『CASSHERN』:2004、日本
50年もの長き大戦の末、大亜細亜連邦共和国はヨーロッパ連合に勝利し、世界の大半を支配した。だが、大地は荒廃し、人々は戦乱の後遺症に苦しめられていた。そんな中、細胞学の権威・東博士は上条将軍や上条中佐ら政府高官を前に、人間のあらゆる部位を自在に造り出す“新造細胞”理論を提唱した。
東博士が新造細胞にこだわるのは、重い病に苦しむ妻のミドリを助けたい一心からだった。しかし保健省は研究を続けることに否定的で、予算を出す気が無かった。東博士は内藤薫という男に声を掛けられ、既に研究のための施設を作ったことを告げた。軍部が動いており、大亜細亜連邦共和国の陸軍本部が研究所になるのだという。
1年後、東博士は陸軍の施設で研究を続けていた。施設を訪れた友人の上月博士に対し、東博士はミドリの病状が悪化していることを告げた。一方、彼の息子・鉄也は父親に反発し、婚約者のルナを残して出征していた。兵士となった彼は第7管区でテロリストと戦っていた。戦いに疑問や虚しさを感じていた彼は、仕掛けられた罠によって命を落とした。
東博士の元に鉄也が戦士したとの知らせが届いた時、施設で原因不明のトラブルが発生した。開発途中の新造細胞は結合し、“新造人間”として動き始めた。軍部は抹殺しようとするが、新造人間の数名は逃亡した。その中の1人アクボーンは、ルナに助けられる形となった。最初に誕生した新造人間ブライは、ミドリの乗った車を奪って逃走した。
東博士は運ばれてきた鉄也の遺体を運び、新造細胞によって命を吹き込む。東博士は鉄也の体を上月博士に預け、彼の屋敷に運んでもらう。上月博士は昏睡状態の鉄也のために、ボディースーツの完成を急ぐ。一方、新造人間ブライは生き残った新造人間アクボーン、サグレー、バラシンを前にして、「生に優劣など無い」と語り、仲間を殺した人間を非難した。
ブライは新造人間の王国を作り、人間を皆殺しにすると宣言した。彼はロボットを使って人間に対する攻撃を開始し、降伏を要求する。サグレー達は軍事関係の研究者を連行し、ロボット工場で働かせる。上月邸も襲撃を受け、抵抗を試みた上月博士はサグレーに刺された。その時、未完成のボディースーツを身に着けた鉄也が、サグレーの前に姿を現した・・・。監督は紀里谷和明、原作は「新造人間キャシャーン」(竜の子プロダクション)、脚本は紀里谷和明&菅正太郎&佐藤大、製作は久松猛朗、プロデュースは宮島秀司&小澤俊晴、プロデューサーは若林利明、アソシエイトプロデューサーは野地千秋&田中誠&姉川佳弘、製作代表は大谷信義&岩崎美範&紀里谷和明&石川富康&早河洋&西村嘉郎&佐藤康太&伊藤英介&伊達寛&西岡進&村山創太郎、撮影は紀里谷和明&森下彰三、録音は矢野正人、照明は渡部嘉一、プロダクションデザイナーは林田裕至、VFXスーパーバイザーズは木村俊幸&野崎宏二、CGスーパーバイザーは庄野晴彦、アートプロデュースは赤塚桂仁、アートディレクターは平井淳郎、バトルシーンコンテは樋口真嗣、アクションディレクターは諸鍛冶裕太、コンセプチャルデザインは木村俊幸&林田裕至&庄野晴彦&DK、造形は山下健一郎、“キャシャーン”コンセプチャルデザインはKen、アンドロ軍団ラバースーツデザインは百武朗、アニメーションディレクターは長井勝見、音楽は鷺巣詩郎、音楽スーパーバイザーは本田優一郎&沖田英宣、音楽プロデューサーは高石真美、テーマソング『誰かの願いが叶うころ』は宇多田ヒカル。
ナレーションは納谷悟朗。
出演は伊勢谷友介、麻生久美子、唐沢寿明、三橋達也、大滝秀治、寺尾聰、樋口可南子、小日向文世、宮迫博之、佐田真由美、要潤、西島秀俊、及川光博、寺島進、鶴田真由、りょう、玉山鉄二、森口瑤子、HISASHI、TAKURO、河瀬直美、広澤章、松江勇武、遊人、木村貴史、猪俣克介、浜崎貴司、伊藤幸純、山本哲也、児玉頼信、戸沢佑介、戸田昌宏、亀石太夏匡、伊藤淳史、水谷ノブ、坂本宗一郎、桜井聖、嶋田達樹、鷹見洋介、清水昭博ら。
宇多田ヒカルのミュージック・クリップを演出し、彼女の旦那になったヴィジュアル・アーティストの紀里谷和明が、初めて監督を務めた作品。
1973年から1974年に掛けて放送されたタツノコプロのTVアニメ『新造人間キャシャーン』をベースにしている(とは認めたくないが)。
SFとしてはかなり安い6億円の制作費で作られている。
鉄也を伊勢谷友介、ルナを麻生久美子、ブライを唐沢寿明、上条将軍を大滝秀治、東博士を寺尾聰、ミドリを樋口可南子、上月博士を小日向文世、アクボーンを宮迫博之、サグレーを佐田真由美、バラシンを要潤、上条中佐を西島秀俊、内藤を及川光博、坂本を寺島進が演じている。また、第7管区で殺される民間人の役で、GLAYのHISASHIとTAKUROが出演している。『新造人間キャシャーン』が映画化されるというニュースが出た時、確か紀里谷和明監督がアニメのファンで、実写映像化を熱望したということが伝えられていたはずだ。
しかし、この映画を見て、その情報が誤りだったことが良く分かった。
紀里谷監督が『新造人間キャシャーン』に何の思い入れも無いことは確かだ。
ここにはリスペクトのカケラも見当たらない。
アニメ版と同じ名前のキャラクターを出せば、それでリスペクトになると思ったら大間違いだ。むしろ、名前を拝借しながら中身が全く違うものであれば、それは愚弄していることにもなる。
ロボット犬ではなく、三橋達也演じる老医師が飼っている普通の犬が「フレンダー」と呼ばれるシーンを見た時は、勘違いしたパロディーのつもりなのかと思ってしまった。キャシャーンのコスチュームがカッコ良く見えないというのはセンスの問題だから、とりあえず置いておくとしよう。
だが、キャシャーンがヘルメットを被らず、顔が全て露出した状態というデザインになっているのは、正気の沙汰とは思えない。
アニメ版への思い入れがあるのなら、そんな暴挙に出ることは絶対に有り得ない。『新造人間キャシャーン』は、「たったひとつの命を捨てて、生まれ変わった不死身の体。鉄の悪魔を叩いて砕く。キャシャーンがやらねば誰がやる!」という言葉に作品の方向性が示されていた。
しかし、この作品の主人公は、ホントは死んだままでいたかったのに、イカれた親父にムリヤリに復活させられるのだ。戦うために自ら命を捨ててキャシャーンになるのではない。
その設定を全く違うモノにしている時点で、もはやキャシャーンのアイデンティティーが失われていると言っても過言ではない。完全ネタバレになるが、この作品は終盤、「実は新造人間の研究は成功していなかった。ブライ達は新造人間ではなく、第7管区にいた人間に過ぎない。だからブライの語る大義名分に意味は無い」という、おっそろしいハシゴの外し方をする。
普通なら、最も避けようとするような選択肢だ。
というか、アニメ版への思い入れがあれば、最初から選択肢として思い付くことも無いだろう。この作品は、悲壮感のあるヒーローアニメから苦悩や葛藤の部分だけを抽出するという、浅はかな人間が最も陥りやすく、しかし最も引っ掛かってはいけない罠にハマってしまったようだ。
この作品においてキャシャーンがカッコ良く活躍するシーンなど、1秒たりとも存在しない。
というか、主人公には当初、自分がキャシャーンだという自覚が無い。かなり後になってから、第7管区の守り神であるキャシャーンの名前を申し訳程度に口にするだけだ。本来ならば、戦いに虚しさを感じようとも、暴力に対する苦悩があろうとも、それを乗り越えてキャシャーンはカッコ良く戦うべきなのだ。
ところが、この作品は「主人公が苦悩を乗り越えて敵ボスとの戦いに挑む」というヒーロー活劇としての醍醐味を放棄してしまう。
そしてキャシャーンはブライと戦わず、最後になって矮小な親子喧嘩のようになり、夢オチに近いような変な終わり方をする。監督の仕事柄、映像には凝っている。
だが、それは「映像だけで惹き付けることが出来る」という類のモノではない。
凝っているけれど、やたら目がチカチカするし、やたらカット割りがうるさい。
カット割りで「うるさい」という表現は変かもしれないが、うるさいのだから仕方が無い。
アクションシーンだけ細かくカットを割るというのではなく、とにかく過剰にカットを割りたがる。絵に対するこだわりが強い一方で、絵と絵の繋がりに対する意識は薄弱だ(特にアクションシーンにおいて、絵と絵の繋がりの無さが顕著に表れている)。
なので出来上がったモノは「ものすごく枚数が多くて絵に凝った紙芝居」という感じだ。
いや、その表現は語弊があるし、紙芝居に対して失礼かもしれない。
紙芝居なら話は滑らかに進んでいくが、こちらは話の繋がりもギクシャクしている。紙芝居なので、説明は言葉によって全て処理されていく。映像に語る力を持たせていないことを、監督は自覚しているのだろう。
ただし、登場人物が語る言葉の多くはドラマではなく、テーマである。
具体的には、戦うことの不条理や、人間の存在そのものに疑問を投げ掛けるという主張が、登場人物の口を借りて語られている。
しかも、かなりクドクドとしつこく。当時のタツノコは尖っていたので、アニメ版にだって暴力に疑問を投げ掛けたり主人公が非難されたりすることはあった。
だが、それはシリーズの中の1エピソードだからこそのモノであって、作品全体で戦いや主人公を否定することなど無かった。
主人公に悲壮感のある悩めるヒーローとしての一面はあったが、それは「勇敢なヒーローがカッコ良く活躍する」というベースがキッチリとあってこそのモノだ。
土台としては、「ヒーロー娯楽活劇」としての方向性が定まっていた。
しかし、この作品では、戦いの不条理や人間への不信が作品そのもののテーマになっている。結局、紀里谷監督は自らの思想を主張するために、『新造人間キャシャーン』の中身を全く違うものに作り変え、道具として利用したに過ぎない。
劇場用作品を利用して思想を主張するなとは言わないが、そのために何の関係も無い無実のアニメを犠牲にしないでほしい。
とりあえず、『新造人間キャシャーン』の原作者である吉田竜夫氏と、この映画が遺作になった三橋達也氏に対してだけは謝ってほしい。(観賞日:2006年2月12日)
2004年度 文春きいちご賞:第2位