『クロスファイア』:2000、日本

東邦製紙に務める平凡なOLの青木淳子は、実は生まれながらにしてパイロキネシス(念力発火能力)を持っている女性だった。しかし、彼女は自分の能力をコントロールすることができないため、なるべく他人と接触することを避けて暮らしていた。
ある日、淳子は密かに想いを寄せている会社の同僚・多田一樹から、社員寮の祭りに誘われる。寮に出向いた彼女は、多田の妹・雪江と親しくなった。だが、寮から自宅へ戻る途中、雪江が連続女子高校生殺人事件の犠牲者となってしまう。
寺町東警察の石津ちか子と牧原康明は、18歳の木暮昌樹を逮捕した。しかし木暮の父親で高名な評論家の木暮泰三がマスコミを利用して警察批判を展開し、木暮は不起訴になって釈放される。多田は木暮を殺そうとするが、淳子に止められる。
淳子は多田にパイロキネシスを持っていることを明かし、自分が代わりに雪江の仇を討つと告げる。淳子は木暮を殺そうとするが、報復行為に恐れをなした多田に邪魔されてしまう。淳子は会社を辞めて、多田の前から姿を消した。
淳子の前に、精神支配能力を持つ木戸浩一という男が現れる。淳子は木戸から、2人で協力して木暮達を殺そうと言われる。淳子は木戸に聞いた場所に出向き、女性を殺そうとしていた木暮の仲間達を次々に殺していく。淳子は現れた木戸と共に、現場から逃亡した小暮を追う。しかし小暮には逃げられ、女性は殺されてしまった。
やがて淳子は女性を殺したのが警視庁刑事部長の長谷川芳裕であり、彼が小暮を逃がしていることを知る。長谷川はガーディアンという組織を作っており、木戸も彼らの仲間だった。長谷川は警察権力を利用し、淳子を射殺してしまおうとする…。

監督は金子修介、原作は宮部みゆき、脚本は山田耕大&横谷昌宏&金子修介、製作は柴田徹&原田俊明、プロデューサーは瀬田一彦&本間英行&濱名一哉&田上節朗、撮影は高間賢治、編集は冨田功、録音は宮内一男、照明は斉藤薫、美術は三池敏夫、視覚効果は小川利弘、ビジュアルエフェクトスーパーバイザーは松本肇&岸本義幸、音楽は大谷幸、音楽プロデューサーは北原京子。
主演は矢田亜希子、共演は伊藤英明、桃井かおり、原田龍二、永島敏行、長澤まさみ、吉沢悠、徳山秀典、浜丘麻矢、石橋蓮司、本田博太郎、谷原章介、筒井真理子、坂井三恵、仲根紗央莉、蛍雪次朗、中山忍、藤谷文子ら。


宮部みゆきの原作小説『燔祭』と『クロスファイア』を映画化した作品。
淳子を矢田亜希子、多田を伊藤英明、石津を桃井かおり、牧原を原田龍二、長谷川を永島敏行、木戸を吉沢悠、小暮を徳山秀典が演じている。監督が金子修介ということで、平成『ガメラ』シリーズの中山忍や藤谷文子が顔を見せている。

これは私の勝手な推測だが、おそらく監督はパイロキネシスの映像表現にしか興味が無かったのだろう。だから、シナリオなんて極端に言えばどうだって良かったのだろう。そうでなければ、ここまでグダグダのシナリオには仕上げなかったはずだ。
「恋人?」と妹に尋ねられて「いや、まだ」と言った後の、伊藤英明の「しまった」的なワザとらしい表情。会ったばかりの淳子に「お姉ちゃんって呼んでいい?」と聞く雪江のセリフ。序盤から、歯の浮くようなセリフやワザとらしい芝居が連発される。

雪江が暴行されて殺されるシーンは、ハッキリとは描かれていない。ここの描写を削除すると、後で淳子が報復する時のカタルシスが弱くなってしまう。しかし、物語が進む中で分かったことだが、どっちにしてもカタルシスは無いのであった。
小暮に挑発的な態度を繰り返させ、しかも反抗が明らかなのに父親の介入で不起訴にしてしまい、彼を不快で徹底的に憎むべき人間として描いている。そうやって観客の怒りを煽っているのだから、やはりヒロインが彼を始末しないと収まらない。
ところが、この映画は単純にヒロインが犯人に報復するという復讐劇を拒否して、ガーディアンという組織と長谷川という黒幕を用意してしまう。そのことによって、カタルシスは完全に失われた。これは大きなミステイクだと断言していいだろう。

カタルシスが無いのならば、特殊な能力を持ったヒロインの悲劇のドラマになっているのかといえば、そういうわけでもない。導入部分を見る限り、超能力者としての哀しみや苦しみを描こうとしているかのようにも思える。
しかし、自分の力を示すためだけに無関係の人間の車を燃やす辺り、単に能力をひけらかしているだけだ。そして、小暮グループを追う展開の中でも、能力を使うことへの苦悩を見せることは無い。カタルシスも半端なら、悲劇性も半端なのだ。

物語は淳子と多田のラブストーリーという一面も持っているのだが、木戸と出会ってからの淳子は多田のことなど忘れて小暮グループ退治に執着しているし、後半は多田の出番がかなり少ないので、それほど盛り上がるような感じにはなっていない。
石津と牧原のポジショニングが、物語が進む中でフラフラしている。最初は小暮を逮捕して不起訴にされてしまうという、ある意味ではヒロイン側に近い立場だったのが、その直後からヒロインを追いかける立場になっている。

小暮を野放しにしておきながら、「淳子は危険だから野放しにしておけない」などと言っても、なんか違うだろ、と思ってしまう。ストーリー上は警察は存在しなくてはマズイのだが、それほどしゃしゃり出て来なくても良かったのでは。一応、「幼い頃に牧原のタチの悪い弟が淳子に殺されている」という設定があるのだが、それも要らないし。
要らないといえば、途中から淳子と合流する倉田かおりの存在も、あまり意味が分からない。サイコメトリーとパイロキネシスを持っており、一応は重要な役割を果たしているのだが、別にいなくてもいいんじゃないかと思ってしまった。正直、犯人が長谷川だと淳子に気付かせる役割と、クライマックスのためだけに存在しているようにも思える。

多田の元を去った淳子が木戸に会う辺りから、ストーリーは完全にズレていく(しかも木戸の存在感は薄い)。何より、多田が途中で復讐する気持ちを失って淳子と離れてしまうので、小暮達の命を狙う淳子の行為が、復讐とは関係が無いような状態になってしまう。
ガーディアンという組織のポジションは、かなり曖昧だ。木戸が登場した時は「独善的な正義をふりかざす」ような形だったのに、長谷川が出てくると「ただ快楽殺人を繰り返している集団」になってしまう。まだ前者ならば、「淳子の報復行為に疑問符を付ける」という意味があるが、後者だと、特に登場する必要性が無くなってしまう。
小暮を中心とするグループが、既に「ただ快楽殺人を繰り返している集団」として登場している。つまり、その上に大きな組織を用意しても、ただ焦点をボンヤリさせてしまうだけになっている。だったら、そんな組織を登場させる意味は全く無い。

原作を読んだことは無いが、2つの作品を1つの映画にまとめる際に、どの部分を生かすのか、どの部分は削除するのか、どの部分は映画用に変更するのか、など、そういった作業が上手くいかなかった結果が、これなのかもしれない。映画として面白ければ、原作を無視しても構わないような気もするが(原作者は怒るかもしれないが)。
なお、淳子を口説こうとしていた男が、木戸の能力によって追い払われるシーンがある。この男を演じているのは、雨上がり決死隊の宮迫博之。彼の自分で自分を殴る演技(アンタはブルース・キャンベルか)に、1ポイントを贈呈。

 

*ポンコツ映画愛護協会