演出は山下明彦、作画監督は稲村武志、デジタル作画監督は片塰満則、美術監督は武重洋二、映像演出は奥井敦、編集は瀬山武司、 録音演出は若林和弘、色彩設計は保田道世&高柳加奈子&沼畑富美子、音楽は寺嶋民哉。
主題歌『時の歌』 歌唱:手嶌葵、作詞:新居昭乃・宮崎吾朗、作曲:新居昭乃・保刈久明、編曲:寺嶋民哉。
挿入歌『テルーの唄』 歌唱:手嶌葵、作詞:宮崎吾朗、作曲:谷山浩子。
声の出演は岡田准一、手嶌葵、菅原文太、田中裕子、香川照之、風吹ジュン、内藤剛志、倍賞美津子、夏川結衣、小林薫、飯沼彗、 阪脩、梅沢昌代、神野三鈴、池田勝、鵜澤秀行、藤堂陽子、八十川真由野、宝亀克寿、田村勝彦、関輝雄、斎藤志郎、加瀬康之、 高橋耕次郎、田中明生、廣田高志、西凛太朗、清水明彦、高橋克明、佐藤淳、中村悠一、白鳥哲、櫻井章喜、鍛治直人、杉山大、西岡野人 、上川路啓志、植田真介、田中宏樹、佐川和正、細貝弘二、清水圭吾、瀧田陶子、築野絵美、高野智実、愛佳、佐藤麻衣子、加藤英美里、 渡辺智美、木川絵理子ら。
『指輪物語』『ナルニア国物語』と並び称されるファンタジー小説の傑作『ゲド戦記』を基にしたアニメーション映画。
監督を務めたのは、スタジオジブリの看板である宮崎駿の息子・宮崎吾朗。彼は設計事務所での勤務を経て、三鷹の森ジブリ美術館の開 館から2005年まで館長を務めていたが、アニメーション製作の経験は全く無い。
しかし本作品の映画化に向けては情熱を燃やし、自ら絵コンテを執筆した。
それを見た鈴木敏夫プロデューサーが手腕を認め、監督として起用した。『ゲド戦記』は1968年に第1作が発表され、2001年までに全5作が出版されている。本作品は、その内の第3作を中心にしている。また、 今回の映画化に当たって、宮崎吾朗監督は『ゲド戦記』だけでなく、父親が執筆したファンタジー絵物語『シュナの旅』も原案として採用 している。この絵物語はチベット民話から着想を得た内容であり、『ゲド戦記』とは何の関連も無い。
元々、『ゲド戦記』は宮崎駿がジブリの創設以前から映画化を熱望していた作品である。
だが、そのオファーをル=グィンに断られていた。
後にジブリ映画の人気が高まった頃、今度は逆にル=グィン側から「宮崎駿に映画化してほしい」というオファーが届いた。
しかし宮崎駿は『ハウルの動く城』の製作中だったこともあって、そのオファーを断った。
ところが、鈴木敏夫プロデューサーは映画化を断念せず、宮崎駿の大反対を押し切って宮崎吾朗を監督に据えた。アレンの声をV6の岡田准一、テルーを手嶌葵、ハイタカを菅原文太、クモを田中裕子、ウサギを香川照之、テナーを風吹ジュン、 ハジア売りを内藤剛志、ホート・タウンの生地売りを倍賞美津子、王妃を夏川結衣、国王を小林薫が担当している。
手嶌葵は劇中歌の歌唱も担当しているが、宮崎吾朗が作詞した挿入歌『テルーの唄』に関しては「萩原朔太郎の『こころ』の盗作だ」と いう批判が持ち上がり、後に鈴木プロデューサーが謝罪するという出来事があった。
今回もジブリは主要キャラクターにプロの声優を起用せず、有名俳優を揃えている。
赤い赤いジブリのプロ声優嫌いは、今に始まったことではない。これまでの映画でも、声優ではない面々が起用されてきた。その中には、 声優としても上手い人、それなりに仕事をこなす人もいた。
で、今回の映画だが、声優の採点としてはジブリ史上で最低じゃないかな。2作連続でジャニーズからの起用となった岡田准一は、単に陰気なだけの男になっているが、これはキャラ造形がそんな感じなので、 彼だけに責任を押し付けるわけにはいかない(だからって上手いわけではなく、むしろ下手だが)。
田中裕子はボソボソと小声で喋るため、何を言っているのか聞き取りにくい。
香川照之は、脇役俳優としては渋い存在感を見せる人だが、声優としては、アニメやキャラに声が馴染んでいない。
しかし、何より酷いのが新人の手嶌葵だ。
他の配役は、声優としてはアマチュアでも、俳優としてはキャリアを積んできた面々だ。
なぜ、ここに何の経験も無い新人を据えたのか。
それでも上手く仕事をこなしていれば文句は無いが、完全に棒読みで演技もへったくれも無い。
見せ場として歌唱シーンが用意されているが、これも「まず歌唱ありき」でハメ込んだのが丸分かりで、そこだけ浮いているし。
それを聞いたアレンが感涙するのも、サッパリ付いていけない。「宮崎駿作品の、出来の悪い模造品」というのが、この映画を端的に表すには最適な言葉だろう。
過去の宮崎駿作品から拝借したようなキャラクター、宮崎駿が描いてきたような構図やキャラの動き、そういったモノをやろうとしている ことは分かる。
だが、宮崎吾朗監督は、父親が今まで作ってきたモノを表面的な部分だけ模倣し、それをコラージュし、質の悪い模造品を作ることしか 出来ていない。
宮崎アニメの小気味良いテンポ、躍動感や浮遊感は感じられないし、キャラは総じて血が通わず中身がペラペラだ。
テナーやテルーを気味悪がり、金をやると言われてハイタカのことを簡単に密告するオバさん2人組がいるが、どうやら愛嬌のある コメディー・リリーフ的な存在として、このキャラを持ち込んでいるらしい。
あんな連中を愛嬌のあるキャラだと思っているセンスが、もうダメすぎる。
そんなことだから、誰一人として魅力的なキャラを描くことが出来ていないのだろう。破綻しても構わないから自分の色を出そうという風なチャレンジ精神は、宮崎吾朗監督には無いようだ。
というか、そもそもこの人には、アニメーションという分野においては、自分の色など無いのかもしれない。父親の創造したものしか 知らず、それに似たモノしか作ることが出来ないのかもしれない。
だとしたら不憫ではあるが、そんな人が本作品を監督しちゃイカンわな。
ちなみにル=グウィンは本作品を酷評し、バッサリと切り捨てている。
そもそも『シュナの旅』を基にしたら、もうゲド戦記じゃないだろ。本人や周囲は経験不足だから失敗したと思っているかもしれないが(っていうか失敗したと思っているのかどうかは知らんけど)、そう じゃないように思える。
もちろん経験不足はあるが、これを見る限り、経験を積んだところで、少なくともジブリでは面白い劇映画が作れそうな気配は感じない。
持っている資質が、ジブリのアニメには合わないような気がするのだ。
何となくだが、この人はジブリよりもガイナックス辺りで仕事をした方が合うんじゃないかと思ったぞ。
アレンも碇シンジ君っぽい表情の時があるし。映像においては、それでもまだ、物真似ぐらいは出来る程度のモノを宮崎吾朗監督は持っていた(ひどく品質の悪い劣化版だが)。
だが、ドラマ演出に関しては、物真似さえ出来ていない。
基盤となるモノさえ、全く持ち合わせていないのだろう。
だから、ダイナミズムや壮大なスケール感を醸し出すことは出来ていない。
ただ歩いているだけとか、丁寧にやろうとする意識が強すぎるのか、単純にストーテリングの意識が低すぎるのか、無作為に時間を潰して いる箇所が目立つ。ストーリー展開がやたらノロノロしていて、動きに乏しいんだよな。
原作がそんな感じだから仕方の無い部分もあるのかもしれんが、活劇としての魅力がゼロなのもツラい。
カット割りは単調だし、チェンジ・オブ・ペースも無い。そして、とにかくセリフだけで全てを説明しようとする。
だが、セリフによる説明があっても、それだけでは物語の中身や世界観の設定、人間関係やバックグラウンドが全く見えてこないので、 説明になっていないという体たらく。
この世界において、真の名や魔法、賢人がどれほどの意味を持ち、どのような位置付けにあるのかも分からない。
「なぜ魔法使いなのに農夫の仕事をするのか」とアレンに問われ、ハイタカは「均衡を学ぶことが大事」「真の名を知ると云々」などと 語るんだが、それって何の理由説明にもなってないでしょ。原作のいわゆる名台詞を出来るだけ詰め込みたかったのかもしれんが、そう いうのは流れがあってこそ活きるものであり、そこだけ単独で抽出し、配置しても、心には届かないよ。とにかく分からないことが多すぎる。
テナーはハイタカのことを「大賢人で、自分を光の中から連れ出してくれた人で」と簡単に説明するが、そんな程度じゃ過去の出来事や 2人の関係性は全く分からんよ。
ハイタカ個人のキャラクター像に関しても、サッパリ説明が無いから、こいつがゲドだということさえ原作未読の人間には分かりにくい。
ハイタカとクモの過去の因縁も、全く分からんぞ。
何かあるなら、回想シーンでも使って、もうちょっと詳しく説明してくれよ。冒頭のドラゴンの共食いは、何の意味があったのか。なぜアレンは父を殺したのか。もう一人のアレンは何なのか。なぜハイタカはアレン を旅の共に誘ったのか。なぜテルーは、急にドラゴンへと変身するのか。なぜクモは、そのドラゴンを永遠の命だと解釈するのか。なぜ アレンは終盤、それまで抜けなかった剣を抜けるようになったのか。
クモを殺して終わっているが、「世界の均衡が崩れている」「人間がおかしくなってきている」という問題提起はどこへ行ったのか。なぜ ハイタカは城の場所が分かっているのに、テナーの拉致を知るまで自分から赴いてクモに会おうとはしなかったのか。なぜクモはハイタカ が戻るまで待てず、テナーを連れ去ったのか。なぜウサギは街ではテルーを手篭めにしようとする素振りを見せていたのに、テナーを拉致 する時は縛り付けるだけで放置したのか。
なぜ鈴木プロデューサーは、このシナリオでOKを出したのか。まさか監督は、これを見る観客全員が原作を読んでいる、原作を把握しているとでも思っていたのか。
そうではないだろう。
つまるところ彼は、自分が脳内補完できるものだから、バッサリと省略しても他の人々に伝わるだろうと思い込んでしまったのだ。
で、彼の頭の中だけで話が展開し、成立してしまっているのだ。それを観客に伝える作業を無自覚に放棄しているのだ。
この映画は、「どこをどのように修正すればいいのか」というレヴェルではなく、「作らなければ良かったのだ」と切り捨てるしかない。ジブリが宮崎駿の後継者を見つけようとしているのは分かるが、だからって、なんでキャリアゼロの息子を選んだのか。
なんで大々的に全国公開される映画で、素人の手習いを見せるのか。
ジブリだからって何をやってもいいわけじゃないぞ。
これは監督もそうだが、宮崎ジュニアを起用した鈴木プロデューサーの罪が最も重いんじゃないだろうか。
いきなり素人を抜擢したところで、まともな後継者になれるはずがないのよ。
それよりも、ちゃんと育成することを考えた方がいいよ。(観賞日:2008年7月11日)
第3回(2006年度)蛇いちご賞
・作品賞
2006年度 文春きいちご賞:第1位