『コクリコ坂から』:2011、日本

港南学園2年生の松崎海は目を覚まし、朝の用事に取り掛かる。庭に出た彼女は、旗竿に旗を掲げる。朝食を用意していると、通いのお手伝いさん・友子がやって来る。下宿に住む北斗美樹と広小路幸子、海の祖母・花、妹の空、弟の陸も揃い、朝食を食べる。登校した海は、友人から学校新聞の週刊カルチェラタンを見せられ、「メルのことじゃない?旗なんかあげてるのメルだけだもん」と言われる。「取り壊し絶対反対」という見出し記事の右隅に小さい欄があり、「少女よ君は旗をあげる」という書き出しのポエムが書いてある。それは確かに海のことだった。
昼休み、海が友人と昼食を取っていると、男子学生たちが一斉にカルチェラタンから現れた。生徒会長・水沼史郎の合図で、新聞部部長の風間俊が屋根から飛び降りる。彼がプールへ落下したのを見た海は、慌てて駆け寄った。俊が手を伸ばし、海は彼を引き上げた。写真を撮影された俊がニヤつくと、海は腹を立てて手を放した。帰宅した海は花から、「貴方が旗をあげているのを見ると、とても切なくなるの。本当にお父さんが恋しいんだなあと思ってね」と言われる。日が沈んで旗を下ろした海は、昼間の出来事を思い出した。
翌日、海は学校で空に話し掛けられ、30円で買ったという俊の写真を「かっこいいでしょ」と嬉しそうに見せられる。「サインが欲しいの。風間さんの所へ行くの、付いて来て。あそこへ一人で行くの、何だか怖いし」と空に頼まれた海は「嫌よ、私だって行ったことが無いんだから」と言うが、結局はカルチェラタンへ同行した。2人は編集部のある考古学研究会の部屋のある3階へ赴き、空は緊張しながら俊にサインを求めた。俊は水沼に「してやれよ、ヒーロー」と促され、写真にサインした。
俊は右手を怪我していたが、それに海が気付くと、「あの時のじゃないぜ。猫に噛まれたんだ」と口にした。水沼は「そうだ、俊の代わりに、ちょっとガリを切ってくれないか。何しろ人手不足でね。僕は生徒会で忙しくて」と海に持ち掛ける。海は水沼から物理のテストの出題予測メモを渡され、手伝いを承諾した。集中して作業をしていると水沼が戻って来て、「始めるぞ、俊。松崎さんも出ませんか。カルチェラタン存続の集会なんだ」と言う。海は「もうそんな時間?」と慌てて家路に就いた。
帰宅してカレーの準備を始めた海は、肉を切らしていることに気付いた。空と陸に買い物を頼むが、2人ともテレビをテレビを見ていて嫌がるので、海が買いに出掛ける。途中で彼女は、自転車で帰宅する途中の俊と遭遇した。海が買い物に行くと知り、彼は「乗れよ。下まで行くんだろ」と誘う。まだ集会は続けいているが、俊は門限があるので先に戻ったのだという。海が買い物をしている間に、俊はコロッケを2つ買った。彼は「食えよ」と1つ差し出し、「じゃあな」と走り去った。
翌朝、幸子の部屋に入った海は、彼女が描いた絵を目にする。そこには、家から見える海と旗を掲げている船が描かれていた。幸子は「良く通る船だよ。メルが旗をあげると返事してるみたい」と説明する。遅刻しそうになった海は、慌てて学校へ行く。そこへ俊が印刷したばかりの新聞を持って現れ、「いい字だね」と手渡した。「他にお手伝いできることありますか」と海が問い掛けると、「もちろん。ガリを貸すよ。そうすれば家でガリが切れるだろ」と彼は告げた。
その日の放課後、カルチェラタンの存続を求める全学討論会が開かれた。海は友子がいないので、早く帰路に就いた。魚屋で買い物をしていた海だが、「お母さん、もう帰って来た?」と問われ、「まだです」と答えた後、急いで学校へ戻った。討論会の会場へ行くと、熱い討論が交わされていた。壇上に立った発言者は、学生の80パーセントが建て替えに賛成している事実を述べる。俊は立ち上がって壇上へ走り、「古い物を壊すことは過去の記憶を消すことと同じじゃないのか」と反論した。カルチェラタン存続派の面々も同意し、騒ぎ立てる。存続派と建て替え派は対立し、揉み合いになった。
全学討論会が終わった後、海は俊と一緒に学校を出た。彼女は「お掃除したらどうかしら。古いけれど、とってもいい建物だもの。きれいにして女子を招待したら、みんな素敵な魔窟だって思うわ。私がそうだったもの」と提案した。空からカルチェラタン討論会のことを聞いた美樹は、水沼が同級生の弟だと話す。彼女は海に、「メル、私の送別パーティーに奴らも呼ぼうよ」と持ち掛けた。数日後、美樹の送別パーティーには俊と水沼を含む数名のカルチェラタン住人がやって来た。パーティーの席でも、彼らはカルチェラタンを存続させる方法について話し合った。
海は俊に家を案内し、両親のことを話す。父は船乗りで、母方の祖父母は結婚に猛反対した。そこで母は家を出て駆け落ちした。母は大学の先生をしている。「信号機は、お父さんが船乗りだから?」と旗のことを尋ねる俊に、海は「私がまだ小さい頃、旗を出しておけば、お父さんが迷子にならずに帰ってくると言われ、毎日出していたの。物干し竿に旗を出して、帰りを待っていた。でも朝鮮戦争の時に父の船が沈んで、それっきり。あの旗竿はね、この家に引き取られて来た時に、旗があげられないって私が泣くもんだから、お爺ちゃんが立ててくれたの」と語った。
海は俊を祖父の診察室に連れて行き、「今は母が書斎に使っているの」と語る。彼女は、自分が好きな父の写真を見せる。それは昭和18年に父が仲間2人と一緒に撮った写真だ。写真には澤村雄一郎、立花洋、小野寺善雄という名前が記されている。それを見た途端に俊は顔を強張らせ、「澤村雄一郎」と漏らした。海は「父の名前。松崎はこの家のだから」と説明する。夜になって帰宅した俊は、古いアルバムを開いた。そこには、海が見せたのと同じ写真が貼ってあった。
数日後、海を筆頭にしたボランティーアの女子たちが、清掃のためにカルチェラタンへ赴いた。海たちはカルチェラタンの住人と共に建物を清掃し、ゴミを整理して燃やした。後日、俊は父の明雄に写真を見せ、「聞きたいことがあるんだ。この澤村雄一郎って人が俺のホントの親父なんだろ」と尋ねた。明雄は「あの日は風の強い日だった。澤村が赤ん坊のお前と戸籍謄本を持って訪ねてきた。俺たちはちょうど赤ん坊を亡くしたばかりだった。澤村はいい船乗りだった。朝鮮戦争で機雷にやられてしまったが、ずっとミルク代を送ってきてくれた。近頃、あいつに良く似て来たな」と語った。
海は俊に好意を寄せていた。だが、俊は声を掛けると明るく応対するものの、それとなく避けるような素振りを示した。その態度が気になった海は、放課後に俊を待ち受け、「嫌いになったんならハッキリそう言って」と告げる。俊は写真を見せ、「澤村雄一郎。俺の本当の親父。まるで安っぽいメロドラマだ。俺たちは兄弟ってことだ」と口にした。「どうすればいいの?」と問い掛ける海に、彼は「今まで通り、ただの友達だ」と告げた…。

監督は宮崎吾朗、原作は高橋千鶴&佐山哲郎(角川書店刊)、脚本は丹羽圭子、企画・脚本は宮崎駿、プロデューサーは鈴木敏夫、作画監督は山形厚史&廣田俊輔&高坂希太郎&稲村武志&山下明彦、美術監督は吉田昇&大場加門&高松洋平&大森崇、キャラクターデザインは近藤勝也、撮影は奥井敦、音響は笠松広司、音楽は武部聡志。
主題歌「さよならの夏 〜コクリコ坂から〜」作詞:万里村ゆき子、作曲:坂田晃一、編曲:武部聡志、歌唱:手嶌葵。
声の出演は長澤まさみ、岡田准一、竹下景子、石田ゆり子、柊瑠美、風吹ジュン、内藤剛志、風間俊介、大森南朋、香川照之、白石晴香、小林翼、手嶌葵ら。


1980年1月号から同年8月号まで『なかよし』で連載された高橋千鶴(作画)&佐山哲郎(原作)による同名漫画を基にしたスタジオジブリの長編アニメーション映画。
宮崎吾朗が『ゲド戦記』に続いて2度目の監督を務めている。
海の声を長澤まさみ、俊を岡田准一、花を竹下景子、美樹を石田ゆり子、幸子を柊瑠美、水沼を風間俊介、明雄を大森南朋、空を白石晴香、陸を小林翼が担当している。

まずオープニングからして違和感を覚えた。
軽快なラグタイム調のピアノ曲が流れて来るので、これは明るくてユーモラスなテイストのある作品なのかという印象を与える。
で、眠っているヒロインが登場し、目を覚ますのだが、まるで生気が無いのである。
低血圧という設定なのかもしれないが、布団の中で目を開けた後、ゆっくりと静かに体を起こし、無表情のままで布団を畳む。
その後、服を着替て髪を整え、朝の用事を色々とやっている時も、ほとんど表情が変わらないし、一言も発しない。
で、じゃあ元気の無いキャラ造形なのか、いつも無表情で陰気な奴なのかというと、そうではないのよね。
だったら、ファースト・インパクトで間違った印象を与えるのは、何の得も無いでしょ。

ひょっとすると宮崎吾朗監督は、「人間が起きた時の自然な振る舞いを表現した。リアルを目指した」とでも思っているのだろうか。
そりゃあ確かに、本物の人間が目を覚ます時には、劇中の海のような振る舞いになるケースもあるだろう。
例えば「目覚ましを見て時間を確認し、慌てて飛び起きて、隣の妹を踏み付けそうになって」とか、そういうのは「アニメ的」な、誇張した表現と言えるだろう。
でも、それの何が悪いのか。
そこに「実生活のようなリアル」は、果たして必要なのかと。

実生活の「リアル」とアニメの中に求められる「リアル」は、まるで異なるものだ。
このヒロインが実生活では有り得ないような行動を取ったとしても、それを「実在の人間だったら、そんな行動は取らないから」という理由で、観客は拒絶反応を示したりしないよ。それを自然なものとして受け止めるよ。
それが「アニメーション」の良さでもあるんじゃないのか。
ジブリが「いかにもアニメ的」なものを否定したがる気持ちは、分からないではない。ワシだって、萌えキャラとかが出て来たら、「そりゃ違うだろ」とは思うよ。
でも、ある程度の「アニメ的誇張」「アニメ的文法」は、残してもいいんじゃないか。
何から何まで実際の人間と同じように動かすというのなら、じゃあアニメで作る意味って何なのかと言いたくなるし。

『ゲド戦記』の時は、宮崎吾朗監督はアニメ制作に不慣れだから淡々とした演出になっているのだろうと思っていたのだが、本作品でも淡々とした演出になっている。
どうやら監督は、故意にキャラの感情表現やドラマ演出を抑制しているようだ。
だが、監督がアニメに対する解釈を間違えているのではないかと感じてしまう。
ジブリのキャラは3DCGで人間に近付けているわけではなく、昔ながらの簡略化したデザインになっている。
人間が実際に演技をすれば、芝居を抑えても、わずかな表情の変化によって感情を表現することは可能だろうが、簡略化したアニメのキャラだと、「わずかな表情の変化」というのは、描写することが難しい。
だから、表情だけでなく動作も含めて、ある程度は誇張した表現が必要になるのではないか。

とにかく説明が不足している。
冒頭、ヒロインが7人分の朝食の準備をしていると、どうやら家族ではない面々がやって来る。
だから、ヒロインは住み込みで家政婦のような仕事でもしているのかと思ってしまったよ。
明らかに家族ではない面々が一緒に暮らしている様子が序盤で示されるのに、どういうことなのか良く分からない。
さすがに朝食シーンが終わるまでには何らかの説明があるんだろうと思ったら、説明が無いままでシーンが切り替わる。どういう関係性なのか、そこはどういう場所なのか、まるで分からない。
意図的にミステリアスにしているわけではない。単なる説明不足だ。
夜のシーンになって、ようやく海の祖母が下宿をやっていることが説明され、「ってことは美樹と幸子は下宿の住人なんだな」と理解できるようになる。
っていうか、正直、下宿の住人なんて存在意義が全く無いんだから、要らないんじゃないかと。その人のステータスはほとんど描かれないし、いなくても物語は成立するし。

登校した海は週刊カルチェラタンを友達に見せられるが、カルチェラタンが何のことなのかは説明してくれない。
海は「メル」と呼ばれているが、なぜなのかも説明してくれない。
海と妹がカルチェラタンへ行くシーンで、ようやく俊たちがいる建物がカルチェラタンで、文科系の部室が集まっている場所っぽいってのは、明確に説明されているわけではないが、何となく推測できる。
でも、たぶん子供たちだと分からないんじゃないか。

昼休みに男子たちが建物から現れ、俊がダイブしてプールに落下し、海が引き上げた後、みんなが沸いて男子の一人が「伝統の復活だ」と男が言っているけど、何のことかサッパリ分からない。
翌朝の新聞で「伝統の飛び込みで抗議」という見出しがあるので、どうやら海が引き上げたことではなく、俊が飛び込んだことが伝統だったらしいってのは分かるが、具体的に、どういう伝統なのかは明かされない。
そもそも、まだカルチェラタンが何なのかは説明されていない。
水沼が生徒会長ってのも、なかなか分からないし。

なぜ俊たちがそこまでカルチェラタン存続にこだわるのか、学校や学生にとってカルチェラタンとはどういう存在なのか、そういうことも全く描写されていない。
だから、存続に奮闘していることに対して、まるでこっちの気持ちは乗らない。カルチェラタンに対する熱い思いは、まるで伝わって来ない。
なぜヒロインが討論会に急いで戻ったのかも、サッパリ分からない。魚屋で買い物をしている時に背後を女性が通るので、何か関係があるのかと思ったら、そうじゃないし。
戻ろうと決めるためのきっかけって、何も見当たらないぞ。

「ガリを切る」とか言われても、子供にゃ何のことだかサッパリだろう。
それが具体的にどういうことなのかも説明してくれないし。
ワシはガリ版印刷の経験もあるから理解できるけど、ヒロインが何の作業をやっているのか、それを描かれても子供には分からないでしょ。
そこに限らず、本作品は、「ジブリの映画を楽しみにして映画館にやって来た子供たち」を完全に無視して作られている。

この映画は2011年の7月16日から公開されたが、ジブリの夏休み映画が子供向けじゃないという時点で、もう赤点と言っても過言ではない。
1年に2本の映画を作って、「その内の1本は大人向けで、子供の観客は無視した作品です」ということなら、まだ許すよ。
でも、年に1本、夏休みに公開する映画が、完全に子供の観客を排除しているってのは、ジブリ映画を楽しみにしてきた子供たちへの裏切り行為ではないのか。
スタジオジブリである以上、子供向けアニメを作る責任があると思うのよね。

この話って1963年の横浜が舞台らしいんだけど、映画を見ているだけでは良く分からない。そもそも、1963年である必然性も、まるで感じられない。
そりゃあ学生運動なんて古い時代の流行だけど、少し手を加えれば、今の時代でも成立するような要素に出来たはず。
それに、昔の時代にしたからって、学生運動や「実は愛し合う男女の血が繋がっている疑惑」という要素の持つ古めかしさを、マイナスの印象から脱却させられるわけではないよ。
正直、これって「鈴木敏夫と宮崎駿のノスタルジー」という以外に、1963年である必然性が無いんだよな。
で、宮崎吾朗監督は、用意された作品を「仕事」としてやっているわけだ。
鈴木敏夫と宮崎駿の統制下で、雇われ監督としてアニメの仕事をやっているだけだ。

始まって40分ぐらい経過しないと、海の両親のこと、海が祖母に引き取られたことも、説明してくれない。父親が死んでいるのは何となく序盤の祖母のセリフで分かったけど、船乗りだったことは分からない。
っていうか「朝鮮戦争」とか言われても、子供にゃ分からないよ。
あと、母親が存命なら、どうして現れないのかも、ちゃんとした説明が無い。大学の先生だから忙しくしているのだろうという推測は出来るけど、そういうのも、もっと分かりやすく説明しておくべきじゃないのか。
そりゃあ、何でもかんでも詳しく説明しすぎることは良くないが、この映画は説明があまりにも足りていない。

海の家庭環境、生活環境なんて、序盤で説明すべき事柄でしょ。「わざとミステリーとして引っ張っておいて」という狙いでもあるならともかく、そうじゃないんだよな。
序盤のキャラ紹介や状況説明が無いまま進んでいくので、なかなか話に入り込みにくい。
観客を物語に引き込むための細やかな気遣いが、シナリオに感じられない。
「メル」「カルチェラタン」という呼称の意味についても、そういうことだ。
説明が無くても物語の進行に支障は無いだろうけど、説明した方が、観客は物語に気持ちが入り込みやすくなるはずだ。

そもそもカルチェラタンの存続運動って、必要かな。それが男女の恋愛劇と上手く絡み合っているとは、到底言えないし。
しかも、どんな決着を見せるのかと思ったら、理事会が夏休み中の取り壊しを決定するものの、海と俊と水沼が東京へ出て理事長に直談判したら簡単に解決してしまう。
で、その一方、兄弟と分かった後の男女のドラマはどのように進展していくのかと思ったら、しばらくはカルチェラタンを巡る話に時間を割いてしまう。
海と俊が互いの思いに苦悩したり、葛藤したり、そういう様子は描かれない。

で、カルチェラタンの問題が解決し、残り20分ぐらいになって、海は「私が毎日毎日旗をあげてお父さんを呼んでいたから、お父さんが自分の代わりに風間さんを呼んでくれたんだと思うことにしたの」と俊に宣言する。
彼女は兄弟だと打ち明けられた夜にショックを受けて眠りに就き、両親の夢を見ているのだが、どうやら、その段階で割り切る気持ちになっていたようだ。
ようするに、悩みからの脱却が、ものすごく早いんだよね。
翌朝になると、もう割り切る考え方が固まっていたってことでしょ。

海は「お父さんが自分の代わりに〜」と告げた後、「風間さんが好き。血が繋がっていても、兄弟でもずっと好きだ」と言い、俊は「俺もお前が好きだ」と言葉を返す。
いやいや、そりゃ何の解決にもなっていないだろ。
っていうか、その言い方だと、近親相姦の可能性も示唆していることになるけど、それでいいのか。
で、そんな風に思っていたら、「俊は雄一郎が死んだ立花夫妻から引き取った子供なので、海とは血が繋がっていませんでした」という真相が明かされる。
なんちゅう梯子の外し方をするのかと。
ひでえな。
そんなドンデン返し、誰が期待しているのかと。

しかも、そこで問題解決にするのかと思ったら、まだ「ひょっとしたら雄一郎の子供かも」という疑惑を残すのね。
で、俊は父から「写真に写っている小野寺が近くに来ている。彼なら詳しいことを知っているそうだ。船が港に来ている。外国航路だからしばらく戻らん」と言われ、そこから「海と一緒に小野寺を訪ね、俊が立花の息子だというのを確定させる」という作業が待ち受けているのだ。
いやいや、二度手間に近いでしょ、それって。
雄一郎が、自分が浮気して作った子供を「立花の子」と嘘をつくような奴かどうかって考えると、そうじゃないでしょうに。

そもそも、この物語にとって必要なのって、「自分たちが本当に血が繋がっているかどうかを確定させる」という部分じゃなくて、「血が繋がっているけど惹かれ合う関係になってしまったことでの苦悩や葛藤」じゃないのか。
そっちを膨らませずに、「2人の血は繋がっていなかった」というところに着地しても、そこにハッピーエンドを感じることなんて無いよ。
しかも「血が繋がっていないことが分かりました」というところで終わっているけど、それだと男女の恋愛劇としては、まだ着地点に到達していないでしょ。

(観賞日:2012年6月30日)

 

*ポンコツ映画愛護協会