『巌流島 GANRYUJIMA』:2003、日本

壇ノ浦の海辺に立つ小屋。かめという女を手籠めにした宮本武蔵は、彼女に暴力を振るった。武蔵は刃物で彼女を脅し、飯を探して来いと要求した。その頃、舟島では佐々木小次郎が武蔵の到着を待ち受けていた。武蔵が来ないので細川藩の立会人・今井健之助は焦り、部下の吉本新太郎に「確かに武蔵に果たし状を届けたのか」と確認する。「幾ら私が間抜けでも、届けたか届けていないかは覚えてます」と吉本は返答し、「私が使いに出した者によれば、確かに届けたと言っています」と告げる。「お前が届けたのではないのか」と今井が言うと、吉本は「私は武蔵の顔を知りませんから」と述べた。
小次郎から「武蔵は逃げるような男ではありませんよ」と言われた今井は、「そうだと思いますが、当てにはなりません」と口にした。吉本が「そんなに風評の悪い男なのですか」と尋ねると、今井は「あの男は確かに剣の腕は凄い」と言い、吉岡道場との戦いで幼い又七郎を殺したこと、宍戸梅軒との戦いで武士道に反する行動を取ったことを話す。だが、その両方に関して小次郎は武蔵を擁護した。
小屋を出た武蔵の前に、かめの次兄・助蔵と長兄・三次が現れた。武蔵はかめを手籠めにしたことを指摘されると、悪びれないどころか彼女を侮辱する言葉を吐いた。激昂した三次は殴り掛かるが、あっさりと返り討ちに遭って倒れた。震え上がった助蔵は、「もう一遍、妹連れて来るから勘弁してくれ」と命乞いする。武蔵は「女はもういい、満腹だ。それより飯持って来いよ。それとな、船を用意しろ。漁師だろうが」と助蔵に命じ、これから舟島へ行くことを告げた。
武蔵はかめの持って来た握り飯を食べて、腹を下してしまった。生意気なことを言った助蔵の腹を蹴り付けた武蔵は、また便意を催した。一方、小次郎は「私が万が一、この戦いに勝てたとしても、この先、命があるのかは分かりませんが」と口にする。吉本が疑問を呈すると、小次郎は「その意味は今井さんが良く知っています」と述べた。この決闘の意味を話すよう求められた今井は、「何も知りません」と言う。小次郎は吉本に、「この決闘は細川藩が武蔵を使い、私を殺すために仕組んだこと。これは暗殺劇なのです」と明かした。
武蔵は助蔵の用意した小舟に乗り、舟島へ向かった。武蔵が海を覗き込んだので、助蔵は後ろから突き落とした。助蔵は船を漕いで逃亡を図るが、武蔵は魚をくわえて這い上がって来た。助蔵が慌てて「武蔵様が魚獲ろうとするから親切に背中押しただけですよ」と釈明すると、武蔵は「だから知ってて突き落とされたんだよ」と不敵に笑う。武蔵に海へ突き落とされそうになった助蔵は、「この辺の海は流れが速いけん、ワシのような漁師がいなければ一生、陸へは戻って来れん。そんなこと言っちょる間に、どんどん船が沖へ流されよる」と必死に言う。「一生懸命漕ぎます」と助蔵が口にするので、武蔵は彼を生かしておくことにした。
小次郎は決闘が決まった直後、師匠の等々力に呼ばれた。等々力は、細川忠興が小次郎を反主流派の頭目として暗殺し、佐々木一族を支配しようと企んでいることを語った。そのことを小次郎は吉本に話した後、「もう一人、この件に関わっている者がいます。それは武蔵の養父である宮本無二助一真(むにのすけかずまさ)です」と告げた。無二助は細川藩家老と旧知の仲であり、息子と小次郎が戦うよう仕向けるための手助けをしたのだという。それを小次郎に教えた等々力は、細川藩の放った刺客によって殺された。
吉本は今井を責め、本当のことを教えるよう求めた。「でないと私は直ちに城へ戻り、城代に尋ねます」と吉本が言うと、今井は刀を抜いた。吉本も刀に手を掛け、戦う姿勢を見せた。武蔵は助蔵から刀を持っていないことを指摘され、小屋へ忘れた来たことに気付いた。武器について思案した武蔵は、船を漕ぐ櫂を使うことにした。小次郎に戦いを制止された今井は、吉本に「小次郎様が言ったことは本当なのだ」と謀反を阻止するための暗殺劇であることを打ち明けた。
小次郎が脱藩すれば殺されずに済むのではないかと考える吉本だが、今井は「目の前で藩を辞める者を見逃せるわけがないだろう」と言う。小次郎は「心配しないで下さい。私は逃げません」と力強く告げる。「何故です?」と訊く吉本に、彼は「私は武蔵と戦いたい」と返答した。彼は「私は例え武蔵に勝っても、ここで貴方たちに殺されるか、海上で待ち伏せに遭うでしょう。しかし、それでも私は、武蔵と戦います」と宣言した。吉本は小次郎に「武蔵に勝って下さい。私は小次郎様を殺すようなことはしません」と述べる…。

監督・脚本は千葉誠治、製作総指揮は平井文宏、製作は奥田誠治&仁平幸男&小玉圭太、エグゼクティブプロデューサーは佐藤敦&川上泰弘、プロデューサーは長崎佳子&進藤淳一、撮影は佐光朗、照明は木村匡博、美術は小林和美、録音は岩倉雅之、編集は奥原好幸、アクション監督は下村勇二、殺陣師は清水佳彦、音楽は大坪直樹&CMJK、音楽プロデュースは堀込祐輔&平川智司&登大輔、音楽協力は志田博英。
主題歌「キコエナイ」/PULLTOP JUICE 作詞/岸哲也、作曲岸哲也、/編曲/PULLTOP JUICE。
出演は本木雅弘、西村雅彦、田村淳、筧利夫、金子昇、吉岡美穂、藤村俊二、中川家 剛、中川家 礼二、梅垣義明、羽賀研二、大谷朗、秋山拓也、吉崎敏夫、鶴岡大二郎、野添義弘、山田幸伸、宮下敬夫、酒井博史、依田真一、内々崎ツトム、福嶌徹、池田大介、早乙女豪、加藤太久実、湯田昌次、堀内俊成、早川剛史、村山健太、根吾将平、河原栄喜、井上敬明、藤井尊弘、中村陽一、籏谷力、立木文彦、羽鳥慎一ら。


有名な「巌流島の戦い」を題材にした作品。
武蔵を本木雅弘、小次郎を西村雅彦、助蔵を田村淳、今井を筧利夫、吉本を金子昇、かめを吉岡美穂、等々力を藤村俊二、等々力の付き人を中川家 剛、等々力を襲う細川藩士の一人を中川家 礼二、三次を梅垣義明、終盤に舟島から小屋に戻った武蔵と戦う侍の一人を羽賀研二が演じている。
監督&脚本はビデオ映画『隠忍術』シリーズを手掛けた千葉誠治で、これが劇場用商業映画デビュー。

この映画は「日本テレビ・オリジナル・ムービー」の第1作である。
本作品が製作された当時、日本テレビはスタジオ・ジブリのアニメが好調だったものの、実写映画の分野では他のテレビ局に比べて弱かった。
そこで日本テレビ・オリジナル・ムービーのプロジェクトが立ち上げられ、それは「NOMO企画」という通称となった。
ところが第1作の本作品が見事にコケたため、「NOMO企画」はあえなく終了した。
その後、「日本テレビ・オリジナル・ムービー」としては『東京タワー』と『MAKOTO』の2本が製作された。

社運を懸けた大きなプロジェクトで、よりによって、なぜ本作品を1作目に選んだのだろうか。
そもそも商業映画デビュー作となる人に監督を委ねる時点で、かなりギャンブル性の強い企画と言ってもいいだろう。
もちろん、製作サイドとしては千葉監督に才能があると感じたからメガホンを任せたのだろうし、その賭けが当たって「無名監督で大ヒット」ということになれば、プロジェクトの滑り出しとしては大成功になる。
だけど残念、賭ける相手を間違えたわけだね。
せめて脚本だけでも他の人に任せりゃ良かったのに。

配役の部分にも問題があって、田村淳は明らかに力不足。
チョイ役だったら大きな傷にならないが、かなり出番が多く、武蔵との絡みも多い。
たぶんコメディー・リリーフの役回りってことで、お笑い芸人を起用したんだろうとは思う。かつての時代劇黄金時代には、例えば堺俊二のような喜劇俳優が、剣劇スターの子分役として存在感を発揮していた。そういうことを意識した配役なのかもしれない。
ただ、今のお笑い芸人と「喜劇俳優」って、根本的に質が異なっているんだよね。喜劇俳優ってのは、ちゃんと芝居の出来る喜劇人なのよ。
もちろん、お笑い芸人の中でも、それなりに芝居の出来る人はいるだろう。
だけど本作品の田村淳は、紛れもなく大根だ。

序盤、舟島が写ると、「決闘まで2時間」とテロップが出る。
本来の予定時刻に武蔵は遅刻しているはずだから、そのテロップには違和感がある。
それと、その後も「決闘まで何分」という表示が何度か出るけど、全く意味が無い。
「決闘の予定時刻まで2時間」ということならタイムリミットの意味があるけど、武蔵は既に遅刻しているし、何時から決闘が始まるかは彼次第だ。だから「あと何分で島に到着しないといけない」というところでタイムリミットの表示が作用するわけでもないし、何の効果も発揮されていない。

今井は「武蔵が卑怯な男である」ということを吉本に教えるため、吉岡道場との戦い&宍戸梅軒との戦いについて説明する。
ってことで、そこは彼のナレーション・ベースでサクッと短く処理される。
でも、そんな雑な処理で済ませてしまうぐらいなら、そんな回想シーンは要らない。
そこを短く済ませているぐらいだから、「観客は武蔵についてご存知でしょ」というスタンスだろうと思うし、だったら半端に過去の戦いを描くより、「現在の物語」に時間を割いた方がいい。

武蔵の様子と島で待つ小次郎たちの様子が交互に描かれていくのだが、交互に描いて対決ムードを煽るとか、武蔵と小次郎の対比を見せることで物語を盛り上げるとか、そういうことは無い。
何しろ、小次郎のパートは、単なる「説明」でしかないのだ。
そこでは今井が武蔵の過去の戦いについて説明したり、小次郎が武蔵と自分の流派について説明したり、決闘が自分を暗殺するために仕組まれたことを説明したり、武蔵の養父が関与していることを説明したりする。
何のドラマも無くて、ホントに延々と説明しているだけだ。

一方、武蔵の方も、島へ到着するまでは、武蔵と助蔵の2人のシーンが大半だ。ってことは、つまり本木雅弘と田村淳の2人芝居なのだ。
前述のように、田村淳の演技力には難があるわけで、そりゃ厳しいことになるのは当然と言える。
しかも、動きで見せていくのではなく、ほぼ対話によって進行していく。そうなると、なおさら演技力が必要になって来るわけで。
せめて会話の内容が面白ければともかく、こっちはこっちで、やっぱり「説明」が大半なんだよな。心理描写は皆無に等しいし、物語も全く膨らまない。

その後、今井と吉本が戦いそうになる展開なんかがあったりするけど、「何やってんの?」と言いたくなる。
細川藩の陰謀に関して意見が対立し、2人が戦おうとするとか、どうでもいいわ。
そんなの、本筋に全く関係が無いでしょ。脇道に逸れているだけにしか思えない。そもそも、それが小次郎の暗殺劇だとか、そんなの武蔵には何の関係も無いんだし。
っていうか、「じゃあ何が本筋なのか」と考えると、それも良く分からないんだけどさ。
たぶん巌流島の決闘のはずだけど、自信を持って断言できないぐらい話がグダグダなのよ。

この映画、どういうテイストにしたいのかも良く分からない。
喜劇っぽい部分もあるのだが、じゃあ喜劇として弾けているのかというと、そこは中途半端で煮え切らない。
あえてスカした笑いを狙っているとか、オフビートなコメディーを作ろうとしているとか、そういうことで「弾けていない」と感じるわけではない。
どういう喜劇にするにしても、そもそも「喜劇」に対する取り組み方が中途半端。
だから、「喜劇」に成り得ていないのである。

前述したように、お笑い芸人3名を起用しているってことは、やっぱり喜劇をやろうとしているのかと思った。
だが、中川家の2人は全く喜劇キャラになっておらず、誰がやってもいいような役柄だ。
出番の多いロンブー淳にしても、コメディー・リリーフになっていない。単なる「武蔵の子分」に過ぎない。
これなら、もはや喜劇役者じゃなくてもいい。ちゃんとした役者を使った方が絶対にいい。

一方、舟島の連中は最初から最後まで真面目に芝居をしており、「真面目に喜劇を演じている」というわけでもない。
「小次郎が助蔵を武蔵と間違えて、しかも負けてしまう」というマヌケすぎる展開があるので、そこに向けて落差を付けるためにマジなテイストを徹底していたのかもしれない。ただ、そうだとしたらネタ振りの部分が長すぎるし、そういうことなら小次郎を主役にして「助蔵に負ける」ってのをオチにすべきだ。
でも実際は武蔵が主役だし、「小次郎が助蔵に負ける」ってのも喜劇としての描写じゃなくてシリアスなテイストだ。
そんなわけだから、やっぱり喜劇じゃないのよ、この映画。
「じゃあ何?」と問われたら、「良く分からん」と答えるしかない。
あえて言うなら、「何かの出来損ない」ってのが最も適した答えかな。

何一つとして見所が無い映画だが、それでも何とか評価できる点を挙げるとすれば、長編映画にしては短めの75分という上映時間なので、退屈な時間も短めで済むということぐらいだろうか。
でもまあ、「そもそも見なければ退屈を感じなくて済むでしょ」と言われたら、何の反論も出来ないのだが。
ああ、そうか、「モックンの熱狂的なファン」ということであれば、まあ何とか見られるんじゃないかな。

(観賞日:2013年8月25日)

 

*ポンコツ映画愛護協会